「シャッ!」
ネコマタが地を蹴った。信じられないほどの距離を跳躍する。毛を逆立たせながら、測ったようにリンの眼前に飛び込んでくる。
「速い……!」
霊剣クラウ・ソラスをまっすぐに構えて、ネコマタの攻撃コースを狭める。だが、獣の柔軟な体を捻りながら、鋭い爪を閃かせる。
「つッ……!」
リンはスウェーバックの要領で身をそらす。しかし、かわしきれずに、ネコマタの爪が頬に熱い傷を走らせる。白い肌に赤い血が流れ、頬を伝っていく。
「タムラ・リン、顔が!」
リンの背中に避難した妖精ピクシーが思わず叫ぶ。
「これぐらい、大丈夫。回復してもらうほどじゃない……けど、厄介だな」
バックステップで距離を取り、リンは油断なく敵を睨みつける。
鋭い爪は、動物の爪というよりは、研ぎ澄まされたナイフのような切れ味だ。
それに輪をかけて恐ろしいのは、素早い身のこなしだ。フェンシング選手であるリンよりも、さらに素早い。ネコ科の柔軟性を兼ね備えているから、接近戦での動作は人間業ではない。
「リンさん、平気?」
後ろで悪魔召喚プログラムを操作しながら、緊張感を満面にたたえたコノカが問いかける。周囲には、ネコマタの手下である魔獣カーシーが群れをなして囲んでいる。最初より数は減ったが、まだ気が抜ける数ではない。
「カーシーの相手をするのはいいけど、こいつは……少し、荷が重いかもしれない」
フェンシングの経験に加えて、妖精の騎士として様々な相手と戦っていたころの記憶から、リンにとっては相手の強さを測るくらいはできる。
カーシーは、数は多いとはいえそれほど恐ろしくはない。魔法を使うのは危険だが、その前に突いてしまえば、クラウ・ソラスの威力なら一撃だ。
だが、ネコマタは……端的に言って、リンよりも鋭い。
「あたしよりレベルが高い……って、ところかな」
妖精の騎士としての力が、自分の体に宿っているのを感じる。その魔力は攻撃や防御を助けてくれているが、まだその力を使いこなしているとは言えない。
完全に引き出せていない今の状態では、悪魔であるネコマタのほうが有利と考えたほうがよさそうだ。
「もう謝っても許さないわよ。アタシ達のなわばりに踏み込んだお詫びはしてもらうわ」
爪にわずかについた血を舐めあげて、ネコマタが恍惚の表情を浮かべる。悪魔にとっては、その味は格別なのだろう。
「コノカ、さっきの……魔法は使えない?」
「私にもどうやって使ったかわからなくて……」
コノカは今でも不思議そうに、自分の手を眺めている。
「んもう、じれったい!」
ピクシーが翅をはためかせて、コノカのもとへ飛んでくる。表情には焦るような、苛立つような色が浮かんでいる。
「私が教えてあげるから、よく聞いて!」
「う、うん……!」
コノカがこくこくと頷く。リンはふたたび、ネコマタと向き合った。
「よそ見してるヒマは無いよ!」
獰猛な肉食獣の仕草で、魔獣が飛び掛かる。鋭い爪が再び振り下ろされる。光る刃を水平に構えて爪を受け止めると、激しく火花が飛び散った。
「面白い剣。殺したら、それももらうわ」
「キミには扱えないと思うけど……なっ!」
体を横に捻りながら、獣を押し返す。腕力の強さでは、わずかながら分があるようだ。
体勢を崩したスキに斬りかかろうとするが、すぐにそこへカーシーが割り込んでくる。
「アオーン!」
大柄な犬の噛みつきを、さらにステップを踏んでかわす。さすがに、数が多い。
(先に数を減らさないと……)
カーシーがネコマタの周囲を取り巻いている限り、なかなか手を出せそうにない。だが、クラウ・ソラスはどちらかというと決闘向きの武器だ。威力は高いが、数の多い敵に対応するための装備とは言えない。
「考え事してるヒマはないよっ!」
ネコマタは地を這うように飛び掛かり、タックルのようにリンの腰をつかまえて引き倒す。
「っ……!」
剣を手放すことはない。だが、体の自由を奪われて身動きがきかない。
「ちょっとだけ、味見しちゃおうっと」
ペロ、とネコマタが唇を舐める。かと思った瞬間、牙を剥いて首筋へ噛みついた。
「ぐぁっ……!」
冷たい牙が、肌を悠々と突きやぶって体の中に入ってくる。温かいものが、傷口から流れ出していくのが感じられた。
「はぁっ……♡ 濃厚なエネルギー。酔っちゃいそう」
獣の口元が赤く染まっている。わざと頸動脈を切らないように噛んだのか。それとも、妖精の騎士の加護が致命傷から守ってくれたのか。
「くっう……!」
思わず、首元を抑える。ぬるりとした液体が手に絡む。命が流れ出していく感覚。喉笛を噛みきることもできたはずだ。
遊ばれている。
「次はどこを噛まれたい?」
肩を押さえつけながら、ネコマタが笑っていた。
自分より強い悪魔との邂逅は、死を覚悟させるのに十分だった。
†
「んーって力をシュウチュウして、えーいって一気に放つの!」
ピクシーが小さな体を踊らせるように揺すりながら、彼女なりの
「んー、えーい!」
できるだけ言われた通りにやってみるが、突き出した手からは何も出てこない。
「ぜんぜんダメ! やる気が感じられない!」
「はじめてなんだから大目に見てよぉ」
いちおう、ピクシーとは契約を結んで使役しているはずなのだが。上から目線で説教を食らって、コノカの三つ編みがしゅんと下がる。
「さっきの火の玉の勢いはどうしたの? 命を燃やして放つのよ!」
「さ、さっきは、クシナダヒメが助けてくれて……」
「今は私が助けてるでしょ!」
「そうだけど!」
どさくさに紛れて女神と同列に並ぼうとする妖精。機嫌を損ねると何を言われるか分からないので、コノカはとにかく記憶を頼りに手を構えた。
「たしか、さっきはこうやって……」
手をかざして、リンにむらがる獣たちを睨みつける。先ほど魔法を使った時には半ば、意識の外から力が流れこんでくるような感覚があった。自分が自分でなくなるような。
(トランス状態、ってやつかな……)
巫女だとかドルイドだとか、超自然的なものと対話する人は半ば自我を失うほどの状態に追い込むのだという。ジャックフロストに襲われた時、自分も同じように、意識を失う直前まで追い込まれていたのかもしれない。
(だとしたら、自分の意思では扱えないんじゃ……)
自分の意思で使えない『力』なんて、あてになるわけがない。
(だいたい、ゴルゴンの魔力が私に通じなかったなんていうのも、何かの勘違いかもしれないし。私には力なんて何もないんじゃ……)
絶望的な闇が心の中に広がっていく。体から力が抜けていきそうだ。気力がすっかり失われて、その場に崩れ落ちてしまいそう。
その時……
「タムラ・リン!」
ピクシーが叫んだ。はっとして顔を上げると、押し倒されたリンの上にネコマタがのしかかり、その首筋に噛みついているのが見えた。
「……リンさん!」
目を見開いて叫ぶ。なんとなく、彼女はもっと強いと思っていたのだ。妖精の力を持つ彼女が、ネコの悪魔に負けることはないと思っていた。だが、それは楽観的に過ぎた。
「アオーン!」
「アオーン!」
魔獣カーシーたちが口々に吼える。狩りの成功を喜ぶ咆哮だ。魔犬たちはネコマタに組み敷かれたリンへ向かって、一斉に飛び掛かっていく。
一匹は腕を、一匹は足を。噛みつき、引きちぎるための獣の動作……
「……だめっ!」
体が熱くなった。イノリの最後の姿がフラッシュバックした。今も冷たい石の中に魂を閉じ込められている友達の姿が頭いっぱいに広がった。
ぶる、っと体が震えた。怒りとも悲しみともつかない熱い何かが神経の中を駆け回って、体の中で何度も反響した。
カッと、コノカの瞳が輝いた。瞳孔が赤い光を放ち、自らの視界が赤く染まった。
この感覚だ、と、今度はどこか冷静に感じていた。まるで、感情に飲み込まれてしまいそうな自分を、少し引いたところから眺めているもう一人の自分がいるかのようだ。
魂から放たれる無軌道な力を練り上げる。何もかも一瞬だった。
「《マハラギ》!」
聞いたこともないはずの言葉が口を突いて出た。だが、それが何を引き起こすのかは分かっていた。
手から噴き出す炎は弧を描いて踊り、軌跡からさらに炎が立ちのぼる。赤い壁となって迫り、リンを取り囲む魔犬たちを薙ぎ払った。
「ギャオ!」
カーシーのほとんどが炎にまかれ、灰とマグネタイトになって崩れていく。
一匹だけが、運よく飛び退いたらしい。ぐるる……と唸りながら、驚きと焦りを顔に浮かべている。
「人間がこんな威力の魔法を……」
手下の魔獣が一斉に倒されて、さすがのネコマタも驚きに声をあげる。
「リンさん!」
輝く目が、リンにのしかかるネコマタを睨みつける。今度は、自分の体にわき上がる魔力を感じた。燃えさかるような、激しい力。それが自分の魂から溢れてくるものだと、はっきりわかった。
「このっ……!」
力をこめて、ネコマタと体勢を入れ替える。組み敷いて、反撃に転じるより先に両手で剣を振りかぶった。
「命乞いなら、聞くよ」
「なわばりとお宝、両方を失って野良に戻る気はないわ」
「そうか――わかった」
リンは光る刃を、ひと思いに振り下ろした。
†
「……まだ抵抗するかい?」
血を滴らせる首元を抑えながら、リンはクラウ・ソラスを構えた。血の気が薄まった顔は青白く、一層怪物じみて見えた。
その視線に射すくめられ、一匹だけ残ったカーシーは毛を逆立たせて、長い尻尾を足の間に垂らしていた。
「オ、オレサマ、カシコイ。言ウコトキク」
「それじゃあ……仲魔になってください」
目元を抑えながら、コノカが告げる。魔法の放出のあとの疲れは、モニターを見つめ続けたあとの疲労感に似ている気がする。
「アオーン! オレサマ、ナカマ!」
すっかり力の差を理解した魔犬は、ぶんぶんと尻尾を振って応じる。こうして、コノカはピクシーとジャックフロストに続いて3匹目の仲魔を手に入れた。
手早く契約のコマンドを走らせると、カーシーが情報へと変換されてメモリーへと吸い込まれていく。正常にコマンドが終了したことを確かめると、リンへ駆け寄った。
「ピクシー、お願い」
「《ディア》」
妖精の魔法が、リンの首元へ回復の光をかざす。出血はいくらか収まったが、失われた体力を全て取り戻すには足りない。
「ううっ、私の力じゃ全部は治しきれないかも……」
「楽になったよ、ありがとう」
ピクシーは、すでに力不足になっている。ジャックフロストも、ゴルゴン相手では厳しいだろう。
「平気? たくさん血が……」
「大丈夫。妖精の力で、前よりずっと丈夫になったみたいだ」
治癒を受けて、なんとか体を起こす。少しふらつくが、すぐに落ち着くだろう。
「それより、コノカ。これを」
リンは霊剣を消し去ってから、ネコマタがつけていた櫛を拾い上げた。手に取ると、言い知れない神聖な力を感じる。おそらく、この神社にご神体として納められていたものだろう。
「うんっ……だ、大丈夫かな。欠けたりしてない?」
「たぶんね。ネコマタは案外、大事に使ってくれたみたいだ」
コノカが両手をさしだして、その櫛を受けとる。と、その瞬間、ぱっと櫛が光を放った。
『ありがとう……よく私の社から魔獣を追い払ってくれました』
光の中から、着物を着た美女が現れる。その姿は半透明で、完全に実体化しているわけではないようだ。
「クシナダヒメ様――ですね?」
『はい。コノカ、あなたをここに呼んだのも、私です』
「教えてください。私に力があるなら――悪魔を倒すための力がほしいんです」
『あなたはすでに、力を取り戻しつつあります。先ほどの戦いで見せた魔法の力……あれこそ、あなたの力です』
「私の力……」
火の玉や炎の壁を生み出す力が自分の中に備わっているなんて、考えたこともない。今でも、何かの間違いではないかと思うくらいだ。
『本来なら、あなたの力はもっと優しいもの――しかし、強い存在には、いくつもの側面があります。危機の中で、あなたの荒ぶる側面が顕現したのでしょう』
「顕現なんて。まるで、神様みたいな言い方」
『その通りです』
クシナダヒメは頷いて、霊体の手をコノカの手に重ねた。
『強い力を持つ悪魔は、時としてその霊性をいくつかに分けます。その魂が人間の器に宿ることも……』
「それって……どういうこと、なんですか?」
『あなたは――強い魂が転生したもの。こうして直に触れあって、はっきりと分かりました。あとは、あなた自身が思いだすだけ』
リンはじっと、二人のやりとりを聞いていた。コノカもまた、運命に臨もうとしていた。
「私は――私は何者なんですか?」
『花の如く咲き誇るもの。繁栄を約束されし君。いと美しき神――』
厳かに、女神が女神の名を告げた。
『コノハナサクヤ』