ストーリー・フェイト──巨人も魔獣も悪魔も邪竜も神さえも悉く討ち斃す最強の先輩が、ある日突然女の子になってしまったのですが。一体、後輩の僕はどうすればいいのでしょうか── 作:白糖黒鍵
現時刻、ようやっと空は白んだが肝心の太陽は未だ昇り切らずにいる朝。
集まった
ラグナ自身、誰もいないこの広間を目の当たりにするのは初めてのことで。普段であれば誰かしら一人は立っている
そんながらんどうな空間を、ラグナはメルネを待っている間、こうして呆然と遠目から眺めていた。
──メルネ、まだかな……。
時間にしてたったの数分。けれど手持ち無沙汰な今のラグナにとってそのたったの数分ですら長いように感じられて、実にもどかしい。
メルネの到来を待ち望みながら、心の中でそう呟くラグナ。その時、ふと唐突に────
『おはようラグナ。今日はこんな
────そんな光景が、ラグナの脳裏に浮かび上がった。
そう言って、相対するこちらに一枚の依頼書を見せるメルネ。想起される光景はまだ他にもあって、それは些細な日常会話から請け負った依頼の報告など。とにかく、様々なものが色々あった。
「……」
メルネに待っていてくれと頼まれ、言われたその通りに広間で独り、特に何をするでなく無言で静かに待っているだけのラグナが。今、ようやっとその場から動き出す。
恐らくきっと、それはただの気紛れだった。別にそうしたいという目的も、そうしなければという意思も。そんな高尚なものなどはない。ないままに、ラグナは歩く。
慌てることなく、急ぐことなく。ゆっくりと、静かに。見つめるその先を目指して。
良く言うなら落ち着いた、しかし悪く言えば遅い足取りで。けれどラグナがその場所に辿り着くのに、数分とかからなかった。
「…………」
何も呟かず、微かな一声を発することもなく。つい先程までは遠目から眺めるだけだったその場所を────この
視界に映した受付台へ、ラグナがゆっくりと振り上げた腕を振り下ろす。まるでその感触を確かめるように、まずは手で触れ、次にラグナはぺたんと受付台に突かせていたその手を離す。が、指先までは離さない。
ツツ──常日頃から布で拭かれ、磨かれそうして清潔に保たれている受付台を。割れ物でも扱うかのように丁寧に、慎重に指先でなぞりながら。再び、ラグナは動き出す。
結論を先に述べてしまうと、ラグナは受付台から離れた訳ではない。ラグナが移動したのは────受付台の
内側。受付台の
そしてそれはラグナにも言えること。そう、《SS》冒険者の『炎鬼神』ラグナ=アルティ=ブレイズが。受付台の内側に立つことなど、金輪際あり得ない。
けれど、現に今。そのあり得ない事態が確かな現実の最中に起こっている。
あのラグナ=アルティ=ブレイズが内側に立っている。冒険者としてではなく、受付嬢として。
言うまでもなく、ラグナが受付台の内側に立ったのはこれが初めてのことで。またそこから眺める景色も、初めて目にするもので。
別に内装が変わった訳ではない。置いてあるテーブルや椅子が変わった訳でもない。ただ眺める立ち位置を変えただけ────だと言うのに。
「……こんな感じ、なんだな」
言葉では表せない、妙な新鮮味をラグナは味わっていた。
今日これからやる仕事に関して、ラグナはまだメルネから詳しく説明されていない。とはいえ、見習いの新人受付嬢がやることなど、掃除に給仕に書類等の整理。それと各々の冒険者組合へ発行された
だがそれは最初の時だけで──そもそもどの程度の期間まで受付嬢として働くのか、ラグナはまだ特に決めていないが──仕事に手慣れ始めたら、自ずと次の段階へと進むだろう。
そう、次の段階────
ラグナが知るそれは、主に依頼の確認や受理、その完了報告。それくらいことだ。
……だが、それはあくまでも
時には
そしていざ依頼へ出向く為に発つ冒険者たちの背中を見送り、組合に帰って来た彼らを笑顔で以て出迎える────そんな、冒険者たちとのコミュニケーション。
言ってしまえば受付嬢の仕事には入らないが、しかし受付嬢が果たすべきどの仕事よりも重大で、そして確と為すべき重要な『役目』であるということを。冒険者であるとて、ラグナも重々承知していたのだ。何より、実際にその目で見てきた。
そして見習いの新人とはいえ受付嬢となったラグナもまた、同じようにその役目を為さなければならない。
一応は先輩に当たるあの三人の受付嬢がそうしてきたように。ずっと昔から、今の今までそうし続けてきたメルネのように。
「俺も同じように……あんな、風に」
小さくそう呟いて、ラグナは腕を振り上げる。振り上げ、その手を己の胸にやった。
『気をつけてね、ラグナ。あんまり無茶はしちゃ駄目よ?』
胸に手を押し当てながら、ラグナは自分にかけられたメルネの言葉を思い出す。そして、その続きも。
『それじゃあ、いってらっしゃい』
際限なく溢れ出して止まらない、数々の記憶。かつての日々の思い出。その時その時は取り留めのない、ほんの些細な日常の一部にしか過ぎなかったというのに。
今になって────いや、こうして受付台の内側に立って。冒険者としてではなく、受付嬢として立って。執拗にも頭の奥底の隅から次々と掘り起こされる。目に痛い程、鮮明になって。
疑問だった。どうして今更と、何故今になってこんな昔のことをと。
何度も何度も、繰り返し繰り返し。馬鹿の一つ覚えのように思い出してしまうのだろう。その理由が────自分でもわからなかった。
わからず戸惑い、ただひたすらに当惑する最中。答えを見出すこともできないままに、ラグナは胸に押し当てていたその手を、そっと離した。
「何で俺は、こんな……」
そう呟いたその声も、自分でもはっきりと手に取るようにわかる程、不安げに揺れていて。それが自分でも情けなくて、恥ずかしかった。
その疑問に対して答えを見つけられず、どうすることもできないラグナは、胸から離し所在なげにしていたその手を。何をする訳でもなくただ宙へと翳し、そして追い縋るかのように。
見つめる視線の先────『
ギイィィ──厳かに固く閉ざされていたその大扉が、軋んだ音を立てながらゆっくりと開かれた。
「っ!」
大扉が開かれたことに対し、ラグナは大いに動揺してしまい、その肩を小さく跳ねさせる。
未だ太陽が昇り切らないでいるこの早朝に、『大翼の不死鳥』に来る冒険者はそうはいない。
──だだだ、誰だ?てか俺まだ心の準備ってやつがぁぁぁぁ……っ!?
隠れようにも、動揺している身体は上手く動かず。ラグナは数秒の間、その場で硬直し突っ立ってしまう。そしてその僅かな数秒の間でも、大扉を開き切るのには充分過ぎる間であった。
完全に開かれた大扉。その向こうに立っていた者の姿を、いざ視界に捉えたラグナは────────
「…………え」
────────目を見開き、呆気に取られたその声を漏らさずにはいられなかった。