ストーリー・フェイト──巨人も魔獣も悪魔も邪竜も神さえも悉く討ち斃す最強の先輩が、ある日突然女の子になってしまったのですが。一体、後輩の僕はどうすればいいのでしょうか── 作:白糖黒鍵
「今のあなたに、とても良く似合ってますね」
と、それだけ最後に伝えて。それに対するラグナの返事も待たずに、用の済んだクラハが来賓室を後にする。
開いた扉を音もなく、丁寧に閉ざし。そしてクラハはその場から離れようと歩き出す────
「話はもう終わったのかしら」
────直前、横合いからいきなり話しかけられ、彼はその足を止めざるを得なくなった。
「だとすれば……少し、広がりに欠ける話だったようね」
律儀にもその場に踏み止まったクラハに対して、声の主────メルネはそう続ける。その声音は落ち着いており、しかし注意深くよく聴いてみれば。そこには責め立てる非難の響きが含まれていることに気がつけるはずである。そして、それに気がつけないクラハではない。
その上で、クラハはメルネに顔を向けることもせず、淡々と短くこう返す。
「ええ」
そうして訪れる静寂。クラハとメルネの二人は互いに沈黙し、そのまま数秒が過ぎた後のこと。
「ラグナさんの時間を僕に割いて頂き、ありがとうございました。メルネさん」
先に再度口を開いたのはクラハで。やはり丁寧に、しかし何処までも他人行儀な口振りで。その時、その瞬間ですら顔を一切向けることなくメルネにそう言って、クラハはその場から去ろうと歩き出す。
その歩みを、メルネは。今度は止めようとはしなかった。
「…………ねえ」
そして徐々に遠去かるクラハの背中を見つめながらに、黙っていたメルネが不意にその口を開かせた。
「ラグナのこと。どうして普段通りに、先輩って呼ばないの?」
その問いかけが、クラハの足を再び止めさせた。
「……」
しかし、だからといってクラハが口を開くことはなく。おろか、やはりメルネに顔を向けることもなく。そして彼女に対し背を向けたままで、その場に立ち尽くすだけである。
そんな彼を、メルネはそれ以上何も言わず。ただ、何処か虚無めいた哀愁を漂わせるその背中を、じっと静かに見つめ、答えを待っている。
今度の静寂は数分と続き。そしてまたしても、沈黙を先に破ったのは────
「違う」
────クラハだった。その短い一言だけは、メルネの方を振り向いて言うのだった。
──……!
ようやっとこちらに振り向いたクラハの顔を目の当たりにしたメルネは、その時息を呑まずにはいられなかった。
喜怒哀楽の抜け落ちた、虚無の表情。宛らそれは、輪郭を縁取り、なぞり、人間の顔の形を真似て模した────
それを目の当たりにした者全員を、漏れなくゾッとさせる深淵の最中に。一瞬、だが確実に────メルネは、垣間見た。
此方を睥睨する、黒い獣の姿を。
「……失礼します」
不覚にも呆気に取られ、放心するように立ち尽くすメルネに。クラハはそれだけ伝えると、再び歩き出す。そんな彼の声に、ハッとメルネは我に返った。
「まっ、待ちなさい……!」
と、慌てて呼び止めようとするが。しかし、クラハはもう止まらない。それでも構わず、メルネは続ける。
「あなた、あなたは……ッ」
だが、そこまでだった。そこまで言って、メルネは口惜しげに、その口を閉ざした。
そうして、この場からクラハは去っていった。遠のく彼の背中が完全に消えるその時まで、黙り込んでいたメルネは。そっと、誰にも聞こえないだろう小さな声で呟く。
「……あなたはクラハ=ウインドア、なの……?」
声に出してそう言ったことで、否応にも実感させられる。そう訊ねなかった安堵と、そう訊ねられなかった後悔。
その二つに挟まれ、押し潰されながらに。メルネは来賓室の扉の方に振り向き、ゆっくりと歩み寄った。
そしてノックしようと手を上げ────そのまま、彼女は固まった。
──……私、には。
やはり、抱いたその疑問が。どうしてもメルネを躊躇わせる。果たして自分はこの扉を叩き、部屋の中にいるであろう人物に声をかけてもいいのだろうかと、彼女に考えさせてしまう。
何百と、散々に繰り返したその自問自答────そうだ。こんな自分に、そんな資格など──────────
「そこにいんだろ。メルネ」
──────────と、その時。メルネは突如として扉の向こうからそう話しかけられた。
その声────ラグナの声に。堪らず驚きながらも、平気な風を装いメルネは口を開く。
「ええ。いるわよ、ラグナ」
変に誤魔化そうとはせず。余計なことは言わず、率直にそう返すメルネ。それが功を奏したのか、そんな彼女に対してラグナが言う。
「クラハとの話、今さっき終わったから。仕事、すぐに戻るな」
ラグナのその声が、メルネの懊悩を加速させた。
「……そう、ね。お願い」
メルネは己を呪わずにはいられなかった。あの時も、この時でさえも。鈍感になれない己が、メルネは恨めしかった。
ラグナの声は揺れていた。震えていた。濡れていた。
それに気づくことができなかったのなら、一体どれだけ良かったことか。
「それじゃあ私、先に戻ってるわね」
部屋に入ることも、遂に扉を開くことさえせずに。そうとだけラグナに伝えて、メルネはまるでこの場から逃げるかのように。
来賓室の扉から離れようと背を向け、歩き出す────その直前。
「メ、メルネ!……悪い。ごめん」
という、扉の向こうのラグナの声が。メルネの足を止め、彼女を扉の前に留めさせた。
そしてすぐさま、ラグナがメルネに続ける。
「やっぱ……もうちょっと、だけさ。戻るの、待ってくんねえか……?頼む、から……」
と、懇願するラグナのその声は。弱々しく切なげで。可哀想な程に、淋しそうだった。
「……わかったわ」
「…………ホント、ごめん」
「大丈夫。大丈夫だから」
そうして、二人の会話が終わり。今一度、静寂となったその場にて、メルネは背を来賓室の扉に預け、そのままズルズルと腰を廊下の床に落とす。
──何が大丈夫よ。一体、何が大丈夫なんなのよ……。
その言葉の、あまりにもあんまりな無責任さに。言った自分ですら乾き切った笑いが込み上げてくる。……それと同時に、どうしようもない嫌気が差してくる。
どうしてこうなるのだろう。どうしてこうなってしまうのだろう。もうお手上げだった。匙を何本も放り投げ捨てた。
……なのに、それでも。
──私は、あなたの味方でいたい。
メルネ。メルネ=クリスタ。嗚呼、お前はなんと度し難い女なのだろう。
この期に及んで。間違えて、委ねて。その癖、味方でいたいなどと。もはや、どうしようもない。
優しさもない。厳しさもない。ただ狡くて、甘いだけの女────お前は、そういう女なのだ。
そういう女にしか、お前はなれない──────────
「………………」
ふと、メルネは思った。
いつの間に、この世界は。こんなにも酷く濁ってしまったのだろうか、と。