三本目……!
「ふ……本当にすごいね、彼は」
「だから手放しに敵を褒めるなっつってんだろうが。……それよかエクシヴ。アタシ、さっき言ったよな? さっさと艦に戻れって、言ったよな? 武蔵の姫の大罪武装やら、胸のデカイ巫女の狙撃やら、普通に届くんだぜここ」
崩落から免れたIZUMO表層。崩落区画との境で、丁度崖のようになった場所に立ち、その一部始終を見届けていたのは、六護式仏蘭西の総長と生徒会長……エクシヴと輝元だった。
「危険だと言うのなら尚のことさ。君が戻らないというのなら、朕も戻らないよ。だって、輝元の隣が朕の帰る場所だからね。
たとえ世界を敵にしたとして、たとえ世界がなくなったとしても。君が見届けると言うのなら、朕もそれを見届けよう。輝元、君の隣でね。君が戻ると言うのなら、朕も戻るさ」
「小っ恥ずかしいセリフなんだから少しは恥じらえバカ。……これは、アタシが言って始めたこった。なら、アタシが最後まで見届けんのが筋ってモンだろ」
三河の決起、そして、続く英国での海戦。
――止水の異常なまでの成長性に最大の脅威を覚えた輝元は、迷わず切り札にその命を出した。
『守り刀を討て』――と。
そして、輝元のその命に対して人狼女王が求めた報酬が『戦場で得た一人の身柄』だった。
輝元もエクシヴも……国の役職上であればテュレンヌより上である。しかし、ならば彼女を御しきれているかと言われれば、絶対に否と答えるだろう。
六護式仏蘭西最大戦力……大きすぎる故に味方を巻き込む破壊を生み、強すぎる故に制御が利かない。だからこそ、その程度の報酬で済むのなら、という思惑があった。
「――追加の報酬求められそうで、怖いもんだ」
崩落したIZUMOの区画は、相当に広い。八kmはある武蔵の改修に使われていた場所なのだから当然だ。広大なその崩落区画の全てを見下ろせる位置にいた二人が、全身に鳥肌を立ててその光景に魅入っていた。
――神がいた。
そして、
……その神に抗う、人間がいた。
広大なはずの戦場がひどく狭く感じる。そう錯覚させるほどの縦横無尽の高速戦闘。端から端は当たり前で、見上げるほどに高い空中での連打もあった。
常人では、とてもではないが目で追えないだろう。だが、緋色の極光が軌跡を描くので、どこにいるかくらいはなんとかわかる。さらに自動人形が高感度の視覚で捉えることで、その戦いの仔細を知ることができるのだ。
……一瞬の停滞があれば、衝撃と轟音がそこで
その一瞬に見える金剛の双腕は力強く、その名のように金剛神像が如く猛々しく。
――しかし血に濡れ、必死の形相で一秒を稼ごうとあがき続ける姿は、どこまでも――人間だった。
対する人狼女王は笑顔だ。それも、これ以上ないほど満面の笑みを浮かべ、明らかに楽しんでいる。止水から繰り出される打撃の全てを、ほんの僅かに上回る力でわざと相殺させていた。
遊んでいる。遊ばれている。それでもなお、足掻く。
守るために。
ただただ一重に、守るために。
「……はは、クソ。これ命じた奴、反吐が出るくらいクソ野郎で嫌な奴だ。絶対性格悪いぜ、きっと」
***
「アンタ、絶対性格悪いだろ……!」
「そんなことありませんわよ? おばさん呼ばわりされたことなんてちぃいっとも、気にしてません、わっ!」
顔面に迫った『拳』を、両掌から上へ吹かして体ごと無理やり下げて回避。髪の先端が掠ったのか、毛の焦げる嫌な臭いがした。
当たれば痛いどころではない。良くて頭が吹き飛び、悪ければ頭が破裂する。……良し悪しがどう違うのかわからないが、死ぬという結末に変わりは無い。
――沈んだ体を両肩での爆破で浮かせる。間を置かず、右肩・右肘の爆破推進を得て、無理やりのクロスカウンターで人狼女王の顔を狙った。
「そうそうその調子♪ ――足もそろそろ使いますわね?」
無理やりの反撃は、背を僅かに反らされる事で軽く避けられる。避けたと同時に、お返しとばかりに宣言通りの右足が跳ね上がってきた。
左肘から、今度は蹴られる方向に全力で飛ぶ。体の内側で切れるような音が幾つも聞こえたが、構うものかと連続で吹かした。当たる直前に両腕をねじ込み、交差させて防御――……。
「くうっ……!」
その行動に意味があったかどうかはわからないが、あったと思っておこう。そうでなければやっていられない。……突き抜けた衝撃で全身がバラバラに砕けそうだった。
……点蔵の放つ鎧通しの応用の様な芯に響かせるような技はない。単純な威力が桁違いに高すぎるのだ。【釵】たる両腕には、現代技術でも届かない高性能な衝撃分散機構が付いているというのに、それすらも突破してきてダメージを刻んでくる。
(――勢、いに……合わせてなかったら、死んで、たな)
飛びそうになる意識を必死に繫ぎ止め、全身に残る衝撃を体を回して少しでも逃す。
……対応をほんの少しでも間違えれば『死』。
……このまま打ち合いを続けてもそう遠く無いうちに『死』。
……人狼女王が遊びに飽きてしまっても――『死』
どうしようもなくて、いっそ笑えてきた。
(トーリなら『死亡フラグのオンパレードじゃん!』とか、言いそうだな……冗談になりそうにないから、笑えねぇよ)
両手両足で制動をかけて、大地に50mはある長い爪痕を残して、やっと体は止まる。
顔を上げれば、爪痕の向こうには優雅に降り立つ人狼女王。嬉しそうに破顔して、凄い凄いと拍手までしていた。
「ふふ、貴方のこと、大体わかってきましたわ。
負傷すればするほど、『流体許容量』が上がっていきますのね? そして、その器がすぐさま飽和する量の流体が供給される……さっきでさえもう我慢出来そうになかったのに……食べて、いいですわよね? いただきますしていいですわよね? ね?」
「……喜美ん家の近所の、中村さん家のジョセフィーヌだって、最近『待て』覚えてたぞ。……十秒くらいしかもたねぇけど。
あ……ちなみに、腕一本や二本ならもう躊躇わないんだけど、そっちじゃだめ?」
「だーめ♪ 好みは
説得失敗。舌は処置次第でワンチャンありそうだが、心臓は流石に無理だ。
苦い感情に顔を歪め、ついでに、内心で「ご名答」と呟いておく。
……止水が『負傷を負う毎に流体の許容量が上がる』ことに気付いたのは、守り刀を継承した後のことだった。
ホライゾンの慰霊碑の前で一族の継承を行い、大怪我を負った(公的には『未調整の守りの術式による大怪我』とされる)止水は、一月もの間昏睡状態になった。
聞いた話では体の傷そのものは半月もしない内に癒えきったそうだが、残りの間眠り続けたらしい。
当時はどうでもよかったので放置していたが、一気に増えた許容量に流体供給が追いついていなかったからではないか? と今になって予想している。
それから、守りの術式が武蔵全域で周知され、皆が普段から注意を心かけるようになり奪う負傷が少なくなった。さらには浅間神社の介入で深度が設定されてさらに減り、刀たちとの契約を抑えなければならないほど、止水は流体飽和状態だったのだ。
……それが今からおよそ一年前。武蔵に移住してきた者のお陰で、解消することとなる。
一年前と言えばPー01sであるホライゾンが武蔵に来た時だが、この件では彼女はあまり関係がない。自動人形である彼女には術式の線が繋がりこそするものの、術式が発動する事はなかった。その気になれば腕やら足やら、挙句には頭でさえ分離しようと思えばできる自動人形は流石に対応できないらしい。
もう一人の移住者――武蔵アリアダスト教導院、現生徒会副会長、本多 正純。彼女こそ、この件の主役なのだ。
……当時を思い出し、止水はかすかに苦笑を浮かべる。
よく飢えるわ、よく転ぶわ、よく怪我するわ……出会いがそもそも後頭部強打転倒だけあって、彼女は本当によく怪我をする。
後頭部はさすがにやばいと思った止水が、とりあえず最深での守りの術式を正純に施したのだが……外したら真面目にヤバいと思える頻度で守りの術式が発動したのだ。
さらに、正純が一般平均よりも貧弱であったことがプラスに働く。
守りの術式の強さは、大雑把に深度で例えられている。鈴とミリアム、正純の三人が最深度の加護であることはこれまでに何度か伝えているだろう。その域であれば、彼女たちが受けた全ての痛み・負傷は完全に奪われるとも。
だが、正純たちから奪った負傷が、どう止水に影響を及ぼすのか……という点の詳細については、今までで誰一人触れていない。数値化など出来るはずもない上に、止水が隠し通してきたことで、一同は『傷が奪われる』ことにしか眼を向けることができなかったのだ。
唯一浅間神社の娘である智が気付きかけていたが、術式の調整に関われない以上、知り様がなかった。
例えば、正純が死にかける負傷と、止水が死にかける負傷だが……どちらが危険か、説明する必要は無いだろう。
止水が直接受ければ、人外染みた耐久力・体力・生命力の彼なら『ちょっと痛い』程度で済む正純の『致命傷』も、守りの術式を通すとそのまま『致命傷』となって負傷となるのである。
そうして得た負傷によって器が強化され、止水は一気に刀との契約を増やすことができた。
……言い方は悪いが、三河以前であるならば『正純のおかげで強くなれた』と言っても過言ではない。尤も、そんな言い方をすれば当人は元より多方面の連中が激怒するので内緒ではあるが。
(――届く気が、しない)
そして当然、守りの術式だけではなく、止水が直接受けた負傷でも流体許容量は増えていく。
エクシヴの『太陽落とし』に始まり、佐々 成正の『百合花』。そして、人狼女王が銀十字を用いた『戦乙女の神鉄槌』――開戦前とは比べものにならないほどに止水の流体許容量は上がっている。英国では垂れ流さざるを得なかった刀たちから常時供給される莫大な流体を、今では余裕で受け入れられるほどに。
だが、それでも届く気がしない。一歩近づく度に数千歩離されていくようだ。
……【釵】は肉体の欠損を補い、その上でより強くなれる力。
――『より強くなる』程度では、神の域には届かないらしい。
(それでも……!)
視線はおろか、人狼女王から意識をそらす事もままならない今、止水にはネイトがどこまでトーリに近付いているのか知るすべがない。
……だからこそ、全力で足掻くしかないのだ。
消えるどころかより一層強くなっていく闘志を前に、流石のテュレンヌも小首を傾げて訝しげだ。
『何故挑むのか』『何故諦めないのか』……それが、理解できないと言わんばかりに。
そんな人狼女王を余所に、止水は流体を内燃拝気へ急速変換し、両足へ。筋肉が一気に膨張し圧迫された骨が激痛を訴えるが、意思で黙らせる。
渾身の踏み込み。ただでさえボロボロになったIZUMOに追い打ちをかけるような破壊が生じる。合わせて、両手から全力爆破を叩きつけ、限界加速を突破した。
――片足を一歩引くだけで、渾身の一撃は容易く見切られた。
踵を振り下ろし、避けられてIZUMOをまた砕く。付けた踵を無理矢理軸足に、爆速を加えて回し蹴り。
――片手で止められた。
手首を合わせるように構え人狼女王へ向け、ゼロ距離で熱線を放射。
――床の鋼材があっさりと融解する熱量だったが、展開した銀十字の一振りであっさり霧散した。
攻守が変わる。そう本能で理解し、咄嗟に交差させた両腕に衝撃が突き抜ける。振り戻された銀十字だ。
……ビシリ、という音と共に金剛の装甲に大きな亀裂が走り、さらに突き抜けた衝撃は止水の胴体も貫く――大量の吐血がそのダメージを物語っていた。
飛ばされ、幾度も地面を跳ねた。苦し紛れに拳を地面に打ち付け、体勢を――
「さっきも今も、良い連打ですわ。最近の子はただがむしゃらに数を打てば良い〜みたいな風潮があって不安だったのだけど、貴方のにはちゃんと技も気迫も篭ってる」
立て直そう、という思考が止まった。至近距離、手が届く範囲に人狼女王がいる。自分が打ち飛ばした止水に追いついて来たのだ。
にこやかに、嬉しそうに笑いながら、拳を握っている。
「でも、ちょっと減点ですわ。貴方の性格なのでしょうけれど、貴方の打撃には少しの『殺意』も籠められていませんの。確実に仕留める、その意思を籠めて打てばもっと良くなりますわ」
――こ ん な ふ う に。
***
逃げろと言って逃げぬ者を
逃す方法はどこにあるのか
配点【忘却と恐怖】
***
その音を、誰もが【見た】。
『――武蔵専用陸港ブロック、損傷甚大! 全十七連結内、十三が断裂……残る四本も時間の問題と思われます! 現段階でもIZUMO中央部に破断が侵食しつつあります! 故に……!』
IZUMOの主要指揮系統を統括する自動人形がらしくもなく声を荒げ、結論を下す。
『武蔵専用陸港
表層よりも分厚い、数十メートルはあるだろう鋼材の大地が、ついに砕けた。さらなる圧力でひしゃげ隆起し、自重に耐えられずまた砕け……と、留まることなく破壊が広がっていく。
爆音が長く広範囲に轟く。一括爆破が宣言通り行われたのだろう。その爆発に一拍の間をおいて、巨大な地鳴りを響かせて大地が沈下を始める。
――ぉぉぉ……っ !
その、中心部。
破壊と崩壊の始点となっている地で、その決着が着こうと
「ぉぉおおあああっ!」
野獣のような雄叫びは、轟音の連打に負けることなく響いた。人狼女王の上からの連打に対し、打ち上げる連打で対抗していたのだ。
必死に返す。がむしゃらに、しかし最大の精度を持って打ち返す拳打は、秒間で数百を超えるだろう。その威容たるや、大気との摩擦で両腕が高熱を帯びるほどだ。
だが、相手はそれを軽く超えてくる。
拳と拳がぶつかり、なんとか相殺させたとしても、何十という拳が止水の体を破壊していく。IZUMOの破壊は、その余波に過ぎなかった。
体は瞬く間にコワレテいく。だが、打つことを止めない。
打たれることで動きが鈍る。そこにさらに剛撃が殺到する悪循環、敗北は確定している。それでも……抗うことを諦めなかった。
――雄叫びに鈍い濁音が混じるようになって、十秒。分離されたIZUMOだった大地が、完全に砕け――
『……掴みましたわ!』
歯嚙み、祈る一同が望んだ一報が、武蔵へ届いた――!
「っ! 武蔵、緊急浮上! 最大船速を持って当空域より離脱します! ――以上!」
「全射撃部隊、援護射撃だ! 全弾使い切って構わない! 撃ちまくってくれ!」
「クロスユナイト! 二代! キヨナリ!
「「「Jud.!!」」」
武蔵に続き、ネシンバラと正純が指示を飛ばす。
右舷二番艦『多摩』の艦首と艦尾に偏るように配備
そして、艦中央から、高速飛行形態に変形していたウルキアガが、その背に点蔵と二代をのせ、溜めに溜めた竜砲を解き放った。
「――直政っ!」
「あいよっ……歯ぁ食い縛んな、ミト!」
先の英国による損傷でこの抗争中、裏方に徹していた直政が、地摺朱雀の手に握られた『銀色の鎖』を、背負い投げる勢いで引いた。
武蔵の上昇速度に加え、武神の力による強力な釣り上げにより、鎖は一気に引かれていく。
その先にいるネイトは、左右に引き裂かれんばかりの痛みに、言われた通り歯を食いしばった。
(ほ、本当に容赦無いですわね直政!)
――難しい話は、どこにもない。
自他共に認める鈍足であるネイトでは、トーリの下まで辿り着き武蔵まで戻るとなれば時間がかかり過ぎる。
だからこそ、ネイトは銀鎖を伸ばした。一本は武蔵へ、一本はトーリへ。
そして、負傷で這うようにしか動けない無様な姿を演じてまで、その奇跡に等しいチャンスを待った。
ネイトでは、目で追うことも叶わない高速で動き回る人狼女王が油断する、その時を。
ネイトの意図を察した武蔵に残る面々の動きもまた迅速だった。
総員が全力を尽くす。人狼女王に気取られぬ様、細心の注意を払いながら。
「もう遠慮はせぬぞ! ……拙僧――爆進!」
半竜の飛翔翼が限界まで大気を圧縮し、全力の竜砲を放つ。それに張り付く二人を凄まじい重力が襲うが、耐えられないほど柔ではない。
ウルキアガが二人を運ぶことで二代が蜻蛉切の割断により集中でき、点蔵は移動を任せることでそれ以外の万象に集中できる。いざとなれば、竜を足場に武蔵最速共が駆けるのだ。
「……今できる最善の手だよ、ヅカ本多くん。あの状況でよく咄嗟に思いついたね。……キミ、軍師役も担えるんじゃないかい?」
「茶化すな、ネシンバラ。まだ、成功してない……それに正直、私自身自分でなにを言ったかイマイチ覚えていないんだ」
武蔵の移動、全部隊の指揮、特務戦力の投入――その各々の指揮開始こそ振り分けたが、事前は全て正純の指揮だった。指示を出そうとするネシンバラを押しのけるようにして声を張り上げた先ほどは、今考えれば越権だ出しゃ張りだと自己嫌悪がよぎる。
――だが。
(義経公との約定は達した。あとは葵を回収して安全圏まで離脱出来れば……。?)
トーリを回収し、武蔵が最大加速を持って離脱すれば……とまで考え、強烈な違和感と寒気に襲われる。
……何かが、おかしい。
鎖はかなりの速度で引かれているが、絶対強者たる人狼女王から見れば止まっているに等しいだろう。現に先ほどまで超高速で戦闘を行っていたのだ。
……にも関わらず、人狼女王は来ない。
雄叫びが止み、瀑布のような連打も止んでいるのに、トーリを奪いに来ない。
――武蔵面々にとってそれは紛れも無い幸運であるはずなのに、正純の違和感と全身の怖気は。どんどん強くなっていく。
そんな中、舞っていた砂塵が風で晴れる。そして現場の降下によって、すり鉢の底になった中心が見えてきた。
片足を下げるように立ち、釣り上げられていくトーリとネイトを見送るように見上げる人狼女王がいる。苦笑して振り返り……その視線を、下げた片足の方へ向けた。
「……なん、だ?」
後ろに下がった片足の足首。踝のあたりを骨のような機械が絡めとり……文字通り足止めしている『何か』が、いた。
……それが人間だとわかるのに、少し時間がかかった。骨のようなものは義手だ。かろうじて残った指で足首を掴み、もう片方の五指を瓦礫に食い込ませ――瓦礫を重しに、自らの体を鎖にして人狼女王の枷となっている。
体格からして大柄の男だろう彼は、ボロボロだった。むき出しの上半身は特に酷く、人狼女王の拳大の陥没が無数にあり、いくつかは貫通までしている。
額に当てていた鉢金の結び目が、解けて落ちる。眼は虚ろで呼吸は粗く、……しかし『絶対に行かせない』とその顔が物語っていた。
どこの勢力の、どこの誰ともわからない……一人の戦士。
「(……無駄にしては、いけない……)各機関部。三十秒後、重力航行を用いた連続加速を行う。そのつもりで行動してくれ」
引っ張られたネイトが頂点を超え、引かれるままに落下を始める。トーリも含め、そのまま回収できるだろう。
命をかけた足止め……それがあったから、二人を救える。
――正純は背筋を伸ばす。名も知らぬ、しかし大恩の人に敬意を示すために。
ちがう、ちがうと、どこか遠くで誰かの泣き叫ぶ声を、聞きながら……。
『まさずみ だめ』
そんな正純を小さな声が呼ぶ。子供のような辿々しい声は、群体特有のいくつも重なった不思議な声となり、足元から届いた。
――黒藻の獣だ。見れば四匹がいる。慌ててきたのだろう、内一匹は上手く止まれずにコロコロと転がっていた。
『まさずみ だめ わすれないで おねがい』
『ちから かなしいの わすれさせるの だから だめ』
『くりかえさないで おねがい』
次々と重ねられる言葉に、なんのことだ、と聞こうとした矢先。転がったその一匹が――人狼女王へ、正確にはその足元にいた誰かに向けて声を上げた。
『
ぞくり、と……正純に――いやその場にいた全員に、今までで一番強い怖気が走った。
しすい、止水。
知っている、知っている言葉。
「し……すい?」
――知っている、名前だ。
武蔵に来て、下見と街を散策して――段差に躓いて転んだ自分を介抱してくれたのが、彼だった。膝枕で寝かされていて、慌てて起きて自己紹介。自分が転入するクラスの生徒であると知って、ホッとしたのを今でもしっかり覚えている。
――そこでお腹が鳴って、赤面している内に青雷亭に案内されて女バレしたのも、しっかりと。
「う、あ……」
……食べ歩きながらいい感じの古書店を教えてもらい、バイトの初等部講師で体育の授業があれば手伝ってもらって、弁当代わりの握り飯を分けてもらい。
色んな話をした。勉学や言葉のあれこれは苦手だと本人は言うが、これがなかなかに聞き上手で、話をしていると時間を忘れるがしばしばあった。昼寝している場面に遭遇して、覗き込んだ寝顔がなかなかにあどけなくてホッコリしたのも覚えている。
正純が武蔵に来て一年と少し。『誰と一番長く過ごしたか』と聞かれれば、迷うことなく彼だ、と答えるだろう。
大切な、友――と、思っていた。『親友っていうのはこういうものなんだろうか』と、青臭いと苦笑しながら、思っていた。
思っていた……のに。
(……私が忘れ、た? あいつのことを……!?)
……呼吸が止まる。頭の中が真っ白になって、膝が落ちた。
痛みは、ない。当たったという感覚はあるが、それだけだ。また、奪われた。
「あ、う……っ」
思い出した。止水が、腕を切り落とした瞬間――正純は、それを通神越しにだが、それを見てしまった。
ダメ、と悲鳴のような静止は届くことなく……釵と、【
それを見て……正純は強い恐怖を抱いた。
自分の腕を、なんの躊躇いもなく切り落とせる『コレ』は――本当に、私と同じ人間なのか、と。
(……ち、がう。私じゃない! 絶対に、私じゃない……!)
何かをされた。そうとしか思えない。――感情が、思考があまりにも極端すぎる。その上、記憶が意図的に『書き換えられていた』。守り刀、その一族に関する記憶だけが消されていた。
そう確信し、同時に答えを得る。
……名前だ。他の面々はまだ混乱しているだけで、黒藻の獣が呼んだ名前を復唱した正純だけが、思い出している。
(釵の後……続けて呼んだ、その御霊の力か……!)
――【ご明察です。凄いですね? 私のこの力、今まで失敗したことなどないのですけれど】
甘い声が耳を犯す。優しく慈愛に満ちたその声は、思考の余地もなく頷かせる――麻薬のような毒を持っていた。
振り返る。声の主は後ろにずっといたからだ。
走狗形態ではない等身大。背は高くなく、むしろアデーレほどの背丈しかないので小柄と言える。英国で現れた【鎧】が言っていた刀身顕現で現界した姿なのだろう。
――だが。
【このような姿で失礼します。私は――そうですね、あの子風に自己紹介をするのなら……守り刀の一族が一刀。変刀姿勢、戦型が漆番を担っています。
呼び文句は……『 全てを
ギシギシ、と軋む音を立てながら、淀みなく礼を一つ。
【守り刀十三流派が一つ、悪刀【鐚】と申します……ああ、覚えなくて結構ですよ? あの子が死んだら、どの道すぐに記憶から消させて頂きますから。あとそれと】
微笑む。首から上は、どこまでも穏やかで嫋やかで……。
【鎖巻きは私が初代で、あの子の方が二番煎じです。その辺お忘れなき……いえ、忘れさせるんでしたね。私が】
その女は、首から下……その全身を、
読了ありがとうございました!
長くなってしまった人狼女王編も、次回で結になります。