ストーリー・フェイト──巨人も魔獣も悪魔も邪竜も神さえも悉く討ち斃す最強の先輩が、ある日突然女の子になってしまったのですが。一体、後輩の僕はどうすればいいのでしょうか──   作:白糖黒鍵

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海へ行こう──お前の好きに

「ここら辺でいっか」

 

 僕の前を歩いていた先輩が、急にその場で立ち止まったかと思うと、そう呟く。

 

 サクラさん、フィーリアさん、そしてフィーリアさんの使い魔だという剣魔(ファルファス)さんと従魔(ヴァルヴァス)さんの二人の悪魔を加えた、砂浜での遊びは凄まじい盛況を見せた。

 

 そのおかげもあってか、時間があっという間に過ぎ、気がつけば陽も沈んでいて、外界から切り離されているこの無人島にも平等に、夜が来た。

 

 夜闇に包まれ、青く澄み渡っていた空も、海も、それら全てが等しく黒に染められた頃、突然先輩が僕と二人きりで話したいと言い出した。

 

 なのでサクラさんとフィーリアさんとは一旦別れ、半ば無理矢理連れ出されるような形で僕と先輩はこの無人島の森の、それも奥の方にまでやって来たのだ。

 

 夜もそれなりに深まり、森の中も暗い。しかし頭上を見れば満点の星空が広がっており、また今夜は満月なので辛うじて薄らと、周囲の様子も紅蓮の赤髪に隠された先輩のその小さな背中も見えている。

 

 立ち止まった先輩が、くるりとこちらに振り返る。その際髪が舞うように揺れて、土と草木の匂いに混じって、仄かに甘い匂いが僕の鼻腔を擽る。

 

 ……海に来る前にも思ったことだが、僕と同じ洗髪剤(シャンプー)を使用しているはずなのに、どうして先輩の髪からはこんなに良い匂いがするんだろう。それともこれが先輩の髪本来の匂いなのだろうか。

 

 などと考える僕に対して、にへっとした笑顔を浮かべて先輩が言う。

 

「悪いなクラハ、急にこんな場所に連れ出してさ」

 

「いえ、全然構いませんよ先輩。それで、話ってなんですか?」

 

 僕がそう訊くと、先輩はすぐには答えず、僕の方へゆっくりと歩み寄って、さほど離れていなかった距離をさらに詰めてきた。

 

「せ、先輩?」

 

 僕との距離を詰めた先輩は、こちらの顔には目もくれず、何故か身体──上半身に対してその視線を送っている。戸惑う僕を置き去りに、そのまま見続けていたと思えば────ぺたり、と。唐突にその小さな己の手を、僕の上半身に重ねた。

 

 先輩の手は、しっとりとしていて、柔らかくて。その感触に僕は思わず声を上げそうになる。しかしそれをなんとかグッと堪えて、平静を装いながら再度僕は先輩に訊ねた。

 

「どうしたんですか先輩?急に、僕の身体に手を重ねて……」

 

 これにも、先輩はすぐには答えてくれなかった。少しの間を挟んでから、ようやくその口を開いてくれた。

 

「傷」

 

「き、傷?」

 

 困惑気味に繰り返した僕に、先輩が黙って頷き、そしてまた口を開く。

 

「傷、増えたよな。お前」

 

「え、あ…そう、ですね。確かに増えましたね」

 

 その言葉に、フィーリアさんにも傷痕について指摘されたことを思い出す。鏡などで自分の身体を目にする際、真っ先に目につくくらいには増えている。

 

 自分で見る場合には特に気にならないのだが……やはり、他人からすると、見苦しいものなのだろう。

 

 ──……そういえば。

 

 それとついでにもう一つ思い出した。砂浜にて、フィーリアからかけられた言葉を。

 

 確か、彼女は────

 

 

 

「って、ちょっ、先輩っ?」

 

 

 

 ────僕の思考はそこで無理矢理遮られてしまった。何故なら、僕の上半身を──さらに詳しく言うなら数々の傷痕の一つを触り、撫でていた先輩の手が、いつの間にか顔の方に伸びていたからだ。

 

 先輩の細くしなやかな指先が、僕の頬を滑り、そして止まる。僕の記憶が正しければ、そこには────

 

「……ここにも、できてる」

 

 ────先輩の指摘通り、爪で引っ掻いたような、薄く抉られた一本線の傷痕があった。

 

「本当に、傷だらけだな。お前」

 

 そこで初めて、先輩がちゃんと顔を見せた。見て、僕は堪らず動揺してしまった。

 

 先輩の瞳が潤んでいた。その琥珀色の双眸は、涙で滲んでいた。

 

「俺が、男だった時は。まだ男だった時は……全然、なかったのに……こんなじゃあ、なかったのに……!」

 

 先輩が言う。必死に抑えて、けどそれでも震えてしまっている声で、僕にそう言う。

 

「俺のせいだよな……俺がこんなんになっちまったから、女なんかになっちまったから!弱くなっちまったから!!」

 

 そして遂に堪え切れず、弾けた。先輩の悲痛な叫びと共に、琥珀色の瞳から涙が零れ落ちる。

 

「せ、先輩!ちょっと、一回落ち着きま「落ち着けねえよ!!」

 

 僕は慌てて先輩を落ち着かせようとするが、無理だった。今の先輩はこれ以上にない──いや、これまでで見たことが一切ない、凄まじいまでのヒステリーを起こしていた。

 

 ぼろぼろと大量の涙を流して、普段なら絶対に上げないような嗚咽を上げて、僕のすぐ目の前だというのに先輩は激しく、泣いていた。

 

「ごめん、こんなこと言うのは、筋違いだってのはわかってんだ。……ああ、わかってん、だよ」

 

 涙でぐちゃぐちゃに濡れた表情で、僕の顔を一心に見つめて、嗚咽混じりに、先輩は言う。

 

「胸が、痛いんだ。苦しいんだ……お前の身体の傷を見る度に、お前の顔の傷を見ちまう度に、胸が……心が、締めつけられて、痛くて、苦しく、て……!」

 

 先輩の声は、苦痛に塗れていた。苦悩に塗れていた。自責に──塗れていた。

 

 ──……先、輩……。

 

 そうして、初めて、ようやっと──僕はこの人が背負ってしまった後悔の、その重みを思い知らされた。同時に、いかに僕という人間が浅はかで、考えなしの木偶の坊ということも、わからされた。

 

 僕はちっとも、欠片すらも理解していなかった。あの時、あの木陰で、自分に対して打ち明けられたことが全てだと、愚かにも思い込んでいた。

 

 そうだ。そうだった。先輩は、この人は、ラグナ=アルティ=ブレイズという人物は。

 

 がさつで、乱暴で、強引で、大雑把で──人一倍、誰よりも優しく、慈悲深い。

 

 そのことを、知っていたのに。そんなことは、僕が一番よく知っていたはずなのに。

 

 先輩があのくらいで済ます訳がないじゃないか。あの程度で、済ます訳がないじゃないか。あんなので──己を赦す訳なんか、ないじゃないか。

 

 今すぐにでも声をかけたかった。僕は大丈夫です、と。だからそれ以上自分を責めないでください、と。

 

 言葉は浮かぶ。……けれど、それを口に出すことも、声にすることも、今の僕にはできなかった。

 

「お前には迷惑かけるって言った。お前は別にいいって言ってくれた。……だけど、よ……!」

 

 なにも言えず、口を閉ざすことしかできないでいる僕に先輩が言う。言って、依然その瞳から涙を流しながら──こう、続けた。

 

「お前の好きに、してくれ」

 

「えっ?」

 

 思わず、そんな素っ頓狂な声が漏れ出てしまった。一瞬、僕には先輩の言葉が、その意味が理解できなかった。

 

 戸惑う僕に対して、なおも先輩は続ける。

 

「やっぱり、さ。こんな水着じゃ、駄目だ。釣り合い取れてねえよ。水着なんかで、こんなふざけたモンで取れる訳、ねえんだよ」

 

 己の水着姿を否定し罵りながら、己が言葉でその身を引き裂きながら。

 

「ずっと、ずっと考えてた。お前と一緒の時も、お前が依頼(クエスト)に行ってる時も、考えてた。あの時お前が死んでたらって。お前にもう会えなくなったらって」

 

 こちらに追い縋るように。こちらを追い求めるように。

 

「もうどうにかなりそうだった。どうにかなっちまいそうになった。痛くて苦しくて、怖くて……!」

 

 延々と先輩は吐露する。今の今まで胸の内に秘めていたことを。この瞬間まで胸の奥に押し込んでいたことを。

 

「俺はお前に、二度も死にかけるくらいの無茶させた。こんなことでも、釣り合いが取れるなんて思ってない。けど、少しでもお前の……クラハの、気が晴れるなら」

 

 そして、僕の頬に手で触れながら、懇願するかのように先輩が告げた。

 

「抵抗、しねえから。お前がどんなことしても、お前にどんなことされても。だから、お前の──クラハの好きに、してくれ」

 

 僕は、すぐには口を開けなかった。先輩のその言葉に対して、答えを返せなかった。

 

 先輩の心に刺さった棘。それは僕の想像よりもずっと酷く巨大で、そして根深く突き刺さっていた。

 

 それを先輩の心から抜くには、どうしたらいいのだろう。どうすればいいのだろう。

 

 僕がなにを言っても、どれだけの言葉をかけても、先輩の心からその棘は引き抜けない。その程度のことで引き抜けるものなら、最初から先輩はここまで、追い込まれていない。

 

 ──……本当に僕は、情けない男だな。

 

 先輩はこちらを見つめている。涙ですっかり濡れた琥珀色の瞳が、こちらを見ている。

 

 棘を抜くには、先輩が自分で言っていた通りにするしか他ない。先輩を僕の好きにするしか、方法はないだろう。

 

 そうしなければ──一生、この人は己を決して赦しはしない。死ぬまで、心に棘を刺したまま、己を責め続ける。

 

 本当に先輩は不器用だ。致命的なまでに、不器用な人だ。どこまでいっても不器用で────優し過ぎる人だ。

 

 だったら、ここは大人しくそれに従うことにしよう。その言葉に、従うことにさせてもらおう。

 

「……わかりました」

 

 心の中で決断を下した僕は、そこでようやく再び、口を開いた。

 

「本当に、僕の好きにしていいんですね?──先輩のこと」

 

 僕の言葉に、先輩はこくりと頷く。そして僕の頬から手を離し、腕を下ろす。

 

 一旦心の中で深呼吸を済ませ、そして僕は己の手を先輩に伸ばし────肩に、そっと置いた。

 

「…………え?」

 

 まさか肩を触られるとは思ってもいなかったのだろう。困惑する先輩に、意を決して僕は言った。

 

「抱き締めさせてください、ラグナ先輩」


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