場の空気が重く、湿った、まとわりつくようなものに変わっていく。
まるで見えない蛇が腕や足に絡みついてくるような、冷たい感触をリンは感じていた。
「何が起きてる!?」
目を開きたくなる誘惑を、必死に抑え込んでいた。
「ゴルゴンが姿を変えた。さっきより、ずっと大きくなってる……」
コノカの手が震えている。目を閉じているリンとともに逃げようとしたのだ。だが、無残にも部屋の出口は閉ざされていた。
「怖いだろう」
ゴルゴン――いや、魔王メデューサが高らかに笑っていた。
黄金の翼を広げ、それを石の天井に突き刺していた。巨体をゆすると、地下を揺るがしながら頭の蛇を広げ、二人の頭上を覆う。
「奪われて、蹂躙されて死ぬのは怖いだろ! 私と同じ恐怖を味わわせてやる」
作り物じみた、いびつな青銅の腕が横から払われる。それは奇妙な振動とともに膨らみ、丸太ほどの大きさになった。
「コノカ!」
空気の振動で攻撃を察知し、リンは仲間を後ろへ押しやった。巨大な腕がその体を激しく打ち据える。
「ぐ……っ、ぁ……!」
全身の骨がバラバラになりそうな痛みと衝撃が体を貫く。リンの体は数メートルもふっとばされ、壁に背を打ち付けた。
打ち据えられた瞬間、あばらを腕で守ったが、ごき、という耐えがたい音が自分の中に響いた。骨格標本のイメージが浮かんだ。自分の体も同じ形をしていることを、痛感せずにはいられなかった。
「目をつぶって震えていろ、騎士気取り」
メデューサの冷たい声が頭上から投げつけられた。
「リンさん!」
「先にお前からだ。女神のなり損ないめ!」
激しく空気が唸る。メデューサが怒りのまま、青銅の腕を振るい、髪の大蛇を踊らせる。
「コノカ!」
「何もできないくせに、強がるんじゃないよ!」
言葉の通り――リンには、何もできなかった。目を開けば、メデューサの魔力で石になってしまう。
イノリのように。
(くそ――! 何もできないのか!)
怒りと羞恥が混じり合って、目頭が熱くなった。大きく息を吸い込もうとすると、わき腹が痛む。喉の奥に鉄くさいにおいを感じた。
「もう少しなのに……」
メデューサを倒せば、イノリを元に戻せる。コノカを守ることができる。
なのに、目を開けることもできない。クラウ・ソラスを闇雲に振るっても、メデューサの青銅の鱗を傷つけるのがせいぜいだ。
「タムラ・リン……」
かぼそい声。リンの胸の中で、ピクシーがうずくまっていた。そこで、メデューサを見ないようにしていたのだろう。
「だいじょうぶ、きっとなんとか……」
「できない。今のあなたじゃムリよ」
「そんなことは……」
「聞いて、タムラ・リン。メデューサと眼を合わせたら、石化しちゃう。でも、それを避ける方法があるわ」
妖精の小さな体と、小さな声が震えていた。
それが彼女にとって、とても重大な決断だと、リンには予測できるはずだった。
しかし、リンはメデューサを倒す方法を、心から求めていた。だから、分からなかった。
小さな妖精が、どれほどの決意を持ってそれを告げたのかを。
「妖精は姿を消すことができる。知ってるでしょ。見えなくなって、悪戯をする」
「それで……メデューサの魔力から身を守れる?」
「だって、あいつから見えなくなるんだもの。見られないまま、首を刎ねるか心臓を突けばいいわ」
「そんなこと、君には――」
「あたしじゃない」
ピクシーはリンの襟に頭を寄せて、小さな額をすりつけた。
「あたしじゃ、姿を消しても力の差がありすぎて、きっと見つかるわ。だから――あなたが、妖精の力を使う」
「あたしには、そんな力はないよ。剣で戦うのが精一杯だ」
妖精の騎士としての記憶――はるかな前世のことは、断片的にしか思い出せないのだ。ましてや、自分がどうやって魔法の力を操っていたかなど。
「ネコマタのこと、覚えてるでしょ。他の悪魔の力を取り込めば、もっと強くなれる――同じ妖精どうしなら、もっと簡単に力を得られるわ」
「ピクシー? 何を言って……」
「あなたは妖精の女王から使命を受けてる。滅びから妖精を救う使命。あたしは、その使命を助けるためにいる――だから」
互いに目を閉じたままだった。だから、ピクシーがどんな顔でそれを言ったのか、リンに知る術はない。
「あたしを取り込んで。あなたの力になりたい」
「でも、それじゃあ」
「あたしは消える。でも、あなたの一部になるわ。ひとつになるの」
記憶がよみがえってくる。前世の記憶ではない……リン自身の記憶だ。
森の奥で出会った小さな妖精。思えば、魔力がうずまく世界へリンを導いたのは、彼女だった。そして、今まで――ごく短い間だったけど、想像もしなかったような冒険を、一緒に過ごしてきた。
「ピクシー……」
「早くしないと、あたしの契約者がやられちゃう」
メデューサが大きく体をひねったのがわかった。天井に突きさした翼が、位置を変えたのだ。
何かを追いかけているような動きだ。だとすれば、どうやってか、コノカがメデューサの攻撃に耐え続けている。
まだコノカは生きている――だが、彼女の力ではメデューサを倒せない。
選択の余地はなかった。
「――わかった。君を受け入れて――ひとつになろう。そして、妖精の力をあたしに授けてくれ」
「――今までありがとう、タムラ・リン。そして――」
ピクシーの体が温かな光に包まれる……いや、彼女自身の体が光へと変わってゆく。
その光は霧のように広がったかと思うと、リンの胸へと吸い込まれていった。
「――今後とも、よろしく」
光が消えた時、わき腹に感じていた痛みが薄らいでいるのが分かった。
胸に抱いていたピクシーは、消え去っていた。そして、代わりに――悪戯な妖精に感じていた何かが、自分の胸の内に宿っていることがわかった。
それが魔力なのだと、今なら確信を持って言える。
(悪魔と合体したんだ、あたしは)
魂だけでなく、肉体もまた人間からはかけ離れてしまった。そうまでして、決意を押し通すと決めたのだ。
(妖精の騎士――なんて言えるほど、かっこいい戦い方じゃないけど、コノカを助けなきゃ)
大きく息を吸った。力の使い方は、記憶が教えてくれた。
そして、リンは目を開いた。
†
「女神と名のつくものは、すべて殺す!」
殺意に満ちた赤い瞳。魔王メデューサが、コノカをにらみ据えていた。
空を羽ばたく代わりに、棘だらけの翼で天上にしがみつき、青銅の腕を振り回す。その腕はコノカに打ち据えられる直前、目には見えない力場に阻まれていた。
「っ、うう……!」
恐怖に腰が抜けそうになるのを堪えて、コノカはメデューサをにらみ返していた。
眼鏡の奥の瞳に、生命力に満ちた光が宿っている。女神コノハナサクヤとしての力が、目に見えない壁と化してコノカを守っている。
「チッ、いつもいつもいつもいつもあたしの邪魔をする!」
苛立ちを露わにしながら、メデューサはさらに苛烈に腕を振るった。青銅の腕が歪もうと、構わずに攻撃を繰り返す。がつ、がつ、という硬い音が、繰り返される。
「はっ! もう諦めな。あんたの魂を丸呑みにしてやる!」
メデューサの髪から生える幾本もの蛇がうなりを上げた。
(コノハナサクヤは、きっとメデューサよりも強い力を持っている)
心のどこか冷静な部分が、状況を分析していた。
(でも、私はその力を使いこなせていない)
自分の体のなかで渦巻く膨大な魔力は、見えない盾として攻撃を防ぐので精一杯だ。そのたびに、虚脱感がわきあがってくるのを押さえている。いつか――1分もないだろう――コノカの体は、その消耗に耐えられなくなる。
メデューサはコノカを、コノカはメデューサを睨みつけていた。
(メデューサと対面することができるのは私だけ――だったら、私がやらなきゃ)
コノハナサクヤの神性により、石になることはない。
猛攻の合間を縫って、コノカは力を放った。
「アギラオ!」
体から迸る熱が火球と化して、メデューサの体へと突き刺さっていく。目もくらむような爆発を起こし、轟音が迷宮を揺るがした。
「こしゃくな!」
一瞬、メデューサの猛攻が止む。その隙に、コノカは駆け出した。逃げられないことは分かっている。せめて、リンとは逆方向に向かおうとしたのだ。
「どうするつもりだい! もう、何をやっても無駄だ!」
メデューサは背中の翼を大きく広げた。翼に生えた棘は石の天井を掴み、大きな体の向きを変えていく。
「私では、あなたを止めることはできない……でも」
魂のナカで抑えつけられている、コノハナサクヤを解放すれば――
女神の
心残りは、リンのことだ。それと、イノリのこと。
別れの言葉も告げられないのは寂しかった。それでも、メデューサを倒せば、彼女たちは生きのびることができるのだ。
「ほう? 面白い。やってみな」
コノカが何をしようとしているのか、魔王は気づいていた。人間と女神、二つの魂を持つ奇妙な存在。それが、憎むべき女神を解放しようというのだ。
「クシナダヒメ、今までありがとうございます」
そっと、少女は髪に手を添えた。そこには、クシナダヒメが宿った櫛が刺さっている。それが、彼女の中で荒ぶる女神の魂を封じてくれているのだ。
封印を解くには、ただ髪から外せばいい。コノカは、リンのことを思った。魔王と女神の戦いから、彼女が逃げ延びてくれることを――
そのとき、不意に耳元で囁く声がした。
「やめたほうがいい」
「――えっ?」
リンの声だった。だが、その姿はどこにもない。思わず、コノカはあたりを見回した。
「何をしている! 早く私に復讐させろ!」
メデューサが怒りに満ちた声をあげた。髪の蛇が幾本も伸びて、あっという間にコノカの両手に絡みついた。
「……っ!」
ぎりぎりと、引きちぎれそうなほどの力で両腕が締め上げられる。意識を反らしていたせいか、防護の力は働かなかった。
「その髪飾りが封印してるんだね? 小娘にできないなら、私が代わりに取ってやるよ」
大蛇がコノカの小さな体を軽々と抱え上げた。そして、また別の蛇が、ゆっくりとその髪を這い回り、櫛をくわえた。
――直後、その蛇の胴がまっすぐに斬りはねられた。
「……なにっ!?」
何もないはずの空間を、光の筋が走る。
一閃。二閃。
コノカを縛めていた大蛇が、光が走った通りに切り裂かれ、床に落ちる。
「っ……り、リンさん?」
コノカは転びかけながら、たたらを踏んであたりを見回す。だが、やはりその姿は見えない。
「どんな術を使ったか知らないが、私を舐めるなっ!」
黄金の翼を振り払って、部屋の中を薙ぎ払う。まるで輝く処刑具が暴れるかのようだ。天上や床、壁を引き裂き、粉々に砕けた石があたりに飛び散った。
(メデューサの気を逸らす!)
爆撃のような無差別攻撃。何が起きているのかはわかっていなかったが、やるべきことを直感が告げていた。
「マハラギ!」
火柱があがり、メデューサの眼前を包む。たった一瞬の目くらまし。だが、メデューサにとって仇敵である女神の一撃は、その気を引くのに充分だった。
「小娘がぁ!」
黄金の翼を振るい、コノカを押しつぶそうと頭上へ迫る。怒りに満ちた動作は、巨体の前に充分な空間を生み出していた。
――姿を消したリンは人間を遙かに超えた跳躍でメデューサの眼前へ飛び込んだ。
クラウ・ソラスが描く剣閃は、真横に描かれ……魔王の首を落とした。
「おのれ……」
驚愕に目を見開き、メデューサの首が床に落ちる。ごとり、と重い音がして、迷宮の支配者は呻いた。
「私を殺そうとも、より強いものに蹂躙されるだけだ。苦しみが長引くだけ……だ……」
巨体がマグネタイトと化して崩れていく。憎悪に満ちた目は、最後までコノカを睨みつけていた。
「……そうかもしれない。でも……イノリさんに、もう一度会いたいから」
「……コノカ」
姿を消していたリンが、すぐそばに現れていた。クラウ・ソラスの光る刃は黒い血に汚れていたが、刀身を消し去るとその血もまた虚空へ消えていった。
「やりましたね。ようやく……」
何をしたのか、コノカは聞かなかった。リンが身にまとう気配が変質していたことを感じていたのだ。
「ああ。……あとは、シスターマーガレットにイノリを元に戻してもらおう」
「はい」
気持ちは晴れなかった。メデューサの最後の言葉が、胸の奥でこだまのように響いていた。
†
支配者の力を失い、迷宮に満ちていた瘴気はすっかり消え去っていた。
ふたりは地下からの階段を上がっていく。
くたくただった。リンの制服は血に汚れ、コノカの腕には痣が浮かんでいる。満身創痍とはこのことだ。
「異界化……っていうのも、元に戻るのかな」
「時間が掛かるのかも。悪魔の力が失われたから、そのうち戻ると思うけど……」
話ながら、階段を登り切る。旧校舎の1階は未だに石に覆われ、メデューサの魔力の影響下にあるようだ。
入り口の広い空間に差し掛かる。また、石になった親友の姿を見なければならないと思うと、気が沈んだ。
だが……
「リン! コノカ!」
その声は、ひどく懐かしく聞こえた。
ふたりの目の前に、人影が飛び出してくる。ショートボブの髪。大きな丸い目元。見なれた制服の下に、若々しく生命力に溢れた肌。
「――イノリ!」
見まがうはずもない。
「聞いたよ! ふたりが私を助けてくれたんだって」
歩み寄って、イノリの白い手がふたりの手を取った。傷も疲れも吹っ飛ぶような心地だった。
「リン、コノカ、ありがとう。あなたたちのおかげで、私、私――」
イノリは目に涙を浮かべ、愛おしそうに、ぎゅっとふたりの手を握った。
「