――暑い。
今年の夏は、まさに夏らしい夏だ。太陽がここぞとばかりに自分の存在を全力で主張している。セミたちも、短い己の一生を精一杯燃やし尽くそうとでもいうのか、右から左から、まさに時雨の如く鳴き声を浴びせかけてくる。岩に染み入る、なんて風情のあるものではなくて、ひたすらうるさい。
そんな中を、背負子(しょいこ)を背負って、長々とした神社の石段を登っていく、というのは、これはちょっとした修行というか、苦行めいたものがある。
周囲をうっそうとした樹木に覆われているので、かなりの部分が日陰になっているのが救いだが、それでもやっぱり蒸し暑いし、大量に汗もかく。途中で休憩をはさみたいぐらいだが、時間の都合があるのでそういうわけにもいかない。ほとんど朦朧としながらひたすら足を動かし、大きな石鳥居の下にたどり着いた時には、正直ほっとした。
ざっと見渡す。境内には人の姿はない。まあ、神社などというものは、祭りや何かの行事でもない限り、閑散としているのが普通だ。鳥居からまっすぐ石畳が続いて、右手に御水屋、正面に拝殿があって、左手に社務所兼住居がある。
ごめんください、と社務所の入り口で声をかけると、しばらくしてから巫女装束の女性が現れた。
彼女の名前は博麗霊夢。ここ「博麗神社」のたった一人の巫女であり、また宮司でもある。
「お久しぶり――ずいぶん暑そうね」微笑みながら言う。
「おかげさまで、ここまで夏を満喫してきたよ…涼しそうでいいね」
「朝のうちに境内の掃除を済ませてから、家の中に避難していたもの。ちょっと待っててね、冷たい麦茶を持ってきてあげるから」
しばらくしてから、よく冷えた麦茶と水まんじゅう、それと救急箱を持って戻ってきた。ありがたく麦茶をいただいてから、救急箱を開けて中身を点検する。特に減っているものはない。この2か月間、無事息災であったらしい。
言うのが遅くなったが、俺の名前は河野涼平。薬の行商を商売にしている。傷薬や風邪薬といった常備薬をそろえた救急箱を各家庭に置いてもらって、何か月かに一度そのお宅を訪問、薬が減っていたら、使ったものとしてその分だけ代金をいただく。で、減った分はまた新しく薬を補充する。そういう仕事だ。お客さんの要望に応じて、例えば「最近疲れが取れない」と言われたとしたら、新しく強壮剤を置いていく、というようなこともする。お客様がいたって健康で、訪問してみたものの全く薬が減っていないような場合は(今回の博麗神社のように)、売り上げはゼロ、ということになる。健康なのは喜ぶべきことだが、商売としてはあまりありがたくない。
「特に何事もなかったようでなにより。それじゃ、お祓いをお願いしようかな」
「…あら、もう行くの?もう少しゆっくりしていったらいいのに」
「そうしたいのはやまやまだけど、今日中に回っておきたいお客さんがまだ残ってるんだ」
「…そう。暑い中大変ね。どうぞ、上がって」
霊夢の後について、拝殿へと向かう。外の暑さが嘘のように、建物の中は空気がひんやりとしている。本当に、できることならもう少し休んでいきたいところだ。
拝殿に着くと、板敷きに正座して、軽く首を垂れる。そこへ霊夢が、大幣をかざして、ゆっくりと何度か左右に振る。それでお祓い完了だ。祝詞も何もない、ごく簡単な儀式だが、これが霊験あらたかなのだという。年に一度このお祓いを受ければ、その年いっぱいは悪鬼悪霊の類は寄せ付けないのだ、と、これは幻想郷の住民であれば誰もが口にするし、また実体験として理解していることでもある。妖怪や妖精たちと人間が共存しているここ幻想郷では、人間が妖怪に襲われるようなことは日常的にあるが、そういった目に遭う者たちは、必ずなにがしかの穢れ――他人には言えないような、後ろ暗いなにか――をその身に抱えているのだ。穢れは神社で祓ってもらえるが、祓ってもらうそばから、また新たに穢れをため込んでしまうような人間もいる。そうした人間は、残念ながら幻想郷の安全保障ルールの対象外、ということだ。
玉串料を納めてから、また玄関へと戻る。お金なんていいのに、いやこういうことはきちんとしないと、といったやりとりも以前はあったが、面倒くさくなったのだろう、最近は霊夢の方でも素直に受け取ってくれるようになった。
さて帰ろうとしたところで、
「…あ、そうだ、ちょっと待っててね」
思い出したように言って、霊夢が小走りに廊下を駆けていく。少し経って戻ってきたときには、
「ああ、お客さんってお前のことだったのか。久しぶりだな」
見慣れた金髪の少女の姿が霊夢の隣にあった。
彼女の名前は霧雨魔理沙。霊夢とよく一緒にいる、本人曰く「いたって普通の魔法使い」、らしい。
「魔理沙、よかったら涼平のことを送って行ってくれない?」
「ああ、いいぜ」
それは大変助かる。またあの石段を下りなければならないのか、と、内心くじけかかっていたところだ。
魔理沙愛用の魔法の箒に二人でまたがる。
「またね、涼平」
「うん、それじゃまた、二か月後ぐらいに」
霊夢と互いに手を振ると、
「よし、それじゃ行くぞ。振り落とされないように、しっかりつかまってろよ!」
魔理沙の威勢のいい声とともに、俺たち二人を乗せた箒は勢いよく空へと駆け上がった。
あっという間に空高くに達する。歩くよりもはるかに速いし、建物等の障害物を無視して目的地まで最短距離で向かえるし、何より涼しい。空を飛べるというのは本当に便利なものだ。
人里の大通り付近で下ろしてもらう。
「ありがとう魔理沙。助かったよ」
「どういたしまして。今日はこの辺を回るのか?」
「そう。予定だとあと4件かな」
「だったら私も付き合うぜ」
ますますありがたい。空を飛んできたおかげでだいぶ時間も節約できたことだし、全部回り終わったらあんみつでもご馳走してあげよう。
ということで、魔理沙と一緒に本日の残りのお得意様を訪問していく。蒸し暑いのは相変わらずだが、魔理沙のおかげでだいぶマシだ。
今、魔理沙が右手に持っているのは、「ミニ八卦炉」というマジックアイテムだ。熱や炎を生成する道具で、火力を調節することで、調理用の炎を出したり、最大火力にすれば、山一つ吹き飛ばせるぐらいの猛烈な熱エネルギーの塊を放出したりできるらしい。便利かつ危険な代物だが、そうした用途とは別に、このミニ八卦炉にはもう一つ「送風機能」もついている。簡単に言えば、携帯型の小型扇風機のようなもので、よく冷えた風を周囲に送り出してくれる。俺のような暑がりには、まさに夢のようなアイテムだ。俺のような思いをしている人間は多いだろうし、厄介な火力はともかく、送風機能だけに限定したものを道具屋で売り出したら、間違いなく大ヒットするんじゃないか、と、以前魔理沙に言ったことがあるが、「一点ものだからこそ希少価値があるんだぜ」と、一言のもとに笑い飛ばされてしまった。俺が夏を快適に過ごせる日は、まだ当分来そうもない。
おかげさまで、当初の予定よりも30分以上早く仕事を切り上げることができた。
「魔理沙、何か甘いものでもご馳走しようか?」
「やった!」
ということで、近くの甘味処へ入る。大通りに面した、割と人気の店だが、もう夕方ということもあってか店内は空いていた。魔理沙はフルーツ蜜豆を、俺はかき氷を注文する。店員が持ってきてくれた冷たいお茶を一口含んで、文字通りほっと一息。今日も一日無事に終わった。
「魔理沙、今日はありがとう。本当に助かったよ」
「いいっていいって。私も楽しかったし」
本当に、人里を歩いているときの魔理沙は楽しそうだった。好奇心に満ちた顔で、物珍しそうにあたりをきょろきょろと見回していた。日常的にこのあたりを歩き回っている俺にはごくありふれた風景なのだが、
「人里に来るのは久しぶりなのかい?」
「それほどでもないけど。でもまあ、うーん、1か月ぶりぐらいかな?」
まあ、そんな気はした。どうやら、また魔法の研究に熱中していたらしい。
魔理沙が住んでいるのは人里ではなく、ちょっと離れた「魔法の森」と呼ばれる森の中だ。じめじめとして薄暗く、人間にとっては有害な植物なども多く生息しているため、普通の人間は、住むことはおろか足を踏み入れることも稀なのだが、魔法使いにとってはそういう環境がかえって適している、のだそうである。その森の中ほどにある小さな家の中で、魔理沙は常日頃、魔法の研究に取り組んでいる。様々な薬品を抽出したり合成したり、あるいは、そうした薬品の原料を求めて森の中を歩き回ったり…そうして気が付いたら、森の中から何日も出ていない、というようなことも珍しくないらしい。研究熱心なのは良いことだが、本当に集中しているときは食事も睡眠も忘れて実験にのめりこむそうだから、ちょっと考え物だとも思う。久しぶりに魔理沙の家を訪ねたら、睡眠不足と栄養失調で干からびていた、なんてことがないように祈りたい。
運ばれてきたフルーツ蜜豆を、魔理沙は幸福そのものといった表情で口に運んでいる。可愛らしい少女の笑顔を見ていると、こちらまで嬉しくなってくる。魔理沙は喜怒哀楽が表情に出やすいタイプなので、見ていて飽きない。
「本当においしそうに食べるねえ」
「ああ、まともな食べ物にありついたのは久しぶりだからな」
…だから、そういうことを平然と口にするのはやめてほしい。
「…最近はどんなものを食べてたんだい?」
「ん?ああ、大丈夫大丈夫。ちゃんと食べられる野草とか木の実を選んで食べてるから。魔法の森も、この時期はずいぶんいろんな物が成ってるんだぜ。中にはちゃんとした味のやつもあるし」
あんまり大丈夫なようには聞こえない。この魔法使いの少女の辞書には、「調理する」とか「健康に気を遣う」といった項目は載っていないのだろうか。まあ、魔法の森の植生については、人間の中では魔理沙が一番詳しいのだろうし、見たところも健康そのものだから、無用の心配なのかもしれないが…
「近いうちに、魔理沙のところへ寄らせてもらってもいいかな?」
「お?そういえば、この前来てもらってから、けっこう経つか。
いいぜ。ちょうど研究が一段落して、今は休憩の時期だし」
何か、美味しくて元気が出るようなものを、手土産に持って行ってあげよう。
永遠亭まで送ってやる、と魔理沙が言ってくれたので、ありがたくお受けする。夏の日もだいぶ傾いて、夕日が幻想郷一帯を橙色に染め上げている。魔理沙と二人、魔法の箒に乗って空の上から眺める景色は、実に美しい。明日もいい天気になりそうだ。