出発の朝。
「…今まで本当にお世話になりました!」
永遠亭の玄関で、深々と頭を下げる。しばらくしてから顔を上げたら、不思議そうな顔の姫様と目が合った。
「ずいぶん長かったのね。いつまで頭を下げてるんだろうって、心配しちゃったわ」
思わず苦笑すると、姫様も笑顔になった。
「たまには遊びに来てね。今まで楽しかったわ。ありがとう、涼平」
姫様、こちらこそ、ありがとうございました。
「優秀な弟子が巣立っていくのを見るのは、嬉しくて寂しいものね。
薬のことでもそれ以外でも、何か困ったことがあったら、いつでも相談しにいらっしゃい。独立しても、いつまでも私はあなたの師匠のつもりよ」
師匠、不肖の弟子に、身に余る暖かいお言葉、ありがとうございます。師匠に出会えて、俺は本当に幸福でした。
「…ふん…」
てゐさんは、なんだか不服そうな顔をして黙っていたが、
「…ちょっとしゃがんでごらん」
言われた通りにすると、急にてゐさんが抱きついてきた。
「あ、あの、てゐさん…?」
「こうしないと抱きつけないんだから仕方がないだろう。背が低いってのは色々と面倒だよ、まったく…もうちょっとの間、おとなしくしてるんだよ」
そのまま、少しの時間が過ぎて、
「…うん、まあ、こんなもんかね」
納得したように呟いて、てゐさんは体を離した。何だったんだろう、と思っていると、
「幸運を、少しばかり分けてやったんだよ。
ただのイタズラ好きな妖怪ウサギだとばかり思っていたかもしれないけどね、とんでもない、出会った人間は幸運に恵まれるという、ありがたい幸せウサギなんだよ、私は。
もちろん実際は、出会った人間みんなが幸せになるなんて、そんな甘っちょろいことはなくて、私が気に入った人間にだけ、幸運を分けてやるんだけどね。
私に気に入られるなんていうのは、本当に、滅多にないことなんだからね。いっぱい感謝するんだよ。…これで少しは、生きていくのも楽になるだろうさ」
ありがとうございます、と頭を下げると、ふん、と言って、てゐさんはそっぽを向いてしまった。
挨拶するのが最後になってしまったが、
「……」
鈴仙さんは、穏やかに微笑みながら、黙って俺のことを見ている。
「…鈴仙さん、それじゃ、また…」
「うん、またね、涼平君」
挨拶を終えて、いつまでも名残は尽きないが、もう行かなくては。忘れ物のないよう、手荷物をもう一度よく確認して、永遠亭を後にする。途中で振り返りたくなるのを、何度もこらえた。自分で決めたことだ、今日からは、一人で頑張らなければ。
実家に着いたら、父さんがいた。
「ただいま、父さん…今日は、薬売りには行かないの?」
「ああ、うん…お前が帰ってくるってことだったしな。出迎えてやろうと思って。お帰り、涼平。
…しかし、まさか本当に帰ってくるとは思わなかったな」
「…戻ってこいって、自分で言ったくせに」
「うん、まあ、その通りなんだが。八意先生の話だと、薬屋としては、学ぶべき事は一通り学び終えたってことだったしな。
ただ、『戻って来い』と言っても、お前の方では『永遠亭に残って、医者の勉強を続けたい』と言い出すような気がしたし、それならそれでいいとも、正直なところ思っていたんだ。自分の仕事の後を継いでもらえないのは残念だが、息子が立派に成長するのであれば、親としては、何も文句はないさ。…確認しておくが、本当に、医者をやめて良かったのか?今から、八意先生のところに戻ってもいいんだぞ?」
そういうことは、もっと早く言ってほしかった、と、思わず苦笑してしまう。まあ、今さら戻る気もないけれど。
「こっちも確認したいんだけど、俺は、ここに戻ってきても良かったんだよね?」
「…それはまあ、もちろんだが…」
「だったらいいや。今日からまたよろしく、父さん」
「…ああ、そうだな、よろしく」
永遠亭から運んできた荷物を片付けるだけで昼過ぎまでかかった。入門する時には、本当に手荷物一つで出掛けたはずだが、四年の間に、ずいぶん身の回りの品も増えたものだ。とりあえず整理し終わって、見回してみると、自分の部屋のはずなのに、なんだかよそよそしく感じられるのがおかしい。まあ、二、三日もすれば慣れるのだろうけれど。
窓を開けて、大きく息を吸い込んで、伸びをする。二階のこの部屋から見下ろす眺めも、ずいぶん懐かしい…などと感慨にふけっていたら、家の前に立って、こちらを見上げている人がいるのに気がついた。笑いながら、手を振っている。
慌てて階段を駆け下りて、玄関を開けたら、見慣れた女性が、目の前に立っていた。
「…こんにちは」
こんにちは、と、彼女も、楽しそうに挨拶する。驚かせようと思って、連絡なしでやって来たらしい。いかにも彼女らしいと思う。驚いたよ、うん。
まさか今日訪ねてくるとは思わなかったので、さて、これからどうしたものか、自分の部屋に案内しようか、それともどこか近くの店にでも行こうか、などと考えていると、
「なんだ、戻ってくるのはお前一人かと思ったら、嫁さんも一緒に連れてきたのか」
背後から、父さんが余計なことを言う。父さん、そういう冗談は、時と場合をちゃんと考えて…
「ふつつかものですが、よろしくお願いします!」
そう言って、彼女は頭を下げた。…いや、あの、ちょっとノリが良すぎるというか…。本当に、何て言ったらいいんだろう、と、さんざん悩んだあげく、俺が口にした言葉は、
「…こちらこそ、今後とも、末長く、よろしくお願いします」
眩しい笑顔を浮かべて、彼女は俺の腕の中に飛び込んできた。