ストーリー・フェイト──巨人も魔獣も悪魔も邪竜も神さえも悉く討ち斃す最強の先輩が、ある日突然女の子になってしまったのですが。一体、後輩の僕はどうすればいいのでしょうか── 作:白糖黒鍵
その姿見の中にいたのは一人の少女であった。見紛うことのない、疑う余地もない────そう、一人の少女がいた。
煌々と燃ゆる紅蓮の髪。それと全く同じ色をした瞳。『
……そう、ラグナは理解していた。ラグナは知っていた。ラグナはわかっていた。そうであると受け止め、そうなのだと認めていた。
もう認めざるを得なくて、もう認めるしかなくて────だがそれでも、未だに納得はしていなかった。納得できる、はずもなかった。
確かに今の自分は女だ。この姿見の前にこうして立っている自分は、見紛うことなき一人の女だ。たとえ己が違うと訴えようと。否とどれだけ断じ続けようとも。所詮それは己だけの真実に過ぎなくて。その目の映る全てが事実である他にとっては、一考する余地もなければその価値すら微塵もない虚実でしかない。そしてそんなことは、ラグナとて知っている。思い知っている。
だがしかし、それでも。偽りとしか受け取れない真であっても。それはラグナにとっては譲れないものだった。どうしても譲りたくないもので、絶対に譲らせないものだった。
何故ならばそれは、それだけが。ラグナをラグナと定めるものだから。ラグナをラグナたらしめるものなのだから。
身体は女であろうと、この心は未だ男のまま。故に己は女に
『今のアンタにわからせてやる。理解させてやる……その身体と、そして心に。そうすれば、その瞳だってきっと
たとえ女として散々謗られ、散々弄ばれ。酷たらしい陵辱の仕打ちをいくら受けようと。ラグナのその思いが変わることはない。ラグナのその思いは揺らがない──────────
『今の先輩が僕の為に、一体何ができるっていうんですか。……僕の知っているラグナ先輩じゃない、今の
──────────はずだった、のに。
──俺って、俺が思う程強くなかった。全然、弱かったんだ。弱いままだったんだ……。
と、ラグナは心の中で静かに呟き、そして自嘲した。しょうもない奴、どうしようもない奴と自らをそう蔑んだ。そうせずには、いられなかった。
だってそうだろう。たった一つの言葉で、こうもあっさりと。呆気なく、簡単に。万夫不当、不撓不屈たらんとした己の思いを。鉄にも鋼にも勝るこの思いが。
変わってしまった。揺らいでしまった。……嗚呼、だけれど。それも仕方ないではないか。思いの礎となっていた
そう少しでも、そう僅かにでも思えることができたのなら、ラグナも幾分か楽になれたというのに。
そんな言い訳を盾にできる程、ラグナは器用ではない。そんな言い訳を思いつける程、ラグナは薄情ではない。
だが、その言葉を受け止められる程、ラグナは気丈でもない。
だから、ラグナは。
『
あの日、あの夜。あの時、あの場で。恐る恐る、訊ねたのだ。
『何か、あんのかな。今の俺ができることって、なんだろうな』
縋って、頼って。そうして、ラグナは一つの選択を与えられた。
『じゃあ……『
たった一つの、その選択を。……だがその選択はラグナにとっては尋常ではないものだった。あまりにもあり得ない、論外なものだった。
それを選んで取ることなど以ての外。そうしたが最後、恐らくきっと、自分は──────────けれど、しかし。
──今の俺にできること……今の俺にでも、できること。それがそうだってんなら、俺は。俺は…………。
ラグナはもう、手を伸ばさずにはいられないでいた。たとえそれがボロボロの板切れだとしても、板切れには違いないのだし。それを手に取れば、自分はもうこれ以上後悔と絶望の海へ沈んでいくこともないのだから。
そうして行き着いた先が。そうまでして辿り着いた先が。その末路が、これだ。
「……あ、れ?」
ラグナ。ラグナ=アルティ=ブレイズ。世界最強と謳われる『三極』の一人。《SS》
その思い自体は今でも変わらない。そうで在りたいと、そう在らなくてはと。今もなお、未だにそうラグナは思っている。
苦渋の選択だった。望まない選択だった。こうするしか他になかったから、こうした────はずだった。
「……女の服、着てんのに。女の格好なんか、してんのに」
だというのに、どうして。どうして『
姿見の前に立っている自分は。この、
「何で俺、こんな……?」
コンコン──と、その時。不意に更衣室の扉が軽く叩かれ、その音が部屋に響き渡った。そしてすぐさま扉越しに声がかけられる。
「ラグナー?着替えられたかしらー?」
「……ぉ、おう!き、着替えられた!ちゃんと俺一人でも着替えられたぞ!」
不意に扉を叩かれ。不意に声をかけられ。思わず声を上擦らせそうになりながらも、ラグナはなんとか平常を装って返事をする。その声の主────こちらの様子を見に来たのであろう、メルネに対して。
「そう?なら良かったわ。じゃあ私も中に入らせてもらうわね」
「えっ……あ、ああ!入って来ても大丈夫だぞ全然!」
そうしてゆっくりと、静かに。更衣室の扉が開かれて、その言葉通り部屋の中へとメルネが進み入る。ラグナの前に現れた彼女は、何故かその手に帽子を持っていた。
「……あら。あらあら、まあまあ」
と、更衣室の中に入ってすぐラグナのことを見やったメルネが感嘆の声を漏らす。そんな彼女に対しておどおどとおっかなびっくりにラグナが訊ねる。
「ど、どうだ?俺、どっか変じゃない……か?」
「いえ変も何も……可愛い!可愛いわぁラグナっ!凄く似合ってるっ!」
ラグナの問いかけに、メルネは瞳を輝かせてそう答えた。
──……可愛い、似合ってる……か。
しかし彼女のその答えはラグナにとっては喜ばしくもなければ嬉しくもない、複雑めいたもので。そしてそのことにすぐさま気づいたのだろうメルネが、ハッとした様子で慌てて言う。
「ご、ごめんなさいラグナ。こんなこと言われても、あなたはちっとも嬉しくないし、喜ばないわよね。私、無神経だったわ……」
「別に気にすることねえよ俺は平気だから、さ。んなことよりも……どうしたんだ、それ?」
「え?……ああ、この帽子?これはね、あなたへ渡そうと持ってきたのよ」
「は?俺に?何でだ?」
メルネからの謝罪を受け止めつつ、ラグナは今彼女がその手に持つ帽子について訊ね。メルネはそう言って、困惑するラグナにその帽子を差し出す。
「そう髪が長いと、仕事の邪魔になるかもしれないから。この帽子を被って、ある程度中に入れたら邪魔にならないと思うわ」
どうやらその帽子はメルネの親切心だったようだ。
「あー……確かに、な。そういうことならわかった。あんがと、メルネ」
「どういたしまして。それじゃあ私は戻るから、準備が終わったら受付まで来て頂戴ね」
「おう」
そうしてラグナとメルネの会話は終わり。更衣室から立ち去ろうと踵を返した、メルネの背中を見つめ。僅かに躊躇いながらも、ラグナは焦った声音を喉奥から飛び出させた。
「メ、メルネ!」
ラグナに呼び止められたメルネがその場で立ち止まり、ゆっくりと振り返る。その顔に驚愕の色が見え隠れする、意外そうな表情を浮かばせて。
「どうしたの、ラグナ?」
「いや、その、えっと……」
いざ呼び止めたはいいものの、ラグナは吃ってしまう。果たして、これをメルネに訊いてもいいのかと。自分はそうしてもいいのだろうかと。
現実の時間にしてみればほんの数秒────だがラグナにとっては永遠とも思える迷いの最中。黙ってこちらのことを待ってくれているメルネに、ラグナは意を決して遂に訊いた。
「俺今どんな顔してんだ?ふ、普通か?」
「……え?え、ええ。私にはいつもと変わらないように見えるけど……」
メルネの言葉を聞いて、ラグナは思わずホッと胸を撫で下ろす。それから別に大したことではないとでも言うように、依然困惑する彼女に言葉を返す。
「そ、そっか。なら大丈夫だ。急に呼び止めてこんなこと訊いて悪かったな」
「そうなの?まあ、ラグナがいいのなら私は構わないけれど……本当に大丈夫なのよね?」
「ああ。大丈夫。……本当にもう、大丈夫だから」
「…………」
恐らくその長い沈黙には、メルネにも何かしら思うところがあった表れだったに違いない。しかし、それ以上彼女がラグナに言及することはなく。かと言って苦言を呈することもなく。その時彼女は────ただ、微笑んだ。
「わかったわ」
そうとだけ言い残して、メルネは更衣室を立ち去った。ラグナも今度は呼び止めなかった。
また独りとなったラグナが、静かに呟く。
「じゃあ、やっぱり気の所為だ。さっきは俺の見間違いだったんだ」
そう呟いて、メルネから渡された帽子を握り締めながら。ラグナは先程の光景を頭の隅へと追いやる。
先程の光景──────────姿見に映ったあの