「現在確認されているだけで、その数千体です」
意を決して告げられた受付嬢の言葉によって、執務室の空気が一瞬にして凍りつく。僕も、最初その言葉の意味を理解できないでいた。
──……せん、たい……?
この
信じ難い。信じられない。信じたくない────もう、最悪だとかという陳腐でありきたりな言葉では到底片付けられない。
本来、〝殲滅級〟の魔物は確かな実力を持った《S》
それが、千体。しかも生態も対処もまるでわからない未知の魔物が千体。に対して、こちらは僕を含めた《S》冒険者五人と、他の《A》冒険者百四十人。……もはや笑いすら込み上げてくる程の、圧倒的で絶望的な戦力差だ。
──こんなの、一体どうすれば……。
もはや言葉すら出ず、希望の欠片すらも掴ませる気のない現実を前に、僕はとある人を思い出す。思い出して、堪らず項垂れてしまう。
──駄目だ、サクラさんの手は借りられない。サクラさんには……。
そうして頭を抱え込みそうなっていると、今まで押し黙っていたアルヴァさんが、ゆっくりとその口を開いた。
「……で、空の
その声音は、ぎこちなくそして固い。無理矢理冷静を装っているような、所謂作ったような声音だった。そんなアルヴァさんの問いかけに、慌てて受付嬢が答える。
「は、はい。確認したところ、あの文字盤はフォディナ大陸全域及び、
それを聞き、またしても僕は冗談のような衝撃を受けてしまう。あの時計の文字盤のような魔法が、マジリカだけに留まらずこの大陸全域、そして他の三大陸の空にも浮かんでいるという、あまりにも常識外れな
そも、先程見た文字盤一つでも百人、否それ以上の魔道士──それも《S》
『理遠悠神』アルカディア────その存在は先の三つの『厄災』よりも遥かに強大無比で、その脅威も天と地程の差である。まさか同じ『厄災』でも、こうも違うとは。
「そして『理遠悠神』が言っていた通り、夜が明けるのと同時に、針が一周します。その時何が起こるのかは……全く以てわかりません」
その言葉を聞いて、僕はふと思い出す。あの時、アルカディアがこちらに告げていたことを。
────
夜明けの時、一体この世界はどうなってしまうのか。アルカディアの手によって、どうされてしまうのか。そもそも、理想の元に還るとはどういうことなのか。どう、創り変えるというのか。
──一体何が起きるっていうんだ……?
僕が考え込む中、アルヴァさんが受付嬢に訊ねる。
「
「不可能です。あの魔法を止めるには、発動者の意思で解呪するか……発動者を倒すしか、他に方法はありません」
アルヴァさんは、何も返さなかった。ただ少し瞳を細めて、それから小さく呟く。
「そうかい」
その声には、微かな苦悩が入り混じっていた──気がする。僕には、そんな気がした。続けてこの部屋にいる全員に聞こえるよう、アルヴァさんが言う。
「聞いた通りだ。アルカディアの対処は『極剣聖』に任せるしかない。この現状で、彼女こそが対抗できる唯一の
「……?」
アルヴァさんの言葉に、僕は透かさず引っかかる。何故なら、その人数だと──一人足りない。含まれていない。
僕のその引っかかりに気づいたのか、そこでアルヴァさんが僕の方に振り向いた。
「クラハ。別に断ってくれても構わない。この事態は
そう言うと、アルヴァさんは椅子から立ち上がり、僕の方にゆっくりと歩いてくる。そしてある程度の距離で止まると────彼女は、何の躊躇もなくその場で
「……え?え!?」
アルヴァさんのまさかの行動に、執務室にいるほぼ全ての者がどよめく。僕に至っては思わず驚愕を声に出してしまっていた。そんな僕らに構わず、アルヴァさんは土下座のまま言う。
「頼む。今は少しでも……いや、その力をどうか貸してほしい。こんな情けない、どうしようもない私の為に、どうか戦ってほしい」
「ちょ、アル、アルヴァさん止めてください!そんな、土下座なんて」
友人の
慌てながら、僕はアルヴァさんにそう言うが、彼女は土下座したまま、僕に続ける。
「お門違いだってのは重々承知してる。アンタはフィーリアに連れられて、この街を観光しに来ただけ。なのに、こうやっていきなりその命を預けてくれってせがんでるだからね。笑って馬鹿にしてくれても構わない。……だから、どうか頼む。共に戦ってくれ……クラハ」
「ア、アルヴァさん……」
アルヴァさんは土下座したまま、その姿勢のまま、一切微動だにしない。
今、アルヴァさんがどんな気持ちなのかは、完全にとまでは言わないがわかる。僕も彼女と同じ立場であったなら、同じくこのようにしただろうから。
アルヴァさんが言う通り、今回僕はあくまでも観光目的で、フィーリアさんに誘われてこのマジリカに訪れたに過ぎない。『世界
だから彼女の言う通り────別に僕が『理遠悠神』アルカディアに、立ち向かう理由もなければ、そんな義理もない。
相手は遥か強大な脅威で、そして保有するその戦力も圧倒的で。それに対しこちらは量も質も、劣ってしまっている。目に見えている明らかな死地に、一体誰が進んで飛び込もうと言うのだろうか。
アルヴァさんが自分でも言う通り、この事態を手招いたのは他の誰でもなく、彼女自身で。己の傍にいる
事前に事情を知らせていたのならいざ知らず、僕やサクラさんは真実を今日知ったばかりなのだ。自らの意思でアルカディアの元へ向かったサクラさんは別として、この事態に僕まで巻き込むのはありえないことである。そしてそれを誰よりも何よりも理解し、承知しているのはアルヴァさん本人だ。その上で、彼女は僕に土下座をしてまで頼み込んでいる。
──……普通だったら、断るんだろうな。
再度言わせてもらうが、僕に『厄災』に挑む理由も、義理もない。
だが、生憎そんなつまらないことで断る程、僕は薄情者ではなかったらしい。
「アルヴァさん」
僕がそう声をかけるのと──不意に僕の服の袖が少し引っ張られるのは、ほぼ同時のことだった。一体誰がと刹那の間に思考を巡らせて、袖を引っ張った主を特定する。
案の定、それは──先輩だった。咄嗟に隣の方を見やれば、先輩が顔を俯かせていた。
──先輩……。
そこで僕は思い出す。ここ最近先輩と過ごした日々を。先輩と交わした言葉の数々を。
────俺の前から、消えたりしないか?────
僕の脳裏をいつかの言葉が過ぎる。それと同時に理解する──先輩の不安を。心配を。
先輩だって、馬鹿じゃない。これから僕が向かおうとしている場所が戦場になることはわかっているだろうし、そこが生きて帰られるかどうかも定かではない死地だとも、わかっている。わかっているから、先輩は僕の服の袖を引っ張ったんだ。
けれど、それだけで。先輩は何も言わない。……何も、言えない。何故ならわかっているから。今この状況で、僅かとはいえ僕の力が必要なことがわかっているから。
行けとは言わない。行くなとは言わない。ただ、先輩はその小さく細い指の先で、袖を摘んで黙ったまま、俯いている。その姿を見て、僕は。
──先輩。あの時、僕は言いました。先輩に誓いました。……貴方に、決意を見せました。
強くなる。なってみせる。心配されない程に、不安とも思わないまでに────そう、僕は言った。心に決めた。であるなら、今こそ切り拓き、乗り越え前に進むべきなんだ。この目の前に聳える壁を乗り越え、進まなければ僕に先はない。強くなれない──なれるはずがない。訳がない。
──……先輩、すみません。
先輩の気持ちをみすみす無下にしてしまうことに対しての罪悪感に苛まれながら、僕ははっきりと未だ眼下のアルヴァさんに伝える。
「僕も戦います。皆さんと共に、立ち向かいます。……ですから、もう土下座なんて止めてくださいよ」
「…………ありがとう」
アルヴァさんがまた立ち上がってくれるのは、そう言って少し遅れてからだった。