境界線上の守り刀   作:陽紅

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十六章 大海に立つは 『 』

 

 

 

 英国近海……現アルマダ海戦の現場となっている方角を見ていた目が、スッと、わずかに細められる。

 絶え間のない砲音は散発的に、しかし密度を上げることでより苛烈になり、戦場が最終局面に入っていることを否応なく伝えてきていた。

 

 

 目を細めたまま、エリザベスが嘆息を一つ零す。

 

 

「ふん。勘付かれた、か……流石と言っておくべきか? これは」

 

「ててて、Tes. どどどどうやらあああ相手の目か耳かが近くにひ、潜んでいたものと思われます。……しし、しかし女王陛下。今回ばかりはグレイス・オマリの行動、いっ、些か独断専行が過ぎるのでは?」

 

「なに――奴は海賊だ。自由こそ尊ぶのであろうよ……それに先行した行動で我が英国に不益はないのだ。一々目くじらを立てるほど私は狭量ではないぞ、ダッドリー。

 ……だから、ダッドリー。貴様も、あまり思ってもいないことを口にするな」

 

 

 気に入らない。その一言で堂々と命令無視をする海賊女王のこれまでのアレコレを思い出し、妖精女王は不敵に笑う。

 

 ……義理に厚く、人情に脆い。そして世話焼きでもある……そんなオマリだからこそ、英国……この妖精女王の国でありながら、『女王』の名を冠することを許され、そしてダッドリーにも認められているのだ。

 だが、副長という王を諌めなければならない立場にあるダッドリーは、言わねばならない。エリザベスはそれをしっかりと知っていた。それゆえに、頬を緩めた。

 

 

 だが、それも……ほんの数秒のこと。

 

 

 先ほど英国港より出航した英国艦隊は二軍。率いるはドレイクと、立場的な副官としてジョンソンだ。艦隊とはいうが、規模はさほど大きくはない。だが、エリザベスの急な出撃命令に彼らはよく応じたほうだろう。

 

 

「『サン・マルティンの三艦の内、二艦を引き離した』……この程度では、助けてやった、などと……とてもではないが言えんな」

 

 

 三征西班牙の対応が早すぎる。――エリザベスはその事実だけを言葉にせずに飲み込んだ。

 英国艦隊の出航から、わずか数分。三征西班牙はサン・マルティン二艦をアルマダ海戦域から離脱させ、そのまま英国艦隊を牽制するような位置に移動させていた。

 

 ……時間をかければ、いかに最新鋭のステルス艦と言えどドレイクは突破できるだろう。だが、少しでは済まない被害を被る。その上、そもそもその時間が今は無い。

 

 

 

「……ちょ、超祝福艦隊のこの動き……ややや、やはり相手の狙いは」

 

「Tes. 武蔵を海戦域から追い出すことで、『アルマダ海戦そのもの』を無かったことにする気だろう。その上で、現在出ている我が艦隊とアルマダ海戦をやり直す――。

 随分と強か……いや、これはもはや強欲と言っていいほどだぞ」

 

 

 エリザベスの言う通りになれば、三征西班牙は強い発言権を得るだろう。各国との競争の中で、確実に数歩は先を進む。

 無かったことになるとは言え、三河で強国二国を相手にあれほどの戦果を出した武蔵を下し、その上連戦で、英国との海戦――戦力差から英国の敗戦は濃厚だろう。

 

 アルマダでの敗戦から衰退の一途を辿る、という歴史再現があるが……三征西班牙がこの海戦で得る連勝という戦果で十分に帳消しにできる。衰退を装って、公然と国力を温存できるのだ。

 

 

 

「……ふん。十分に獲れる可能性のある皮算用だから、笑うに笑えん」

 

 

 今の高い防衛力を誇る武蔵を墜とすことは至難を極めるだろう。

 

 だが、求める結果を変えればいくらでも手はある。一定の空域から追い出すだけならば、旋回能力が高いサン・マルティン一艦と超祝福艦隊だけで十分事足りるのである。

 縦に長く連なる武蔵の構造上、前に極端に強く左右にもある程度対応できるが、後ろから攻められれば極端に弱い。中枢を担う中央後方艦『武蔵野』がむき出しなのだ。一度後ろを取られてしまえば、艦としての攻撃力が弱い今の武蔵は前へと逃げるしかない。

 

 続く英国戦でも、最初から前田利家という外部戦力を雇用しようとしていたエリザベスたちだ。およそ半数まで減っているが、逆に言えば半数も航空武神団を温存している三征西班牙に対し、そもそも英国は武神戦力を持っていない。旗機たる白狐が居ないとは言え――劣勢は確実だろう。

 

 ……止水の独断で王賜剣が相当強化されたが、威力が威力だけにぶっつけ本番で使うのは少々博打が過ぎる。

 

 

 

―*―

 

 

女 王『おい、ドレイク&ジョンソン。……貴兄ら、ちょっと二階級特進してみないか?』

 

半 狼『……盾符の数字が二つ上がるだけってオチじゃねぇのかコレ。俺10だから二つ上がると立場的にヤバイぜ?』

 

薬詩人『れ、lady! 今日もジョークのキレが素晴らすぃ! さあ、早く次の言葉を! Coolな笑みで『冗談だ』の一言をplease!

 ……Hey. ハワード、その救命胴着。私の分はあるかね?』

 

地味商『……この高さから海面に落ちたら救命胴着の有無関係ない気がしますが、どうぞ』

 

 

御 鞠『っていうかこれさ、どっかの女王が武蔵の一番の戦力引っこ抜いたが故の危機じゃね?』

 

印鑑子『うっわ言っちゃった。言っちゃった! みんな黙ってたのに!』

 

 

―*―

 

 

「くそ。オマリめ……帰ってきたら独断専行に託けて説教してやる……!」

 

 

 

「……なあ、アイツ、ほんの数秒で狭量になってるんだけど」

 

「けっこういつものことなのー」

 

 

 

 手の平返し&強権乱用しようとしているエリザベスをどこか呆れたような半眼で見る、『引っこ抜かれた武蔵一番の戦力』である止水。隣にいるセシルがいつものことだとノホホンとしながら断言している。

 

 それを聞いて止水は、英国『も』大変だなーと、どこかずれた感想を抱いて――。

 

 

 ……再び、遠方に在る武蔵へと眼を向けた。

 

 

 所々から黒煙を昇らせる武蔵のすぐ後ろには、セグンド達が乗っているだろうサン・マルティン一番艦が迫っている。武蔵の展開する防御障壁は砲弾などには強いが、艦そのものの体当たりなどの攻撃には何の効果も無い。……接舷された上でゼロ距離砲撃でもされたら、それこそひとたまりもないだろう。

 

 

「ったく、エルザ。ちょっとは落ち着けよ」

 

「これが落ち着いていられるか! あそこには姉さっ……いや、まあ……だ、大体何で貴様はそんなに落ち着いているのだ止水! 自国の危機なのだぞ!?」

 

 

 ……だからこそ、エリザベス(・・・・・)は気を尖らせている。武蔵が敗退すれば、次は英国だ。

 

 実質的には敗北し、しかし歴史再現で勝ったとされる。かつての三征西班牙と同じだ――プライドの高いエリザベスには耐え難いものだろう。余談だが……ポロリと溢れた本音、姉であるメアリへの心配に臣下一同がニヨリと笑ったが、続く女王のギロリという睨みにポーカーフェイスを発動していた。

 

 

 

「(その『自国の危機』に立ち会えなくなった主な原因ってのが、お前なんだけどなぁ……)

 ――いや、そうなんだけどさ。自分のことだけど、俺自身不思議なんだよ。……もう少し、焦ったり慌てたりするかなぁって思ってたんだけど……」

 

 

 左手を、胸の中心に当てる。心に形も場所もないが、己のそれを、探るように。

 

 不安がない――わけではない。今でも友の身を案じているし、無事を祈っている。アルマダ不参加が決まってからずっと、共に戦えないことに悔しさに似た感情が胸の内で燻ってすらいる。

 

 

 

 ……だが。

 

 

 

「俺が今、ここで皆のところに行くのは……なんか、こう……違うよな?」

 

 

 

 ――やっぱり上手く言葉にできないなぁ、と、改めて止水は自分の口下手さに苦笑する。

 

 不安だが、心配だが……それ以上に、揺らがぬ何かがあるのだと伝えたい。伝えたいが、どんな言葉を並べたらいいのかがわからない。

 

 

 十年。止水は、武蔵を守り続けてきた。傷と痛みを奪い、食い縛る歯と顰める顔を隠し……ホライゾン()が愛し、大切に思っていた国を守ってきた。

 

 その十年。彼のそばには、喪失の後悔を抱え……しかし笑顔を絶やすこと無く、ホライゾン(惚れた女)が帰る場所である皆の中心に在り続けた、難儀で馬鹿な男がいた。

 そしてその男の周りに集まった皆というのが、これまた難儀な連中ばかりで……『守られているだけなんてまっぴら御免だ!』と、各々が色々な方向に尖り出したのだ。

 

 

(三河の時に一人、いや……トーリと一緒にだったから、二人でか? 二人で先走って、皆に鎖蓑虫にされたばっかだもんなぁ)

 

 

 ……ここで止水が武蔵へ戻れば、劣勢を覆すことが十分にできるだろう。王賜剣の強化に大量の流体を消費したが、契約した刀たちから常時供給されている流体のおかげで戦闘は十分可能だ。三河の最後でやった変刀姿勢・戦型の『鈍』を……三河以上の威力で行使できる程度には回復している。

 

 しかし、それを皆は望まないだろう。皆はそれを絶対に……望まない。

 

 

 

 ……だから。

 

 

 

「安心しろよ。――皆なら、やってくれるさ」

 

「ふん、余裕を見せおって。何か? 私に対する当てつけかそれは……万が一の為に、王賜剣の用意はしておく。止水、貴様も動けるようにしておくがいい」

 

 

 

 エリザベスがどこか悔しそうに顔を顰める。それにまた苦笑して、

 

 

「っと……その必要、ないみたいだぜ?」

 

 

 

 武蔵が見せた『動き』に、笑みから苦味だけを消した。

 

 

 

 

 

***

 

 

 武蔵の守り刀が、英国の地にて笑みを浮かべる……その、ほんのすこし前。

 

 

 

「こ、こう? ぐ、ぐぃー……?」

 

「Jud. そうです! そんな感じで、ぐぐぃーっと!」

 

 

 武蔵野艦橋、足りない本部では『盆踊り仰け反り姿勢』が再現されていた。――いきなりなにを? と思われるだろうが、どうか安心してほしい。

 

 それを再現している当事者二人。彼女たちを除く現場の全員も、全く同じ感想である。

 

 

(……武蔵様、これが萌えですか? ――以上)

 

(――Jud. これこそが萌えです。――以上)

 

 

 

 ……訂正。若干二名が別の感想を抱いていた。

 

 

 アルマダ海戦クライマックス。しかも起死回生、逆転の一手を打たなければ武蔵の敗北……という状況で浮かべられる笑顔は肝が据わっているのか太いのか。安心され感心もされるだろう。

 しかし、首から下の行動を見てしまうと緊張やら重責で『頭がパーになっちゃったのでは?』と心配される動きをしており……早い話が首を境にして台無しにしてしまっているのである。

 

 

 故に――武蔵と武蔵野は、とりあえず黙って見守(記録す)る。

 幸かどうかはわからないが、現状艦隊からの砲撃は止まっている。サン・マルティン一番艦も背後からとわかりきっているので、鈴の感知能力やアデーレの指示がなくとも防御に問題はない。

 

 

「う、うん。できるっ、と、思う、よ?」

 

「おっしお墨付き! やりましょう! ――武蔵野さん! 全艦への通神を開いてください! 武蔵さんは続けて鈴さんの補助を!」

 

 

 指示が飛ぶ。

 

 

「皆さん! これがアルマダ海戦最後の伝令です! ――さあ、決着をつけますよぉ!」

 

 

 そう言ってアデーレは……勢いよく、満足した様に通神を閉じた。

 

 

 

 

 ……テンションが極まってしまったらしい。肝心の伝令内容をスッパリと忘れていた。

 

 

 

 

「……あーっ!? 今のっ、今の無しで! 訂正ですっ! あ、あの、聞いてますか!? ちょっと!」

 

 

 

(……武蔵様、これが、萌えですね? ――以上)

 

(――Jud. これこそが、萌えなのです。――以上)

 

 

 

 

 

***

 

 

 英国で守り刀が笑みを浮かべた……その、同刻。

 

 

 

――「ふふ、すごいね。あれが武蔵か……実は朕は、直接アレを見るのは初めてなんだよ」

 

――「アタシもさ。あと感心するのはいいが、服を着ろ、服を。常識だぜ? ――武蔵の連中も、思い切ったことしやがる」

 

 

 

 

 ……天に満つる双子月。その月光に照らされて。

 

 

 

 

――「ノ、ノベもあれくらい出来ますモン! こう、からの、こうですモン! ……負けてないですモン!」

 

――「なんぞ、燃えておるのう鮭延。ふふふ。焼き鮭になってしまうぞえ? しかし、あれが刀の子がおる国と……はよう、最上に来んかのう」

 

 

 

 

 

 ……極東に住まう全ての者、その数多の思惑の中、見せつけるように。

 

 

 

 

 

――「脅威と見るか、頼もしいと見るか。……難しいところだな」

 

――「そうね。でも、この光景も良い判断材料に……なるのかしら?」

 

 

 

 

 

 ……世界の征服と救済を掲げる、王と姫の大望を乗せて。

 

 

 

 

 

――「今が英国だとしたら、次はIZUMO……ふふ――アソビに行こうかしら」

 

 

 

――「IZUMOじゃ。行くぞ……罪の清算をしなければならん」

 

 

 

 

 

 天へ。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 ……準バハムート級。全長7kmを超える航空都市艦『武蔵』の艦級だ。神話に記される巨大魚、あるいは神竜の名を冠する巨大さは、見る者を圧倒するだろう。

 

 だが今――そのバハムートの号を笑う者が多くいた。引きつるような乾いた笑みを浮かべ――続けて、息を飲んで。

 

 

 ……その内の一人であるエリザベスが、小さく叫ぶ。

 

 

 

「はっ――なにが、バハムートだ。……十分、全 竜(リヴァイアサン)ではないか……!」

 

 

 ……武蔵が作り出す仮想水面と、艦表層に貯められた水が竜の尾と鬣になる。ならば、浅草・品川両一番艦の剣先を思わせる船首は、双月に食らい付かんとする竜の顎門(アギト)か。

 

 心臓が早鐘を打つ。体に熱が灯る。身を支配したのは興奮だ。ジョンソンやハワード、ドレイクが自分より近い位置でこれを見ているのかと思うと悔しささえ覚える……ということでオマリの説教は確定した。一番の特等席は、まず間違いなくアルマダ海戦域にいるグラニュエールの艦上だろう。

 

 

 

 

 

「……かなしいのー?」

 

 

 そんな中、気遣わし気な……部下であり友であり、良き相談相手の声がした。間延びした、聞くと安堵と脱力を一緒にくれる声が後ろから来た。先ほどまで隣に近いところにいたはずだが、知らないうちに前へと足を進めていたらしい。

 

 

「バカを言うなセシル。これに悲しみなど抱くわけが――」

 

 

 ない――そう、反論しようとして、ふと気付く。

 

 ……その声は、エリザベスに向けられていない。そして、向けられている男が、遅ればせながらやっと気付いた。

 

 

「ん? あ、それもしかして俺に言ってるのか?」

 

 

 返答は後ろにいる止水だ。エリザベスは何があったのかを確認すべく振り向く。そして、止水の姿を見て……眼を見開いた。

 

 

 表情に変化はない。いや、仲間たちの行動に微かに口角を上げて笑みを浮かべている……ちょっと誇らし気な、そんな笑みだ。

 

 だからこそ。

 

 

「し、すい? 何故――……   

 

 

 

 

 何故其方、泣いて、いるのだ?」

 

 

 

 だからこそ、その涙が、何よりも何よりも、際立ってしまう。

 

 

 

「二人ともなに言って……ん?」

 

 

 そこでやっと、止水自身が自分の違和感に気付く。

 拭えば、しっかりと濡れている手があり……拭ったにも関わらず、頬から、そして顎に伝わり、雫になって落ちていく。

 

 拭えど拭えど、涙が止まる様子はない。

 

 

 

「……目にゴミ、ってわけじゃないな。なんだ、これ……」

 

 

 

 視界の滲みに気付かなかったのは、気付く間もなく容易く溢れたからだろう。本人の名前とは裏腹に、止め処なく涙は流れていた。

 

 

 

 

 ――その、直後。後にエリザベスがこの一時に関する全てに他言無用と厳命した、『奇跡』が起きた。

 

 

 

 

 

 それが偶然であったのか、はたまた、必然であったのかは定かではない。

 

 

 

 

【――王賜剣の剣庭……鞘として、『地脈』が地表に限りなく近い場所を流れていた『場所』――】

 

 

【――止水が王賜剣の強化として、『守り刀の流体』を大量に流し込んだ『切欠』――】

 

 

【――強化の際、非効率さゆえに英国の大気を満たした『膨大な流体量』――】

 

 

 

 ……そして、何より。

 

 

 

【――当代、唯一の生き残りである守り刀の流した『感情()』――】

 

 

 

 

 その全てが、重なり。

 

 本来、語られることのあり得ない、『守り刀の一族の歴史』が再現されるという奇跡が、ここに成った。

 

 

 

―*―

 

 

 

 緋の光が集い、形を造る。

 エリザベスと止水……そして、もしこの場にいたなら、正純にも、それは見覚えのある光景だった。

 

 花園で起きた、止水の母――紫華の過去の幻影が消える、その逆再生だ。

 

 

 ――カラン、コロン。と乾いた木の、小気味のよい音は下駄の足音。一歩二歩と近付いて、やがて虚空からその姿が造られる。

 

 

 紫華では、ない。そもそも男だ。止水よりは幾分小柄だが、それでもエリザベスより高い背丈に、細いながらしっかりと鍛えられた身体。緋の着流しを前で合わせ、丈の短い着流しを肩にかけている。

 背に届く程度の黒髪を雑に、おそらくなんの意識もせず適当にやったのだろう。緋の組紐で結って纏めている。

 

 その、どこか眠た気な双眸は、止水に『(あいつ)の一派かな』と思わせる程度には特徴的だ。

 

 

 一族の最たる特徴である多刀は、後腰に四刀――大太刀と長刀を二刀ずつ。そして、右手で肩に担いだ抜き身の刀の計五本。左手の袖が揺れている……袖に通さず、懐から左手を覗かせていた。

 

 

 

 戦っていた直後なのか、それとも最中なのか、全身に浅い傷が幾筋か、まだ軽く血を流しているのが見受けられる。

 

 

 ――カラン、コロンと、名も知れぬ守り刀の男はなお進み……天へ登っていく武蔵、そのすこし上を、追って見上げていく。おそらく彼が本来見ていた何かがそこにあったか、いたのだろう。

 

 

 

 その男は、笑っていた。口角の片方がわずかに上げた笑みの、その口が開く。

 

 

 

 ――【やれやれ……】

 

 

 遠く遠く。声は、何かを隔てているかのように聞こえ難い。

 

 

 

 ――【待て、とは言わぬ】

 

 

 

 視線は上がっていく。下駄の音が止まり、男は刀を大地に突き刺した。空いたその右手は去るものを追うように伸ばしかけ、しかし躊躇い……やがて力なく垂れる。

 

 

 

 

 ――【行くな、など。この口が裂けても言わぬ】

 

 

 

 

 そして、懐の左手が、強く、硬く……握り締められた。

 

 誰かの手を取るための……刀を握らぬ、その手が。

 

 

 

 

 

 

 ――【だが。だが……】

 

 

 

 

 

 

 笑っている。

 

 笑っている顔の、その双眸から。

 

 

 

 

 

 

 

 ――【せめて、別れの言葉くらい……交わさせてくれても良かろうに……

 

 

 

 

 今の止水と同じように、静かに……しかし止め処なく、涙を流した。

 

 その光景を目の当たりにしたエリザベスが息を詰まらせる。男の姿は初めて見るが、その涙には見覚えがあった。あり過ぎた。その涙を、幾度となく夢で見てきたからだ。

 

 

 

 ――守り、しかし裏切られ……そして、最後まで守れないことを謝罪したときに流す、一族の……それは懺悔の涙だ。

 

 

 

 

 ――【……達者で、な。天上がどのような場所かは想像もつかんが……風邪など引かぬようにするのだぞ】

 

 

 

 奇しくも、エリザベスがメアリに向けて呟いた言葉と被った。涙の別れ……しかし、この男に再会はなかったのだと何故か確信が持てる。

 

 男は地に刺し置いた刀を取る。そして同じように肩に担ぎ、再びカランコロンと音を鳴らして、その時代にあったのだろう戦場へ、同族の戦っている戦場へ戻っていった。

 

 

 

 

 

 

 ……止水の隣を通り過ぎ、男の姿が薄れていく。紫華の時と同じように、大気に溶けていくように、静かに消えた。

 

 

 ――二人の涙は、止まっていた。

 

 

 

 

「――天、上……だと」

 

 

 

 

 天へ登っていく誰かを見送った。……見送りながら、宇宙と言わず、『天上』と。

 

 そこに帰ることを主目的としている人類にしてみれば、その言葉の差す場所が到達点と言えるだろう。そのために行っているのが歴史再現なのだから。

 

 

 

「まさか、いや……だとしたら全て納得がいく……!

 

 だが、だがそんなことをしていいわけがない、そんなことが、許されていいわけが――!」

 

 

 

 

 ……強く噛んだ唇から、かすかに鉄の味がした。

 

 

 

 

 

「置き去りに、されたというのか……!? 星の環境再生に淘汰されかけた人類が天上へと逃れる、その時に……っ!」

 




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