日も傾き、オラリオの街路に魔石灯の明かりが灯る。
それはダンジョンから帰還した冒険者が、仕事を終えた労働者がその日の疲れを癒すため夜のオラリオへと繰り出す合図でもあった。
「皆ダンジョン遠征お疲れさん! 今日は宴やぁ、飲むでぇ!」
『うおおおおおおおおおおおおおおお!!』
【ロキ・ファミリア】もそのご多分に漏れず、西のメインストリートにある『豊穣の女主人』という酒場で、遠征の帰還を祝う酒宴を催すのだった。
「よーし、今日は食べるぞー!」
「二週間近もダンジョンにいたからね、私も少し気合い入れようかしら!」
「けどここの料理は美味しくて、つい食べ過ぎちゃうんですよねぇ」
「特に遠征の後だとね――あむ」
「そういえば前から気になってたんですけど、ティオナさんたちはどうやって体型を維持してるんですか? すごい食べてるイメージがあるんですけど」
「え? 特に何もしてないわよ」
「え゙」
「そんなこと考えたことないかも。けどなんでそんなこと聞くのさ、レフィーヤ」
「……アマゾネスって、ずるい」
「「?」」
「リヴェリア様、宜しいでしょうか」
「アリシアか。どうした」
「ギルドから戻って来てからラウルの様子が少し……何かあったのでしょうか?」
「ああ……そのことか。ラウルのことはしばらくそっとしておいてやれ」
「ですが……」
「アリシア。男には、何も聞かないで欲しい時があるものさ」
「は、はぁ……」
「ちょっとラウル、全然飲んでないじゃない。せっかくの宴会なのにどうしたのよ」
「いや、良いっす。自分がぱっとしないことなんて、始めっから分かってるんで……」
「?」
「……?」
「どうした、何か気になるものでもあったか」
「視線が――ううん、何でもない。ガレス、この串焼き料理は?」
「おう、これか。これは『うな肝』じゃよ」
「『うな肝』?」
「鰻とかいう魚の肝を使ってるらしくてのう。だから『うな肝』とそのまんま呼ぶそうじゃ」
「え、肝って内臓のことじゃ……」
「うむ。確かに、独特の苦味があるが……中々どうして、火酒のつまみにはぴったりじゃあ。椿のやつも、たまには為になることを言いよるわい。どうじゃ、試しに一本?」
「……はむ。っ!」
「ははは! その様子ではアイズにはまだ早かったみたいじゃのう! 見た目はすっかり大きくなりおったが、味覚の方はまだまだお子様じゃな」
「……っ。も、う、子供じゃないもん」
「がっはっはっはっ! 本当の大人は自分が子供だなどと否定せんわ!」
「…………むぅ」
「おおっ、いやすまんすまん! そうむくれるな。ほれ、果実水じゃ! これを飲んで口直しせい」
「そう言えばフィン、『カドモスの泉』でアイズたちがドロップアイテム手に入れたよな」
「ああ、確か『カドモスの翼膜』だったかな。ティオネに預けて【ディアンケヒト・ファミリア】で買い取ってもらったよ……レフィーヤの話じゃ、相当に吹っ掛けてくれたみたいでね」
「吹っ掛けた、って幾らで?」
「……一五〇〇万ヴァリス。実際の買取り金額が一二〇〇万」
「……マジかよ。あの馬鹿ゾネス、限度ってもんがあんだろうが」
「はは……次の遠征で彼らから無茶なクエストを依頼されなきゃいいんだけど」
「ふぁたしはふぁんほーのふぁめにほうはくではいほってほはったふぁけでふ!」
「うるせー! 何言ってっか分からね――って、かっ込み過ぎだ馬鹿リスかてめえは!」
「……ティオネ? 口に食べ物を含んだ状態でお喋りするのは、立派な
満員の店内。そのスペースの一角を占める【ロキ・ファミリア】。丁度居合わせた冒険者と思われる他の客たちの畏怖の念がこもった視線を気にもかけず、団員たちは思い思いに飲み、食らい、語り合う。
「んー、おらんなぁ」
そんな子供たちの間を、ロキはグラス片手にはすり抜けながらキョロキョロと辺りを見渡していた。
「あの頭巾とでっかい図体してて見つけられないってどういうこっちゃねん――って」
己の探知能力の低さについぼやいてしまうロキだったが、不意に店の一角で目が止まる。
「おお、ゲールみっけ!」
赤頭巾の老人の姿を認めて、ニンマリと笑み浮かべながら声をかけた。
各々が酒を飲み、料理を食し、面白おかしく騒いでいる中、ゲールは壁際の席に着いていた。卓には他の団員の姿はなく、一人静かに料理を堪能……堪能? している姿は明らかに浮いている。
ゲールの隣の椅子に座り、大きな背中をバンバンと叩きながら、ロキはワインが並々と満ちていたグラスを一気に呷る。叩いた手が痛い。ジンジンする。
「――ぷはぁ。こーんな隅っこで一人寂しく何やっとんねん。酒は飲んでへんみたいやし」
「……」
「あーこれ? ウチにとって酒は水と同じや、このくらいまだ序の口ってとこやな」
ゲールの手元にある杯が一切手を付けられていないことをロキは指摘すると、どこか訝しげな様子だったゲールの意図を察して、ロキは手を振ってゲールの疑念を払拭する。
「別に遠慮せんでええって。飲みたいもの飲まんともったいないで!」
「儂は酒は飲まん」
「あら、自分下戸なん?」
「飲んでも、酔えんのでな」
「ほーん、そうなんか……まあええわ。そんなことより、ほれ!」
低い嗄れた声へ耳を傾けつつ、ロキはほぼ空の状態のグラスをゲールの鼻先へと突き出した。
「……?」
「かーんぱい」
「……儂の話を聞いてなかったのか」
「ん? 聞いとったよ」
「飲まんと言ったはずだが」
「自分が飲まないって決めとるだけで、飲めるんやろ?」
「……」
「ウチ、ゲールと乾杯したいんやけどなー。一緒に飲みたいんやけどなー」
あまり乗り気でないゲールを無視して、ロキはグラスを突き出し続ける。
「主神様が言っとるんだから、なぁー」
「……」
「んっ」
ゲールは灰色の長髭の下で小さく唸り、少しの間睨めつけるようにロキを見据えていたが。
――カチン。
「……うんうん! 殊勝な心掛けやで、ゲール!」
グラスに己の酒杯を軽く重ねた後、ちょびっとだけ口をつけた老人の姿を見届けて、ロキは満足そうに頷き、グラスに残っていたワインを舐めるように飲み干した。
「ええ冒険者はええ酒飲みになるもんなんや、よう覚えとき。しっかし、自分、食堂で紹介した時と違って妙に影薄ない? ウチの気のせいなんかな? ……ぷはっ。ほんで、さっきから何食べとんのや」
卓に置いてあった手付かずのワインのボトルを空け、直に喉へと流し込みつつ、ロキはゲールの目の前の器を覗き込んだ。
「……サラダて! 折角の宴会でサラダて! 女子か自分!」
色とりどりの野菜の盛り合わせが視界に入り、ちょっと言葉に詰まってしまったロキは戸惑いを誤魔化すように再度ゲールの背中を叩く。やっぱり手が痛い。
「んな健康的なもん突っついとらんで肉食わな、肉!」
「……肉は、あまり口にしたくない」
「んん? なんや、自分
「…………」
「ほんまに自分は……まあええか」
質問には答えず、無言でフォークに突き刺したサラダを黙々と口元へと運ぶゲールにロキはなんとも言えない笑みを浮かべつつ、立ち上がる。
「せっかくの酒の席や。自分から壁なんか作らんで、ちょっとは他の子と言葉交わして、仲良くなるきっかけを作っとき」
ゲールを一人残し、ロキは朱色の瞳を覗かせながら振り返った。
「ゲールももうウチの子――【ロキ・ファミリア】の仲間なんやから」
「あれ? 団長、どこに行くんです?」
「ああ、ちょっとゲールのところに。新しい団員に目を配るのも先達の務めだからね。あと少し酔いを醒ましに……」
「もう~、ゲールなんか放っておいて私とお酒を飲みましょうよぉ。お注ぎしますから~」
「いや、けどティオネ。まだ入って――」
「そんな遠慮せずに。ささっ、どうぞどうぞ!」
「ティオネ。フィンもう顔真っ赤だから少し抑えてあげなよ」
「なに言ってんのよこのバカティオナ! 私の団長がこの位で根をあげる訳ないでしょ! 団長には前後不覚になるまで飲んでもらって、介抱してあげてそれで……ぐへへ」
「うっわ……本音漏れてるよ」
「ははは……」
「どうせ自分はっ、ぱっとしない男っすよぉ~!」
「うん、そうね」
「どこまでいっても中途半端なのは、自分が一番分かってるのに……!」
「うんうん、そうよね」
「自分はっ、じぶんわぁっ、そこら辺に茂ってる苔玉にでもなりたいっすっ!」
「あー、チョイスは謎だけど良いと思うわようん。本当」
「……って、さっきから全然フォローになってないっすよアキ!?」
「あなたさっきから同じことしか言ってないんだもの。少しは聞かされてるこっちの身にもなってよ」
「うぅぅ……こ、こんなことなら、冷たい綺麗な水辺にひっそりと生える、白い花を咲かせる草にでもなった方がマシっす~! うわぁぁ!」
「だからなんでそんなよく分からない……あーもうっ、分かった分かった。ほら、水。飲んで少しは酔い醒ましなさい」
「うぅぅ……!」
「アキ、大丈夫?」
「私は別に、けどラウルが飲み過ぎで。元々そんなに強くもないのに」
「ラウルはどうしたの?」
「えーと、『後輩の威厳が強すぎて辛い』ですって」
「?」
「……その顔、ラウルには見せないでね、アイズ」
「……?」
「ベ、ベートさんっ」
「あぁっ? なんだぁ?」
「あの、その、私……果実酒のおかわりをしましてっ、だから、その……か、乾杯しましょうっ!」
「はぁ? 別にいいけどよ、散々やってるじゃねえか」
「い、いいんですっ。私は、今、ベートさんと乾杯したいんですからっ!」
「お、おう……」
「ナルヴィさん。リーネ、なんだか積極的じゃないですか?」
「言われてみれば確かに。まさかっ、ベートさんのことが……いやそんなまさか」
「まさか、読み書きができないことを失念しているとは思わなかったぞ」
「……今日、初めてこの街を見て回ったとき、看板やら何やらの見馴れぬ文字列は目に留まってはいたが」
「まあ我々もそこまでは気が回っていなかったのは事実だ。お前だけの責任ではない、あまり気にするな。それにいきなり馴れない環境に放り込まれては、細かい点まで確認する余裕もないだろう。あるいはこの街の活気に圧倒されたか……ふふ」
「何が可笑しい」
「いや、すまない。最初の印象じゃもっと無機質な奴かと思っていたんだが……ちゃんと人間らしさがあるみたいで安心しただけさ、ゲール」
「…………」
「そう睨むな。事情が事情だ、仕方がない。しかし
「……儂は、お前の提案を拒否出来る立場にない」
「普通に了承できないのか、お前は。随分と回りくどい言い方をする……」
「…………」
「どしたのリュー? おっかない顔して」
「……【
「ああ、赤頭巾のお爺さん。それがどうかした?」
「入店時、彼は大剣を背負ったままでしたので、武器を所持しての入店は認めていないことを伝えました」
「なるほどねー。で、お爺さんは得物をどうしたの」
「分かりません」
「へ」
「いつの間にか、彼の背中から消えていた。一瞬前まであったはずの大剣が……まるで霧のごとく」
「……なんだそりゃ」
「リュー、ルノア、サボってニャいで働くのニャ!」
「そーだニャ! ただでさえシルが白髪頭とイチャイチャしてて人手が足りてニャいのに、おミャーらにまでサボられたらミャーたちが過労死するのニャ!」
「おうい! すまんがドワーフの火酒をもらえるか!」
「はーいただいまー! リュー、やっぱそれ見間違いだったんだって?」
「いや、彼は確かに……むう、謎です」
遠征を終えた達成感と安堵、店内の明るい雰囲気と何より酒精からくる高揚感により、愉快な混沌は増し、凝縮していく。
「麦酒お待たせしましたー!」
そこに若葉色の制服を纏った従業員たち――全員が可憐な少女――が追加の酒を運び込まれることで拍車をかかる。
「よっしゃあ! ここいらで飲み比べとしゃれこむでぇ!」
そんな折顔を真っ赤にしたロキが突然立ち上がると声を張り上げた。
「勝者はっ、リヴェリアのおっぱいを揉める権利ゲットやぁ!」
ロキへ怪訝な視線を送る団員たちだったが、主神が続けた言葉を耳にした瞬間、一同の目の色が変わる。
「まっウチに勝てる子なんておらせんのやけどなー! リヴェリアのおっぱいはウチのもんやでぇだっはははは!」
「ほおう、大きく出たのう、ロキ」
「お、俺もやります!」
「わたしもっ!」
「あ、じゃあ僕も」
「団長!?」
「リ、リヴェリア様……」
「放っておけ……」
一人を除き、勝利の報酬に釣られ続々と名乗り挙げる
「た・だ・し! 最初に脱落した子には罰ゲームとして――ゲールの赤頭巾を剥いでもらうでぇーーっっ!!」
『え、ええええ!?』
「なんやぁっ! 文句あるんかぁ!」
「い、いやだって……」
「新入りイビりみたいになるし……」
「プライバシーの侵害……」
「単純に怖い……」
「伸ばした腕がへし折られそう……」
「素顔を見たが最後呪われそうで……」
「ぬぅ……っ」
予想外の反発にロキは憤慨するが、チラチラと新入りへ視線を送る団員たちからこもごもと反論が述べられ、言葉に窮してしまう。
「や、やかましい! これは主神命令や、文句垂れる暇があったら飲めぇ! 冒険者に二言はないやろがぁっ! ってことではい始めぇ!!」
が、主神という立場を悪用し、ロキはゴリ押しで罰ゲームありの飲み比べを強行した。
「お、おいどうすんだよ……」
「こうなりゃヤケよ、飲むっきゃないでしょ!」
「最初に潰れさえしなければ、希望はある!」
「よ、よしきたっ!」
勝負に勝ったときの“
「儂もドワーフの端くれ。酒の席での勝負で負けれはせんわあ!」
「
天国か地獄か。栄光を掴むのも泣きを見るのもたった一人という、激闘の火蓋がここに切って落とされた。
「――で、お前はあれを見てどう思う。ゲール」
「儂はお前たちの玩具ではない」
「そうか、気が合うな。全くもって同意見だ」
そんな狂乱の中心から少し離れた卓では、リヴェリアとゲールが酒杯を一気に空にしていく主神と団員たちを冷めた視線を送りつつ、ぼんやりと言葉を交わしていた。
「うしゃしゃしゃしゃ! うえーい、ゲール楽しんどるかーっ」
余興も終わり、少しばかり落ち着いた宴会の雰囲気の【ロキ・ファミリア】。
「まーったく、自分は目ぇ離すとすーぐ一人になりよる! ウチの言い付けを守らん子はこうやで! ぐりぐりーっ」
「……お前たちは、いつもこんな馬鹿騒ぎをしているのか」
逃げられないようガッチリと老人の首へ腕を回してちょっかいをかけるロキだったが、当のゲールはワインのボトルを髭モジャの顔へ押し付けられていることには一切反応せず、赤頭巾で覆われた頭をぐるりと巡らせる。
「あん? そらそうやろ! ウチらは楽しむために飲んで、飲むために楽しんどるんや。飲まな損々騒がな損、ちゅうやつやな」
「もう、むり……うぷっ」
「ヤバ……はきそ」
「お客さーん。やるならトイレに行ってやってくださいニャー」
「くっそぉ……ミア母ちゃんの雷が落ちひんかったら、リヴェリアのおっぱいを自由に出来てたというんに……っ!」
「自分で定めた
「くぅ~っ、なぁんでこんな可愛さの欠片もない赤頭巾ちゃんの頭巾を剥ごうとしてしまったんや、ウチ!」
目頭を押さえて涙を堪えるロキだったが、老人の歯に衣着せぬ突っ込みに違う意味で泣きたくなった。
「あのまんまクルスにやらせておけば、こんなことにはっ!」
「酔いで足元が
「へんっ、よく言うわ! 自分かてクルスの前にわざわざ出張ってきたクセに」
ロキは口を曲げ、拗ねたようにボトルを呷りながら先程の行動をなじる。
最初にギブアップした
見てる側からすればこれ以上ない見世物であったが、
「ウチを投げ飛ばすなんてオチまでつけて、なーに『儂はお前らの遊びに付き合う気はない』みたいな顔してんねん。意外とノリノリやったないかい」
「あれはお前への義理立てじゃ。それ以上の意味はない」
恨み節を吐いていたロキだったが、返ってきた言葉にピタリと酒瓶を傾ける手が止まる。
「義理――なんやて」
「義理立てと、儂はそう言った」
ロキはまじまじとゲールを見つめるが、本人は素知らぬ顔でサラダをつついている。
「お前の『
「身に覚えはないが」と一旦言葉を区切り、様々な角度から眺めていたレタスを頬張るゲール。
「そんな儂を少しでも馴染むようにと、余興に付き合わせた。それに応えてやらねば、お前の立つ瀬もない。それに恩を仇で返すような真似はしたくなかった、それだけのことじゃ」
「……」
「……なあゲール」
暫しの沈黙を挟み、ロキは手にしていたボトルをそっと卓へと置いて呟いた。先程までのはっちゃけた空気は鳴りを潜め、酔いの醒め切った朱色の瞳を覗かせながら言葉を続ける。
「自分はこれで本当に良かったん?」
「何のことだ」
「【
そう言ってロキは組んだ両手を卓の上に乗せ、赤頭巾の奥を見透かすように目を細めた。
「それを提案したのはお前だ」
「うん、そうやな。ゲールの話を聞いたとき、すごく寂しそうに見えたから放っておけんかったんや」
「……」
「けど自分泣いてたやん。『お嬢様』って叫びながら」
言葉を返すこともせず、ゲールは無言のまま俯いている。沈黙を保つ老人の様子を確認してからロキは続けた。
「自分、その『お嬢様』って子と何か約束してたんやないの? それも、とっても大事な約束を――“使命”って呼び変えてもええくらいの」
少し身を乗り出してロキはゲールの顔を覗き込む。
「ゲール、本当は自分も帰りたいんやろ? 約束を守るために。それに、きっと『お嬢様』もゲールの帰りを待ってる。その子は、ゲールにとって大切な子なんやろう? 時間は掛かるかもしれんけど、戻る方法を探そう。ウチもフィンたちも手伝うから」
そこでロキは言葉を切り、神妙な表情を浮かべて答えを待つ。
赤い布切れに覆われた頭をゆっくりと巡らせ、周囲を見渡す素振りを見せる。
「――お前は勘違いをしている」
長い沈黙を挟んだ後、しかしゲールの口から溢れたのは皮肉めいた笑い声だった。
「勘違い、ってどういう意味――」
「ロキ。お前は聞いたことがあるのか? 儂のような
「それは……聞いたことないけども」
「だろう。手掛かりなど、始めからないのだ。帰る手段など存在しないのだから当然じゃ」
「んな……だからって決めつけるのは――っ」
「そもそも、儂には戻る場所などはない」
「儂の役目は
その言葉に、ロキは周囲から音が消えた錯覚に陥った。
「終わってる……?」
言葉を繰り返し、話は終わりだと言わんばかりにふたたびサラダに手をつけ始めた目の前の老人を凝視する。
「ゲール、それってどない意味――」
「そうだアイズ、あのトマト野郎の話を聞かせてやれよ!」
ロキがその真意を問い詰めようとしたとき、どこからかそんな声が上がった。
「トマト野郎?」
「なによそれ?」
「俺たちが追ってたミノタウロスで、5階層まで逃げた奴がいただろ! そんときに居合わせた
ベートの話にロキも釣られてその話へ耳を傾ける。内容からベートとアイズがゲールに遭遇する直前、ミノタウロスに追われていた少年のことだと察した。
「……そういえば自分、少年を助けてたんやったな」
「……何度も言うが、儂の記憶にはないぞ」
「まあ、それも知っとるけど……当事者のゲールからはこの件について何か言うことはないの?」
ゲールの話もそれとなく上がりつつ、アイズに助けられたと勘違いした
先程の話のことは一切蒸し返さなかったロキの質問に、少し考えるようにゲールは長い灰色の髭を撫でた。
「……こういうことはの、その小僧にとっては笑われている内が花じゃ」
「? なんでよ」
「死んでいたら、話題にするのを
「…………」
「誰も語らず、誰にも記憶されず、忘れ去られるよりは、笑い者に吊し上げられた方が、幾分もましというものじゃ」
何となしに告げたゲールの答えに対し、ロキは戸惑うことしかできずにいると。
「その減らず口を閉じろ。少年に謝罪する必要はあれど我々には酒の肴にする権利はない」
「おーおー、ご高承なことで。けどよ、テメエの身もロクに守れねえ雑魚を雑魚と呼んで何が悪い」
目を離していた隙に、何やらリヴェリアとベートが火花を散らしている。二人のやり取りから察するに、どうやらベートが少年に対する侮蔑の言葉を口にしたようである。
「二人ともその辺で止めぇ。これ以上は酒が不味くなるわ」
見兼ねたロキは声を張って仲裁に入るが、ベートは矛を納めようとはせず、むしろ
「アイズはどう思うよ? あんな震えてることしかできねえ腰抜けを。あれが同じ冒険者を名乗ってるんだぜ?」
「……あの状況じゃ、しょうがなかったと思います」
「なんだよ、いい子ちゃんぶっちまって……じゃあ質問を変えるが、ならあのガキと俺。
ベートのその下世話な問いに、団員たちの間でざわつきが起きる。
「何言っとんねんベート……」
「なんと下品な奴じゃ」
ベートの発言にロキは呆気に取られるが、となりで事の成り行きを眺めていたゲールも流石に呆れたように声を漏らした。
「これだから犬畜生は好かん」
直後ゲールの発したドギツい非難の言葉に、ロキは顔を引き攣らせてしまう。
「い、犬て。ベートは
「狼? そうか、狼か」
ロキがベートの名誉のために訂正すると、ゲールは思案するように顎に手を当てる。
「儂の知っている狼は誇り高く、忠義に厚い高潔な存在だと思っていたが……この世か――」
「ベルさん!?」
突然、少女の叫びが上がりゲールの言葉を遮った。
直後、その叫びに遅れて、一人の少年が店内を横切って店の外へ飛び出していった。
「何だあ?」
「まさか食い逃げ?」
若葉色の制服を纏った少女が店から出ていく後ろ姿を見送りながら、【ロキ・ファミリア】の面々は状況が飲み込めずにいた。
「ミア母ちゃんの店で食い逃げなんて、なんちゅう命知らずな……って、ゲール?」
呆気に取られていたロキは、いつの間にか立ち上がっていた老人に気付く。
「どうしたん?」
「…………」
「あ、ちょい――」
質問には答えず、少しの間大柄な体に似合わぬ俊敏な動きで店の出入り口へと突き進んでいった。
「ったく。どないしたっちゅうねん……」
いまいち読めない老人の行動に着いていけず、ロキは困ったように頭を掻き、腰を上げてゲールの後を追った。
店員の少女と恐らくあの白い少年が走り去っていった方角を見つめたまま、アイズは立ち尽くしていた。
(きっとあの子は、ダンジョンに行ったんだ……)
さっきの話を全部聞いていたのだろう。
不意にガチャリ、と金属の擦れ合う音が店側から聞こえてくる。
「ゲール、さん?」
視線を向けてみれば、あの巨漢の老人が店から出てくるところだった。
「…………」
呼び掛けには答えず、赤頭巾を被った頭を巡らして周囲を見渡している。
「……」
「……」
昨日の件もありこうして二人きりになると、何を話していいのか分からず、アイズは気まずさから手を後ろに回した。
「……さっきの」
「……っ。は、はい」
「さっきの小僧はどうした」
いきなり声をかけられ、アイズはビクリと肩を震わせてしまう。
「……ダンジョンに向かったと、思います」
「……そうか」
質問の内容も相まってぎこちなく答えてしまうが、ゲールは気にした風もなく一瞥をくれただけだった。
「あの……いいですか?」
「何だ」
「その、ゲールさんは、あの子と会ったことがあるんですか?」
おずおずと、そんな疑問が口からついて出る。静寂に耐えきれなくなったのもあったが、ゲールがミノタウロスから助け出した時、少年のことを見つめていたのを思い出したからだ。
ロキの紹介ではゲールは昨日オラリオに来たばかりだ。あの少年と面識があるとは思えないが……もしかしたら、オラリオの外で出会ったことがあるのかもしれない。
自分でもどうして気に掛かっているのか分からないが……アイズはゲールの答えを待った。
老人は既に少年の姿のない、魔石灯の明かりと喧騒に満ちた街路の先を見つめ続け。
「――――いや、知らん」
ゆっくりと
「……そうですか」
「おーいゲール、何やっとんねん早く戻ってきーや」
「ロキ?」
「あれ、アイズたんもおったの?」
ゲールの答えを知り、何故か落胆している自分がいることに気付きつつ老人を呼ばう声に振り向くと、丁度ロキが店から出てくるところであった。
「二人して外におらんで早く中戻ろうや。みんなも待ってる――」
「ロキ。儂は先に帰らせてもらう」
「え?」
「は?」
呼び戻そうとしていたロキの言葉を遮ったのは、ゲールの予想外の言葉だった。
「帰る、ってなんでやねん。まだ宴会は途中……」
「儂は十分堪能させてもらった。お前たちの騒ぐ様を目にしているだけで……こっちまで愉快な気分になった位にはの」
「ほんなら尚更――っ」
「だからじゃよ」
脈絡もなく告げられたロキは困惑を滲ませながらも引き留めようとするが、足を止め、向き直ったゲールは自嘲の色のこもった声音で言った。
「儂にとって、この空気は――――人の営みはあまりに暖かすぎる」
その言葉を最後に、踵を返して少年と同じ方角へと歩き去ってしまう。
「……」
「……」
アイズもロキも声を発することなく、遠ざかる老人の背中を黙って見送ることしかできない。
ちらりと脇へ視線をやると、そこには悲しそうな表情を浮かべるロキの姿があった。
「……戻ろうか、アイズたん」
「……はい」
しばしの間を挟んで、ロキが口を開く。
交わす言葉も少なく、アイズは素直にロキに手を引かれて店内へと戻る。
戻りながら、アイズはあの少年のことを考えてしまう。後を追って、声を掛ければ良かったんじゃないか……けど、自分にはそれが出来なかった。
ふと視線を前へ向け、ロキの背中をじっと見つめると……ロキもゲールに対し自分と同じ思いを抱いているような、そんな気がするのだった。