異界化――と、シスターマーガレットは言っていた。
木造のはずの校舎の入り口をくぐると、一面が石に覆われている。
迷宮の中は、不気味な薄暗さに覆われている。どこに光源があるのかは分からない。壁や天井が、ぼんやりと光を放っているように見えた。
壁面の細かな凹凸が奇妙な陰影を作り出している。それは眺めているうちにうねうねと形を変えて、まるで壁のなかを生き物が這い回っているかのようだ。
「不気味なところ。妖精の国とはぜんぜん違う」
コノカが小さくつぶやいた。異界――現実とは違う世界が、『門』を通じて現れたという意味では、ピクシーにいざなわれた妖精の国と同じような場所のはずだ。だが、妖精の女王が生み出した場所は限定的な空間であり、対話のための場所だった。
この『石の迷宮』は、現実を侵蝕し、奪うための悪意に満ちている。肌にまとわりつくような重い空気は、まるで湿った舌が絡みついてくるかのような錯覚を起こさせてる。
以前は、外から見るだけだった。だが今、二人は悪魔の住み処へ踏み入っている。
エントランスとでもいうつもりか、広々とした空間には7体の石像が見せつけるように並べられている。いずれも、リンやコノカと同じ制服を着た女生徒の像――いや、石と化した女生徒たちだ。
そのうちの一人は、二人にとってもよく知った顔だ――知っている、というよりも、忘れられない、というほうが正しい。
「待っててくれ、イノリ。すぐに、君を取り戻すから」
イノリは恐怖と悔恨に満ちた表情を浮かべている。居並ぶ他の像も皆、悲痛な叫びが聞こえてきそうな姿だ。
「あのとき、私がイノリさんより後ろにいれば……」
「あたしたちはここに戻ってこなかった。前世のことも思い出さなかったし、ゴルゴンを倒しに来ることも」
「うん……」
くじけそうになる心を奮い立たせ、コノカはイノリを見つめた。
『巻き込んじゃって、ごめん』
脳裏に彼女が最後に残した言葉が響いた。
それが最後であっていいはずがない。
髪飾りに手を触れて、コノカは自分に言い聞かせる。体の中に湧き上がる熱。以前は感じられなかった力が、魂の奥から湧き上がるのを感じる。それが自分の一部だという実感が、はっきりとあった。
「行こう。大丈夫……今なら、きっとやれる」
†
りんっ。
リンが片手に握った鈴を鳴らす。迷宮の中に漂う暗い魔力を、その音がいくらか和らげるような気がした。
聖別された鈴には悪魔の妖気を
「日本語では鈴のことをリンって呼ぶのね。タムラ・リンと同じじゃない?」
透明な翅を震わせながらピクシーが言う。小柄で飛ぶことができるピクシーがいると何かと便利だと思ってコノカが呼び出したのだが、妖精の口を塞ぐことはできない。
「まあ……そうだね。さすが教会のアイテムだ。ちゃんと効いてるみたい」
時おり鈴を振りながら、リンは目をこらす。何度も鈴を振っているから、悪魔たちに気付かれていないわけはない。だが姿を現さないことからして、悪魔を遠ざける力が発揮されているのだろう。
「見た目は変わってるけど、大まかな形は旧校舎と同じみたい。つまり……」
「あのコンピュータがあった教室を目指せばいいんだね」
道は曲がりくねっているが、全体の形はコの字の旧校舎と同様らしい。となれば、目指すべきはあのとき……二人にとっては2日前、カレンダーの上では4日前にゴルゴンと対面したあの場所だ。
「ここって、イヤな感じ。異界化した迷宮は主によって姿を変えるって言うけど……」
「主っていうと……まあ、ゴルゴンだろうね」
ネコマタと対面した後だから、あのときに感じた魔力の強さが改めて思い出される。あれよりも強力な悪魔がいるとは、あまり考えたくはない。
「ゴルゴンって、自分が醜いから美女を恨んでるんでしょ? それに、蛇みたいに狡猾で嫉妬深い性格だって……ぶるるっ」
悪寒に震えるピクシーに、コノカは小さく首を捻った。
「それ、ほんとう?」
「さあ? でも、おそろしー顔してるらしいよ」
「知らない人のことを悪く言うのはよくないよ」
「人じゃなくて悪魔だもん」
「でも、たしかに」
リンが小さくつぶやく。
「こうやって異界を作り出して、女学院の生徒を石にしてるのは……たしかに、若い娘を恨んでいるのかもしれないね」
石に変えた上に、迷宮の入り口に並べて見せつけているほどだ。すでに7人もの被害者が石の中に魂を閉じ込められているのだ。
「でも、見たものをみんな石に変えちゃうんでしょ? だったら、美しいものもみんな石に変えないと見ることができないってことで……」
恨み、と、ピクシーは言ったけど。もし石になった生き物しか見ることができないのだとしたら、それはゴルゴンにとっても悲しいことなのかもしれない……
「とにかく、イノリを石にしたのはゴルゴンだ。あたしたちはやつを倒すんだ」
決意と共に、リンはつぶやいた。
マーガレットの話によれば、ゴルゴンを倒したあとに然るべき儀式によってイノリを戻すことができるはずだ。儀式は教会の
「うん……」
コノカにも、異論はない。イノリを救う手段はそれしかないのだ。
りんっ。
鈴を鳴らして、立ち止まる。目の前には、石と化してはいるものの……面影を残した教室の扉があった。
リンが片手に鈴を持ったまま、扉に手をかける。コノカが頷いて答え……扉を開け放った途端。
「ふしゅるるる……」
赤黒い人影が振り向いた。死の気配を濃厚に漂わせた悪魔が、片手の指では収まらないほど、空間にひしめいている。
「悪霊……ピシャーチャ!? 鈴の力が効いてない?」
デビルアナライズを起動させて、コノカは叫んだ。
「とにかく、戦う!」
リンの手の中にきらめく剣が現れる。クラウ・ソラスを構えて飛び出すと、いっせいにピシャーチャたちが飛び掛かってきた。
幸い、悪霊の動きは鈍い。リンは軽々としたフットワークで冷たい手をかわし、一体を突く。悪魔は体をねじって苦悶の声をあげた。
「囲まれたら、タムラ・リンが!」
「分かってる……任せて!」
クラウ・ソラスは直剣で、突き技が主体だ。素早く鋭いが、大量の敵を相手取るのには向いていない。
コノカは意識を集中し、体の中から湧き上がる力を解き放つ。魂の奥から燃えさかる魔力が、言葉と共にほとばしった。
「《マハラギ》!」
その言葉にどんな意味があるのかは知らない。だが、どんな力があるのかは魂が知っていた。
コノカの眼前から炎の壁が立ち上がり、ピシャーチャの群れを飲み込んでいく。
「ぎいいいいいっ!」
耳障りな断末魔を上げて、悪霊が炎に飲み込まれていく。苦しげに手足をばたつかせながら燃えかすとなって崩れ落ちていった。
(なんて魔力だ……)
その威力に、リンは背筋が冷えるような感覚を覚える。
悪霊、というぐらいだから、炎がよく効くのかもしれない。それにしても、一撃で群れを倒してしまったのだ。コノカに眠る女神の力も、どんどん強くなっている。
「リンさん、あそこ!」
ピシャーチャの群れが一掃されると、その奥に下り階段が現れた。それもまた石造りだ。白金氷川神社の階段よりもさらに大きい。かなり深いところまで下っているようだ。
「あのときは、別世界へのゲートだったのに。異界化して地下まで迷宮が広がってるんだ」
「慎重に進んだ方が……」
言いかけたところで、周囲の空気が再び重みを増した。
「ふしゅるるる……しゅるるる!」
闇の中から、絡み合うようにしてさらにピシャーチャが姿を現す。幽鬼のように落ちくぼんだ顔は、一切の感情を感じさせない。絡み合うようにして姿を現す悪霊が彼女らに向ける視線は、食欲か、それとも憎悪か。
(いくらでも現れるの? 全部倒していたら、魔力が足りない……)
コノカはキーボードに指を滑らせて、悪魔召喚プログラムを起動した。
「ユニコーン!」
データ化されたマグネタイトが渦を巻き、新たな悪魔を呼び出す。真っ白な毛並みに覆われたツノを持つ馬の姿。知性の輝きを宿した瞳が、爛々と輝いた。
「ヒーホー! 待ってましたホ!」
ユニコーンのツノが輝き、破魔の力が溢れ出す。ピシャーチャが2体、その場で崩れ落ちるが、亡者の群れは次から次へ、教室の中に作り出された階段を守らんとするように押し寄せてくる。
見た目と口調が合っていないから雰囲気はぶち壊しだが、この際目をつぶるしかない。
「清らかな乙女は歓迎だホ」
ユニコーンが後ろ脚を折る。召喚者の意を理解しているのだ。
「リンさん!」
「……よし!」
二人は、その背に飛び乗った。これも悪魔の力だろうか。あぶみも手綱もないのに、しっかりとその背に跨がることができた。
「スカートのままだホ」
「緊急事態だから」
今はおしゃべりには構っていられない。ピクシーが三つ編みにしがみついたのを確かめてから、コノカはユニコーンのたてがみを撫でる。
「走って!」
「階段を四つ足で走るのはアブねーホ!」
「悪魔でしょ、がんばって!」
「オイラ、ずっと無茶ぶりばっかりだホ……!」
文句を口走りながらも、ユニコーンは駆け出した。力強い蹄が石を蹴り、深い階段へと一気に突っ込んでいく。鋭い突進は、ピシャーチャの群れをあっという間に振り切った。
†
「おのれ……」
「この私がこんな場所に封じられるなんて」
鋭い牙が生えそろった口を噛み締めると、隙間から、シュウ、と息が漏れた。
「忌々しい女どもめ。すぐにカオスの勢力がこの封印を解きにくるはずだ」
髪の代わりに頭を覆う蛇たちが、彼女の怒りを表すように体をうねらせる。互いの固い鱗を擦り合わせ、全ての蛇たちに備えられた瞳が溶岩のように赤く輝いていた。
「何が女学院だ。ここから出ることができれば、全員石に変えてやるわ。ククク……絶望した若い女の像が何十体も並ぶのは、さぞかし壮観だろうね。邪魔がなければ、すぐにでもそうしてやったものを」
その時、頭の蛇が一斉に鎌首をもたげた。強い気配が近づいてくるのを感じたのだ。
「ほう……」
ゴルゴンの口元に、裂けたような笑みが浮かぶ。口元からこぼれる息が、哄笑じみた音を立てた。
「何者かが迷宮にやってきたか。自分から飛び込んで来るなんて、馬鹿なやつ」
気配は、徐々に近づいてくる。距離が接近するにつれて、単なる人間ではないらしいこともわかった。強い力を秘めている。
「ヒヒヒっ! ちょうどいい、殺して私の力にしてくれる。そうすれば、この迷宮の封印を解いて……」
頭の蛇が体を持ち上げ、喚起に体をくねらせる。まるで、すぐそこに餌がぶら下げられているとでもいうように、鋭い牙を備えた口を大きく広げた。
「あの天使どもに思い知らせてくれるわ!」