母親は、
俺を
棄てた。
俺は、母親の名前も、自分の苗字も知らない。だが、その時の光景だけは、今でもスクリーンの映像のように鮮明に覚えていた。――
母親は、ピンクのカーディガンに白っぽいフレアスカートを穿いていた。カーディガンと同じ色のハイヒールを履いたバックシームストッキングの脚は、肉感的で生々しかった。
「タケシ。お母ちゃん、ちょっと用あっから、ここで待ってて」
真っ赤な唇から覗く白い前歯には光沢があった。
「……うん」
母親は、クロコダイルのハンドバッグから紙幣を出すと、俺のズボンのポケットに押し込んだ。
「……もし、母ちゃんが遅くなったら、これでなんか食べな」
太く塗ったアイラインの大きな黒目で見つめた。
「……ん。たべる」
母親は、
「……じゃあね」
そう言って、境内の石段を下りていった。一度も振り向かなかったポニーテールの頭は、不意に石段に隠れた。
石段から見下ろすと、ピンクのカーディガンが
「……おかあちゃん」
母親は戻ってこない。……そんな予感が俺の中にあった。――
案の定、寺の鐘が鳴り、辺りが
中学を卒業すると、寺を出た。一見、
その頃は、尚美という、母親と幾つも変わらないケバいホステスのツバメ
その募集があったのは、俺が二十五の時だった。
【作詞家・麻生萌絵の歌を歌う歌手募集!!】
萌絵は、当時の流行歌の先駆者だった。売れる曲の上位は、萌絵の作詞が占めていた。
「……挑戦してみなさい。タケシは顔もいいし、歌も上手いんだから。……心配しなくても、タケシが売れたからって、しゃしゃり出るような
尚美は大人の女をアピールすると、母親のように俺の髪を指先で
一次審査で、初めて萌絵を視た時、あまりの驚きで、俺は息を呑んだ。
二次審査に残った時、萌絵が言った。「あなたの歌い方には、不思議な哀愁があるわ。私の詞にぴったりの声とムードをお持ちよ」と。萌絵は年甲斐もなく、
最終審査に残ったのは、俺を含めて三人だった。
舞い散る枯れ葉
グレーのコート
淋しげな背中
遠ざかる靴音
頬伝う涙
凍える指先
募る想い
消えていく幻
秋色の街
『秋色のバラード』――その詞のタイトルだった。
優勝したのは、俺だった。
芸名・黒木譲。
髪型、衣装、言動マニュアルetc. ……。俺は萌絵に造られるロボットだった。
有線放送で火が点き、『秋色のバラード』はヒットした。バンドの時はゲストの前歌をやっていたキャバレーで、一変して、〈本日のスペシャルゲスト、『秋色のバラード』の黒木譲〉と、でかでかと顔写真を貼られた。