夜、永遠亭の縁側で、鈴仙さんが一人で座っているところに出会った。
「…あら、涼平君、こんばんは」
「こんばんは…何してるんですか、こんな時間にこんな所で」
「…私だって、一人で夜空を見上げながら考え事をしたいような時だってあるわよ…涼平君こそ、どうしたの?」
「今夜で永遠亭ともお別れだと思うと、ちょっと寂しくて…最後に少し歩き回ってみようかと」
「…そう…。少し座って話さない?」
鈴仙さんの隣に腰を下ろす。見上げる夜空は、少し雲がかかっているが、三日月が美しく輝いている。
「とうとう今日になっちゃったわね」
「そうですね。早いものです」
「本当にね…荷物は片付いたの?」
「ええ、もうすっかり。少しずつ実家の方に運んでいたので。今はもう、部屋の中は、ほとんど空っぽです」
「…そっか…」
少しの間があって、
「まさか、『医者をやめて、薬師に専念します』なんて言い出すとは思わなかったわ」
「ああ…すみません、なんか」
「別に責めてるわけじゃないけど…」
今まで通りに、医者の勉強のために週一回永遠亭に通ってくればいい、という師匠の言葉を辞退するのには、かなりの勇気が必要だった。実のところ、医者の勉強を続けたい気持ちは強かったのだが、どうせやるのであれば、完全に自立してみたかった。毎週永遠亭に通い続けていては、いつまでも師匠や鈴仙さんに頼ってばかりになってしまうような気がした。
「わからないことや困ったことがあったら、また鈴仙さんに教えてもらいに来ると思いますよ」
「どうかしらね。涼平君は、頑張り屋さんだから…
まあ、涼平君の面倒を見なくてもよくなるから、明日からは、私はずいぶん楽になるわけね」
「…もう少し、弟弟子に対して、暖かいねぎらいのお言葉をかけてくれたりはしませんかね…」
「『やっぱりもう一年、永遠亭にいさせてください』って、頭を下げて頼むんだったら、考えてあげないでもないわ」
顔を見合わせて、鈴仙さんと笑う。こういうやり取りも、もうしばらくできなくなるんだな。
「…そういえば、ちゃんと聞いたことがなかったような気がするけど、涼平君にとって、永遠亭で過ごした四年間は、どうだったのかしら。勉強になった?」
「それはもちろん。勉強になりましたし、皆さん本当に優しくしていただいて…鈴仙さん、今まで、本当にありがとうございました」
「うん、よろしい。
明日の朝、出発する前に、師匠や姫様にも、忘れずにお礼を言うのよ?てゐには…まあ、言いたければ、言ったらいいんじゃない?
…じゃあ、今まで永遠亭で過ごした中で、一番の思い出って、何かある?」
「一番の思い出、ですか…」
それはもう、色々ありすぎてキリがないぐらいだが、中でもとりわけ印象に残っているものといったら…
「…すみません、ちょっと言えないです」
「ふうん?まあいいけど…私は一つあるわよ、忘れられない涼平君の思い出」
「…何ですか、って、聞いてもいいですか?」
「涼平君が初めて永遠亭に来た日の、その夜の出来事」
「…俺もそれです」
「気が合うわね」
二人で苦笑する。まさかの一致だ。何とか忘れようと、努力はしてきたんだけどなあ…
俺が永遠亭に来た最初の日の夜の出来事を再現してみようと思う。
夕食の後、与えられた自分の部屋で、俺は、畳の上に大の字になって寝転んでいた。初めて親元を離れて、全く見ず知らずの人達の間で暮らすというのは、ひどく緊張するものだと知った。時間にすればわずか半日あまり、皆さんとても優しく接してくれはしたが、何を見聞きし行動するにしても、絶えず気を使う。時間とともに慣れていくことではあるのだろうが、これから毎日こういう生活が続くのだと思うと、思わずため息が出る。今日のところは、このまま何もしないで、疲れに身を任せて眠ってしまいたかった。
「新入り、風呂が空いたよ」
ウトウトしていたところへ、声を掛けられた。ウサギと人間が入り混じったような外見をした、この小柄な女の人は、確か、因幡…てゐさん、だったかな?
「案内してやるから、ついておいで」
言われて、風呂場に向かう。
「突き当りの、そこを開けると、脱衣所になってるから。だいぶ疲れてるようだから、ゆっくり風呂に浸かって、明日からに備えると良いよ」
ありがとうございます、と、てゐさんにお礼を言って、俺は脱衣所の扉を開けて、…着替え中の鈴仙さんと鉢合わせした。
「……」
「……」
一瞬、互いに顔を見合わせた後、大急ぎで扉を閉めて、
「…すみませんでした!!因幡さんに、お風呂が空いたから入るようにと言われたもので…誰かいるとは思いませんでした!!本当に…」
扉の向こうに聞こえるように、できるだけ大声で言い訳をしていたら、ものすごい勢いで扉が開いた。続いて飛んでくるであろう怒声に備えて、身を固くしていたら、
「……てえええええゐ!!!!」
大声をあげながら、パジャマ姿の鈴仙さんが、廊下の向こうへと猛スピードで駆けていった。遠くで足音が聞こえたのは、たぶんてゐさんが逃げて行ったんだと思う。呆気にとられつつ、さてこれからどうしたものか、なんとも決めかねて、風呂場の前で俺が立ち尽くしていると、何かぶつぶつ言いながら、鈴仙さんが戻ってきた。俺に気が付くと、
「…あの因幡てゐっていう性悪ウサギは、いつも誰かをだまそうとしてくるから、気を付けること。一つ勉強になったわね…早くお風呂に入って、今日はもう寝ちゃいなさい」
「は、はい…あの、さっきは本当に…」
「さっき見たことは、一週間以内に忘れなさい。いいわね?!」
「…はい…」
「…お休みなさい、涼平君」
そう言って、鈴仙さんは去っていった。
「入門してきたばかりの弟弟子に、まさか裸を見られることになるとは思わなかったわ」
「すみません…」
「いいわよ、いまさら。全部てゐのせいなんだし。
まあ、おかげで、変に気兼ねしないで話せるようになったと思えば、そんなに悪い思い出でもないわね」
おっしゃる通りで、怪我の功名とでも言おうか、入門二日目には、鈴仙さんは、かなりざっくばらんに接してくれるようになって、おかげで、俺もずいぶんすんなりと内弟子生活に馴染むことができた。てゐさんも、まさかそういった効果まで考えて騙したわけでもないだろうが…
いちおう断っておくと、「裸を見られた」と鈴仙さんは言ったが、あの時俺が見たのは背中だけで、鈴仙さんはもうほとんど着替え終わっていたはずだ。まあ、今となってはどちらでもいいようなことだが。
「いろんなことがあったわ、本当に…」
そう呟いて、鈴仙さんは夜空を見上げた。俺も同じようにする。こうして鈴仙さんと一緒にいると、色々な思いが込み上げてくる。永遠亭での四年間は、ほとんど鈴仙さんに頼りきりだったようなものだし。思わずため息をつくと、すぐそばでカメラのシャッター音が聞こえた。
「最後の思い出の一枚、いただき。いい顔してたわよ、涼平君」
スマホを片手に、鈴仙さんは片目をつぶってみせた。
「…一枚と言わず、もう二、三枚ぐらいどうですか?」
「ううん、一枚でいいわ。キリがないもの。…ねえ、私が日記をつけてるって話はしたかしら?」
「いや、初耳です」
「そう…三年前ぐらいかしらね。弟弟子があんまり手が掛かるものだから、ストレス発散用に書き始めたのよ」
それはまた、なんというか…ええと、情けない弟ですみません…
「謝らなくてもいいわ。おかげで、色々な思い出ができたし。
日記には、涼平君の愚痴がたくさん書いてあるの。これからも定期的に読み返すと思うから、きっと涼平君を忘れることはないと思うわ。良かったわね。
…少し寒くなってきたし、私はもう行くわ。涼平君も、あまり夜更かししちゃダメよ?明日の朝、寝坊したって、起こしてあげないんだから」
おやすみなさい、と言って、鈴仙さんは去っていった。なんというか、最後まで相変わらずだったな。取り残された俺は、一人で月を見上げてみる。最後の夜ぐらい、少しセンチメンタルになったっていいだろう。
「…お別れの挨拶は済んだの?」
声のした方を見ると、さっきまで鈴仙さんがいた場所に、師匠が立っていた。
「こんばんは…夜になると、ここに来るのが流行ってるんですか?」
「優曇華にはそうみたいね。最近よくここに座っているのを見るわ。私は、今日も優曇華がいるのかと思って、様子を見に来たのだけれど。…どんな話をしたのか、尋ねてもいいかしら?」
「今までの思い出話ですかね。割と普通の内容だったと思いますけど」
「…そう…」
師匠は、何か考えこんでいるようだったが、
「…涼平君に話そうかどうしようか、ずいぶん迷ったのだけれど…
二週間前ぐらいかしらね、ちょうど今頃の時間、私の部屋に優曇華が来てね。『月人の寿命を、地上の人間と同じ長さにすることはできますか』って質問してきたわ。つまり、優曇華の寿命を、ということね。すごく真剣な顔をして」
「…鈴仙さんが…?どうしてそんなこと…」
「さあ?優曇華が何を考えていたのか、そこまでは、私にはちょっとわからないわね。思いつめた様子だったし、相当悩むことがあったのだとは思うけれど」
「…師匠は、なんて答えたんですか?」
「答えようがなかったわね。今まで考えたこともないようなことだもの。『薬で寿命を延ばしたい』と言われたことはあるけれど、まさか『寿命を短くしてほしい』と言われるとはね。予想外だわ」
「……」
「まあ、愛弟子の言うことではあるし、なかなか興味深いテーマだし、研究してもいいような気もするわね。不老不死になる薬を作れたのだから、寿命を短くすることだって、まるっきり不可能ではないと思うわ。
そういえば、『月人と地上の人間では、寿命が違いすぎるから、結婚しても幸福にはなれない』という話を、どこかで聞いたような気がするわね。誰が言っていたのだったかしら」
「……」
「素直じゃない弟子を持つと、師匠は苦労するわ。…お休みなさい、涼平君」
また一人になって、思わずため息をつく。いろいろと思い出深い夜になった。月を見上げながら、考えに耽っていたら、ずいぶん時間が過ぎていた。そろそろ戻って寝ようか、と思ったところへ、スマホが鳴った。鈴仙さんからだ。
「はい、もしもし」
「…寝てた?」
「いえ、まだ大丈夫です」
「…そう」
「……」
「…涼平君」
「はい」
「今から、私の部屋に来ない?」