「……?」
視線を下ろせば、純白の円形テーブルと湯気を立てる熱々の紅茶が1杯。
正面を見れば重厚な革張りの椅子が2つ、無機質に鎮座している。
「な、何これ……」
ふと気が付くと、少年は簡素な作りをした椅子に座って──否、拘束されていた。
ファンシーな装飾の付いた、ヒモのような何かが僕の四肢を椅子に縛り付けているのだ。
右手──ダメ。
左手──もダメ。
両足など以ての外だ。指先くらいしか動かせる部分がない。
抜け出す隙など一分もなく、少年は完全無欠に着席を強要されていた。
「ひと、じち……?」
少年の脳裏に浮かんだのは、ドラマだとか漫画だとかでよく見る人質の姿だ。
しかし現実として、ズタ袋でも被せられれば拷問なり処刑なりが始まりそうな雰囲気に晒されている。
身代金がどうだとか、復讐がどうだとか、そう言ったテレビの中での出来事だからこそ笑えるシチュエーションが少年の身に降りかかっているのだ。
「ど、どうなってんだよ……」
──だが、少年には拐われた記憶が無い。
ももこに聞く所によれば最近は神浜の此処彼処で魔女が蔓延っている上にやたらと強く、魔法少女は皆チームを組んで戦うのが基本となっているらしい。
それもこれも例のキュゥべえとやらが行方不明になった事が原因だと推測されるが、だとすれば迷惑な事この上ない。
レナとの時間が少なくなった責任はどう取ってくれるのだろうか。
「──じゃなくて!此処何処だよ!?」
そう、キュゥべえの糾弾などしている場合ではない。
今自分が何処にいて、何をされているのか。
非常事態なのだから、先ずはそちらを優先するべきだろう。
少年は逸れた思考を戻しつつ取り敢えず左右を見渡して──
「えぇ……」
何これきっも。
そんな在り来たりかつレビューサイトの星1つとかにありそうな言葉しか少年は思い浮かばなかった。
見た感じ此処は──図書館だと推測される。
如何にもそれらしく本が詰め込まれた棚がもう滅茶苦茶沢山、それこそ地平線の果てまであるんじゃないかと思う位に並んでいるのだから間違いない。
「でか……」
が、しかしそれが馬鹿みたいにデカい。
人の2、3倍とかそう言う次元ではなく5階建てのビルに匹敵する位高いし、その癖梯子とかの類は一切見当たらないのだ。
この縮尺から何から全部滅茶苦茶にしたような図書館が神浜市にあるなんて、少年は聞いた事も無かった。
そしてそんな棚と棚の隙間にある通路のド真ん中で、取って付けたような茶会の席に無理矢理着席させられているのが少年という訳だ。
「いや、訳分からんなこれ」
自分を拐った理由はなんだ。
自分を拘束する意味はなんだ。
この空間は何なんだ。
ひょっとして、この風景から得られる情報が何も無い場所で椅子にくくりつけられたまま何時までも放置されるのだろうか。
状況がもたらす不安感に無駄だとしりつつもがいていると、羽音のような、何かが擦れる不快な音が耳を衝く。
「──?」
誰かが、近くにいる。
右へ左へ、前へ後ろへ。
言葉では形容し難い耳障りな音を立てて何者かが徘徊している。
1人なのか複数人なのか、音が書架で反響するのでそれすら把握出来ないが、確かに
「だ、誰かいるんですか……?」
故に、少年は一縷の希望を込めて助けを求めた。
ひょっとしたら自分と同じような事態に陥った人が一足先に抜け出しているのかもしれないと、そう思ってしまったのだ。
──それが己にとって、最大の失敗だと知らずに。
「|ギ└┌ギゴギ┐ギゲ├」
「なんっ……魔女!?」
少年の呼び掛けに応じて本棚の陰から現れた
ただし鉄の足と翼、そして先端に唇を貼り付け無理矢理鳥の形に整形したような、とびきり奇怪なキースイッチだ。
それも1匹、2匹処ではない──今まで何処に隠れていたのかと思うほど大量の
(ヤバい──ヤバいヤバいヤバい!)
逃げ出さなければならない。
是が非でもこの場を離れなければ少年は死ぬ。
孤立無援のこの状況で相手が魔女とくれば確実に死ぬ。
或いは優しく。
或いは惨たらしく殺されてしまうと少年の本能が絶叫している。
「このっ……!解けろよ!」
拘束から抜け出そうと必死になってもがくが、ヒモのような何かはビクともしない。
ファンシーな花柄が、キースイッチの唇が、無様に足掻く少年を嘲笑っている。
そして、そんな少年の後ろに絶望がもう1つ。
「|ギ┳ゴグ┓ゴグガ┐グ─ギギギ┳┓|」
「は、あ──────?」
自力で動く為の足を持たない
しかし人は小さすぎるモノを咄嗟に識別出来ないのと同時に、大きすぎるモノもまた識別出来ないのだ。
故にただ鎮座しているだけだが、あまりにも大きい
「印刷、機──?」
首を捻ったその先で少年を見下ろす
傘のような構造物を備え、毒々しいまでの極彩色塗装を施された印刷機が少年の背後で不気味な駆動音を立て始めているのだ。
(──これ、死んだわ)
もうどうにもならないと少年は己の運命を悟った。
諦めたくない。こんな所で死にたくない。
だが精々指先しか動かせないこの状況で少年が生き残れる確率など、1%だってありはしない。
一体何処の誰が何の為にこんな事をしたのか、何一つとして分からないが自分が死ぬ事だけはハッキリしていた。
だけど、だけどせめて────
「レナの声を聞いてから死にたかったなぁ……!」
棚の列に空しく消えた少年の願いすら嘲笑うかのように、極彩色の印刷機が光を放つ。
そして恐怖で震える己の声と冷めたティーカップが、少年にとって最期の記憶となった。
「本当に殺さなくて良かったのかにゃー?」
「良いんだ。僕達にとってはその方が正しい選択さ」
意識を失い項垂れる少年の対面で、薄桃色と飴色の2人の魔法少女が紅茶を啜る。
いつの間にかキースイッチの
「……て言うか、生きてる?」
「間違いはないと思うけどね」
拘束が解ければ床までずり落ちそうな程ぐったりと弛緩した少年の足を傘でつつきながら、飴色の少女──里見灯花が問い掛ける。
灯花としては別に少年の命などどうでも良かったのだ。
確かに少年は退屈で緩やかに死んでいくだけの入院生活中における、数少ない
だがそれだけだ。
少年は灯花から見れば秀でた部分など何一つ無い有象無象そのものであり、魔法少女となった今の2人にとっては少々都合が悪い人間でしかないのだ。
だから入院生活へ逆戻りしてもらうつもりだったのだが────
「それにしてもねむが反対するなんてねー。一体どういう風の吹き回しかな?」
「どうもこうもない。僕達は彼に返すべき恩があるだろう」
灯花の軽薄な質問に、ムッとした表情で薄桃色の少女──柊ねむが言葉を返した。
ティーカップを持つ手に力が籠り、紅茶の水面がねむの不快感を示すように波打っている。
普段であれば感情的な灯花をねむが諌める関係なのだが、今日この日に限ってはそれが逆転していた。
「恩?そんなものこの頭カチカチ山から受けた覚えは無いけど……」
「閉塞した病院に押し込められた僕達にとって、彼はとても有意義だった。違うかい?」
「それは──」
「灯花の『叔父さん』と一緒だよ。彼自身に見るべき所が無かったとしても、彼の話す日常は僕達にとって何より得難いモノだった。これも違うかい?」
的確に選び抜かれた言葉の槍が灯花の反論を先回りして貫いていくが、そのあまりにも
「灯花、僕達は如何なる犠牲を払ってでもイヴを孵化させなければならない」
「だったら邪魔になるコイツは昏睡状態にでもしておくしか────」
「でも、人として最低限の良心は残しておくべきなんじゃないかな」
「へ──?」
そもそもからして、ねむは少年に危害を加えるつもりなど毛頭ないのだ。
少年を
「丁度お誂え向きのウワサもいるし、雀の涙程度でもエネルギーの回収にはなる筈だ」
そう、そしてその為に用いたのが少年の背後でガタゴトと音を立てて稼働する「記憶キュレーターのウワサ」だ。
記憶キュレーターのウワサは人に望んだ記憶を見せると同時に、その者の記憶を奪い取る性質を持つ。
これによって少年からねむと灯花に関する一切の記憶を消去し、2人に繋がりうる要素を全て絶つのだ。
万事滞りなく事は進んでいたが、
ねむにとって惜しむらくは────
「まぁ、彼が
「へぇ……」
ねむの言葉が僅かに嫉妬を帯びたのを、灯花は聞き逃さなかった。
入院中から度々ねむは
だが誰よりも感情的な癖に他人の機敏には疎い灯花が、ねむの心中を理解出来る筈も無い。
故に灯花の中では「ねむは人間観察のサンプルに余計な手が加わった事に苛立っている」モノとして処理されていた。
「なぁに?新しい小説のネタにでもするの?」
「違うよ。そんなんじゃ、ない」
だが、ねむの表情は行き場の無い焦燥と憂いで心なしか悲壮感を漂わせている。
ねむとって少年はそんなに
(彼
灯花の語る通りどこまで行っても少年は凡人でしかなく、無力感に苛まれる一般的な中学生でしかない。
だがそれが何だと言うのだ。
あの日、病院内で迷った少年が偶々道を尋ねに入った病室が、柊ねむの全てを変えた。
それは即ち物語の始まり、ボーイミーツガールだった。
メディカルセンターの中にいては絶対に得る事の出来ない、瑞々しい日常を少年は語るのだ。
それが少年と灯花にとってどれ程陳腐でも、他の誰でも出来る行為でもねむにとっては何より新鮮だった。
(彼がずっと僕だけを見ていてくれれば良いのに。そうすれば記憶を消す必要も無くなるんだ)
つまり柊ねむにとって少年は──
少年にあってねむには無い「普通」が、彼女を惹き付けていた。
だと言うのに、どうして少年は
運命はあまりにも残酷だ。
「せめて水波レナがいなければ、僕にだって可能性はあっただろうに」
何しろ初恋なのだ。
少女にとって唯一無二の、77億分の1なのだ。
それに手が届かないとなれば、未練がましい言葉が漏れるのも致し方無い事と言えるだろう。
そして挙げ句の果てに出会いの記憶まで消さねばならないと来れば、流石のねむとて悲劇のヒロインを気取りたくもなる。
どうにもやりきれない思いを抱えたまま深く溜め息を吐いて──
「ねむ、これ弄るね?」
「────んん?」
いつの間にか席を離れ、絶賛稼働中の記憶キュレーターのウワサをペチペチと叩く灯花の姿に首を捻った。
弄る。
弄ると言ったのかこの天災は。
大方機械として非効率的な所を見付けてしまったので、「変換」の固有魔法で最適化しようと言う心積りなのだろうが今、ウワサが何をやっているのか灯花は忘れてしまったのだろうか。
「いや、ちょっと待っ───」
「えっ」
慌てて立ち上がるも時既に遅し。
印刷機の足に触れた灯花の手のひらが淡い光を放ち──
「ぎゃあ」
あまりにも短く、それ故に深刻さを感じさせる悲鳴と共に椅子に拘束された少年が激しく痙攣する。
さしもの灯花も慌てて手を離したが、これもまた遅きに失していた。
「灯花ぁ!」
「あっ──」
灯花の視線が激情を露にしたねむと打ち上げられた魚のように跳ね回る少年とを行き来し、そこでようやく己のしでかした事を悟った。
────ひょっとして、これは死ぬのでは?
「──!」
効率化を中断、変換しつつあるウワサの構成を再変換してあるべき形へと戻す。
しかし全身から白煙を立ち上らせ、白目を剥いて弛緩する様を見て「無事」などとはとても言えまい。
5秒も掛からずに記憶キュレーターのウワサはかつての機能を取り戻したが、少年へのダメージは既に甚大であった。
「灯花、君は自分が何をしたのか理解しているのかい?」
「それは──」
「理解しているのかと聞いているんだ。君の軽率な行為で彼が死ぬ所だったんだぞ」
灯花は恩人を殺すつもりなのか、とねむは煮えくり返った腹の中で叫ぶ。
そう、彼女は見誤っていたのだ。
この場に呼ばなかった
幼馴染みだとか灯花に悪意は無かっただとか、そんなモノ言い訳すらなりやしない。
「よいしょ…っと」
己の失策に気付いたねむの行動は素早かった。
灯花が何かするより、何か言うより早く少年に駆け寄りぐったりとした肢体に手を回す。
もう色々と手遅れだが、兎に角今すべきは少年を安全な場所──即ち自宅へと戻す事だ。
「……どこ、行くの?」
「こうなってしまえば僕達の悪巧みも失敗だし、せめて形だけでも取り繕う事にするよ──っとと」
今更萎らしくなった灯花に棘の籠った言葉で返しつつ、ねむは少年を背負う。
思った以上の質量が背中にのし掛かるが、寧ろそれが健康さを感じさせて心地好い。
そう、態々そんな事しなくてもウワサか何かに運ばせれば良いのだが、今のねむは「そう言う事」をしなければやっていられなかった。
(そうさ、どうせ届かないんだから──今くらい)
やはり自分は悲劇のヒロインなのだろう、とねむは深い溜め息を吐く。
恋愛にしても計画にしても、自分だけだけが貧乏くじを引かされるのだとセンチメンタルな感傷に浸っていなければ、やはり全部投げ出してしまいそうだった。
──本当に、生きる事は難しい。
「これで良し、と」
掛け布団を肩まで被り、穏やかな顔で眠っている少年を一瞥して柊ねむは満足気に笑みを浮かべた。
何やかんやあった──いや、ありすぎたが取り敢えず少年を五体満足で帰す事が出来たのだ。
これ以上に喜ばしい事は無い。
「折角なんだから僕の事も覚えてくれていたら嬉しいけど、どうなんだろうな」
──だが、どうか覚えていて欲しいと願う事は罪なのだろうか。
実際、ねむは記憶を消去するのにすら全力で反対したのだ。
「例え彼が僕達について喋っても脅威には成り得ない」とか「僕達は彼の友人だろう」とか、ねむにしてはあまりにも感情的で稚拙な表現だったが、出来るだけの反論はしたのである。
「或いは、
しかしながら、いざ記憶を消去するとなったら一番積極的に動いたのもまたねむである。
灯花と
「もし
そう、ねむは2人に黙って「それ」を奪うつもりだったのだ。
少年が生きていく上で大切な「それ」を記憶キュレーターに消去させ、癒える事の無い傷を刻み込むのだ。
そうすればきっと少年は考えるに違いない。
何時「それ」を失ったのか。
何故「それ」を失ったのか。
原因を──即ちねむを探して、しかしどうしても見付からない事に煩悶する。
「むふっ、むふふ……!」
ああ、想像するだけで堪らない。
ねむが少年を想って、少年が
物理的に逢う事が出来なくても、心は互いの事しか考えられなくなるのだ。
これ以上に素晴らしい事があるだろうか──いいや、ある筈が無い。
灯花が余計な事をしたせいでおじゃんになってしまったかもしれないが、逆に言えばまだ可能性も残っている筈なのだ。
「平坦なだけの人生なんて詰まらない、だったかな。君は時々良い事を言うね、本当に」
ああ愉快愉快。
この際、吉と出るか凶と出るか賭けてみるのも面白い。
そんなやけくそ染みた事を考えるねむの瞳はどろりとした昏い光を湛えている。
たった1人の凡俗な少年が、あの柊ねむの才知を完全に曇らせていた。
たった1人への執着が、柊ねむを恋の魔物へと変貌させてしまった。
──────故に
「こんにちはー!今日の夕御飯持ってき、ま──?え、どちら様ですか」
「────うん?」
魔法を用いて不正に侵入したねむとは違い、鍵を開けて玄関から普通に入ってきた胡桃まなかに気付かなかったのもまた必然であった。
修羅場ですが続きます。