「糞ったれのミノ共、どこまで逃げれば気がすむんだよ!」
淡い燐光に満ちる洞窟に怒りの滲んだ唸りが反響する。
声の主であるベート・ローガは歯を剥いて気勢を吐くと前方へ一気に跳躍した。
「うらぁ!」
ベートは前を走っていた人の様な体に牛の頭を乗せた怪物――ミノタウロスへ強烈な足刀を角の生えた特徴的な頭部へと見舞う。バン、と弾ける音と共にミノタウロスは頭の中身をぶちまけながら絶命する。
ベートの少し後ろを追走していた金髪金瞳の少女アイズ・ヴァレンシュタインも頭を失った屈強な身体の横を追い抜き、もう一匹のミノタウロスへ鋭い銀閃を放った。
斬られたことに気付かぬまま絶命した怪物へ、一瞥もくれることなくアイズはベートへと追随する。
「ベートさん、残りのミノタウロスは!」
「そう多くねえ! こっちだアイズ!」
その答えに小さく頷くと、アイズは感情の乏しい表情き僅かな焦りを滲ませ、ベートと共に突風のごとき早さでダンジョンを駆け抜けた。
大陸の西の果て。そこには大穴があった。
遥か太古から存在し穴の深さはどこまで続いているのかも分からず、深淵にまで届くと錯覚させる巨大で底知れぬ大穴。
アイズ・ヴァレンシュタインも冒険者の一人であった。
アイズが所属する【ロキ・ファミリア】によるダンジョン探索――遠征――が突如発生した
その帰途で【ロキ・ファミリア】はミノタウロスの群れに遭遇。
血気盛んな若手たちが遠征の失敗の鬱憤を晴らすがごとく暴れてしまい、恐慌状態に陥った牛の怪物たちはあろうことかダンジョンを
中層――本来ミノタウロスが生息している階層域――を飛び出し、地上に飛び出す勢いでダンジョンを登りだしたことに【ロキ・ファミリア】一行は血相を変えた。
ダンジョンの性質上地下に潜るにつれ、出現するモンスターの危険度が増す。当然上の層で探索する冒険者の実力もそこに合った者ばかり。
その中でミノタウロスの上層進出は下手をすれば多くの被害者を出しかねず、それを起こした切っ掛けが【ロキ・ファミリア】にあるとなれば【ギルド】から追求は免れられない。
それだけは絶対に阻止するため、アイズたち【ロキ・ファミリア】とミノタウロスによる死に物狂いの追走劇が始まったのだった。
(最後のミノタウロスは――)
ミノタウロスを追っていたアイズは気付けば第5層にまで戻ってきていた。
ここまではミノタウロスによる被害者は出ておらず、水際で抑えることに成功している。
「糞っ、最後のミノタウロスはどこ行きやがった!」
「ベートさんっ、匂いの方は!」
「追えてるよ! この辺にいるはずなんだが……っ」
それは狼の獣人であるベートの嗅覚のお陰でもあったが、残るミノタウロスが行方を眩ませてしまっている。
(早く見つけないと……っ)
ミノタウロスを補足するか最初の犠牲者が出るか時間との勝負。
目を背けてはいけない事実にアイズが焦燥に駆られ始めた、その時だった。
『ブモオオオオオオオオオオオオオオオオッッ!!』
「ほあああああああああああああああああっっ!?」
咆哮と絶叫が同時にダンジョンを駆け巡った。
――――近い!
直感でアイズは判断すると悲鳴の上がった方へと転進、岩の地面を蹴り着ける。
燐光降りしきる岩窟を飛ぶように駆け抜ければ、いた。
通路の先。左右に別れた突き当たりの壁を背にして腰を抜かす白髪の少年の姿をアイズは視界に捉える。同時に、牛の怪物が屈強な己の腕を振り上げる姿も。
「
背後から飛んできたベートの声に反応して一気に加速する――
(……?)
――直前、生暖かい
(今のは……?)
ダンジョンの中で風を感じるなんてことに戸惑いを隠せず、視線をミノタウロスへと戻し。
「え」
アイズは驚きに目を瞬かせた。
『ヴ――?』
怪物も違和感を感じたのかその牛の頭から間の抜けた小さな唸りを溢し、己の振りかぶった腕へ視線を送り。
『モ……っ?』
あらんかぎりに双眸を見開いた。
一瞬前までそこにあった丸太のような腕が、失くなっていたのだ。
腕はというと頭上をくるくると弧を描きながら宙を舞っていた。数秒後ドシンと音を立て落下し、地面へと転がり血溜まりを作った。
『ヴ、モオオオッ!?』
突如腕を失ったミノタウロスは驚愕の唸りを上げる。一拍遅れて腕の断面から噴水のように出血し始め、辺り一面を赤く染め上げる。
遅れてやって来た激痛に耐えきれず傷口を押さえながら膝を突くミノタウロス。
予期せぬ事態を前に疾走していたアイズは足を止めてしまい、咄嗟に急停止を掛けた反動で己の金髪が視界で踊った。
「人……?」
靡く髪の合間から、怪物を襲った暴力の正体を視認した瞬間、無意識の内に呟いていた。
視線の先、そこにはミノタウロスと相対する赤い影。
冒険者。そう判断すると同時に先程の吹いた風の正体にも思い至る。あの赤い冒険者が追い抜いた時の風だったのだろう。
一人納得しつつも、重症とはいえまだモンスターは健在である。加勢するか否かをアイズは見定めるようと金の双眸を細めて注視する。
『ヴ、モ゙アッ!』
片腕を失った痛みにもがきながらも、己を奮起させるようにミノタウロスは短い咆哮を上げ残る力を振り絞るように立ち上がった。
「! 危な――」
手負いの獣には目もくれず、気を失った様子の少年を見下ろしたまま微動だにしない赤い冒険者。痛みから怒りに変わった感情に支配されたミノタウロスは己を傷付けた憎き敵を滅さんとその大きな体躯でもって押し潰そうとして――
――――グシャアッ!!
直後、アイズの叫びを掻き消すような
ピッ、と頬に温かい何かが跳ねる。
だがアイズはそんなことに気付かない、いや気付けなかった。
付着した血を拭うことすら忘れる程、目の前で起きた惨状に意識を奪われてしまったから。
いつの間にか赤い冒険者は右腕を振るった姿勢で体勢を維持していた。
振り下ろした腕の先、そこにはミノタウロスだったものが地面にへばりついている。
一撃――無造作に繰り出された一撃で上半身は叩き潰され、中身の全てをぶちまけた肉塊と成り果てていた。
「…………っ」
アイズは言葉を失ったままミノタウロスを虐殺した冒険者を凝視する。
周囲に漂う濃密な
ミノタウロスの名残である下半身が時折ビクリと痙攣する以外に、身動きするものはない中。
「……あなたは」
嫌な沈黙に我慢できなくなったアイズは重々しく口を開いた。
「あなたは、一体――」
その声に反応し身動ぎする冒険者。
「――
“誰”ではなく“何”。
何故そんな言葉を口走ったのか、アイズ自身にも分からなかった。
それでも、目の前の人物が
ガチャリ、と金属の擦れ合う思い音と共に体勢を自然なものへ戻した冒険者。
暫しの間を置いてからゆっくりと振り向き、アイズは正面から向かい合った――
「ッ!!」
瞬間、心臓を握り潰されたような感覚に襲われた。
弾かれたように愛剣を構え、一気に戦闘態勢へと移る。
全身が総毛立ち警告を発している。
脳内でガンガンと警鐘が鳴り響く。
冒険者としての本能が叫び立てている。
――――――この人は危険だ。
今にも斬りかかりそうになる衝動を理性で捩じ伏せアイズは同じ質問を繰り返す。答えようによっては容赦はしない、と警告を滲ませながら。
しかし当の相手は動かないまま、様子を窺うようにこちらを見つめている。そもそも、さっきの問い掛けが聞こえていたのかすらも怪しい振る舞いだ。
ミノタウロスを屠った際とは真逆。異様なまでの“静”を纏い佇む姿を前にアイズは不安に駆られ、痺れを切らしそうになる。
じゃり、と靴底の擦れる音と共に赤黒い影が身動いだ。
「ッ!」
一歩を踏み出し、何かを求めるように腕を伸ばす。その様は飢えた獣が舌なめずりして獲物を求める姿を彷彿とさせる。そして――
「……?」
アイズは目の前で起こったことに反応できなかった。
「……」
膝から崩れ落ちて、独りでに倒れ伏した冒険者。その姿をただ見下ろすことで遅れて理解する。
張り詰めていた空気が徐々に霧散し、重い沈黙が岩肌の通路を満たした。
「……すう……はあ」
ふと自分の呼吸が浅くなっていたことに気付き、一度二度と深呼吸をする。
「……大丈夫ですか?」
呼吸を整えて緊張をほぐすと、足元の人物を意識から外し、気を失ったままでいる少年に近寄った。
「起きてください」
ひどい有り様だった。ミノタウロスの血を浴びたせいで全身血塗れである。兎のように真っ白だった髪も、今や赤黒く染められてしまっている。
「起きて」
「――う」
膝を揃えながらしゃがんで、アイズは肩を優しく叩くと、少年の口元がぴくりと震えた。
「う、ううん……」
「怪我はありますか」
「あ、あれ……? ミノタウロスは――」
「ミノタウロスならもう倒しました」
「倒した……って――え?」
脅威が既にないことを伝えると、それに反応してこちらへ顔を向けた少年だったが。
「? どうしました?」
「あの」
「ほ――」
「ほ?」
「――ほわあああああああああああああああああっっ!!」
情けない悲鳴を上げ、嘘のような速度で走り去ってしまった。
「…………」
ミノタウロスから逃げていた時の比ではない速さで遠ざかっていくその背中は、正しく脱兎のごとくであった。
「助けようとした相手に逃げられるなんてなあ」
「……ベートさん」
怖がられてしまったというショックから立ち直れぬまま、少年が消えていった通路を呆然と眺めていると、背後から声が掛かる。
「そう滅多にあることじゃないぜ、アイズ」
「……」
青年の声音からからかいの色を感じ、むすっとしながら頬を擦って付着していた返り血を拭う。
「それで、こいつは
「……分かりません」
振り返れば口元を笑みの形に歪めるベートの姿があった。だがその鋭い琥珀色の双眸は、足元で倒れ伏す冒険者へ油断なく向けられている。
落ち込むのもそこそこに、燐光に照らされ露になった謎の人物の正体をアイズも見下ろした。
冒険者は全身を重厚な鎧で固めており、目を凝らせば精緻な紋様が鎧の表面に隙間なく刻まれている。
ミノタウロスを殺めた武器。大剣と呼んでも差し支えないそれは血や肉片やらがへばりついていて、元の刀身が確認できない。
それだけでなく刀身の半ばから大きく欠落している。最早剣と呼ぶのも躊躇われ、鉄塊と呼んだ方が相応しく感じられた。
そして赤い、という印象を受ける理由になったのはこの人物の頭部をすっぽりと覆う頭巾。先程の虐殺を目にしたアイズには嫌にも血の色のように思えた。
「にしても、妙な組み合わせの装備してやがるな」
「そう、ですね」
「しかも動く気配もねえ。死んでるのか?」
「……息はあります」
妙、というベートの例えに半ばに賛同しつつ、アイズは愛剣を手に握ったまま、倒れた冒険者の脇に膝を突いて様子を窺うと、赤頭巾から覗く豊かな髭に埋もれた口元からか細い呼吸が聞こえてくる。同時に気付いたが、かなり年配の冒険者だったようだ。
「で、どうすんだ?」
「どう、って」
「こいつは今お前を襲おうとしてたじゃねえか。そんなヤバイ奴をこのまま放っておく訳にもいかねえだろ」
銀靴の先で老年の冒険者の脇腹を小突くベートの言葉に、アイズは思いを巡らせる。
(このまま放っておいたら、目を覚ました時に誰を襲うかもしれない)
実際に犠牲者が出たとなれば、それこそ自分たちが責を負うことになる。
(けど……)
気を失ったままの冒険者の身柄を、ギルドに引き渡すのが今取れる最良の手段だと、頭では理解しているのだが……アイズはどこか腑に落ちない自分がいることに気付いた。
「……
「まあギルドに突き出すのが手っ取り早――は?」
赤頭巾で覆われた後頭部を見つめながら、おもむろに口を開くと、呆気に取られたベートは驚いたように振り向いた。
「……マジで言ってんのか」
「はい」
「お前今襲われかけたんだぜ?」
「けど、襲われてません。それに――」
ただならぬ気配に危険だと判断はした。だが実際に剣を交えた訳ではないし、怪我を負ったわけでもない。それにもう一つ――大事なことをアイズは忘れていなかった。
「この人はミノタウロスを倒してくれました」
アイズは立ち上がるとベートを見据えながら言葉を紡いだ。結果論ではあるが少年の命が救われたのだ。それは紛れもない事実でもある。
「それは……そうだけどよ」
「お礼はするべきだと、思います」
「だからってホーム連れてく理由にゃならねえぞ」
「……」
ベートの忠告は尤もであるのはアイズは理解していた。どうしても気になってしまう。個人的興味と言って良いかもしれなかった。
「……とにかく
暫しの間を置いた後、納得いかないようにがしがしと頭を掻いたベートだったが。
「はあ、わあったよ」
「ありがとうございます」
自分のわがままを受けれ入れてくれたベートへ感謝の念を込めてアイズはぺこりと頭を下げた。
「じゃあ、お願いします」
次の瞬間。ベートが一切の動きを止めてこちらを凝視する。
「俺が運べってか?」
「駄目、ですか?」
「…………」
「…………」
アイズは首を傾げて、ベートの瞳を真っ直ぐに見つめ返す。
「……糞がぁ」
「ありがとうございます」
根負けしたベートは渋々といった様子で吐息を吐き出すと、倒れている冒険者を乱雑に肩へ担いだベートへアイズは再び礼を述べた。
その姿アイズはつい表情を綻ばせてしまった。
「おい、今度ダンジョン潜る時付き合えよ」
「はい」
「ったく。にしても、この爺さんもよくわかんねえぜ」
「? どういう意味ですか」
肩に担いだ赤頭巾へ視線を向けて溢したベートのぼやきにアイズは首を傾げる。
「あん? そりゃあこの爺さん、踞ってたくせにお前に追い抜かされた途端ミノタウロスに食って掛かりやがったからだよ」
「え――」
予想外なベートの返答にアイズは言葉を失い、驚愕に金瞳を震わせた。
「ビビって腰抜かしてたと思ったらいきなり俊敏に動き……どうした、アイズ?」
「――私の前にいたのは、ミノタウロスとさっきの男の子だけです」
「は?」
背を向けていたベートが向き直る。その精悍な顔に眉根を寄せており、何を言ってるのか理解できていない様子だ。
「ベートさんもこの人に追い抜かれたんじゃないんですか?」
「何言ってんだ。そもそも、俺たちがここに来るまで誰ともすれ違ってねえだろうが」
「そもそも本気で走る俺たちを追い抜かせる冒険者なんざそうそういねえってのに」と訝しげに呟いたベートの言葉に、アイズは言い知れない不安に襲われた。
「じゃあ、この人は――?」
アイズは自分たちが辿ってきた通路へ首を巡らせる。
目の前に広がるのは燐光降り注ぐ岩肌に固められた通路。脇道もルームも存在しない、一本の通路。
(この人は、一体)
視線を戻し赤い頭巾を凝視する。そして謎の老人に対するたった一つの疑念がアイズの脳裏を支配した。
――何処から来たんだろう。
炎が踊っている。
時折吹く風に軋む床から立ち上る炎が、ちろちろとさも楽しげに揺らめきながら踊っている。
「……灰の人。貴方のくれた火は、今も燃えています」
あの人がもたらしてくれた小さな火種。それはゆっくりと、確実にその勢いを増していた。
いずれはこの世界を――世界の腐れを浄火することだろう。
こうして炎を眺めていると、あの心優しい灰の騎士と言葉を交わした時間を思い出してつい頬が緩んでしまう。忌み人でないあの人が再びここを訪れることはないと分かっていても。
頭を振って意識から灰の騎士を追い出すと視線を正面へと移し、壁と見紛う程に巨大な布の壁――キャンバスを仰ぎ見た。
塗られても描かれてもいない、無地のキャンバス。後はここに筆を走らせるための顔料を手にするだけ。
そう、顔料が必要なのだ。
絵を描くための顔料。
暗く、冷たい、優しい世界を
「……
――その色をした顔料が。
つい、と視線を反らし窓の外へと向ける。
窓の外は雪がちらついていた。決して止むことのない雪。
爬虫類のような縦長の赤い瞳孔は雪で遮られた先、冷たく暗い銀世界の向こう側。目にしたことのない
――
揃えた膝の上に置いていた手を椅子の縁に起き、背を反らしながらほう、と小さく吐息をついた。
「お爺ちゃん、早く帰って来ないかなぁ……」
顔料を求めて旅立った“