記憶が流れこんでくることはなかった。
ただ、感じたことがないほど大きな力が魂の奥底に眠っているという実感があった。
『コノハナサクヤ』
クシナダヒメが告げた時、それが自分自身のことだと、はっきり分かった。
「あぁっ……!」
コノカは、身中から立ちのぼる激しい熱を感じた。
本来なら、人間が耐えられるような温度ではない。電子レンジに放り込まれた卵のように、体が破裂してしまいそうだ。
「コノカ!」
慌ててリンが駆け寄るが、あまりの熱気にたじろいで踏みとどまる。
『神と呼ばれるほどの悪魔は、様々な側面を持つもの。彼女に宿っていたのは、
かたわらに立ったクシナダヒメが、静かにつぶやいた。
「そんな。彼女はそんな、荒っぽい性格じゃない」
『ヒトの魂もまた、複雑なものです。神の魂を宿しているからといって、それだけでヒトの有りようが決まるわけではありません。ですが……』
女神の目には、慈しむような、悲しむような……そんな色が宿っていた。
『抑圧していたのかも。自分自身の激情を、心の奥に』
「力……なんて、言われても……」
コノカはへその下を押さえながら、呻くように言った。
「私、どうしたら……」
あまりの
『本来なら、時間をかけて受け入れるべきものでした。ですがコノカ、あなたは身も心も、あまりに若すぎる。女神の力を受け入れる準備ができていない……』
「だったらなんで、呼び覚まそうとするの!」
覚醒――なんて言っていいものかは分からないが――とにかく、この状況を
『状況が逼迫しています。東京には悪魔が溢れ、それを抑えつけようとする勢力が今も争っています。本来なら、
クシナダヒメの言葉には、悔しさと諦めが入り交じっていた。どこかでそれを止めることができたのか――おそらく、無理だっただろう。ヒトならぬ神の身では、人々を突き動かすものを抑えるコトはできなかったのだ。
「私……どう、なるの……?」
コノカは不安げに問いかけた。腹の奥の熱がじりじりと臓腑を焦がすような痛みと苦しみが、体の中を突き動かしている。
『あなたの魂の主導権を、いにしえの魂が奪おうとしています。コノハナサクヤの荒ぶる魂が、人々を襲う悪魔への激情を奮い立たせているのを感じます。あなたの体を用いて、悪魔たちを焼き尽くすつもりでしょう』
荒ぶる力。クシナダヒメはそう言った。コノハナサクヤは美しい花の神だ……だが同時に、炎の中で子を産んだと言われるほどの激情の神である。カーシーたちに放った炎の魔法がその力の片鱗なら、悪魔たちにとっては大きな脅威だろう――だが、その脅威は今、体の持ち主であるコノカ自身に向けられていた。
『今までは、魂の大部分を彼女の人格が担い、女神の魂を奥底に封じてきました。コノハナサクヤは、私よりもずっと強力な力を持っています。その御方が目覚めた以上、その立場は逆転するでしょう』
「それって、コノカがコノカじゃなくなるってこと?」
『今の彼女の心を残すかどうかは、私には分かりません。ヒトとしての魂を焼き尽くし、女神としてよみがえるつもりかもしれません』
「ダメ……それは、困ります」
コノカは首を振った。クシナダヒメに向けてか。それとも自分の魂の中に居るという、もう一人の女神に向けてか。
「私たち、友達を助けたいんです。悪魔を倒したいわけじゃない。友達を――助けたいんです」
うわごとのような、怪しいろれつ。熱で頭が朦朧とし始めているのだろう。同じことを、コノカは何度も繰り返した。
コノハナサクヤが目覚めたとき、どれほど強いのかは分からない。ゴルゴンを倒せるのなら、それも悪くないかもしれない。
だけど、それではダメだ、と思った。イノリが元の姿を取り戻した時、コノカが別の何かに変わってしまったと知ったら……それは、彼女の命を救ったとしても、友情を守ったことにはならない。
『私も、本来ならクシナダヒメの顕現を
クシナダヒメはそっとかがみ込んで、コノカの手の中の櫛を示した。
『さいわい、私とコノハナサクヤは近親の神性を持っています。私にも、彼女の力を抑えるくらいはできるでしょう。コノカ、これを髪にさしなさい』
「でも、この櫛は、クシナダヒメ様の……」
単なる古い櫛ではない。クシナダヒメのご神体であり、この氷川神社で祀られてきたものだ。これがなくなれば、この社さえ力を失ってしまうことになる。
『もはや、私一人が土地を守護しても悪魔の勢力は止められません。それなら……この一帯で最も強い悪魔、ゴルゴンを倒すために力を貸すのが、
つまるところ――クシナダヒメ自身が、コノカの力を制御するための助けになってくれる、というのだ。
『櫛を髪にさしなさい。そうすれば、あなたが扱える程度にコノハナサクヤを抑えましょう』
「手……手が、動きません」
しゃべるのだって、つらいくらいだ。あまりの熱のせいで、手足からは感覚がなくなったみたいだ。指一本動かすのだって、そのやり方を忘れてしまったみたいに感じる。
「それじゃあ……」
リンはそっと、コノカの手の中の櫛を取った。小さな掌は熱された石のようにさえ感じられた。
「あたしがつけるよ。コノカは、楽にしてて」
「うん……。リンさんがいてくれよかった」
「それを言うのはまだ早いよ」
見た目は細く、簡単に折れてしまいそうな櫛。だが、その中に強い霊力のようなものが宿っていることが、直に触れると感じられる。社を奪われて以降、女神がこの器物に力を宿し続けてきたのだろう。
門外不出の宝を、自分たちの個人的な目的のために利用している。だが、リンは躊躇わなかった。
コノカがコノカでいられるなら。
イノリがイノリに戻れるなら。
それが、リンにとって最も重要なことだった。
コノカのぬばたまのような黒髪に櫛をさす。豪奢な櫛はあまり似合っているとは思えなかったが、きらめく櫛は薄紅色に変わっていった。コノカの魔力――いや、神性に合わせて、だろうか。
「っ……!」
『心を強く保って。あなたの中にいるコノハナサクヤと対話します』
その声は、コノカにだけ聞こえた。
「ふ……っ、ふう……」
少しだけ、呼吸が楽になったような気がする。リンが掌に触れると、先ほどよりもいくらかは、人間らしい体温が戻っていた。
「にしても――驚いたな。女神の生まれ変わりなんて」
「タムラ・リンだって妖精の生まれ変わりでしょ」
と、これはピクシー。召喚者であるコノカが意識を弱めてしまったので、退屈を持て余すようにリンのもとへと飛んでくる。
「妖精と女神じゃ、強さがぜんぜん違うんじゃない?」
「そうでもないわ。ものと状況による。妖精の女王様は、このクシザシコウよりも強い力を持ってると思う」
「クシナダヒメ。物騒な呼び方しないの。日本人にとっては、重要な神様なんだから」
ふうん、と興味があるんだかないんだか分からない反応をしながら、ピクシーはリンを覗き込んだ。
「ねえ、コノハナサクヤっていうのはどういう神様?」
「うーん……参ったな。こういうのは、あたしよりコノカのほうが詳しいんだけど」
ちらりと視線を向ける……と、壁際にもたれかかったまま、コノカが口を開いた。
「桜や花の……神様」
「コノカ、安静にしてないと」
「ううん、むしろ、気を失わないようにしないと。何か話してたほうがいい」
リンはハンカチを取り出して、彼女の額に玉のように浮かぶ汗を拭ってやった。
「ニニギっていう神様のことを好きになるの。でも、同時に姉のイワナガヒメもニニギのことが好きになってしまって……二人で求婚したの。でも、ニニギはイワナガヒメとの結婚は受けずに、コノハナサクヤとだけ結ばれた」
「少女漫画みたい」
「ニンゲンが考えることって、昔から変わんないわね」
ピクシーが呆れたようにつぶやく。
「イワナガヒメは、堅い岩の力と容姿を持っていたから……一緒になることで、不変の存在になることをニニギは恐れたのかも。コノハナサクヤは花のように美しくはかない神。だから、その子孫である人間も、寿命を迎えると死ぬようになった――って、言われてる」
「二人から求められたんなら、二人とも迎えればよかったのに。そうすれば、美しい上に長生きする人間が生まれてきたんでしょ」
なんだかんだ言って、妖精は他人の恋バナが好きらしい。好奇心旺盛に話にくちばしを突っ込んでくる。
「子孫のためを思うなら、それが良かったのかも。でも、誰かのためになるとしても、自分がしたくないことをするのは……つらいかもね」
リンはクラウ・ソラスと妖精の力を受け入れた。それは、イノリを助けるために必要だと思ったからだ。コノカが女神を目覚めさせようとしているのも、同じ気持ちであってほしいと、密かに祈った。
「立てるかい、イノリ?」
彼女の
「うん、大丈夫……だと思う……っとと」
壁に手をついて立ち上がる。だが、小柄な体はすぐによろけてしまう。
リンはその体を受け止めた。用事は済んだが、できるだけ早くここを離れたい。何せ、今や戒厳令が敷かれた東京には、自衛隊が闊歩しており、市民は家から出るなと厳命されているのである。見つかって事情聴取となれば、面倒この上ない。
今日のところは、ベッドで休めるあの部屋に早く帰りたかった。
だが、間の悪いことに……
「全隊止まれ!」
白金氷川神社の階段の下から、威勢のいい怒鳴り声が聞こえて来た自衛隊に違いない。
「これより霊的に重要な箇所である白金氷川神社の捜索を行う! この地を守護するクシナダヒメの助力を得よとのお達しだ! もし抵抗が予想されるようなら、交戦する許可も与えられている!」
(げぇ……)
リンは思わず閉口した。「助力を得る」ために来たのに、「交戦する」なんて、言ってることが無茶苦茶だ。要するに、ちからづくで女神を従わせて戦力にするつもりなのだろう。
「あとちょっと遅れてたらまずかったね……って、今もまずいか」
何せ、ピクシーがいる。悪魔を連れていたら、通りすがりの女子高生です、では納得してくれないだろう。
「コノカ。ちょっと揺れるけど、我慢してね」
リンはコノカに背を向けて、後ろ向きに彼女に腕を回す。
「リンさん……?」
「こっそり出ていこう。まだつらそうだから、背負っていくよ」
「でも……」
「コノカは軽いから、平気」
こういう時は、ふつうよりも少し大きく、少し力強い自分の体に感謝したくなる。
コノカはそれ以上嫌がることはしなかった。リンの背中に体を預け、弱々しいながらも首元に腕を回す。悪魔召喚プログラムがついたカバンのストラップで、二人の体を固定するように回す。
「とりあえず、裏に……裏口なんてあるのかな」
正面では、自衛隊と鉢合わせだ。彼らが階段を登り切る前に拝殿の裏に回る。
「隊長、何者かの交戦の後が!」
「悪魔か?」
「は、おそらく……」
などという会話が聞こえてくる。
どっちに行けば無事にここを去れるか……考えていたところで、
「本殿の右手に……」
耳元で、コノカがぽそりと言った。
「道が分かるの?」
「はっきりとは分からないけど、そっちに行くべきって……気がする」
しばし考えたが、言うとおりにするのがいいように思えた。
もともとリンは進む道にあてなどないし、コノカの中の女神の力が目覚めて、導いてくれているのかもしれない。楽観的に考えることにした。
言われたとおりに進むと、神社を囲む塀が一部崩れていた。ネコマタたちがやったのだろう。そこを乗り越えて、さらに進む。
「右に……次は左。大通りには出ないで。ここをまっすぐ……」
コノカの指示に従って歩いて行く……地図の通りなら、すぐに別の道に通じるはずなのだが、小規模な木々の間を歩き回っていると、自分がいったいどこに居るのかが分からなくなってしまいそうだ。
妖精の国に迷い込んだ時のように。
「次は?」
「……」
聞き返しても、コノカは応えてくれなかった。
代わりに、目の前には……怪しげな雰囲気を持つ洋館が現れていた。
「こんなの、白金台にはなかったと思うけど……」
また、妙な空間に迷い込んでしまったのか。リンは息をついたが、とにかく自衛隊に見つかるよりはいくらかマシだろう。
意を決して、その洋館の扉を開いて中へと入って行った。なぜか、その館は自分たちを迎え入れているように感じたのだ。
冷たい空気が足元に触れた。ドライアイスの煙のように、床からもやがにじみ出し、あたりを満たしている。
そして、壁や天井の至る所に、金属やプラスチックの、用途不明の機械が取り付けられていた。それらはケーブルで張り巡らされて、全体が何か一つの巨大な装置を作り出しているようだった。
その中央には、青黒いローブのようなものを着た老人が立っていた。
彼は長いひげをたくわえた相貌に笑みを浮かべて、不気味な歓迎の仕草を示した。
「悪魔が集いし邪教の館にようこそ」