ストーリー・フェイト   作:白糖黒鍵

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崩壊(その九)

 バシャバシャバシャ──開かれた蛇口の先から水が流れ出し、洗面台へ叩きつけられる音が響く。それ以外に聞こえる音がない分、誇張するように。トイレ全体に喧しく響き渡る。

 

「……」

 

 その光景を数秒黙って眺めていたラグナが、呆然と心の中で呟く。

 

 ──あともうちょいで、出しちまうとこだった。

 

 そう、丁度この蛇口と同じように────そこまで考えて、ラグナはぶんぶんと頭を左右に振るう。

 

 そんなあったかもしれない最悪の未来は、こうして無事回避できたのだし。なのでもうこれ以上考えたりするのは無駄なことというか、野暮だろう。

 

 そんなこんなでラグナは気を取り直し。未だ懸命にも水を流し続けている蛇口の下に手を翳そうとして、その直前でラグナはふと思い出す。

 

「……ハンカチ、ハンカチっと」

 

 と、繰り返しそう呟きながらに。ラグナはハンカチを取り出し、それを口に咥える。

 

 咥えたそのハンカチを落とさぬよう気をつけて、改めてラグナは蛇口の下に手を翳し。丁寧に、入念に手を洗い流す。

 

「…………」

 

 つい先程、もう考える必要はないと。そう判断したばかりなのに。けれど、それが免れない人間の性というべきか。

 

 やはりこういった何でもない瞬間、ふとした拍子に────考えてしまう。別に考えなくてもいいことに限って、ひたすらにどうしようもなく、考えてしまうのだ。

 

 それがラグナの場合となると他でもない、この身体についてのことだった。

 

 ──女の身体。女の、俺の身体……。

 

 今こうしている間でも、この身体が自分の身体であるとラグナは認識している。不服ながら遺憾にも、自分の身体なのだと自覚している。

 

 だが、それでも。ラグナは如何ともし難い、拭い切れぬ()()()を抱いていた。

 

 しかし、ラグナにとってその違和感は()()でもあった。

 

 違和感を抱くということは、少なからずこれが正しいとは思っていないという証拠。これは異常で、正常ではないという何よりもの証明。

 

 当然だ。何せラグナは元々、歴とした男なのだから。その自意識は、こうしてきちんと残っている。

 

 ラグナがこの身体に────女の身体となってから三週間と数日が経った訳だが。未だに()()()()()()と自負している。

 

 だからこそ先程だって、胸に重心を取られて転びそうになったり。男の時の感覚が抜け切らず、危うく粗相をしでかしそうになったのだから。

 

 そしてそれらがラグナを安堵させる。この身体に戸惑い、翻弄され、苦労させられている自分がまだいることに。ラグナは安心できる。

 

 ……故に、時々。こんな風に、ふとした拍子に思う。

 

 ──俺は男だっていう気持ちがある。まだそう思えてる……けど。

 

 それがもし、()()()()()()()()()()

 

 今抱いているこの違和感。自分がまだ男であるという自意識。そういったもの全てが、いつの日か消えてしまったら。

 

 消えて、失くなって。そうして、この身体に()()()()()()()。異常だったことが正常なことに置き換わって、普通じゃないこれが普通になって。

 

 最終的に、自分が男であるという自意識も。次第に薄れていって──────────

 

「……っ」

 

 そこまで考えて、ラグナは目を瞑った。こうしてハンカチを咥えていなければ、きっと口元を苦々しげに歪めていた。

 

 ──もう止めだ、止め。

 

 こんなことを考えていたって、気が滅入るだけだ。頭が変になって、どうにかなってしまうだけだ。だから、できるだけ考えまいとしていたのに。

 

 いい加減、そのことに関する全ての思考を無理矢理に打ち切って。ラグナは蛇口を閉め、水を止める。それから咥えていたハンカチをようやっと手に取った。

 

 今度こそ無心になって、濡れた手を拭うラグナ。水気が取れたことを確かめ、そのハンカチを仕舞い込む。

 

「……はあ」

 

 最後に嘆息を一つ吐いて、ラグナはトイレを後にする。これからまた、自分はどうすればいいのだろうかと、思い悩んで────

 

 

 

 

 

「……ラグナ」

 

 

 

 

 

 ────そして、出会(でくわ)した。

 

「…………メ、ルネ?」

 

 今、ラグナの眼前にはメルネが立っていた。他の誰でもない、『大翼の不死鳥(フェニシオン)』代表受付嬢であるメルネ=クリスタがそこに立っていたのである。

 

 完全に不意を突かれたラグナは、ただ呆然とメルネの名を呟くことしかできず。そして対するメルネといえば、何処か思い詰めたような。そんな、神妙な面持ちを浮かべていて。

 

 互いに無言のまま、数秒見つめ合ったその末に。この状況の最中、先に動いたのは────メルネの方だった。

 

 ゆっくりと、自分の方へ歩み寄るメルネに対して。ラグナは目を白黒させながら、しどろもどろになって。必死に、どうにか言葉を紡ごうとする。

 

「ご、ごめん。ごめんメルネ。これ、違くて。その、俺は」

 

 だが、メルネは何も言わずに黙ったまま。ラグナとの距離を詰め。そうして、ラグナの目の前に。

 

 腕を振り上げ、手を伸ばせばすぐ届くところにまでやって来て、メルネは────

 

 

 

 ギュゥ──要領の得ない言葉を出鱈目に口から溢すラグナを、優しく抱き締めた。

 

 

 

「メ、メルネっ?」

 

 ラグナにとって、これは予想だにしなかった行動で。それ故に困惑の声を咄嗟に出さずにはいられず。

 

 そのように戸惑う他にないラグナのことを、メルネは叱責することなく、だが依然として黙ったまま。その華奢で柔い小さな身体を、しっかりと抱き締め続けるのだった。

 

 メルネに抱き締められ、彼女の胸元に顔を埋めて。ラグナは徐々に、思考を溶かされる。頭の中が蕩けて、つい口走ってしまう。

 

「…………俺、さ」

 

 それは、今の今まで。ずっと、心の奥底に押し込めて、ひた隠していた本音(ふあん)

 

「男だって、思ってもいいんだよな。俺は……今でも俺は男だって、そう思っても……」

 

 ラグナにはまだ、自分は男だという確固たる自意識が残っている。その性自認だけは、決して変えたくないとラグナはまだ思っている。

 

 たとえ女の身体であろうと、こうして女の格好になろうとも。それだけは譲れない。ラグナは譲りたくない。

 

 ……けれど、果たして。こんな自分に────

 

 

 

『あなたはもう僕の先輩じゃない』

 

 

 

 ────そう面と向かって言われて。逃げ出した自分に、その資格はあるのだろうか。そう思っていてもいい、資格は。

 

 ラグナはもう、それがわからなかった。わからなくなってしまった。

 

『あなたは受付嬢だ』

 

 その言葉が頭の中で響いて響いて、残響し続けて。もはやどうしようもなかった。

 

 そんなラグナのことを、メルネは。

 

「……ッ」

 

 より一層力強く、しかし黙ったまま。そうして抱き締め続けるのだった。

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