「はぁっ、はあっ……!」
走る。
ただひたすらに、一心不乱に夜闇に沈んだ新西区を少女が走る。
とうの昔に陽は暮れ、警察官にでも見付かれば補導を受ける事は間違いなかったが、今の少女にそんな事を考えている余裕は無い。
尤も、
「無事で、無事で……!」
息を切らして、スカートを翻して走る少女──水波レナに
ここ数ヶ月では殆ど毎日のルーチンと化したチームでの魔女退治を終え、ほっと一息吐こうとした時に
ただ一言、それだけ。
発信者は 。
声は恐怖に震えていた。
しかしその一言だけで、レナがももことかえでに何も言わず走り出した動機としてはあまりにも充分だった。
確かに疲れている。
魔女退治はまかり間違っても楽ではないし、それ故体は疲労を訴えているのだ。
────だが、それがどうした。
「ホントに、頼むから無事で待ってなさいよ……!」
彼が助けを呼んだのなら、レナは走る。
それが大東区の端っこだろうと神浜の外だろうと、水色少女は少年を救う為に走るのだ。
それがレナの
水波レナが自分で考えて、自分で見付けた、自分だけの使命。
だからどれだけ疲労が蓄積していようが、アスファルトを蹴る力強さに変化はない。
レナの意志は砕けない。
「……っく、見えた!」
そうして空気の読めない横断歩道と街頭の心許ない光に照らされた十字路を幾つか飛び越したレナは、見慣れた少年の自宅を漸く視界に収めた。
明かりは──ある。
カーテンの隙間から生活の象徴である電気の光が漏れている事にホッとしつつ、少女は扉のシリンダーへと鍵を叩き込んだ。
解錠しようとして───
「開いてる……!?」
本来あって然るべき手応えが無い事に、レナは青ざめた。
電気は付けっぱなし、鍵も開けっ放し、「助けて」の一言。
これらから導き出される答えはそう多くないのだ。
それ即ち、強盗である。
どれだけ少年が果敢であろうがナイフでも突き付けられれば沈黙するしかないし、あの怯え具合にも納得がいく。
「……よし」
そう、なまじ言葉が通じる分人を殺す魔女より、人を害する人の方が厄介なのだ。
兎に角ありとあらゆる可能性を考慮しつつ1度呼吸を整えたレナは、ゆっくりと把手を掴んで──全力で開け放つ。
「大丈────」
玄関先で棒のように真っ直ぐ立った少年の、昏く濁った瞳がレナのそれに絡み付いた。
一見すると、少年から何の異常も見て取る事は出来ない。
五体満足、顔色が悪い訳でもない。
それなりの頻度で夜更かしをするせいで目元には隈があるものの、何かしらの危害を加えられた形跡は存在しない──
「来てくれてありがとう。魔女と戦ったばかりなのに呼んじゃって、ごめん」
「それは構わないけど……アンタ大丈夫なの?」
「どうだろう、分かんない」
「分かんないってそんな……」
────ように見えるだけだ。
彼自身が語る通り、レナには少年が健康、或いは健全であるようには到底思えなかった。
レナとて上手く言語化出来る訳ではないが、無理矢理表現するなら今の彼は「虚ろ」なのだ。
生気が無いとも言えるかもしれないが、およそ生きた人間が発する感情の動きが見えないのだ。
「……取り敢えずリビングで、座って話そうよ。正直混乱してて何から話せば良いか分からないんだ」
「そう、ね……」
とても混乱しているとは思えない、平坦な言葉と共に少年がリビングへと足を向ける。
これが本当に、恐怖に震えながらレナに対して助けを呼んだ
寧ろ、上辺だけ適当に取り繕った人形が少年を騙っているのだと考える方が自然であるようにすらレナには思えた。
そして人間が
「……魔女?」
そう、魔女の口づけだ。
魔女が標的とした人間に付着させるそれは、受けた者を「死」へと誘導する。
自殺、或いは事故を目的に行動させられる彼らは例外なく虚ろな──人間らしさを喪失した表情を取るのだ。
なるほど、これならば少年が生気を抜かれたような無機質さを漂わせているのも納得出来る。
「……分かんない。でも、そうかもしれない」
「そんな……」
そして少年の返答で、レナはどうしようもない程の確信を得た。
少年はレナが離れていたほんの数時間の内に、魔女か使い魔に襲われて口づけを受けてしまったのだ。
どうにか逃げ仰せたようだが、結界から離れた所で口づけの効果が消える訳ではない。
だから、せめてもの抵抗としてレナに助けを呼んだのだろうが────
「何で……」
「?」
「何で黙ってたのよ!」
細胞の1つ1つから沸き上がる怒りの咆哮に任せて、レナは気が付けば少年の胸ぐらを掴んでいた。
それはあまりにも酷い──レナ自身ですら理不尽を感じるような暴言だ。
「何を……何をされたの」
「分からないんだ」
「え────」
「自分の名前も顔も、何もかも分からなくなった」
──だが、虚ろな少年の虚ろな言葉が今度こそレナを粉々に粉砕した。
「鏡にさ、顔が映らないんだ。凄い真っ黒で、幼稚園児がテキトーにやった塗り絵みたいになってて」
「止め──」
「教科書もノートも全部黒塗りになって……いや、他の人が見たらどうなのかは知らないけど名前すら分かりゃしない」
「止めて────」
「なぁレナ、どうしたらコレ治るんだろうな。
少年の言葉には隠しきれない恐怖が滲んでいたが、その表情は不気味なまでに平坦だった。
言葉と肉体のバランスを、完全に喪失している。
即ち──今の少年は人形だ。
「自分」という糸を切られて転がっているだけの、世にも哀れな人形なのだ。
何も悪い事をしていない、普通の少年から人間性が喪失してしまったのである。
そしてそれを止められなかったのは誰だ?
──他でもない、水波レナだろう。
「何で……なんでぇ……!」
「ごめん……僕が油断してたばっかりに……」
「アンタは何も悪くないのに、なんでよぉ……!」
水波レナは泣いていた。
あまりにも不甲斐ない自分自身と、あれほど簡明直截な少年に苦難を強いた
そう、何が彼女だ。
何が「アンタの隣で強くなりたい」だ。
少年が命の危機に晒されている事にすら気付けなかった癖に、一体何の為の魔法少女なんだ。
あまりの滑稽さと浅ましさに、耳が腐り落ちそうだとすらレナは思った。
「ごめん……ごめんなさいぃ……!」
「レナは、悪くないだろ」
優しい──変わらず無機質だが、あまりにも優しい言葉だ。
つまり自分が如何なる状態なのか理解してなお、少年はレナを責めようとはしなかったのだ。
少年はレナよりずっと苦しいのに。
少年はレナよりずっと勇敢なのに。
だと言うのにレナは苦境に立たされた少年に縋っている。
どうしようもない位に甘えている。
────それは、未だ精神的に未熟な魔法少女が絶望するのには十分すぎる動機だった。
「レナのせいでぇっ……!」
「──レナ?」
運が良かったのか、悪かったのか。
どちらとも言い難いが、少年は崩れ落ちて泣くレナの
気付いてしまった。
「ソウルジェムが……!」
「え、ぁ……?や、やだ……っ!」
レナの嗚咽に合わせて、胸の前で握った左手に指輪として嵌められていたソウルジェムがその青い輝きを失っていくのだ。
代わりに宝石を彩るのは──黒。
光を吸い込むような、或いは人の心の汚濁をそのまま表現したかのような「黒」がソウルジェムを黒く塗染め上げていく。
つまりは
それが何を意味するか──少年が慌ててレナに呼び掛けた時には、もう全てが遅かった。
「あああああああああああ!?」
「なん────!?」
絶叫するレナの背中を突き破るようにして出現した
その側面からはガラスの靴を履いた「脚」と、楕円形の鏡を取り付けられた「腕」が1本ずつ生えている。
生物として必要な要件を満たしているとは思えない
「──魔女!?」
魔女だ。
何の言い訳も出来ない程に、
そして
「何でレナから魔女が出てくる……!」
あまりの異常事態に、少年は己の状態を忘れて悪態を吐いた。
確かに「自分」を失った事で大分堪えてはいるが、最早そうも言っていられないのだ。
兎に角、
「レナ!こっち来い!」
「────」
そうしなければ死ぬ。
少年1人か2人合わせてかは分からなかったが、どちらかが死んでしまうのだ。
故に、飛び込むような勢いでレナに手を伸ばしたが────
「来ないで」
「ごッお……!?」
鈍い音と共に、少年はリビングへと通じるドアに叩き付けられた。
レナの意を受けた
「な……んで……?」
「────」
激しく明滅する少年の視界で、水色少女がゆっくりと立ち上がる。
相も変わらず俯いたまま、頬に涙の筋を光らせた少女が幽鬼のように立ち上がったのだ。
そしてそのまま──
「……まて……よぉ」
「────」
止めなければならない、と少年は悟った。
何か──何かとんでもない事をレナはしでかそうとしているのだ。
言葉にされずとも、表情が見えずとも少年には分かるのに、体が動かない。
滅茶苦茶な痛みに晒された肉体が言う事を聞かず、立ち上がる事すら出来ない。
「レ……ナ……」
「────っ」
少年が無様に這い始める頃には、レナは既に玄関の扉を開けて秋の冷気を浴びていた。
そこで1度振り返った水色少女は、必死に手を伸ばす少年を名残惜しそうに眺め──
絶望に塗れた謝罪を残して、夜の闇へと走り去った。
変わる。
レナの姿が、どんどん変わる。
付かず離れずの距離を保って追従してくる
そして、レナの変身能力は「本人より本人らしい」と評される程精密であり、その変化は精神にまで及んでいる。
及んでしまっている。
それが制御不可能な程連続して発動すれば──
「ぅあぁぁあぁあ゛あ゛ぁ゛ッあ゛!?」
強烈な負荷と混濁、混線する意思の群れに頭を侵されレナは悲痛な叫び声を上げた。
だがそれも、彼女にとっては当然の事だった。
当然の報いだとして、受容しなければならなかった。
水波レナは何をした。
──少年の危機に気付きすらしなかった。
水波レナは何をした。
──誓いを立てたにも関わらず、少年を救う事が出来なかった。
水波レナは何をした。
──
魔法少女が魔女に「成る」のか、魔法少女が魔女を「生む」のかレナは知らない。
だが、そんな事は彼女にとってあまりにも些細な問題だ。
そう、
「こんな惨めな自分を見ないで欲しい」と、そう思っただけで
間違いなく、レナ自身の意思で。
「ぃい゛ッ、ひぃッ!ごめッ、ごめんな、ぁぁあぁああぁ……!」
──だから、走る。
視界が涙で滲んでも、肺が痛みを訴えても少女は滅茶苦茶に走り続ける。
それで彼が傷付かないなら。
どうせ、
「レナは、レナはぁ……!」
何の意味も持たない言葉を呪詛にして吐き出しつつ、水波レナはただ闇雲に走る。
────それが、レナにとって運命の分かれ目だった。
どうしようもない、仮定の話である。
もしもレナが少しでも他者に相談する事を考えていたら。
もしも行き場に困ったレナが神浜市立大学附属学校へと潜り込まなければ。
あんな事にはならなかったのに────
ラブコメからコメディ要素が消え失せましたが続きます。