傾いていた陽も完全に沈み、マジリカに夜の帳が下される頃、僕はナヴィアさんが用意してくれたホテルの
自分の思うままに手足を伸ばしつつ、染み一つ汚れのない真っ白な天井を眺める。眺めながら、僕は今日一日あったことを振り返っていた。
マジリカ。フォディナ大陸を代表する、
特にスライム饅頭。あの饅頭を口にした食感は、恐らく一生忘れることはないだろう。……というか、忘れられないだろう。
そしてかねてより訪れたいと思っていた、この街一番の観光名所──魔石塔。不壊の魔石に飾られたかの塔は、写真で見るよりもずっと美しく、そして綺麗だった。だった、が。
──……懐かしい、か。
それは先輩の言葉。僕が知る限りでは、魔石塔の元に来たのは今日が初めてで、当の本人も言っていた通り先輩もそれは同じである。……なのに、あの塔に対して先輩はどうやら、謎の懐古感を抱いたらしい。
浴室からシャワーがタイルを叩く水音が聞こえてくる。入っているのはむろん、先輩である。今回もまた当然のように、僕と先輩は同室なのだ。まあ別にこれが初めてという訳じゃないしそもそも現在同棲中なので今さらどうこう言うことはないのだが。もはやどうってことはないのだが。うん。
それはともかく。何故先輩は魔石塔に関してそんな感情を抱いたのだろうか。しかも聞けば、まるで生き別れた妹や弟にやっとの思いで再会できたような、そういったものに近い懐古感らしい。……およそ物体、それも無機物に対して抱くものではない。
引き続き天井を眺めながら、あの時の先輩の様子を──魔石塔に対して浮かべていた表情を思い出す。塔の表面を覆う魔石に指先で触れ、困惑しながらもまるで慈しむような────まるで愛する我が子に向ける、母のような表情を。
正直に言えば、先輩があんな表情を浮かべるとは思わなかったし、浮かべられるとは考えもしなかった。それだけに新鮮で──魅力的だった。思わず見惚れて、見入ってしまうくらいに。
──そういえば、先輩が女の子になってからもう三ヶ月経つのか……。
忘れてはいけないことだが、僕の先輩であるラグナ=アルティ=ブレイズは元《SS》
何故そうなってしまったのか、その原因は未だ不明のまま。というか、それを調べる余裕がないのが本音だ。今の最優先事項は先輩を
それに関して、Lvこそ最初はあまりにも貧弱な
しかし、それが意味するのは、もうヴィブロ平原では経験値を稼ぐのが難しいということだ。そろそろ新しい狩場を探さなければならない。だがそれについては大方の目処はつけてある。今のところ本当に問題なのは──性別の方だ。
これに関しては、戻すその手段すら掴めていない。……いや、方法はあったにはあったが、結果として先輩を男に戻すことはできなかった。
そもそも性別を変えることなど、そう並大抵のことではない。というか、
……まあ、意図せずその奇跡を体現した
事態は想像以上に深刻だ。……そう、想像以上に深刻。深刻だとは、僕も思っている。もしかしたら先輩は男に戻れないかもしれない──その可能性が半ば無視できないほどに突出し始めたことは、僕も重々承知している。
……しかし、しかしだ。そう思う傍らで────
────それが決して許されることではないとは、わかっている。わかっているが、それでもこう思ってしまう。
あの時先輩が男に戻らなくてよかった、と。女の子のままでよかった、と。
無意識にも感じたあの安堵感は、今でも強く頭に残っている。思わずほっと胸を撫で下ろしてしまったことも、はっきりと覚えている。
それが一体何を意味するのは、ちゃんと理解している。理解できている。その上で言うが──別に僕は、
……いや、正直なところ──わからないのだ。自慢ではないが、僕はこれまでの生涯で恋というものをしたことがない。恋が一体どういったものであるかは、表面上は理解しているが具体的にはわかっていない。
数日前、
──違う。僕は先輩に対してそんな感情は抱いていない。きっと今の先輩は女の子だから、性別が変わってしまっているから勘違いしているだけだ。肉体的には異性だけど、精神的には同性で……そもそも、あの人は命の恩人だ。命の恩人に対して、そんなものは抱いちゃいけない。
誰に言うでもなく、誰に弁明するでもなく、ただ心に秘めた独り言を僕は捲し立てる。……けれど、そうであるならば──何故、自分はあの時ああ思ってしまったのか。
ずっと考えていたが、答えは出ないでいた。……否、
と、その時。
バタン──気がつけばシャワーの音は止んでいて、代わりに浴室の扉が開かれる音が部屋に響いた。