「世話になった、老師。貴方のおかげでこの一週間、実に有意義な時間を過ごすことができた」
と、濡羽色──
「ウドウ、サドウ。お前たちも達者でな」
「「はっ」」
そして老人────老師の背後に控える二人の青年たちに対しても、彼女はそう告げ。
「では、これにて」
そうして、一通りの別れを告げ終えた彼女は踵を返し、老師と青年らに背を向け。ゆっくりと、その場から歩き出した。
彼女の背中が少し遠くなったその時、徐に青年の一人────ウドウが口を再度開く。
「……正直、今でも信じられない。死者が出るのも珍しくない我らが寺院の荒行を、まさかああも容易く、事もなげにやり通してしまうとは」
「ああ。あれでまだ十七の少女……末恐ろしいこと、この上ない」
尊敬の裏側に畏怖が見え隠れする声音による、ウドウのしみじみとした呟きに。彼と全く同じ声色で、サドウもまた呟く。
「孤独じゃ」
が、そんな彼らとは対照的に。慈しむような憐憫を以て、老師は静かにそう呟くのだった。
「孤独、ですか?」
「老師。それは一体どういう……?」
思ってもいなかったその言葉を、
「あの子は極めた。誰かに頼る必要がない程に……
その言葉にもまた、いまいち腑に落ちないでいる二人。そんな最中、依然として老師はこう続ける。
「誰かに頼る必要がないというのは、言い変えれば
そこでようやっと、ウドウとサドウはハッとした。
「それを孤独と言わずして、何と言う」
「た、確かに……」
「このサドウ、そのようなことにも気づけず……一生の不覚」
孤独と評した老師の真意を今、理解できたところで。もう今更で、もはや手遅れ。
自らを悔いる言葉を最後に、黙り込むウドウとサドウ。そんな彼らを尻目に、老師は呟く。
「あのような
呟き終えた老師は、ただ見つめる。気がつけば遠く、小さくなっていたその背中を。眺めながらに、老師は遺憾に満ちた声で言う。
「あの子に
そうして背中も見えなくなった頃、老師は続けて、己が心中にて独り
──せめて、祈ろう。この先、いつの日か……彼女の孤独を埋め、あの業深き修羅から救う
老師らはまだ知らない。少し先、あの少女が『極剣聖』と呼ばれることを、知る由もない。
「……遮音性まで備えているのか、この防壁……」
と、まるで何事もなかったように、そこにあるのが当然だと言わんばかりの防壁を見上げながら。僕は呆然と、そう呟くのだった。
結論として、自らの聴覚を捨てた覚悟はただの徒労に終わった訳だが。だからといって、不満など抱ける筈もない。
破られるかもしれない、と。自分たちが無事では済まないかもしれない、と。そう、疑ってしまったのだから。
頭ではわかっていた。決して、そんなことはあり得ないと理解していた────だが、それでも。
『そして後悔しやがってください、
一つで複数の街を跡形もなく全て消し飛ばすのに、十二分に事足りる魔力弾を。一つどころか無数に所狭しと展開された、あの光景を目の前にすれば。
突破できる想像が僅かにも、微塵にも、全く以てできないこの防壁でさえも。自明の理に
あっさりと、呆気なく、突き崩され破れ去る────そう、思う他にないだろう。
しかし、現実は僕の浅はかな想像を覆し。フィーリアさんの防壁に傷は一つもなく、依然としてその絶対的な強度をこちらに示し続けていた。
……が、それはあくまでも防壁の話。防壁と、防壁に隔てられたこちら側は無事で済んでいるものの────あちら側はそうはいかない。
──……何も、見えない。
あまりにも濃過ぎる砂埃と粉塵によって、防壁の先が一体どんなことになっているのか、全く判断できない。薄れるのを待つにしても、それにどれだけの時間を要するのかも、正直わからない。
「…………クラハ」
と、その時。僕のすぐ傍、胸元から先輩の声がして────そこでようやっと、僕は思い出した。
「すっ、すみません先輩っ!その、つい、抱き寄せてしまって……っ」
そう謝罪を挟みつつ、僕は慌てて腕の中の先輩を解放する。
……言っていて、我ながら本当に大胆というか、とんだ恐れ知らずな行動に出てしまったものだ。咄嗟のことで考える間もなかったとはいえ、庇うにしても他にこう、もっとあった筈だろうに。
「いや、別にいい。気にすんな」
自らの愚行を省み、悔いる僕から。少し距離を取って、先輩はそう言う。
……何故か、目を逸らして。
「……先輩?」
先輩の様子が
なんというか、後ろめたいものがあって、それを隠そうとしているような。そんな居た堪れなさが、今先輩からそこはかとなく感じる。
──フィーリアさんの防壁は完璧に、僕たちを守ってくれた。怪我はおろか、擦り傷一つだってない。返事もしてくれたし、耳は無事な筈……。
だというのに、一体どうしたのだろうか。そう疑問に思いながら先輩を眺め、ふと気づいた。
心なしか、顔が薄ら赤くなっているような。それに、妙に落ち着いていない気も……。
「一体どうしたんですか?何かありましたか?」
「どうもしてねえし、何もねえよ。だから気にすんなってば」
と、口ではそう言っている先輩だが。しかし、やはりおかしい。おかしいと思えて、仕方がない。
「……僕の目は誤魔化せませんよ、先輩」
「は?」
僕の発言に対して、意味がわからないとでも言いたげな声を漏らし、胡乱げな眼差しを向ける先輩。
が、それでも構わず、僕はできるだけ声色を穏やかに柔らげて、そうして続ける。
「先輩、僕相手に何を躊躇っているのかはわかりませんが、大丈夫です。僕は笑って馬鹿になんてしません。ですから隠そうとせず、正直に教えてください。ね?」
「いやだから……だあああッ!面倒くせえなぁもう!!俺がいきなり抱き締められて驚いてんのがそんなに変ってかっ!?」
最初こそ
「…………え?あ、は……えぇ、っと……?」
先輩の返答に対して、僕はそんな要領を得ない返事をするしかなかった。当然、そんな煮え切らない僕の態度に、先輩は声を荒げた。
「んだよその返事!!お前、聞いてなかったのか?俺にもっかい同じこと言わせるつもりか、お前ぇ!」
「い、いや大丈夫ですちゃんと聞きました聞いていましたから」
と、弁明をする傍らで僕は胸を撫で下ろす。先輩が無事ならば、僕としてはそれでいい。
……しかし、やはり。
「驚かせてしまって、すみませんでした先輩。つい咄嗟のことで、説明する余裕がなくて……嫌でしたよね。僕に抱き寄せられて、僕に抱き締められるなんて……」
言っていて、堪らず自己嫌悪に陥りそうになる。フィーリアさんの防壁を信じ切れなかったが故の行動なだけに、殊更に。
先輩がどれ程の精神的
何はともあれ、この後すぐにでも、引き続き僕は先輩に罵られる。どんな罵倒であれ、甘んじて受け止め、そして受け入れよう。
それが今、僕が果たさなければならない責務なのだから────そう思った矢先。
「……いや、それはまあ、別に平気だったけど、さ……」
と、先輩は僕に言った。今し方までの勢いもまるで失せた、しおらしく大人しい声音と態度で。
「え?」
またしてもこちらから逸らしたその顔は、やはり赤く染まっているように思えて。所在なさげに伏せられたその瞳が、何処までもいじらしく。
そんな先輩の立ち振る舞いは、否応にもなく相対する者の心を悪戯に掻き乱す────無論、僕とてその一人に過ぎない。
「そ、そう……そうです、か……」
「おう……」
そこで僕と先輩は互いに黙り込んでしまう。必然、僕と先輩の間にはなんとも言えない、微妙な空気が流れ、漂い────
ドオオオォッ──そんな最中、突如として防壁の向こうで凄まじい突風が吹き荒んだ。
この防壁、人の声は勿論、耳が無事で済むような程度の音であれば遮らないらしい。
それはともかく、明らかに不自然なその突風は瞬く間に、この辺り一帯の砂埃や粉塵を吹き散らし。
「…………どう、して」
そうして視界が晴れ、見えた景色は────想像通りで、
真っ平ら、とまではいかないものの。それでも馬車が問題なく走破できる筈だった荒野の大地は。
もはや元々こうだったのではないのかと思いたくなる程、すっかり変わり果ててしまっていた。こうして見渡す限り、爆発で大きく深く抉れた箇所しか見当たらず。無事な箇所を探そうとする気すら、まるで湧き上がってこない。
馬車どころか、人が歩くのにも苦慮せずにはいられない。こうなってしまった以上、この荒野を行路として利用するのは
しかし、幸いなことにこの荒野以外にも使える道はまだある。オールティアの流通に然程影響が出ることはないだろう。
地形ががらりと様変わりするまでの威力と規模を有した、無数の爆発────その最中にて、生物が生存できる筈がないことは。言うまでもなく、そして考えるまでもない。
誰であっても当然のように辿り着くその確実な結論、絶対の現実────
「どうして、無事なままなんだ……?あの人……!?」
────それを『極剣聖』サクラ=アザミヤさんは。容易く、事もなげに覆す。
魔法────この
そうであると世界に訴え、そうであれと世界に願い。そうして初めて、世界がそれを認める。
己が魔力に確かな意味を持たせ、行使すること────
その理故に、魔法を扱う為には揺らぎのない強固な意思が必要不可欠であり。生半可な意思の元による魔力は世界から意思なき無意なものと
それが
「……」
己が所業の産物である、深く濃く立ち込める砂埃と粉塵の向こうで。安全が約束された魔法防壁に隔てられている二人────ラグナ=アルティ=ブレイズと、確か……クラハ=ウインドアだったか。
その二人が、人目も
魔法の常識に
放たれ、離れたフィーリアの魔力は瞬く間に。風の属性を得て、直後────
その光景を目にした大半の者は、特に取り留めのない、至って一般的で普遍な魔法の発動場面だと。そう、認識するだろう。
そうと、認識する他にないのだ────素人の傍目からでは、そうとしか見えないのだから。
が、少しでも魔法についての心得がある者は。そして魔法を十全に扱える者が。
その光景────否、現象が。根本から
世界が
世界がフィーリアの意を
だが、現にこうして起きた。それがあってしまった。
たった一人に、一個人に。他でもない世界が加担するという、不公平の極致。
或いは、これこそ奇跡とでも言うべきなのだろうか。
魔法における絶対的な常識が覆された、この事実を。それを理解し得る者からすれば、こう思わざるを得ないだろう────フィーリア=レリウ=クロミアは、
当の本人はそれを全く以て自覚していないというのが、実に皮肉な話であるが。
「何が落ち着かせる為ですか。やっぱり
「そうか?まあ下らないとは思わないが、ああまで熱い場面をいいように見せつけられてしまっては、年甲斐もなく
「はあ。そうですか。……で」
と、欠片程の関心も微塵もなさげな相槌を打ってから。フィーリアは
「そういう貴女はどうして無事で済んでるんですか?」
先程フィーリアによる、魔力の絨毯爆撃。それはこの周囲一帯を
無論、何の対策──そうは言っても、並大抵のそれでは意味を全く以て成さないが──も用意していなければ。あの爆撃に飲まれた生物は、一片すら僅かに残ることなく、微塵となって大気を漂う末路を辿る他になかった────だというのに。
「……?」
『極剣聖』、サクラ=アザミヤは無事だった。どういう理屈か奇跡なのか、その身に纏う衣服すらも完全に無事であった。