ストーリー・フェイト──巨人も魔獣も悪魔も邪竜も神さえも悉く討ち斃す最強の先輩が、ある日突然女の子になってしまったのですが。一体、後輩の僕はどうすればいいのでしょうか── 作:白糖黒鍵
「もう、忘れましょう?」
と、言ったその時の自分は。一体どんな顔をしていたのだろうかと。まるで他人事のようにメルネはそう思う。
少なくとも、碌でもなければまともでもないような顔だということは────
「……は?わ、忘れる……?」
────信じられないようにそう呟いて、何処か怯えたような、引き攣った困惑の表情を浮かべるラグナを見れば。一目瞭然のことだった。
もし、今目の前にいるのがラグナではなく。その代わりに一つの鏡でも置いてあったのなら。
きっと、その碌でもなければまともでもない自分の顔を目の当たりにし。そのあまりにも酷く醜い有様を前に、自分は止まれていたはずだろう。止まることができていただろう。
……けれど、それは所詮メルネの、空想の絵空事に過ぎず。現に目の前に鏡などあるはずもなくて、そこにはラグナが
故にもう、メルネは止まれなかった。
「そう、そうよ!忘れてしまえばいいのよラグナ!」
もはや、彼女が止まることなど、できるはずもなかったのだ。
「だって、覚えていても苦しいだけでしょう?憶えていても辛いだけでしょう!だからね、もういっそのこと忘れるの。ねえ、そうしましょうよラグナ?」
瞳を爛々と輝かせ、僅かばかりの狂気を孕んだ微笑みを浮かべながらに。宛ら子供が自ら友達を遊びに誘うように、依然として動揺を隠せず困惑から抜け出せないでいるラグナに、メルネはそんなことを提案する。
彼女とて、一体それがラグナにとってどれだけ難しいことで。そして懊悩の限りを尽くさなければならないことを、理解しているというのに。
故に、誰の目から見ても。とてもではないが、今のメルネが正気ではないことは、容易に見て取れた。
「メ、メルネ……」
そんなメルネに相対する羽目になってしまったラグナは、思わず全身が総毛立つまでの恐怖を。彼女に対し、否応にも覚えてしまう。それ程までに、今のメルネは異常だった。
見かけは。表面上は。辛うじてではあるが、まだ普段通りのメルネだ。ラグナがよく見知る、
……だからこそ、わかってしまう。今のメルネがどれだけ危ういのか。例えるなら満杯の水が注がれた、砕け散る寸前の罅と亀裂だらけの器。もしくは破裂一歩手前まで、無理矢理に膨らませた風船。
どちらにせよ、あと一つ。それがどんなに些細な切っ掛けだったとしても、今のメルネには十二分に過ぎる。秒と経たずに、彼女は……。
「……」
けれど、それがわかっていながら。それを確と理解しながら。
「…………無理」
そう、ラグナはメルネにはっきりと言うのだった。……とはいえ、その言葉を繰り出すのに。ラグナは目を逸らし、直前まで躊躇い、最後まで迷った挙句にではあったが。
けれども、それでもラグナは答えた。己が意思で、メルネの提案を拒んでみせた。それは事実────
「……は……?……………え?」
────が、彼女にとってその事実は、到底受け入れ難いものだった。
「ど、どうして?どうしてよ、どうして……なの、ラグナ……?」
動揺。困惑。混乱。その三つが複雑に入り混じり、入り乱れた声音を。情けなく震わせながら漏らし、まるで縋りつくように、メルネはラグナにそう訊ねる。無意識の内に、ラグナの手を掴む自分の手に、徐々に力を込めながら。
「どうしてって、それは……」
どうしてとメルネにメルネに訊ねられたラグナだが、歯切れ悪く、先程のようにはっきりとした答えを言えないでいる。当然、そんな様子を目の当たりにすれば、メルネが黙っている筈がない。
「苦しくないの?辛くないの?いいえ、そんな訳ない。苦しくない訳がない。辛くない訳がない」
それはもう、自問自答であった。目の前のラグナを置き去りに、メルネは自問自答を始め、そして終わらせ。即座に食ってかかるように、ラグナを詰問する。
「あなたは苦しいの。辛いの。そう、そうなのよラグナ。でないとおかしいのよ。駄目なのよ。そうでなければいけない、いけないのよ?」
ラグナのことなどお構いなしに、矢継ぎ早に並び立てられたメルネの言葉。しかしそのどれもが、理性故からのものであるとは決して言い難く。支離滅裂で、それら全ては正気からは逸していると言う他になかった。
──メルネ……。
そんなメルネの様子を────その惨状をこうも見せつけられては。答えに窮するラグナも、流石に口を開かざるを得ず。
「……メルネの言う通りだ。俺今、苦しいし、辛いよ」
「っ!だったら!」
ラグナの言葉を聞き、メルネは目を見開かせ、声を弾ませる。
「でも。そんでも、やっぱできねえんだよ。クラハのことを忘れるなんて、できっこねえんだ」
だが、続けられたラグナのその言葉が、瞬く間にメルネの心を薄暗く、仄
「…………何でよ」
長く、重い沈黙の後に。静かに呟かれた、メルネのその声は。どろりと濁り淀んでいて、暗澹としており。そこから感じ取れたのは、理不尽に振り回され、疑念に掻き回され。そして負の感情に囚われてしまった
「何でよ。ねえ?何で?何でなの、ラグナ?何で何で、何で何で何で……?」
まるで錯乱したように、ラグナにそう何度も訊ねるメルネ。彼女は気づかない。
無意識の内に、今ラグナの手を掴んでいる自分の手に、徐々に力を込めていることに。ラグナの柔い肌に、自分の指先が沈み、圧迫していることに。
表情にこそ出さないように努めているものの、それでラグナが痛がっていることにさえ。今のメルネは気づくことができないでいた。
そうして、遂に。とうとう、核心を突くように、メルネはラグナに問いかけた。
「ラグナ。クラハってあなたにとっての……何?」
間違いなく、疑う余地もなく。それこそが分岐点だった。運命の分かれ道だったのだ。
メルネにそれを訊ねられたラグナは、一瞬だけ目を大きく見開かせ。けれどもすぐさま消沈するかのように彼女から視線を逸らすと、やがて気を憚られながらに、ゆっくりと口を開いた。
「……言え、ない。ごめん」
そのラグナの言葉に含まれていたのは、どうしようもない程の後悔。それと、罪の意識。そう返すだけで、ラグナはどれ程迷い、躊躇ったのかもわかる。
……だが、しかし────
「……また…………なの?またあなたはそうやって私に何も教えてくれないのッ!?ラグナッ!!」
────結果としてその返事は、メルネの神経を過剰に逆撫で。そして彼女を、爆発させてしまった。
「あの時も。この時も。そうやって、そうやってっ!あなたは私に何も教えない!言ってくれない!何も何も!何もッ!」
きっと、今の今まで。今、この瞬間まで。それは、メルネが己が心の奥底の片隅に、無理矢理に押し込んで閉じ込めていたものだっただろう。
決して、ラグナに悪気があった訳ではない。寧ろ悪気がなかったからこそ、一切誤魔化すことも、偽ることもなく、彼女に対してああ言ったのだから。
けれど、それが、そのラグナの選択が。良くも悪くもメルネのそれを────ずっと、彼女がひた隠しにし見過ごし続けていた激情を、引き摺り出してしまった。その結果が、これだった。ただ、それだけの話だった。
もはや冷静さを欠き、とてもではないが平静でいられなくなってしまったメルネは。ラグナの手を強く握り締め、ラグナのことを責め立てる。
「そんなに私は頼りない?私に頼りたくないの?そうまでなって、こうまでなっちゃって……それでもまだ私じゃ駄目なのっ!?そこまでクラハが大事!?大切!?何で!?どうしてよッ!?」
異常なまでに凄まじいメルネの剣幕を前に、もうラグナは何も言えず。ラグナが唖然とする他ないでいるのをいいことに、彼女が好き勝手にがなりたて続け。
「ねえラグナ、わかってる……?」
そうして、遂に──────────
「今!さっきッ!!あなたはクラハに見捨てられたのよッ!!それでもまだあんな男が大事で大切だって言うのッ!!?」
──────────メルネは超えてはならない一線を、超えてしまった。