1.イノリの朝
夢を見ている。
それが夢だと分かったのは、
風がぐるぐると渦巻いて、シュレッダーにかけた紙みたいに雲が吹き散らされていた。
眼下にあるのは、ギラギラと日を照り返す摩天楼が建ち並ぶ街。
東京。
雑然とした街のなかに、たくさんの人々がいる。
上空からだと、人の群れはまるで蟻の行列みたいに思えた。ディテールを失って、黒々とした「人々」になった、たくさんの個人。
不安。
恐怖。
猜疑心。
誰もがそれらを抱えながら、バッグやポケットの奥に押し込んで暮らしている。
でも、誰もが気付いていた。
世界は限界まで膨らませた風船みたいで、誰かが面白半分に針を刺せば弾けてしまう。
そして、その『針』は、すぐそこまで迫っていた。
『そこ』というのは、街の中ではなく、私のいる『ここ』。
東京の空。
音は聞こえない。なぜなら、音よりも速いからだ。
衝撃波をまとった、
東京を、人々を、一瞬で塵に変えてしまうもの。人類が長い時間をかけて、『敵を倒す』ために作り出した究極の武器。
科学の結晶が、降り注いでいく。
私はそれを見ていた。
東京が滅ぶ瞬間を。
白光――
砂の城を踏みつけるように、ビルが崩れていく。
あまりにもあっけない
私は、何もできずそれを見ていた。
私には、何もできなかった。
大きな力に抗うようなことは、何も――
†
「――っ!」
イノリ――
「あ、あぇー……と」
周りを見回す――白い壁紙。木目のタンスの上に本が並んでいる。黒猫が本を支えているブックエンド。窓にはカーテンがかかって、その隙間からは光が一筋、部屋の中に入り込んできている。
よく知った、寮の部屋だ。
「なーんか、変な夢見た気がするな……」
イノリは手で髪をかきあげて、首の裏に貼りつく悪寒と一緒に振り払った。乱れた髪を手でなおすうちに、だんだんと頭がはっきりしてくる。起きたばかりなのに、やけに心臓の鼓動が大きく感じられた。
「何も変わってない……よね」
なにか破滅的なことが起きてしまったんじゃないかと、胸に湧き上がってくる不安感を抑え、イノリはベッドを降りた。
向かいの壁際にあるもう一つのベッドには、相部屋の女生徒がまだ眠っていた。
細く整った顔立ち。長い手足。長身でスリムな体つきは、日本人体型のイノリからすると羨望の的だ。
何より目立つのは、その髪の色――艶のある銀。うっすらとウェーブした銀髪をショートにしている。
名前は、
「うーん、絶世の美女……」
ルームメイトの寝顔を眺めているうちに、心の中にさざ波のように広がっていた不安感が落ち着いてくる。
陶磁器のような白い肌、薄めの髪の色。煙るような長いまつげ。リンの造作は、『人形のような』と形容するにふさわしい。
「あっ、そうだ。水酸化ナトリウム、それは苛性ソーダ」
彼女が起きていたらとても聞かせられない独り言を洩らしながら、イノリはふと思いついたことを実行に移すことにした。
ベッドの側のデスクへ手を伸ばす。読みかけの小説――二階堂なにがしという女探偵が活躍する――の隣に、インスタントカメラが置かれている。
イノリの進学の祝いにと、父親から贈られたものだ。中高一貫で全寮制の女学院に通うことになった娘に、せめて日々の様子を撮ってこい、というつもりだったのかもしれないが、イノリはもっぱら周囲の女生徒たちを撮っていた。
なにしろ、都内でも指折りのお嬢様学校として知られる清霊女学院の生徒はハイレベルなのだ。
「なかでも、リンは特別だけどね」
インスタントカメラの電源を入れると、レンズがせり出してくる。
イノリはそのレンズをルームメイトの寝顔に向けた。カーテンから差し込む光がシーツを照らし、フレームの中に明暗のコントラストが描かれる。銀色の髪のリンは、この世のものとは思えないくらいの美しさだ。
カシャ……とは鳴らない。代わりに、「ビュー」というモーターの音がして、フィルムカードがカメラの上部からせり出してくる。
と、その音で目を覚ましたのだろう。フレームの中の美少女が、うっすらと目を開けた。瞳の色はアイスブルーだ。
「フィルムが小さいのはかわいいけど、もっと静かにならないのかな」
ぽつりと呟く。撮影したばかりのフィルムカードは真っ白だ。徐々に、写真が浮かび上がってくる所も趣《おもむき》があって気に入っている。
「イノリ……」
リンが身を起こしながらルームメイトの名前を呼んだ。低く、落ち着いたアルト。ルームメイトになってすぐの頃は、名前を呼ばれるだけで腰が砕けそうな思いをしたものだ。
「おはよう、リン」
光が当たらない位置にフィルムを避難させて、イノリは白い歯を見せて笑った。カーテンを引くと、朝の光がぱっと部屋の中を明るく照らす。
「おはよう。……撮った?」
「芸術的な衝動に突き動かされて」
「勝手に撮らないでって言ってるのに」
「だーいじょうぶだって、魂が抜けたりなんかしないから」
気楽に笑うイノリ。リンは「ふう」とため息をついて、ベッドを降りた。
「そういう問題じゃないってば。……まったく」
首を振ると、髪がさらさらと揺れる。寝癖のひとつもついていない。
「今日という日は一日しかないんだよ。少年老い易く学成り難く、光陰矢のごとし。こないだはじまった漫画がもう最終回なんて、よくあることなんだから」
「それは打ちきられたんじゃない?」
「とにかく、今日のリンをここにとどめておきたかったの」
「もう、分かったよ。準備をしないと、遅刻するよ」
勢いに押し切られたのか、銀髪の少女はあっさりと引き下がった。
「あー、髪を梳かさないと。また心の乱れがどうこうってお説教されちゃう」
鏡を覗き込んで、イノリは寝癖のついた髪をつまんだ。くせっ毛でハネやすい髪質なのだ。
「手伝ってあげるから」
「ありがと! リンがいなきゃ今頃私は寮から追い出されてるかも」
「いちいち大げさだよ」
窓の外からは、小鳥のさえずりが聞こえてくる。それにも負けないくらいににぎやかに会話を交わしながら、髪を梳かし、顔を洗って、着替えていく……
それが、二人が迎えた、最後の平穏な朝になった。
†
東京、白金台。清霊女学院……
1年B組の教室。イノリは窓際の手すりに体をもたれさせて、見るともなく外の景色を見ていた。
ちなみに、リンは1年C組で、隣の教室にいるはずだ。
「聞いた? 井の頭公園で……」
「殺人でしょ。しかも、殺されたのが女子高生だって……」
いくら良家の子女が集まる女学院でも、いや、だからこそ、外海にあまり接していない彼女らの話題は世間の噂、ということになる。
芸能人のスキャンダルや、季節のファッションの話題ならまだ落ち着いて聞いていられるが、最近は噂の内容まで暗い。
「せっかく楽しい朝だったのに、台無し」
イノリにとってはリンと離れなければいけないだけでもつらいのに、物騒な話題が耳に入ってくるなんて。
(それに……)
センチメンタリズムが惹起されたのか、胸の内に空虚な気持ちを自覚してしまう。
(世間で何が起きてたって、私には関係ないし……)
女学院を囲む塀。東京の街並みと自分の間に厳然と立ちはだかる灰色の壁を眺めていると、思わずため息を漏らしてしまう。
「珍しいね、考え事?」
ふと、声をかけられた。
顔を教室の中にぐいっと戻すと、小柄な女子生徒が立っていた。長い黒髪を三つ編みにして、背中に垂らしている。赤いフレームのメガネの奥で、幼げな丸い瞳がイノリを見ていた。
「ちょっとコノカ、それじゃいつもは何も考えてないみたいじゃない」
反射的に声のトーンを上げて、イノリは反論を口にする。
「あはは、ごめん。でも、落ち込んでるのかなって、心配で」
コノカ――
「吉祥寺の事件のこと?」
「やめてよ、コノカまで……」
「怖いよね。最近、うちの学校でも最近、失踪してる生徒がいるって」
その時、イノリは自分が「ぎょっとしている」と分かるくらいに驚いた。
「それ……本当に?」
「し、失踪っていうのは言い過ぎかも。でも、ほら……斎藤さんも先週から学校に来てないし、他のクラスにもそういう人が何人かいて……病気で休んでるだけかもしれないけど……」
イノリがあまりにシリアスに驚いたせいか、コノカは弁明するように言葉を続けた。だが、それで動揺が収まるわけじゃない。
(学院の中でも何かが起きてる?)
なにも、井の頭公園の殺人事件と関係があるなんて思ったわけじゃない。
だけど、退屈で平穏な学院の中で、『何か』が起きているなんて、このときまで考えもしなかった。
「そ、そんな大したことじゃないと思うんだけどね。人によっては、悪魔のしわざだなんて話もあるくらいだし」
「悪魔?」
さらに言葉を続けるコノカの言葉に、妙な引っかかりを覚えて聞き返す。
「そんなわけないのにね。あ、でも、月刊『
早口でまくし立てたかと思うと急に謝られて、今度は「きょとん」だ。
その反応でますます恥ずかしがって、コノカは下を向いてしまった。
「ふふ、かーわいいなあ、コノカは」
「うう……」
恥ずかしそうにうつむく同級生を眺めながら、イノリはふと、心の奥に湧き上がってくるものを感じていた。
何かが起きているなら、その『何か』を知りたいという気持ち。
退屈で平穏で、変わり映えしない日常から、少しでも気を紛らわせることができるなら、何でも良かったのかも知れない。
(女探偵みたいに?)
我ながらおかしくなって、笑いが漏れてしまう。
「ど、どうしたの?」
いつにも増して情緒が安定しないクラスメイトを心配げに覗き込んでくるコノカ。メガネのフレームの奥で、丸い目が不安そうに揺れている。
本人いわく、「他の人の気持ちに引っ張られやすい」という彼女を安心させるため、イノリは深呼吸してから、にっこりと微笑んだ。
「ううん、何でもない。ただ……」
「ただ?」
小動物のように首を傾げるコノカに、イノリは胸を張って見せた。
「失踪事件の原因を私たちが突き止めたら、面白いなって――そう思ったの」