その部屋の窓から射し込むモノは、埠頭から申し訳程度に届く、明かりのみ。
薄暗いその場所で、浮かび上がるのは、焦げ茶色の丈夫な扉だ。
「羽黒ちゃんの言った通りね」
これは、秘密の部屋への入り口である。
《執務室の隣に部屋がある?》
《鍵かかかっているので入った事はありませんが、多分書庫だと思います。司令官さんが、この部屋を出入りする時は、必ず本を持っていましたから》
部屋をグルリと見回した。
羽黒ちゃんが片付けているだろう執務机・棚・絵画・置き時計など、色々な物を見る事が出来た。
その中で、一つだけ変なモノがあった。
存在がおかしいのでは無く、片付け方が羽黒ちゃんらしくないのだ。
かつて、足柄〈わたし〉の乗組員が《隠し事をしても妻にはすぐバレる》と愚痴っていた。
羽黒ちゃんは、鍵についてお茶を濁した。
推理通りなら、この二つから得られる解が、ここにある。
花瓶をゆっくり持ち上げてみると、案の上だ。
銅色のシンプルな鍵が隠されていたのだった。
「頭が良くても男の子。艦娘〈おんな〉の勘には勝てないわよね」
勿論、羽黒ちゃんが提督の妻だと言う事では無い。
断じてない。
◆
艦娘〈なかま〉は全員夢の中だ。
だからなのではあるが、カチャリと鍵の開く音は、とても大きく聞こえた。
だが、何故だろうか。
――ギィ――
扉を開ける音は、耳に障った。
まるで棺を開けたかの様だ。
事実その部屋は、真っ暗だった。
まるで、底なし沼の様だ。
懐中電灯を点けたら、迷路の様に立ち並ぶ、巨大な本棚群が浮かび上がった。
――寒い――
ただの書庫だと言うのに、吐く息が凍り付きそうな程に寒い。
これではまるで、霊廟か聖域かのどちらかだろう。
もちろん禁忌の場所という意味だ。
一刻も早く立ち去りたい衝動を押さえ込み、私は一歩踏み入れた。
本棚には多数の本が詰め込まれていた。
「数学・物理学・化学・宇宙学・地理・宗教学、美術まである……あら? なんだろ、これ」
それは、彩色豊と言うよりは、陽気な背表紙だった。
『艦隊これくしょん あんそろじーこみっく Vol3』
興味本位に手を伸ばせば、違う本に気がついた。
それは、暗い部屋にあっても気が付く程に、存在感を放っていた。
神秘的ですらあった。
それはあの本だった。
男の子が持っていた、提督が持っていた。
私は、魅入られた様にその本を手に取った。
『世界史』
ページを一枚めくる度に、鼓動が早くなっていった。
慌てて発行日を見たら案の上だ。
『第一版発行 二〇一五年 八月十五日』
ページを更にめくる。
私は魅入られた様にめくり続けた。
『三国干渉』
『日露戦争』
止めるべきだ。
ここで止めるべきだ。
『第一次世界大戦』
『世界恐慌』
これ以上は見てはならない。
知ってはならない。
『ワシントン海軍軍縮条約』
『第二次世界大戦』
私は、最後のページをめくってしまった。
『ポツダム宣言〈一九四五年七月二六日〉』
私があちらで沈んだ時は、まだ決まっていなかった
あんな神だから、適当なことを言っているに違いない、と思いたかった。
だが、現実とは全く容赦の無いモノの様だ。
私と皆のしてきた事が、全て否定されてしまったのだ。
――ギリ――
私の手にある本が、軋みをあげる。
冗談では無い。
こんなモノは認めない。
私が示すのだ。
皆の犠牲は無駄では無かったのだと、皆は正しかったのだと、私が証明するのだ。
この結末を書き直す事こそが、重巡足柄の存在理由だ。
(……)
何かの気配を感じたが、気のせいらしい。
だが、そろそろ戻った方が良いだろう。
見つかれば面倒な上に、仲間に心配を掛けてしまう。
(……っ!)
何かが込み上げてきた。
なんだこれは、体に力が入らない。
だと言うのに、声が抑えられない。
「――っ!」
おかしい、自分が抑えられない。
これではまるで、泣いている様ではないか。
それは、あり得ない。
だって足柄〈わたし〉なのに。
(ごめん、みんな……ごめん……)
◆◆
夜が明けた。
夜の残り香が漂う鎮守府の廊下には、窓から差し込む朝の光による、薄明光線が浮かんでいた。
開いた執務室の扉から現れたのは、那智姉さんだ。
「那智姉さんは、これから外出?」
「いや、書類を取りに戻るだけだ。それより足柄。こんな朝早くに ――どうかしたのか? 随分険しい顔をしている」
「実は――」
あの提督がこの時代にない物を持っているのは何故だ。
それは私と同じとみるべきだ。
神は試練を越えよと言った。
試練とは障害の事である。
つまり、あの提督は勝利への障害だ。
追い出す、あるいは……手荒な真似はしたくないが仲間の為にも覚悟を決めねばなるまい。
「提督に相談があるのよ」
「また何かやったのか」
「そんなところ」
「あまり時間を取らせるなよ。司令は多忙だ」
「大丈夫よ。直ぐ終わるから」
那智姉さんは、訝しげな顔をしたが、立ち去った。
戻ってくるまで、十分と言ったところだろう。
十分だ。
◆
「失礼します」
厳かな筈の執務室は、慌ただしさと余裕の無さで、雑多な場と変貌していた。
出版社の編集部と言うイメージが湧いたが、直ぐにかき消した。
大人でも無く子供でも無い、声がする。
「書類の追加とか言わないだろうな。那智」
執務机に高く積み上げられた書類の山越しに、黒い髪が見えた。
タンタンタン、どうやらハンコを押しているらしい。
「足柄です」
「あしがら?」
書類の山から顔を出した提督は、酷い顔をしていた。
鉄拳制裁を受けた新兵〈ルーキー〉でも、もう少し冴えた顔をしているだろう。
「見ての通り手が離せないから、後にしてくれ」
「大事〈だいじ〉な話です」
「それは、今でないとだめか?」
「この国の存亡に関わります」
彼は何事も無かったかの様に、山から書類を一枚取ると、それにハンコを押した。
「それは確かに大事〈だいじ〉だな」
部屋に置かれた木製のラック、それに置かれた花瓶に、動かされた形跡は無い。
「この鎮守府に正体不明の侵入者が居ます」
ハンコを押す音が止まった。
――ギィ――
僅かな躊躇いの後に、椅子の背もたれが軋みをあげた。
両手を組んだ彼は、両肘を机の上に置いていた。
彼のその姿は、意外と様になっていた。
「それは確かに大事〈おおごと〉だ。だが、言い切るからには根拠があっての事だろうな?」
残念ながら私は見てしまったのだ。
「提督。貴方は何者?」
当然の事ながら、彼の放つ雰囲気が固いモノに変わった。
もう後戻りは出来ないが、そもそもこの鎮守府にやってくる前から後には引けないのだ。
沈んだ時から。
或いは、戦い始めた時から。
いや、艦艇として産まれた時からだ。
窓から差し込む朝日を背光の様に受けるその人は、それ相応に見えた。
少なくとも司令と呼んでも差し支えあるまい。
残念な事にそれは、私の確信を補強する。
「今訂正するなら、無かった事にする」
「必要ないわ。証拠を見つけたから」
私は、花瓶で隠されていた鍵を、掴み取った。
――ギィ――
その扉は、数時間前と同じ嫌な音を立てたが、敷き詰められていた本は、全て無くなっていた。
本どころか、本棚すら無くなっており、空の木箱が置かれているだけだった。
ありえない。
これが事実なら、五・六人でも半日はかかる量を数時間で、誰にも気づかれず一人で、運び出した事になる。
一体どうやって。
「これはペナルティだな。見逃せばルールが形骸化してしまう」
彼が無表情なのは嘲笑だろうか、それとも呆れだろうか。
生憎とその真意を確認する機会は無い様だ。
「その鍵を知っていたと言う事は、共謀者が居るだろう。羽黒か? 妙高か?」
「私の独断よ。煮るなり焼くなり、好きになさい」
「謝罪しろ、足柄。そうすれば、ルールを乱さずに済む。お前へのペナルティも軽微で済む」
「事実は曲げられないので拒否します」
提督が目を瞑っていたのは数秒の筈だが、とても長い様に感じたのは何故だろうか。
「自室謹慎を命じる。追って沙汰を待て」
大勢の艦艇〈なかま〉が、海に沈んでいった。
大勢の乗組員〈ひとたち〉と、沈んでいった。
共に闘い果てた仲間の事を、私は忘れたりしない。
例え違う世界の話だろうと、私は仲間の死を無い事になんてしない。
無い事になんてできるもんですか。
「神に伝えなさい! 例え船型に戻ろうとも! 例え時代が変わっても! 日本海軍の重巡としてその責務を果たすわ!」
彼は目を丸くしていたが、私の声の大きさが理由では無いらしい。
「……今、神と言ったのか?」
「それが何」
「何故、神に伝えろと俺に言った?」
「だから何」
「この部屋の事以外にも、知っている事がある様だ。足柄、お前は何を知っている」
「誰が言うもんですか」
「よかろう。なら勝負だ。足柄が勝てば知りたい事を話そう。ただし――」
「良いわ。その条件飲んだ」
白黒付けるのが海でとは、上出来だ。