ストーリー・フェイト──巨人も魔獣も悪魔も邪竜も神さえも悉く討ち斃す最強の先輩が、ある日突然女の子になってしまったのですが。一体、後輩の僕はどうすればいいのでしょうか──   作:白糖黒鍵

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Glutonny to Ghostlady──だから、大丈夫なんですよ

思い出せなくなった(・・・・・・・・・)

 

 ぽつり、と。先輩はそれだけ呟いた。同時に、僕の首に回された両腕に、僅かばかりの力が込められる。

 

 どういうことですか──そう訊く前に、先輩が僕に言う。

 

「今だから言うけどよ、実は海に行く前からもう、思い出せなくなってたんだよ。まだ男だった時にお前と行った場所とか、そういうの……全部」

 

 それは、衝撃的な告白(カミングアウト)。それと同時に思い出す──オールティアでの一夜、とある事情から同じ寝台(ベッド)を共にすることになった時、先輩から告げられた言葉を。

 

 

 

『昔の俺ってどういう奴だったのか、今の俺は上手く思い出せないんだ』

 

『全くって訳じゃない。けど、日が経ってく度に……こうして夜を過ごして朝を迎える度に、だんだん、昔の俺の姿が、ぼやけてく』

 

『それがさ……怖いんだよ』

 

 

 

 あの時の記憶が、鮮明に思い起こされていく。そして今この状況と──重なっていく。

 

 なにも言えず、口を開けないでいる僕に先輩は続ける。

 

「思い出せないだけじゃない。お前から話を聞いても、それが俺のことじゃないようにしか思えねえ。ただの赤の他人の話にしか……思えねえ」

 

 ……僕は、先輩の言葉を呆然と受け取る他、なかった。どう返事をすれば、どう言葉をかけるべきなのか、わからなかった。

 

 そんな僕の心情を見透かしてか、何処か皮肉めいた含み笑いを先輩が零した。

 

「おかしいよな。全部昔の俺の、男だった時の話なのに。けどさ、今聞くと別人の話にしか聞こえなくて……でも俺の話なんだって、そう思うと……頭ん中、グッチャグチャになって」

 

 そこで気づく。先輩の身体が微かに震えていることに。先輩の声が、徐々に涙ぐんだものに変わってきていることに。

 

 そのことに気づいて、今の状況がますますオールティアでのあの一夜と重なった。

 

 今、先輩は普通ではない。精神状態が著しく不安定になってしまっている──そのことに今さらながら気づいた自分を腹立たしく思いながらも、なんとか落ち着かせようとようやく口を開く。……が、情けないことにかける言葉が、まだ浮かんでこなかった。

 

「でもさ、それはまだいいんだ。まだ全然いい。問題は──お前との思い出も、いくつか思い出せなくなってるってこと、なんだよ」

 

 それを聞いて、ハッとする。何故この人がこんなにも取り乱しかけているのか、その原因がわかった。

 

 …………だが、それがわかっても、悔しいことに言葉が浮かばない。一刻も早く言葉をかけなければならないというのに、焦れば焦るほど、なにも浮かばない。

 

「俺、それが嫌なんだ。絶対に嫌なんだ。俺の話とか全然どうでもいい。でも、お前との思い出だけは……絶対に忘れたくないのに。どうしても、忘れたくない、ってのに」

 

 ぽたり、と。不意に首筋を仄かに温かいなにかが濡らした。それは一度に留まらず、ぽたぽたと遅れてさらに僕の首筋を濡らす。

 

「けど、いくら頑張っても、どうやっても、頭ん中ぼやけて、日に日に上手く思い出せなくなってきて」

 

 先輩の声は、もう誤魔化しようのないほどに震えていた。悲痛なほどに、濡れていた。

 

「そんで、さ。とうとうあの日(八年前)のことも、だんだんぼやけてきちまった」

 

 先輩の腕に、力が込められる。先輩の身体が、さらに密着する。

 

「俺さ、どうしようもないクズや「先輩」

 

 流石にその言葉は、聞き捨てならなかった。もう、これ以上黙って聞いていられなかった。

 

「もうそれ以上自分を傷つけるのは止めてください。僕は大じょ「なにが大丈夫なんだよ」

 

 僕の言葉を、先輩の声が遮った。その声音は、酷く刺々しく、荒れていた。

 

「大丈夫、大丈夫って……いつもいつも……お前の『大丈夫』ってなんなんだよ。なにが大丈夫なんだよ。こっちはお前との思い出も、お前と出会った八年前のことも、忘れかけてんのに……それのなにが大丈夫だってんだよ!?」

 

 先輩の怒号が僕を貫く。涙に塗れた、悲痛な叫びが僕の心を突き刺す。

 

「それともなんだよ。お前はいいってのか?俺がお前との記憶(おもいで)を忘れちまっても、八年前のことも忘れちまっても構わねえってのか!!」

 

 不意に、鎖骨に小さな痛みが走る。視線をやれば、先輩の爪が食い込んでいた。

 

 頭の中が、真っ白に染められていく。なにも考えられなくて、でもなんとか先輩を落ち着かせようと、僕は口を開く。

 

「せん「煩い!黙れ!!!」

 

 先輩が僕に怒鳴る。怒鳴って、息を荒げながらも先輩は続ける。

 

「お前になにがわかるってんだよ!なんにもわからねえ癖に、わかったような口利くんじゃねえ!わかったように慰めんじゃねえ!!」

 

 …………そこで、僕は気づいた。気づかされた。自分が、一体どれだけの負担をこの人にかけていたかを。

 

 傍目から見れば、責められるのは間違いなく先輩だろう。必死に落ち着かせようとしている者を、一方的に拒絶しているのだから。

 

 だが、違う。僕は、とんでもない大馬鹿野郎だ。大丈夫、なんて無責任な言葉をかけて、苦しめていた。

 

 失いたくない記憶を失いつつある者に、ただ大丈夫と声をかけて。ただ大丈夫と返して──その結果がこれだ。

 

 考えてみれば、大丈夫な訳がなかった。この人(先輩)が僕との思い出を忘れることなど、大丈夫なはずがなかった。

 

 当の本人である僕から、それを大丈夫ですと言われて、一体どれだけその心を追い詰めてしまったか。忘れてはいけない記憶を、忘れられても大丈夫ですと言われて、一体どれだけその罪悪感を抉ってしまったのか。

 

 僕の首筋に、絶え間なく温かいものが伝う。それが流された先輩の涙だということは、とっくにわかっていた。

 

 先輩が言う。もう怒っているのか泣いているのか、わからなくなってしまった声で、縋りつくように僕に訊く。

 

「……なあ、クラハ。俺って、なんなんだ……?」

 

 ……僕は、すぐには答えられなかった。廊下に、先輩の嗚咽が静かに響く。

 

 鎖骨に爪が食い込む痛みを感じながら、僕はようやく、口を開いた。

 

「あなたは、僕の先輩です。僕の先輩──ラグナ=アルティ=ブレイズ」

 

 先輩は、なにも言わない。それでも、僕は言葉を続ける。

 

「誰がなんと言おうと、それは変わらない。変えさせない。先輩は僕の先輩です。誰が否定しようと、たとえあなた自身が否定しようとも、僕の先輩はあなたです──ラグナ先輩」

 

 そう、この人は僕の先輩。《SS》冒険者(ランカー)、『炎鬼神』──ラグナ=アルティ=ブレイズ。

 

 先輩の手を、さらに強く握り締める。

 

「前に、僕は言いました。今の先輩が昔の先輩を忘れても、僕が覚えてますと。その度に、僕が先輩に教えます、と」

 

 あの時はこの言葉だけでも、先輩を安心させることができた。先輩を落ち着かせることができた。だが、今回ばかりはどうにもならない。……もう、この言葉が、先輩に届くことはない。先輩の心を──救えない。

 

 そんなことはわかっている。そんな簡単なことは、わかり切っている。だからこそ、僕は僕が許せない。どうしても──赦せない。

 

 ……以前から先輩が情緒不安定になってきているのは、気づいていた。そしてそれを隠し通そうと、先輩が無理していることもわかっていた。……わかっていたのに、僕はこの人のその甘さに、しがみついてしまった。

 

 もう、遅過ぎる。だがそれでも────僕は言わなければならない。ここで言わなければ、取り返しがつかなくなる。

 

 あまりの緊張感に息が詰まる。堪らず深呼吸しそうになる。だが、今はその刹那にも満たない瞬間ですら惜しかった。

 

「先輩」

 

 先輩はなにも言わない。なにも返してくれない。それでも──構わない。

 

「僕は忘れませんから。先輩が忘れても、絶対に忘れません。何回だって、何度だって先輩に教えますよ。たとえその話が別人のものにしか思われなくても、思ってくれなくても……話します」

 

 一歩、先に踏み出せ──クラハ=ウインドア。

 

「あなたは《SS》冒険者、『炎鬼神』ラグナ=アルティ=ブレイズその人です。あなたがそれすらも忘れてしまったとしても、僕がこの先も、これからもずっと覚えてます。僕が覚えている限り──あなたはラグナ=アルティ=ブレイズなんですよ」

 

 そこで初めて、ほんの僅かばかりに身体を震わせて、先輩は反応した。そのことにこれ以上にないくらいの安堵感を抱きながら、僕は続ける。

 

「だからもう、それ以上今の自分を否定してあげないでください。今の先輩が僕との思い出を思い出せなくなっても、僕が覚えていますから。過ごした時間も、過ごす時間も、過ごしていく時間も、全部。……だから、僕は大丈夫なんですよ。ラグナ先輩」

 

 これが僕の全てだ。僕が今できる、全て。これで駄目ならば──もう、お終いだ。

 

 今まで歩んできたこの人生の中で、最大級の緊張感に包まれながら、僕は先輩の言葉を待つ。

 

 先輩は、黙ったままだ。……ただ、心なしか首に回されている腕に、また力が込められた気がした。

 

 再び、廊下に静寂が戻る。気がつけば、先輩の小さな嗚咽は止まっていた。そして数秒挟んで──ようやく。

 

 

 

「………………クラハ」

 

 

 

 本当にようやく。やっと、先輩はその口を開いてくれた。


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