ストーリー・フェイト──巨人も魔獣も悪魔も邪竜も神さえも悉く討ち斃す最強の先輩が、ある日突然女の子になってしまったのですが。一体、後輩の僕はどうすればいいのでしょうか── 作:白糖黒鍵
『止めてくださいよ、僕を
そう、それも事実。歴とした、確かな事実。紛れもない、何の間違いもない事実。
「っ、ぁ」
今言っていなくとも。今、それが幻聴であったとしても。
『止めてくださいよ、僕を
あの日、あの夜、あの時に。クラハがラグナにそう言った。その事実は────その現実は変わらない。
「ぁ、ぁぁ」
たとえ今は言っていないとしても。たとえ今は幻聴だとしても────────それは絶対に、変わらない。
「ぁぁぁぁ……」
それは決して変えようがない事実だ。それは決して覆せはしない現実だ。そのことを今ここで、改めて。ラグナは知った。確と思い知らされ、心の深い奥底にその事実と現実を。これでもかと、徹底的に、容赦なく、無遠慮に。刻み、刻まれた。
──あぁぁぁぁ…………っ!
気づき、直面し、自覚してしまえば。後はもう、落ちるだけ。落ちて落ちて、何処までも落ちていって。そして最後に、陥るだけ。
途方もない罪の意識。止まらず加速する後悔。その二つが生む負の大渦に、ラグナは為す術もなく、抵抗することも許されずに。あっという間に呆気なく、いとも容易く呑み込まれる。
未だに今も苦しみ、ひたすら苦しみ、ただただ苦しみ。苦しみ苦しみ苦しみ続けることしかできないでいるクラハの姿を。その見るに堪えない、悲痛悲惨この上ない姿を。余さず残さず、在りのままに映すラグナの視界が、徐々に。徐々に徐々に少しずつ、暗くなっていく。暗く、そして昏く。
──……嫌、だ。嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ……。
それに比例して。ラグナの精神が苛まれる。ラグナの心意が蝕まれる。その意気を犯され、意志さえも穢される。
──嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ……!
あれ程までに奮い立たせた決意は、今折られた。その胸中に抱いた覚悟は、今奪われた。今や、そこにいるラグナはもう────────無力でちっぽけな一人の
──嫌だ、嫌だ……嫌だっ、嫌だ嫌だ嫌だ、もう嫌だっ!!
周囲全て、己を取り囲むもの全部が。影に覆われ闇に包まれる最中。ラグナはその真紅の瞳を潤ませ、端に大粒の雫を浮かばせながら。
小さな身体を惨めに震わせ、自らを覆わんとする影を拒絶し、自らを包まんとする闇に嫌悪した。
そしてラグナはその末に、その果てに────────
──怖い…………っ。
────────恐怖した。
拒絶が嫌悪を引き起こし、そして嫌悪は恐怖を駆り立てる。
爪先から迸った怖気が背筋を一気に駆け抜け、脳天を突き抜けて。ラグナは身体を怯え縮こませ、硬直に固めていく。
動けとあれ程切実に訴え、あらん限りの力を込めたはずの足は、もう竦んでしまって。たったの一歩を踏み出すどころか、振り上げることすら叶わない。
──怖い、怖い……!
ラグナの中で恐怖が広がる。底なしの恐怖が、際限なく。それに相対したラグナはろくに抗えもせず、ただ女々しく己が両腕で、己が身体を抱き締めることしかできない。
──怖い怖い怖い怖いっ!!
そして広がり続けるその恐怖は、次第にラグナを支配する。
──誰、か……誰でも、いいから……っ。
影が覆い、闇が包み。拒絶と嫌悪と、そして恐怖が渦巻くその最中で。ラグナは、ただ。
──助けて。俺を、助けて……!
自らに救いの手が差し伸べられるのを、切に求めた。
そもそも、資格がどうこうの話ではなかったのだ。どうにかするだとか、どうしてやれるだとか────それ以前の問題だったのだ。
たとえ資格があっても。たとえ、ラグナに誰かを助ける資格が今あったとしても。
何故ならば、その当人たるラグナこそ。他の誰よりも強く、他の誰かに。今、切に助けを求めてしまっているのだから。今、切に救いを欲しているのだから。
──助けて。助けて、助けて助けて助けて……。
故に資格がどうこうの話ではなく。故にそれ以前の問題だった。
一歩も踏み出せず、全く動けずに。ただ恐怖に怯え、惨めに弱々しく震えながら。顔を俯かせたまま、その場に立ち尽くすことしかできないでいるラグナ。
「今の先輩が僕の為に、一体何ができるっていうんですか。……僕の知っているラグナ先輩じゃない、今の
そんな時、不意に。その声がラグナのすぐ耳元でした。
「ひっ……」
瞬間、肩を跳ねさせ、僅かに薄く開いた唇の隙間から引き攣った悲鳴を小さく漏らすと。ラグナは咄嗟に俯かせていたその顔を、声がした方へ向ける。
だが、そこにあったのは影よりも濃く闇より深いだけの、漆黒の虚空。当然、先程の声の主の姿など、どこにも見当たらない。
だのに────
「止めてくださいよ。僕を
────またしても、その声がラグナの耳元で聞こえてくる。ラグナの耳朶を打ち、ラグナの鼓膜を震わせる。
「なん、で、どう、して……?なんでどうしてっ!?」
戸惑い、困惑するしかないでいるラグナを置き去りに。依然としてその声が────クラハの言葉がラグナのことを取り囲むようにして、響き続ける。
「つまり……
「だってそうじゃないですか。先輩は僕の為にここに乗り込んだ。そして酷い目に遭わされた」
「何が違うんですか。何も、違わないじゃないですか」
「遠回しに僕の所為だと、お前が原因で自分は酷い目に遭ったんだって」
響き続けて、止まらない。クラハの声が、クラハの言葉は。何度も何度も、ずっと。ラグナのすぐ耳元で、止まらず繰り返されて。
「や、止めろ……っ!」
遠慮容赦なく、止め処なく。ラグナを痛めつけ、嬲る。
叩き、打ち、突き、圧し、潰し、締め、折り、斬り、刻み、刺し、抉り、剥ぎ、削ぎ、穿ち、貫き────────ありとあらゆる、無数の形の痛みで以て。ラグナを追い込んで、追い詰める。
「止め、ろ……っ!」
追い込み、追い詰め。追い込みに追い込んで、追い詰めに追い詰める。
「止めろ、止めろっ……止、め……もう、止め……て……!」
追い込み追い込み追い込み追い込み追い込み。追い詰め追い詰め追い詰め追い詰め追い詰め。ラグナが限界を迎えたとしても、責苦を与えるその手を緩めることなどせず。
「止めて止めて止めて止めて止めて止めて止めて…………っい、ぁ……!!」
ラグナがいくらそう懇願しても、一切緩めず────
「ぁ、あっ……ぅ、ぁぁ、ぁぁぁああっうあああッ!うぅああああああ…………ッ!!!」
────そうしてとうとう、遂に。その末に堪えられなくなったラグナは悲痛な叫び声を上げると、手で耳を塞ぎ。その場にへたり込んでしまった。
「聞きたくねえ聞きたくねえ聞きたくねえ!もう聞きたくねえんだよおっ!!だから、だからぁ……っ」
と、恥も外聞もかなぐり捨てた泣き言を。ラグナは情けなく惨めに喚き散らしながら、耳を塞ぐ手に力をより、さらに込める。
そうすることでその声から。こうすることでその言葉から。逃れられる、たった一つの方法と信じ。一生懸命、必死になって縋りながら。
……だが、それでも。
「僕の知っているラグナ先輩じゃない、今の
その声は聞こえた。その言葉が届いた。先程と寸分も違わず、何もかも違わず、全く同じように。
「……は……?」
それは、唯一の信頼を寄せていたなけなしの希望が。無情にも、無惨にも粉々に。木っ端微塵と打ち砕かれた瞬間。影も形も残さず破壊された、決定的瞬間。
恐怖に彩られた絶望の表情を浮かべて、刹那。ラグナは気がついた────────その声がこちらの耳朶など
「僕の知っているラグナ先輩じゃない、今の
その声は。
「僕の知っているラグナ先輩じゃない、今の
その言葉は。
「僕の知っているラグナ先輩じゃない、今の
今までの、その全ては。
『僕の知っているラグナ先輩じゃない、今の
「ぅ、ぁ……ぁ、ぁ……」
耳を塞いでも無駄であると。耳を塞いだとしても逃げられないと。そのことを無理矢理に教えられ、否応になく理解させられたラグナは。意味を成さない掠れ声を力なく漏らしながら、ゆっくりと。耳を塞いでいたその手を剥がし、そのまま上の方へやる。
煌めく紅玉が如きその双眸は今や、零れ落ちそうな程に見開いていて。そこから溢れた透き通った涙が流れ、透明な雫となって、輝きの尾を引きながら滴る。
そのラグナの様は誰もが胸を痛めるだろうくらいに悲しく、哀しく────そして綺麗で美しい。
『止めてくださいよ。僕を
絶望し、ただひたすらに絶望し、もはや絶望する他ないラグナの頭の中で。
『遠回しに僕の所為だと、お前が原因で自分は酷い目に遭ったんだって』
その声が響く。
『だってそうじゃないですか。先輩は僕の為にここに乗り込んだ。そして酷い目に遭わされた』
その言葉が並ぶ。
『何が違うんですか。何も、違わないじゃないですか』
声が響き。響き、響き。
『遠回しに僕の所為だと』
言葉が並び。並び、並び。
『僕を
響き。響き。響き。響き。響き。
『何も、違わない』
並び。並び。並び。並び。並び。
『僕の知っているラグナ先輩じゃない』
響き響き響き響き響き────────そして。
『今の
並び並び並び並び並び────────そして。
『僕の知っているラグナ先輩じゃない、今の
残響し、羅列し。
『つまり……
そして、埋め尽くした。
「………………」
気がつけば、聞こえなくなっていた。気がつけば、消えていた。
つい先程まで頭の中で響いて、響いて、ただひたすらに残響し続けていたその声も。
今さっきまで頭の中で並んで、並んで、ただひたすらに羅列し続けていたその言葉も。
頭の中全て、隅々にまで至り、僅か微かな余地すら一切に残さず。埋めて埋めて埋めて埋め尽くしていた声も言葉も、その何もかもが。まるで跡形もなく、ラグナから失せていた。
ラグナは解放された。こちらの身も心も、その全てを例外なく平等に。散々と苛み虐げ痛め嬲っていた声と言葉から、ようやっと解放された。とうとう、遂に解放された。
あれ程までに切願し懇願した、自由と安楽。それを今この瞬間、ラグナは手に入れることができた────が。
「…………」
依然へたり込んだままのラグナの身体が少しばかり、左右に揺れ動き。それから前のめりになったかと思えば、そのまま力なく、静かに。ラグナは倒れた。
遅かった。もう、遅過ぎた。もはや手遅れだったのだ。
残響し続けた声はラグナを疲弊させた。羅列し続けた言葉はラグナを消耗させた。
その二つが、ラグナを憔悴させ切った。
煌めく紅玉が如き真紅の双眸も、今や失意の底へ沈み。果てしなき絶望に呑まれて。何処までも昏く濁り、穢れた
活力と意志に満ち溢れていたその表情も、今では消失の虚無に上塗られ、塗り潰されていた。
倒れてしまったラグナは起き上がる気配を全く見せず、微動だにしないまま。時間だけが過ぎていく。
過ぎ去るその時間と共に、ラグナの瞼が徐々に閉じられていく。まるで、眠るかのように。
そしてラグナの瞼が完全に閉じられた、その瞬間。
ズズズ──倒れたままのラグナの身体が、沈み始めた。
「……」
それはまるで沼へ沈んでいくような感覚。だが今、ラグナが沈んでいっているのは、闇。一筋の光すら届かない、果てしなき終わりの闇。
もしこのまま、その闇に沈んだとして。深い深い、この闇に沈み込んでしまったとして。
その時、自分はどうなるのだろうか。その後、自分はどんな末路を辿ることになるのだろうか────という、きっと誰も彼もが抱くであろう、そんな簡単で単純で当然な疑問。
そんな疑問ですら、ラグナは抱けない。ラグナは何も考えられない。
今、ラグナの頭にあるのは真っ白な。色のない、空虚な空白だけ。
故に踠こうとも、足掻こうともせず。一切の、ほんの些細な抵抗を試みようともしないままに。
抗わないラグナは為す術もなく、闇へ沈んでいく。深闇へ、ただ引き摺り込まれていく。
そうしてあと十数秒と過ぎない内にその身が闇に飲み込まれる、その時。
何を思った訳でもなく、無意識に。ラグナは閉じた瞼を薄らと開ける。
ろくに見えもしない、どろりと淀む狭い視界の最中に。
「………………ぁ」
その姿だけは、綺麗に。はっきりと確かに、ラグナは映した。