サクラがマジリカの道行く女性魔道士たちを口説き、クラハとラグナが魔石塔へ訪れているのとほぼ同じ頃。己が師であり母であるアルヴァ=クロミアと話を終えて、独りフィーリアはマジリカの街道を歩いていた。
真上に上がっていた太陽も、徐々に傾き空を茜に染め上げているこの時間帯でも、金色の街ラディウスほどではないがそれなりに活気に満ちている。そんな中、フィーリアは人々の雑多を掻き分けながら、とある目的地を目指していた。
そこは、四年前──まだフィーリアが『魔道院』の学生だった頃に、この街で唯一入り浸っていた店。その店で、彼女を待つ一人の女性がいる。
──……。
無言で、無表情で、フィーリアはただひたすらに道を歩く。前を進む。絶えずその色を変える瞳で、時折マジリカの風景を流し見ながら。
そうして、数分後彼女は辿り着いた。自分が目指していた目的地、十五年の腐れ縁である人物──ナヴィア=ネェル=ニベルンが待つ、「本日貸し切り」という看板を下げた、喫茶店『魔女の休息』に。
カランカラーン──懐かしい扉を開けたフィーリアを、また懐かしい鈴の音が出迎えた。
「いらっしゃい」
数歩店の中へ足を踏み入れる彼女を、次に迎えた声。それはこの店に初めて訪れた時と全く変わっていない。カウンターの方へ顔を向けてみれば、声と同じく──しかし厳密に言えば白髪など増えている──容姿も変わっていない、
「お久しぶりです」
フィーリアがそう返すと、店主はグラスを磨きつつも軽く頭を下げる。寡黙なその性格も、変わっていない。
「お待ちの方はあの席に」
店主の短い言葉を受け取り、フィーリアはすぐさま奥の方のテーブルに顔を向ける。二つある椅子の一つには、既に先客──ナヴィアが座っており、カップを口元に運んでいるところだった。
「ありがとうございます」
それだけ言って、フィーリアは店内をゆっくりと進む。扉も来客を知らせる鈴も店主も、そして店の内装もあの頃と変わっていない。自分の覚えている限りではあるが、この街には多少の変化があった。それは店だったり、人であったり。
しかし、本当にここだけは。この場所だけは変わっていないのだ。まるで時の流れに取り残されたように──しかし、フィーリアにとってそれが、ほんの少しばかり口元を緩めてしまう程度では嬉しかった。こうして思い出が思い出のまま、その形を留めていることが喜ばしかった。
レトロチックな店内を、慣れた足取りでフィーリアは歩く。そして、学生時代からの指定席にまで彼女はやって来た。空いている椅子を引いて、すとんと腰をそこに下ろす。
「お待たせ」
「ええ」
フィーリアとナヴィア、二人の短い応答が静かな店内に響き渡る。それから特に会話らしい会話は広げられず、また店内は静寂に包まれる。二人だけのその空間に、気がつけば店主が近づいていた。
「どうぞ」
その言葉と共に、店主がフィーリアの前にスッと、一切の音を立てずに皿を置く。そこに乗せられていたのは──至って普通な、シンプルの一言に尽きるサンドウィッチ。今が旬の果物を純白の生クリームで包み、フィリングしたフルーツサンドである。
そのフルーツサンドを見て、フィーリアは僅かながらに頬を綻ばせてしまう。そしてゆっくりとそれを手に取って、己の口元にまで近づける。近づけて、小さくではあるが口を開き、フルーツサンドに齧り付いた。
もきゅもきゅとフィーリアの口が上下に動く。その度に彼女の舌の上で、果物の瑞々しい食感が跳ねるように踊り、甘みを控えた生クリームの優しい風味が滑らかに広がっていく。
「……ふふっ」
好物の味わいが全く変わっていないことに対して、思わずフィーリアは笑みを零す。それから少しずつ、ちまちまとフルーツサンドを食べ進めた。
「……本当、昔のままですわね。貴女は」
そんな彼女の姿を見やって、ナヴィアはそう呟いて再びカップの縁を口元に当て、傾ける。
喉を通り過ぎていく紅茶の香りと風味を感じながら、ナヴィアは頭の片隅に留めてある記憶を無意識に引っ張り出す──それは懐かしき、学生時代の日々。
それらを思い出しながら、ナヴィアはカップを置いて、未だ無邪気な子供のように──というか彼女の容姿ではそうにしか見えない──フルーツサンドに舌鼓を打ち楽しむフィーリアに、
「それで、話ってなんなの?別に
瞬間、フィーリアの手が止まった。徐々に彼女の口へと消えていたフルーツサンドが宙で静止する。あれほどまでに緩んでいたその表情が、一瞬にしてそこから消え去る。
フィーリアはナヴィアの言葉に答えず、少しの間固まっていたかと思うと、手に持っていた食べかけのフルーツサンドを皿に戻す。しかし依然として黙ったまま──不意に閉ざしていたその口を、彼女は開いた。
「明日、魔石塔に行く」
今、店内にはフィーリアとナヴィア、店主の三人しかいない。まあ本日は貸し切りという看板を下げているので、それは当然のことなのだが。
それはともかく、そのこともあって店内は実に静かだった。静かな分、フィーリアのその言葉はよく店内に響き渡った。
「……」
彼女の言葉を受け、ナヴィアが呆然とする。呆然として、数秒後──
「……は、あはははっ!」
──と、大いにはしたなく噴き出した。ナヴィアの笑い声が、店内の静けさを尽く打ち破っていく。
「あ、貴女…っ、それ前振りとしては、完璧です、わ……ああもう駄目堪えられないあははは!わ、私、笑いを抑え込むことができませんわあっはっー!」
お腹を抱えながら、今にも椅子から転げ落ちそうな勢いで笑い続けるナヴィア。息絶え絶えになりながらも、彼女は続ける。
「そ、そもそも魔石塔に行ったってどうする気なの?まさか、中に入るつもりかしら?だとしたら止めておきなさい。あの塔の魔石は貴女にでも破壊できなかったのだから、行ったとしても無駄足になるだけ……ふふ、ふふふ……っ」
再び笑いのツボを刺激されてしまったのか、そこでナヴィアは顔を俯かせ、プルプルと小刻みにその肩を震わせる。しかしそれも数秒だけのことで、また顔を上げて笑い出してしまう。
みっともなく笑うナヴィア。するとフィーリアはおもむろに手を宙に翳す。少し遅れて彼女の手のひらの上で少量の魔力が渦巻き──気がつけば、小石程度の魔石がそこにあった。そして次の瞬間、
パキンッ──まるで
ナヴィアの笑い声が、一瞬にして止んだ。彼女の視界で、フィーリアの小さな手から零れ落ちた魔石の欠片が、宙で解けるようにして魔力へと戻り、霧散し溶けて消えていく。
ナヴィアが蒼い瞳を見開かせる中、さも平然とフィーリアが言う。
「もう一度だけ言う。明日、私は魔石塔に「駄目」
内容的には先ほどと全く同じ言葉。しかし、今度はそれを、ナヴィアは遮り、強く否定した。続けて、フィーリアに彼女は言う。
「駄目です。行かせません。絶対に行かせませんわ。行かせて堪るものですか。フィーリア、もう一度考え直しなさい」
先ほどの様子がまるで嘘のように、ナヴィアは真剣な表情でフィーリアに言う。そう訴えかける。しかし、彼女はなにも答えなかった。なにも答えず、ただ無表情のままに、ナヴィアの顔をじっと見つめる。
互いに無言になって、互いに顔を見合わせる二人。その視線がぶつかり混じり合っていたかと思うと、先にそれを──ナヴィアが断ち切った。
「……貴女、そんなことを話す為だけに……いえ、伝える為だけに、私にわざわざ時間を取らせた訳?」
フィーリアは、なにも答えなかった。そんな彼女の様子に、とうとうナヴィアの堪忍袋の緒が切れた。
「ふざけないでよッ!」
バンッ──はっきりとした確かな怒りの声と共に、ナヴィアはテーブルを叩きつけ椅子から立ち上がる。その衝撃で、彼女の目の前のカップが思い切り揺れて、倒れかける。
「一人旅から帰って来たと思えば、ろくに話もしないですぐに街から出てって、まともな連絡もないと思えば急に街に一旦帰るから都合調整よろしくだのと無茶を言って……それで挙げ句の果てこの仕打ち?貴女、私を馬鹿にしてるの!?なにか答えなさいよッ!!」
ナヴィアの怒号が店内を、フィーリアを貫く。……しかし、それでも彼女は黙ったままだった。そんな彼女に対してナヴィアは口汚く舌打ちする。
「大体、アルヴァのおば様がそれを許可するはずも「取った」……なんですって?」
ナヴィアの言葉を遮る形で、フィーリアもようやく閉ざしていたその口を開く。だが、その声におよそ感情というものは込められていなかった。動揺するナヴィアに、フィーリアは言い聞かせる。
「許可なら、もう取った」
「…………嘘、でしょう……?」
到底信じられないという風にナヴィアはそう訊き返す。しかし、今度はフィーリアはなにも言わなかった。再びその口を閉じて、沈黙で返すだけだった。
そんな彼女の様子にナヴィアは堪らず絶句し、それから先ほどと同じように小刻みに肩を震わせる。先ほどと違うのは、それが笑いによるものではなく、怒りによるものだということ。
「……ええ。ええ、そう。そうなの」
そう呟くや否や、ナヴィアはその場から歩き出す。椅子に座ったまま、黙ったままでいるフィーリアを歩き越して、彼女は背を向けて言う。
「貴女がその気なら、私にだって考えがありますわ」
まるで吐き捨てるようにそれだけ言って、ナヴィアはそのまま早歩きで店から出て行ってしまった。多少乱暴に開け放たれた扉がゆっくりと閉まってから、フィーリアは再びその視線を眼下の皿に向ける。
そして無言でその上にある食べかけのフルーツサンドを手に取って、一口齧る。齧って、数度顎を上下させて、それを喉に流し込んでから、ぽつりと呟いた。
「苦く、なっちゃったな」