「特待生?」
聞き慣れない単語である。
いや、意味は分かるが、そんな制度がこの学園にあったなど聞いたことがない。
「はい。今年から始まったそうで、私がその最初の一人なんです」
「──聞いていなかったな。そんな話は」
王都での情報収集を王宮周辺に絞り過ぎていたか?
いや、それより問題はこれからだ。
オリヴィアをどうするか。
正直平民の特待生であること自体は俺にとってはどうでもいい。
むしろ彼女は王国がやっと時代遅れな公教育を変え始めたことの証左。喜ばしいくらいだ。
だが俺にとってはそうでも、他の大勢の学生たちにとっては違う。
つい去年まで貴族と騎士の子女たちの学舎だった場所にいきなり平民が入ってきたとなれば、不愉快に思う者の方が多いだろう。
そして立場が弱くて、見た目も弱そうで、実際運動音痴な良い子ちゃんであるオリヴィアは──格好の攻撃の的だ。
つまり今回のことは起こるべくして起こったことであり、なくなることはないだろう。
そして彼女と一緒にいれば、いずれ俺にもその火の粉は降りかかる。
俺だって周囲に避けられて孤立している身だ。今は恐れられていても、いずれ徒党を組んで気が大きくなった馬鹿が攻撃を仕掛けてくる可能性は十分ある。
下手をすればティナまでそれに巻き込まれかねない。
そうなったら、相応の仕返しをするまで──と言いたいところだが、無事卒業して領主として認めてもらうという何より重要な目的がある以上、その達成に支障をきたすであろう暴力での即時報復はできない。
最も簡単かつ効果的な暴力を封じられては、金と権力を使った非常に回りくどい面倒なやり方をしなければならないし、それに大した効果も見込めない。
そんなことになってまでオリヴィアと一緒にいて何の得がある?
考え込む俺にオリヴィアがポツリと話す。
「私、昔から魔法が得意で、ずっと独学で勉強してきたんです。だけど独学だと分からないことも多くて、それで魔法のこともっと勉強したいって思っていたんです。ここに来れば思う存分学べるって──それだけなのに、どうしてこんな──」
泣きそうな顔で運動着を握り締めるオリヴィア。
理不尽に対して怒る気概はあるのか。
ただ泣いて自分を責めるだけの弱虫ではない所に興味が湧いた。
「魔法が得意?言うだけなら簡単だが、何ができるんだ?」
敢えて意地悪な訊き方をしてみたが、実際魔法が得意と自称する奴は割といる。
そして大抵の場合、そいつは中級魔法の無詠唱発動程度もできない口だけ野郎である。
もしオリヴィアがその類なら──自分の実力も認識できていない善良なだけの馬鹿ということだ。
見捨てても心は痛まない。
「えっと、基礎魔法は全部の属性一通りできます。それと──治療魔法を」
気圧されながらもオリヴィアは健気に答える。
そして彼女の答えは俺の興味を引くのに十分だった。
特に最後の治療魔法──その使い手は希少だ。まともに医者をやれるレベルともなるとそれこそ数万人に一人というレベルである。
「治療魔法を使えるのか?どれくらいだ?」
思わず問いかけた俺だったが、オリヴィアの答えは更に俺の度肝を抜くものだった。
「そうですね──転んで擦りむいたとか、包丁で指切ったくらいならすぐに完全に治せます。腕とか脚の骨が折れちゃったのはさすがに一時間くらいはかかりますけど」
開いた口が塞がらないとはこの時の俺のことだっただろう。
骨折が一時間で完全に治るとか異常である。
治療魔法自体、前世の現代医療に喧嘩を売っているとしか思えないスピード治療ではあるが、それでも骨折ともなれば完全に治るまでには一週間乃至一ヶ月ほどかかるのが普通だ。
適性が高くて熟練した名医でも三、四日は要する。
それを一時間だと?
信じ難いが、オリヴィアが嘘を吐いている様子はない。
剣豪クリスに引き続いて、またとんでもない逸材を見つけてしまった。
どんな名医よりも早く治せる治療魔法の使い手、これは取り込まない手はない。
決めた。
オリヴィアは卒業後にファイアブランド家で召し抱えてやろう。
そのために学園にいる間は友達として一緒にいてやろう。
しかし、こんな人類の至宝と言っても過言ではない人材が、俺のような極悪人に取り込まれてしまうとは、何という悲劇だろうか。
俺に出会わなければ彼女はいずれ名医として大成し、王国中の何千何万という人間の命を救えただろうに、その可能性は潰え、力は俺と俺に都合の良い相手のためだけに使われる。
だが、これが現実だ。
現実は非情なのだ。
「そうか──それは凄いな。本当に凄い。そんなことができる奴は王国中探したっていやしないだろう」
オリヴィアが目を丸くして俺を見ている。
さっきまでの卑屈になっていた状態よりもよほど可愛い。
そんな彼女の手を取って、両手で包み込む。
「特待生だろうが平民だろうが関係ない。お前はこの学園の中で一番凄い奴だよ」
間近でしっかり目を見つめてお前は凄いと言ってやる。
アーヴリルを口説いた時と同じ手口だが、どうやらオリヴィアにも効いているようだ。
頬を染めて、何か言いたげに口をパクパクさせているが、言葉になっていない。
「試すようなこと言って悪かったな。これからは仲良くやろうぜ」
「それって──」
「今日から私たちは友達だ。よろしくな、オリヴィア」
にっこり笑って友達宣言してやる俺だが、その友達とは打算に満ちた薄っぺらい表面上の関係──オリヴィアが哀れだな。
「は、はい──よ、よろしくお願いします」
絞り出すような声でそう言ったオリヴィアは耳まで真っ赤だった。
さすがにちょっと顔を近づけすぎたか?
なんかこっちまで恥ずかしくなってきたので、顔を離して話題を変える。
「さてと、あとはこれをやった奴をどうするかだな」
誰がやったのか分からないが、セルカを呼べばサイコメトリーですぐ分かるだろう。
この手のいじめはすぐに仕返ししなければ付け上がってエスカレートする。
ま、仕返ししてもそうなる可能性もあるが、やらないよりはやった方が良いはずだ。
だが、ここに来て急にオリヴィアが渋り出しやがった。
「え?どうするって──何をするんですか?」
「あ?決まっているだろ。やった奴を探し出して落とし前付けさせるんだよ。スカートだけ盗んでゴミ箱に捨てるとか立派ないじめだろうが」
「で、でもそんなことしたって何にも──まず先生に言った方がいいんじゃないですか?」
仕返ししたって何にもならない、先生に言って解決してもらうべきだとでも言いたいのか?
そんな考えこそが何にもならないんだよ。
必要なのは行動を起こすこと、反撃すること、攻撃できることを見せつけてやることだ。
動いてくれるかどうかも分からない教師に言いつけることではない。
「お前、先生が当てになるとでも思っているのか?先生だって貴族や騎士家の出だ。平民のお前のために貴族の子女を怒ると思うか?」
「それは──でも、仕返しは違うと思います」
なんでこういう所だけ頑固なんだよ。その意地はやり返すのに使えよ。
そう思ったが、説得するのも面倒臭い。
どうせ現実から目を逸らして無駄なことをして、それで困るのはオリヴィアであって俺ではない。
むしろ少しくらい痛い目を見させた方が、後で助けてやった時により強く深く依存してくれるだろう。
「そうかよ。ならさっさと着替えて行くぞ。ホームルームに遅れる」
そう言って俺はさっさと着替えを済ませた。
オリヴィアも慌てて後に続いたが、その顔は若干曇っていた。
◇◇◇
それから三日ばかりが過ぎた。
オリヴィアへのいじめはなくなるどころか激しくなっていた。
わざと聞こえるように陰口を叩かれ、すれ違う度に睨まれたり舌打ちされ、グループ授業では他のグループメンバーから無視され、酷い時には事故に見せかけてぶつかられたり、足を踏まれたりもしていた。
友人宣言した手前、学園では隣同士の席で座ったり、食事を共にしたりと、俺が側に一緒にいるようにはしていたのだが、授業選択の違いで教室が別れた時や登下校の時を狙った嫌がらせは続いた。
その全てにオリヴィアは仕返しをしなかった。
気にするだけ無駄だと思っているのか、じっと堪えていればいずれ飽きてしなくなると思っているのか、いずれにせよ、やられっ放しだった。
そして俺も頼まれてもいないのに助けてやることはしなかった。
だが、やった奴の顔と名前は残らず覚えた。
オリヴィアがいよいよ耐えられなくなり、俺の言ったことが正しいと認めて助けを請うてきたなら、俺が纏めて代わりに報復してやるつもりだ。
──問題はその気配がまるで見えないことなのだが。
「また派手にやられたな」
散らばった教科書やノートを拾い集めるオリヴィアを見下ろして声をかける。
さっき机の脇に置かれていた彼女の鞄を蹴飛ばして中身を床にぶちまけた奴が仲間とクスクス笑っている声が出入り口の方から聞こえてくる。
俺が提出物を教師に渡しに行った隙にやってくれやがった。
ちょっと睨みつけただけでビビって専属使用人の陰に隠れるような臆病な連中のくせに、随分とスリルを楽しんでいるようだ。
だがオリヴィアは悲しげな顔をして黙々と散らばったものを片付け、鞄に戻して口を閉めた。
作業がひと段落したところでオリヴィアに問いかける。
「いいのか?今ならまだ追いつけるぞ。言いたいことの一つくらいあるんじゃないのか?」
「それは──でも、言ったところでどうにも──」
ここまでされてまだ躊躇い、やらない理由ばかり探すオリヴィアに俺の苛立ちは募る一方だった。
「そうやって酷いことされても黙っているから、あいつらが付け上がるんだろうが。やられっ放しで悔しくないのかよ?」
「ッ!エステルさん!声が大きいですよ」
オリヴィアが周りを見回して焦っている。
殆どが出て行ったとはいえ、教室にはまだちらほら学生の姿がある。
こっちを見ている奴らがいるのも分かる。
だが、それが何だというのか。
「怒れよオリヴィア!黙って耐えていたって何も良くならない。嫌なことは嫌だって、今度やったら許さないって言えよ!そんなことも言えない意気地なしなんて連中からすれば玩具や家畜と同じだ。この先もっと酷いことされるようになるぞ!」
「ッ!言いましたよ!最初にされた時に!」
俯いていたオリヴィアが顔を上げて言い返してきた。
さすがに玩具や家畜と同じと言われたのは我慢ならなかったらしい。
「それは初耳だな。で、効果がなくてすぐに諦めたってところか?」
図星だったらしく、オリヴィアが言葉に詰まる。
「──どうしようもないじゃないですか。平民の身分は変えられませんし、私なんかじゃ──とても敵いません」
「だから諦めるのか?ずっとそうやって虐げられる立場に甘んじて、傷付けられて笑いものにされて、都合の良い玩具でいるつもりか?敵わなくても立ち向かう意志があれば、まだやれることはあるだろ!」
俺に助けてくださいと言えばすぐにでも馬鹿共は黙らせてやるし、友達として、将来の手駒として守ってやる。
簡単なことだ。余計な気遣いやプライドを捨てるだけでいい。
オリヴィアが再び俯き、スカートの裾を握り締める。
「何が────んですか」
消え入りそうな声で発せられた言葉は途切れ途切れで殆ど聞き取れなかった。
だが唇の動きで大体は分かった。
本当に──
「何だと?」
圧を込めて問うと、オリヴィアは一瞬身体を強張らせたが、すぐにキッと真っ直ぐ俺を見つめて言い放った。
「エステルさんに私の何が分かるんですか!身分であれこれ言われることなんてなくて、強くて、綺麗で、私なんかとは全然違うのに!エステルさんが思っているより私はずっと──」
まくし立てるオリヴィアだが、ハッと我に返り、蒼褪めた顔で俺を見る。
ここに鏡はないので、自分の顔を見ることはできないが、きっと殺気の込もった顔をしているのだろう。
「何だよ?続きを言えよ。私が思っているよりお前が何だって?」
オリヴィアは涙目で一歩下がって、そして堪え切れなかったのか、走り去った。
しまった。
ちょっとプレッシャーかけ過ぎたか。
驚き、嘲笑、哀れみ、その他色々な感情の混じった視線が周囲から飛んでくる。
この場はさっさと離れた方が良さそうだな。
オリヴィアの鞄を拾って教室を出ると、廊下で待っていたティナが怪訝な顔をして駆け寄ってきた。
「お嬢様、先程オリヴィアさんが──」
「ああ、分かってる。ちょっと不味いことになった」
「──喧嘩でもされたんですか?」
心配そうに訊いてくるティナ。
喧嘩と言えば喧嘩だろうな。
イライラしてつい一方的な強い物言いをしてしまった。
昔ニコラ師匠に振る舞いを窘められた時のことを思い出す。
あの時の師匠と同じように、話を聞いて寄り添ってやるべきだった。
考えてみればそんなにことを急ぐ必要などないのだ。
急かして詰る必要など尚更なかった。
言い返せ、やり返せ、俺に頼ってこい──色々と思った。
オリヴィアが俺に言い返そうとしてきた内容には腹が立った。
だが、それは自分の境遇にひたすら絶望し、今際の際で呪詛を吐く以外に何もできなかった前世の自分や、カタリナに手向かえずに俺に八つ当たりすることしかできなかった親父と重ねて、気分が悪くなっただけ──俺の個人的な感情である。
アーヴリルをスカウトした時みたいに、計算された作り物の笑顔と涙で理解者を演じて、包み込むようにゆっくりと心を掌握する──それを感情が邪魔をして徹底できなかった。
考え込む俺を見てティナは察したらしい。
「お嬢様、喧嘩ならすぐに仲直りした方が良いと思いますよ。せっかくできたご友人なんですから、大切にしてください」
ティナの目はどこか切実だった。
そんな顔で言われたら罪悪感で返事がしにくい。
何しろ、俺は将来的に優秀な手駒にするためにオリヴィアを友達にしたのだ。
顔を背けて俺の鞄を押し付ける。
「言われなくたってそうするつもりだ。これ持って帰っておいてくれ」
そして俺はオリヴィアを探しに駆け出した。
◇◇◇
「私なんであんなこと言っちゃったんだろう」
陽が傾いた校庭をとぼとぼと歩きながら、オリヴィアは呟いた。
悪いのは全部何もできない自分で、エステルの言っていることは逃れられない現実だと頭では分かっていたのに、受け入れることができなかった。
今も戻って謝らないとと思うが、足が教室に向かない。
そしていつしか、中庭を抜けて【裏庭】と呼ばれる場所の入り口まで来ていた。
存在は知っていたが、初めて来る場所だ。
入り口から見ただけでも手入れされた美しい庭園だと分かる。
戻るのはちょっと裏庭を見ていってからでもいいか、と思って足を踏み入れようとしたその時。
「そこに入らないで」
背後から敵意を含んだ声がした。
振り返ると、ふわっとした金髪の小柄な女子生徒が背後に立っていた。
自分より頭ひとつ分くらいは低い背丈なのに妙な威圧感がある。
「最悪。早めに来たのに、なんでよりにもよってこんな所で鉢合わせすんのよ」
彼女がボソボソと何か呟いたが、オリヴィアには聞き取れなかった。
「え?あの、私何か──」
「私もそこに行きたいの。だからあんたは入らないで。邪魔なの」
一方的な物言いをする小柄な女子に対して怒りが湧き上がる。
黙って従っていては駄目、納得できないならはっきりそう言わなければ──エステルの言葉が蘇る。
「ど、どうしてそんなこと言うんですか?私、何も邪魔になることなんてしませんよ」
どもりつつも、恐怖を堪えて真っ直ぐに相手の目を見返して、言った。
──言えた。
ちゃんと、言い返せた。
僅かに安堵したのも束の間、小柄な女子は目線が険しくなり、声が一段と低くなる。
「私あんたみたいな女嫌いだから、存在自体邪魔なの。こうやって同じ場所で息吸ってるのも嫌。どこでもいいからここ以外のどこかに行って。今すぐ」
小柄な女子の言葉が胸に突き刺さる。
ここまでストレートに自分の存在を言葉で否定されたのは初めての経験だった。
──やっぱり駄目だ。
言い返す言葉が思いつかない。
ショックで固まるオリヴィアを見て、小柄な女子は目を逸らし、問うてきた。
「大体あんたファイアブランドと一緒じゃなかったの?ここの所ずっとくっついていたじゃない」
「え?あ──えっと──」
オリヴィアは答えに詰まってしまう。
小柄な女子はそれを見て鼻で笑い、オリヴィアどころかエステルのことまで扱き下ろし始める。
「あれ?もしかしてもう愛想尽かされちゃった?ま、しょ〜がないわよね。ファイアブランドって虐殺とか大粛清とかやるような家の子だし、そりゃあんたみたいな頭お花畑とは合わないわよね」
小柄な女子の言葉にオリヴィアは思わず叫んでいた。
「エステルさんはそんな酷い人じゃありません!」
小柄な女子は一瞬目を見開いたが、すぐに哀れみの込もった目で言った。
「あんた本当おめでたいわね。あいつのことは何回か近くで見たことあるけど、あれは本当にヤバいことやってきた奴の顔よ。色んな噂を聞くけど、たぶん半分以上は事実ね。だから誰も寄りつかないし、あいつもあいつで他と関わりなんて持ちたくないって思ってる。そんなところに何も知らずにノコノコ近づいてきて、良い子ちゃんしてたんじゃ、そりゃうざったくて仕方ないわよ」
握り締めた拳が震える。
実際に一緒にいて話したわけでもないのに、知った顔をして悪口を言うのは許せなかった。
「いい加減にしてください!エステルさんと話したこともないのに、見ただけで決めつけて、そんな悪口言わないで!」
「はっ、お馬鹿が吐く正論って痛々しいわね。そんなにファイアブランドのことが好きなら、さっさと土下座でもして謝って、またお友達にしてもらいなさいよ。ま、あいつと本当のお友達になるとか無理でしょうけど。ほらさっさと行っ──」
その言葉を聞いてオリヴィアの中で何かがプツリと切れた。
ヘラヘラした笑みを浮かべる小柄な女子めがけて大きく踏み出し、力の限り右手を振り抜く。
パンッ!と弾力を帯びた音が響いて──次の瞬間には小柄な女子の握り拳が目の前に迫っていた。
「え?」
面食らって身動きが取れなかったオリヴィアの顔面に拳が直撃する寸前──視界が遮られ、パシッ!と乾いた音が鳴る。
焦点が合うと、見覚えのある大きな手が拳を受け止め、防いでいた。
「危なかったな」
声がした方に首を回すと、いつの間にかエステルが背後にいた。
「ッ!ファイアブランド──」
小柄な女子が目に見えて狼狽し、素早くオリヴィアから離れた。
「なかなか重かったぞ。今のパンチ。やるなお前」
エステルが小柄な女子を称賛するが、その目は笑っていない。
「さ、先に手を出してきたのはそいつよ。おかげでここがすっごく痛いんですけど。しかも平民が貴族を引っ叩くとか、どう考えても無礼極まりないわよね」
小柄な女子が冷や汗をかきつつも、オリヴィアに引っ叩かれた頬を指差して抗議してくる。
だがエステルは涼しい顔で解決策を提示した。
「そうか、それは悪かったな。オリヴィアの
「は、はぁ?何それ。そんな一方的な──」
「先に喧嘩吹っかけたのはお前だろ?」
ハイライトの消えた目を細めて、小柄な女子を睨みつけるエステルは、ものすごく怖かった。
だが、それが頼もしくも思える。
自分が反応すらできなかった拳骨を何の苦もなく片手で受け止め、一歩も引かずに相手の女子と向かい合って、しかも雰囲気だけで圧倒している。
「分かったわよ。でも治療はいい。あんたらの手なんか借りなくたって自分で治すから」
そう言い捨てて小柄な女子は裏庭の奥へと去っていく。
我に返ったオリヴィアは慌ててエステルに頭を下げる。
「あ、あの、エステルさん。ごめんなさい。私、酷いこと言っちゃって。それに助けて頂いて──」
エステルがゆっくりと手を上げる。
一発くらい拳骨を貰うかと思って目を瞑るが──エステルの手はそっとオリヴィアの頭を撫でた。
「私の方こそ悪かった。周りが皆貴族ばっかりの所で、貴族に立ち向かうなんてそりゃ怖いよな。お前の立場も気持ちも全然分かっていなかった。ごめんな」
思わず顔を上げると、エステルは優しい笑顔を浮かべていた。
「でも、さっきはよく言い返したな。本当によく頑張ったよ」
そしてエステルは、教室に忘れてきたはずの鞄を渡してきた。
「ほら、忘れ物だ」
「あ──あれ?」
視界が滲んだと思ったら、両目から涙が溢れてきた。
拭っても拭っても後からどんどん溢れてくる。
エステルがハンカチを差し出してきたので、鼻声でお礼を言って受け取り、目頭に当てた。
泣きじゃくるオリヴィアを、エステルは何も言わずに優しく背を撫でて慰めてくれた。
◇◇◇
「何なの?何なのよアイツ!」
裏庭を進みながら、彼女は毒づく。
オリヴィアに引っ叩かれた頬は治療魔法を使って綺麗にしたが、まだズキズキとした痛みが残る。
会いたくもなかった、これから蹴落としてやる予定だった女と鉢合わせした挙句、平手打ちを貰い、人の痛みを教えてやろうとぶん殴ったら、彼女から離れたはずのエステル──学園一の危険人物が出てきて、止められた。
はぐれ者同士で傷を舐め合っているのかと思いきや、まるで物語のヒーローのように絶妙なタイミングでエステルは現れ、見事にオリヴィアを救った。
あんなの想定になかった。
(ふざけないでよ!お花畑のくせにあんなのまで──)
高まりに高まったと思っていた羨望と嫉妬がまた一段と強くなる。
彼女はオリヴィアのことが嫌いだった。
自分と違って周りの人間に恵まれて育ち、人間の醜さや恐ろしさを何も知らずに平和と博愛を信じて、しかもそれを周囲に
恵まれない者、虐げられた者、失った者の気持ちなど想像もできないだろうに、無責任に喧嘩は駄目、暴力は駄目、戦争は駄目、愛がどうの、平和がどうの──虫酸が走る。
あまつさえ、それが殺伐とした貴族社会に疲れ切っていた貴公子たちの心を掴み、やがては国のトップにまで上り詰めることとなる運命。
──ふざけるな。不公平にも程がある。
(絶対に──絶対にモノにしてやる)
十年間持ち続けてきた決意を改めて奮い立たせる。
彼女に成り代わって幸せを掴んで、
そして彼女は視線の先に最初のターゲットを捉えた。
一旦立ち止まって呼吸を整える。
猛獣のようだった顔を、素早くあどけない可憐な少女のそれに戻し、彼女は足を踏み出す。
池のほとりに佇む紺色の髪の美男子に、何気ない風を装って一歩ずつ近づいていく。
その姿が密かに捉えられていることに、彼女は気付かなかった。
◇◇◇
数分間泣き続けたオリヴィアがようやく泣き止んだ頃合いを見て、俺はオリヴィアに提案する。
「なぁオリヴィア。今日は外に食べに行こうぜ」
「え?」
どうしてですか?とでも言いたげな顔をするオリヴィア。
「気分転換だ、付き合えよ。奢るからさ。さっきの詫びだ」
「そ、そんなの申し訳ないですよ。私だって──」
オリヴィアは両手をパタパタさせて辞退しようとする。
殊勝なことを言うのは結構だが、人の厚意は素直に受け取れよ。
そう思った直後、彼女のお腹が可愛らしく鳴った。
「ほら、腹減ってるだろ?気にするな。誘ったのは私だし、稼ぎもあるから」
「でも私、その──けっこう食べる方ですよ?」
オリヴィアが恥ずかしそうに目を逸らして言った。
「それは私もだ。いいから行こうぜ」
真っ赤になったオリヴィアの手を引いて、俺は歩き出す。
「うぅ──」
オリヴィアは俯いて、空いた方の手で顔を覆っていた。
だが素直についてくるあたり、食欲には勝てないらしい。
そういう所、本当にあざとい。
だけど──可愛い奴だと思ってしまう。
糖度低くしたつもりが──あれ?結局高まってる──?