迷宮都市の奴隷騎士   作:ワシイヌ

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三話 目覚めた老人

「ここは、どこじゃ」

 

 地の底から這い出るような、嗄れた老人の低い声が部屋に居合わせる全員の鼓膜を震わせた。

 

「! まさか、意識が戻って――」

「どうやら、そのようじゃな」

「そんな気配は微塵もなかったはずだが……」

「んなアホな。いくらなんでもいきなり過ぎ――って、この感じ」

 

 声に反応してフィンたちは振り返る。それぞれの顔には驚きと困惑が浮かんでいた。

 

 かくいうアイズも赤頭巾の老人が意識を覚醒――それも一切の兆候なく――させたことに驚き、愛剣に手を伸ばしかけた体勢のまま動けずにいた。

 

 当の老人はこちらの戸惑う様子など意に介さず、ギシ、とベッドを軋ませながら両足を降ろし、ゆらりと立ち上がる。

 

 それに合わせてフィンたち最古参組が後退り、ロキも硬い表情で椅子から飛び降りて目覚めた冒険者から距離を取った。

 

(大きい……)

 

 老冒険者の立ち上がる様を傍観したアイズは緊迫した状況とは裏腹に、そんな場違いな感想を抱いてしまう。

 

 ダンジョンと異なり、まともな光源のある場所で対面して気付いたが、自分の身長と比べて頭一つ分は高い。その髭面も相まって、ガレスを縦に伸ばしたような印象を受けた。

 

 加えて2M(メドル)近い巨躯を重厚な鎧で固めているせいで、かなりの威圧感を受ける。それも周囲に見境なく撒き散らす、モンスターのような野蛮なものとは違う。内に秘めながらもそれを感じ取らせてしまう、強者の覇気――歴戦の戦士特有の威圧感を。

 

「ここはどこだ」

 

 老人はゆっくりと首を巡らせながら一人一人の姿を見下ろして、有無を言わせぬ調子ではっきりと同じ言葉を繰り返す。そして。

 

「お前たちは誰だ。それに――」

 

 ピタリ、と。

 

「何故、お前は『それ』を手にしている」

「――――っ」

 

 視線が自分で止まったことにアイズははっとして視線を落とす。

 

 左手には、逆手で握ったままの黒い大剣。

 

(……しまった)

 

 先程ガレスから受け取ったそれは、老人の歪な大剣。

 

 自分の武具を赤の他人が手にしていれば、誰だって同じ問いを投げ掛けるに決まっている。加えてダンジョンでの諍いの件があれば尚更だ。

 

「…………」

 

 赤い頭巾と灰色の長髭に隠れて表情は読めないが、老人は無言のまま緩慢な動きで一歩を踏み出す――

 

「待ってくれ」

 

 が、凛とした声と共にリヴェリアがアイズの前に躍り出たことで足を止めた老人。

 

「装備を勝手に検めてしまったのは完全に我々の非だ。すまなかった」

「リヴェリア……」

「だが我々はあなたに危害を加える気は一切ない」

 

 アイズは金の双眸に不安を覗かせながらリヴェリアの後ろ姿を見守る。行く手を阻まれた老人はじろじろと無遠慮な視線を王族(ハイエルフ)へ送るような素振りを見せたが、赤頭巾に隠れているため実際は分からなかった。

 

「それと、今の質問に関してだが……」

「僕たちは【ロキ・ファミリア】。そして、ここは僕たちの本拠(ホーム)の一室だよ」

 

 続けて老人の静かに前へ進み出たフィンは、副団長(リヴェリア)の代わりとでも言うように言葉を引き継ぐように老人の疑問に答える。

 

「ファミ……?」

「ダンジョンでいきなり意識を失ったと聞いて心配していたんだけど、その様子なら大丈夫そうだね」

 

 どこか得心がいかないといった調子の声を漏らす老人。その様子をそれ程気にした風もなくフィンは話を続ける。

 

「君にお礼を述べたいのと……一つ尋ねたいことがあって、人命救助の名目でここまで運ばせてもらったんだ」

「順を追って説明させてもらうが、勝手な行いは承知の上。この件に関してはロキを通してそちらのファミリアへ正式に謝罪もさせてもらう」

「だから、まずは僕たちの話に耳を傾けてはくれないかな?」

「……」

 

 押し黙る老いた赤頭巾の冒険者。その無言を肯定を受け止めたフィンとリヴェリアは顔を見合わせると、一度頷きあってダンジョンで事の顛末を語り始めた。

 

 老人の注意が二人へ向かったことを確認し、アイズは距離を取って手にしていた黒大剣をそっと壁へと立て掛けると、一人小さな吐息を一つついた。

 

「アイズ、すまん」

「ガレス?」

「儂が余計なことをしてしまったばかりに……要らぬ気を遣わせてしまった」

 

 ふと横合いから声を掛けられて振り返ると、申し訳なさげに眦を下げるガレスの姿があった。

 

「……ううん、平気」

 

 アイズはふるふると首を振り、ガレスの心配が杞憂であることを伝える。

 

「そうか。なら、いいんじゃが――しかし、こやつは本当にお前を襲おうとした冒険者なのか? どうも儂にはそう思えん」

「…………」

 

 ちらりと老冒険者へと視線を向け、立派な髭を撫でながら腑に落ちないようにガレスは低く唸った。

 

 正直なところ、アイズも同じ思いを抱いていた。

 

 ダンジョンで対峙した、ミノタウロスを一撃で肉塊へと変えてみせた赤頭巾の冒険者。

 

(そう、あれは――)

 

 正気を失っていた。

 

 そう形容する以外表現する言葉など見つからない程に、常軌を逸していた。

 

 しかし今はどうだろうか。

 

 フィンとリヴェリアの話に黙って耳を傾ける老人を一瞥して、アイズは自問する。

 

 不穏で物々しい空気こそ纏っているが、見ず知らずの場所で目覚め、誰とも分からぬ者たちに囲まれていたら至極当然の反応にも思える。

 

 むしろアイズの目から見ると、今の老人からは何か強い意志を感じさせる何かがあった。

 

「……私も分からない。けど、確かにこの人がミノタウロスを倒して、それで――」

 

 地上と地下。あまりにも乖離した姿を見せる老人を前にして、自分の見たものが本当だったのか自信がなくなってしまい、紡いだ言葉が尻すぼみになってしまう。

 

 それを察したのか、ガレスは大きな手でポンと肩に置いてきた。

 

「気にするな。もし、お前の気のせいだったとしても、誰も責めはせん」

「うん、ありがとう。けど――」

 

 アイズは叩かれた方の肩に触れ、そこに残る暖かい感触を確かめつつも、別の違和感を覚えていた。

 

(どうして、この人は私を見て何も言わないんだろう?)

 

 ミノタウロスを屠った後、老人は自分と対峙した。

 

 だが、その素振りを全く見せない。お互いを認識していたはずなのに、黒大剣を持っていたことに()()しか反応を示さなかった。

 

 殺意を隠そうともしなかった獣のごとき姿と、困惑と不審を抑制する今の姿。どこか噛み合わない相反する二つの姿。

 

 この拭えない違和感は一体何なのだろうか? それについて考えを巡らせようとした、その時だった。

 

「何だと?」

 

 鋭い声がアイズの鼓膜を揺さぶったのは。

 

「リヴェリア?」

「どうかしたか?」

 

 怪訝に思い首を傾げる、同じ思いを抱いたガレスも声を掛ける。

 

「いや、それが――」

「儂はその娘など知らん。そう言っただけじゃ」

 

 翡翠色の瞳を向けながら言葉を濁すリヴェリアの代わりに返ってきた老人の答え。その答えに驚きアイズは目を丸くしてしまう。

 

「五層での話をしていたんだけど、どうやらそういったことがあったことすら覚えていないらしい」

「ミノタウロスの件もか?」

「私とのいざこざも……?」

 

 固い表情で頷いたフィンは碧眼を老人へ飛ばす。アイズも自然と老人へと目を向ける。

 

 自然と部屋にいる全員の不審がる視線が赤い頭巾へと集中する。

 

 だが当の本人は友好的と言えない視線を意に介さず、逆にゆっくりと一人一人の顔を順繰りに一瞥し、最後にアイズへと視線を戻して、言った。

 

「そもそも、お前たちの話の中に出てくる」

 

 

 

 

 

()()()()()()()()()()()

 

 

 

 

 

 その言葉に、アイズを雷に貫かれたような衝撃が走った。

 

「な――」

 

 部屋の中を死んだような静寂が満ちる。

 

 自分だけではない。リヴェリアとガレスも今の発言の持つ衝撃に打ちのめされ、言葉を失っていた。

 

「……すまない、よく聞こえなかった。もう一度、言ってもらえるかな」

 

 ただ一人、フィンだけが問い返すことができた。しかし、その声は固く、どうにか気丈に振る舞おうとしているが、明らかに隠しきれない狼狽の色を滲ませていた。

 

そんな場所(ダンジョン)など儂は知らん、そう言ったんじゃ」

 

 今度こそフィンも言葉を継げなくなり、驚愕の表情で老人を見上げる。

 

 あり得ない。冒険者でありながら、ダンジョンを知らないなどと。下界(このせかい)に暮らす者がダンジョンを知らないはずがない。

 

 アイズは寒気を感じられずにはいられなかった。同時に、今自分たちは得体の知れない『未知』と対峙しているという、恐怖に似た感情を抱いていた。

 

「もう一度言うが、ここはどこだ? いや、そもそもお前たちは()()。お前たちからは“ソウル”を感じない。いや――」

 

 アイズたちが言葉を失う中、老人だけが淡々と言葉を吐き出していく。

 

「“ソウル”の気配を一切感じない? 馬鹿な。そんなことがあり得るなど……待て。そもそも儂は、何故こんな場所に? 儂は確かに辿り着いていたはず。だというのに、何故――?」

 

 かと思えばぶつぶつと独り言を始めてしまう。その内容も要領を得ないもので、意味など分かるはずもない。

 

 アイズたちも受けた衝撃(ショック)から立ち直れず、得体の知れない物を見る目で、老人を見つめるだけだった。

 

 

 

 

 

「…………いやーホンマごめんなぁ」

 

 

 

 

 

 が、その沈みきった重々しい空気を破ったのは、どこか間延びした明るい声だった。

 

「ロ、キ?」

 

 自分でも驚くくらいに掠れた声で、アイズは主神の名を呼びながら振り向いた。

 

「お前は?」

 

 今その存在を認知したといった様子で、老人も赤頭巾の奥の視線をロキへと注ぐ。

 

「そうやろそうやろ、当然の反応や。ちゃんとした自己紹介がまだやったもんな。ウチとしたことが気が利かんかってん、堪忍してえな」

 

 両手を合わせて詫びるような仕草を見せながら、ロキはフィンとリヴェリアの間をすり抜けて頑強な鎧を纏う老人へと進み出る。

 

「ウチはロキ。【ロキ・ファミリア】の主神やってる麗しい女神様や。よろしゅうな」

 

 かと思えば薄い胸に手を添えて自己紹介を始めるロキ。アイズはロキが何を言わんとしているのか全く理解できなかった。

 

「神……? お前が?」

「せや。んで、このちっこいイケメンがフィン。ウチのファミリアの団長務めてもらっとる」

「ロキ、何を――」

「ほんでこっちの子がリヴェリアや。めっちゃ綺麗やろ? 美男美女揃いのエルフの中でもリヴェリアはぶっちぎりの美貌の持ち主や。ま、ウチには勝てんけどな」

 

 リヴェリアの問い掛けにも答えず、ケラケラと笑うロキ。アイズは勿論のことフィンたちの様子からして主神の意図を読めず、ただ推移を見守るしかできない。

 

 だが、一方的に話しかけられている赤頭巾の老人も戸惑っているのは確かだった。

 

「そこの自分とちょい似とる髭モジャがドワーフのガレス。酒に目がなくて、ウチの晩酌に付き合ってもらうこともしばしばある。それで最後の金髪のめっっっちゃ可愛い子がアイズや。けど惚れたらアカンで。アイズたんはウチのアイドルやからな」

 

 アイズの名も呼び終え、己の眷族(こどもたち)全員の紹介を終えたロキは満足そうにうんうんと頷いた。

 

「お互いの名前を知らんまま、話を進めるのも筋が通らんもんな。それで――」

 

 笑顔を決して崩さず、糸のような目を僅かに開き、覗いた朱色の瞳で真っ直ぐに見据えて。

 

 

 

「自分は()()のどちらさんなん?」

 

 

 

 言葉の一部を強調させながら、ロキは老人へと問い掛けた。

 

「…………」

 

 身動ぎ一つしない、赤頭巾の老冒険者。

 

 静かに答えを待つロキの姿は偽ることなど許さないと、己の意思をその態度で示していた――実際のところ、(ロキ)の前で人類(ひとびと)の嘘など全て看過されてしまうのだが。

 

 普段あまり見せることのないロキの神としての視線を浴びてなお、沈黙を保つその姿をアイズも固唾を呑んで注視する。

 

「…………」

 

 が、(ロキ)の持つ圧に耐えられなかったのか、所在なさげに胸甲に覆われた胸へと手を滑らせる。

 

「……儂は――――」

 

 そして、おもむろに口を開いた、その時。

 

「……ん?」

 

 ロキが訝しげな声を上げた。

 

 視線の先。ふと、己の胸元を見下ろした姿勢で固まった老人にアイズも眉を顰ませる。

 

「どうか、したかい?」

 

 じっとして動かないアイズが理解できずにいると、フィンが代弁するように疑問を呈した。

 

 しかし老人は何も聞こえていないかのように、そっと手甲を嵌めたもう片方の腕を左胸へと当て、そして――

 

「――ふふ」

「え?」

 

 ――笑った?

 

「ふふふ、ふはははははは……」

 

 なんの脈絡もなく、老人が笑い始めたのだ。

 

「ははは、はははははははははは、はははははははは!!」

 

 頭上を仰ぎ、灰のような長い髭に隠れていた口元を露にし、黄ばんだ歯を晒しながら、笑う老人の姿にアイズはギョッとしてしまう。

 

「何が――何が可笑しい」

 

 気が触れたように豹変したその姿にリヴェリアが言葉を絞り出し。

 

「一体何だというんじゃ……?」

 

 ガレスは理解できぬと(かぶり)を弱々しく振り。

 

「……狂ってる」

 

 フィンですら苦々しくそんな言葉を溢す。

 

 かくいうアイズもその姿に気圧されると同時に、全身が粟立つ感覚に襲われ、知らずの内に後退ってしまう。

 

 そんな中。

 

「…………」

 

 ロキだけが何も言わず、身動ぐことなく、狂喜に駆られたような老人を、真正面から真っ直ぐに見つめている。

 

「…………」

「はははははは! ふはははははははははははっ!」

 

 こちらの視線など意に介さず、老人は壊れてしまったかのように嗤い続ける。

 

「はははははは! はははは、はは……はあ、はあ……」

 

 そうして一頻り笑い続けた後、落ち着きを取り戻した老人。

 

 肩で息するその巨躯はゆっくりと視線を落とし、己の両掌を見つめると。

 

「……そうか、やったのか。()()は」

 

 ぽつりと、小さく呟いた。

 

 何度目か分からない沈黙が、部屋に満ちる。

 

「…………ああ」

 

 そして、その沈黙を破ったのは。

 

「あ、あぁぁ、あっ……」

 

 全身をわななかせ、呻きを漏らしたのは。

 

「ああ、ああ……っ!」

 

 赤頭巾の老人だった。

 

「どうした――」

「申し訳っ、ありま、せぬ……!」

 

 何を悔いるのか。長い間溜めてきた、感情の堰が決壊したように嗚咽を漏らし始めた。

 

「儂は……余りにも、遠くへ……っ、来て、しまった……!」

 

 両手で顔を覆い、途切れ途切れの言葉を辿々(たどたど)しく落としていく。

 

「ですが……! あなたの望みは……うぅっ」

 

 遂にはガチャン、と金属の擦れ合う音を立てて屈強な体が膝を突く。

 

「とどっ、き、届け――ああ、うあ………っ」

「お、おいしっかりせんか」

「やっと……やっと、ああ……叶える、ことが……!」

 

 ガレスの案じる声も届かず、支離滅裂な言葉を吐き出していく。

 

 何度目か分からない不審と疑念、何よりも困惑が渦巻く。

 

「あなたの元へ、戻ることは……っ。叶、いません……!」

 

 遂には背中を丸めて踞った老人。

 

「この人は、何を言っているの……?」

「……分からない」

 

 アイズの口をついて出た疑問に、フィンが答えになっていない答えを返す。

 

 尚も咽び泣く老人の悲痛の叫びは続き。

 

「ですがっ、儂は……ゲールは、あなたの願いを――っ!」

 

 

 

 

 

「――――――――()()()!!」

 

 

 

 

 

 その言葉を最後に、老人は声を上げることを止めてしまった。

 

 丸くなり、訳も解らず啜り泣く老人。

 

 今度こそ本当に、アイズはどうしていいか分からなくなってしまった。

 

 金の双眸を揺らしながら、フィンへと救いを求めて視線を送る。しかし団長であるフィンも硬い表情のまま、首を横に振っただけだった。

 

 見ればリヴェリアとガレスも困惑に眉根を寄せた顔を見合せている。

 

 ただ一柱(ひとり)――やはりロキだけは目の前でしゃくりあげる、惨めな様の老人から決して目を逸らさず、真っ直ぐに見据えていた。

 

 静寂に包まれた部屋に響く嗚咽の音。その静かな慟哭は暫くの間、収まることはなかった。

 

 

 

 

 

「…………」

 

 窓から差し込む月明かりに照らされ、深い色に染まった廊下をアイズは進んでいた。

 

「…………」

 

 己の立てる足音だけが虚しく響く廊下。

 

 自分の部屋へと戻る道筋を辿りながらも、アイズの心はここにあらずだった。

 

 「悪いけど、ウチらだけで話させてくれへん?」とロキに告げられたアイズは、その言葉に素直に従って部屋を後にしていた。

 

 本音では部屋に残っていたかったのが、いつものふざけた調子を潜ませ、真剣な面持ちでいた主神(ロキ)を前にして、首を横に振るなどできるはずがない。

 

 実際、あの場に居座り続けたとしても自分にはできることはないのだと分かってはいたが……それでもアイズは気持ちの整理をつけることができなかった。

 

「…………」

 

 カツ、と靴底を鳴らして足を止め、アイズは俯いた。

 

 さっきの光景が頭から離れない。

 

 人目を憚ることなく滂沱(ぼうだ)の涙を流していた、血のように赤い頭巾を被った、年老いた戦士。

 

 アイズは大の大人が声を上げて泣きじゃくるのを目にするのは初めてだった。それも、自分の何倍もの人生を歩んできたであろう老人が。

 

 あの痛々しい姿が脳裏にちらつく度に胸が締め付けられる感覚を覚え――同時に苦しさと悲しさが襲ってきた。

 

「……お嬢、様」

 

 抑えきれぬ激情の中で叫んだ、誰かの名――いや名前ですらなかった――が口をついて出る。

 

 『お嬢様』とは何者なのか。『お嬢様』とは老人にとって大切な人なのだろうか?

 

 分からない。何も理解できない。

 

 むしろ赤頭巾の老人の謎が深まるばかりで、何一つも判明していない。

 

 ダンジョン内で向けてきた異様な殺気の原因も、ダンジョンの知識が欠落していた理由も――流した涙の意味も。

 

「……はぁ」

 

 今までの冒険者生活の中で一度も体験したこのない『未知』に頭が一杯になっていることに気付いて、つい小さなため息をついてしまう。

 

 それに、今回の遠征は余りにも色々なことがありすぎだ。

 

 老人との一件もそうだが、振り返ってみれば異常事態(イレギュラー)の連続であったと思う。

 

 一つ目の異常事態(イレギュラー)――深層における新種のモンスターとの遭遇、交戦。それによる被害の大きさによる遠征の中断。

 

 二つ目は相手取ったミノタウロスの群れが恐慌状態に陥り、上層進出を許してしまったという大失態。

 

 そしてダンジョンの存在を知らない謎の老人とダンジョンでの出会い。

 

 何から何まで異色続きで、最後の空部屋での一幕で疲れがどっと押し寄せてきたような気がした。それも精神的な疲れが。

 

(今日は、もう寝よう)

 

 明日も遠征の事後処理やらで差程ゆっくりする時間はない。今は何もできることはないのだから、とにかく部屋へ疲れを取るべきだ。

 

「あ」

 

 と思ったがふと、一つ大事なことを思い出したアイズは小さく声を上げる。

 

「更新、忘れてた」

 

 遠征の終了後には必ず行うはずの【ステイタス】の更新を失念していた。

 

 普段であれば決して忘れることのない、遠征の終わりを告げる儀式(くぎり)

 

 けども今日は【ステイタス】の更新はできそうにない。何よりアイズ自身――自分でもビックリだったが――【ステイタス】更新を受けたい気分ではなかった。

 

 明日の朝。朝食後の僅かに空いた時間でロキに頼めばいいかと、アイズは自室へと戻ろうと改めて足を踏み出した。

 

「アイズ!」

「ティオナ?」

 

 と、背後から呼び止められ、上げた足を下ろして振り向いてみれば褐色の肌をした少女――ティオナ・ヒュリテが背後から小走りで駆け寄ってくるところだった。

 

「私たちもいるわよー」

「ティオネ、レフィーヤも」

 

 ティオナの背後には双子の姉のティオネ・ヒュリテがヒラヒラと手を振っており、レフィーヤ・ウィリディスも特徴的なエルフの長い耳をしおらしげにしておずおずと視線を送ってくる。

 

「アイズさん、その……大丈夫でしたか?」

「うん。私は大丈夫、かな」

「この子、あなたのことが心配で『私、アイズさんの様子を見てきます!』って言い始めて止めるの大変だったのよ」

「ティ、ティオネさん!?」

 

 レフィーヤの心配そうな問いにアイズは少し逡巡して頷くと、ティオネが裏での一幕を暴露したのでエルフの少女が慌てふためいた。

 

「まあ、心配だったのは私たちもだから気持ちは分かるけどね」

「そ、そうですよっ。だから私が大袈裟だという訳じゃなくて――」

「盛り上ってるレフィーヤは置いておいて。それで、あのお爺さんどうなったの?」

「それは……」

 

 妙な弁明を延べるレフィーヤの上に言葉を被せたティオナから老人の処遇について尋ねられ、アイズはどう言うべきか言葉に窮してしまい視線を泳がせた。

 

 ダンジョンの存在を知らなかっただとか、訳も解らず号泣し始めたとか、ティオナたちに言うべきなのだろうか?

 

「……目を覚まして、ロキたちが話し合うことになって、今も話してると思う」

「ふーん、そっかぁ」

「しっかし本当に何者なのかしらねあの爺さん。ミノタウロスを苦労せず倒せるってことは、低く見積もってもレベル3以上――名が知れててもいいはずだけど」

「た、確かに。私と同じか、それ以上の実力を持つ冒険者ってことですもんね。誰も知らないっていうのも腑に落ちないっていうか……」

「見た目もなーんかちぐはぐなのよね……あんなゴツい鎧を着る冒険者が頭巾なんて被る? 普通」

 

 当たり障りのないようにアイズは答えると、アマゾネスの少女は然程関心がないのか両手を頭の後ろに回し、逆に姉のティオネとレフィーヤが疑問点を上げていく。

 

「言われてみると、そうですね……」

「ねー、赤い頭巾なんて被ってれば目立つと思うけど。見かけた記憶がないもん。けど、そんなことより!」

 

 ティオナはずいっ、と身を乗り出して。

 

「あのお爺さんのことは一回忘れてさ! お風呂行こ、アイズ!」

「え?」

 

 楽しそうなその笑顔に、アイズは目を瞬かせた。

 

「待っててくれたの?」

「もっちろん! アイズを放って先に入る訳ないじゃん!」

「他の子たちには先に入ってもらうよう言ってあるから安心しなさい。それに、ミノタウロスの件もあったし、湯船に浸かって疲れを取った方が良いに決まってるわ」

「そ、そうです! あんな怖そうな人のことなんか忘れて、行きましょうよアイズさん!」

 

 ニカッと笑うティオナに背中を押され、左右から覗き込んでくるティオネとレフィーヤにも促されて、アイズは小さく微笑んだ。

 

「……うん、ありがとう」

「遠征で溜まった疲れも汚れも綺麗さっぱり落として、真っ白けっけのピカピカになるぞー!」

「何子供みたいなこと言ってんのよ……」

「アイズさんとお風呂……むふふ」

 

 幼稚な発言をかました妹に呆れた声を出すティオネと、何故か頬を緩ませるレフィーヤの独り言を耳にしつつ。

 

「真っ白……」

 

 ティオナの発したその言葉に、アイズはダンジョンで出会ったもう一人の冒険者のことを思い出した。

 

(あの子……)

 

 穢れを知らない真っ白な髪。純粋な輝きを湛えた深紅(ルベライト)の瞳。

 

 赤頭巾の老人のことで頭が一杯で忘れてしまっていた。兎のような幼さの残る少年の姿を脳裏に浮かべると、不思議と穏やかな思いでアイズの胸が満たされた。

 

(そういえば……)

 

 少年のことを思い出してはたと気付く。そういえばあの時。ミノタウロスを一度退けた後、老人はあの少年を見つめていたような……。

 

「知り合い、だったのかな?」

 

 ティオナたちと共に浴室へ向かう傍ら。そんな疑問がふと浮かび、アイズは一人首を傾げた。

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