西日が傾いて、空を橙色に変えていく。
清霊女学院の旧校舎は、まるでその日の入射角を遮るように作られているかのようだった。光はせいぜい窓のそばに注ぐだけで、薄暗闇が建物の中を支配している。校舎全体はコの字型になっていて、東の棟は向かいの校舎に日を遮られて、ほとんど夜の暗さだ。
古い木でできた廊下は一歩踏み出すたびにぎしぎしと音を立てる。いくつも並ぶ教室だったのだろう部屋のなかは、ざらざらした見た目のカーテンが窓を覆っている。
イノリはその部屋のひとつひとつをのぞき、何もないことを確かめては次の部屋へと向かっていた。
「何もない」
「そりゃあね」
残念そうなニュアンスをこめた声で彼女が言うたびに、リンはため息を抑えて返事をしていた。
(もし何かあったって、あたしたちじゃ何もできないよ)
……と、リンは考えていた。
そもそもからして、生徒の失踪……もしくは単なる欠席……と、旧校舎に何か関係がある、というのはイノリの推測に過ぎない。
(だいたい、何が見つかると思ってるんだろう?)
旧校舎の中で、行方不明者につながるような何かが見つかると、彼女は本気で思っているのだろうか?
たとえば、行方不明の生徒が校舎の中に監禁されているとしたら……どう考えても、そんなところに近づくべきじゃない。警察に通報するのが先決だ。
そうでなければ、スパイ映画のように行方不明者の居場所を現す地図が入ったマイクロチップでも出てくるとでも?
(そんなわけない。ナンセンスだ。でも……)
イノリが一度言い出したら聞かないタイプだということは、これまでの付き合いの中でわかっている。
イノリ自身は認めたがらないが、彼女は少々育ちがよすぎる。
彼女の親は病院の経営をしているという。兄が二人いて、健康で成績優良。挫折を感じたこともないだろう。
そんな彼女がルームメイトになったのは、リンにとって幸運だったのか、それとも不幸だったのか。
†
髪色のせいもある。銀色の髪はこの東京で生活するにはあまりにも目立つから、一時期は髪を黒く染めていた。だが、女学院は全寮制だ。外出にも許可がいる。その暮らしの中で、定期的に髪を染めなおすのは難しかった。
加えて、リン自身も人とあまり近い距離で話すのが好きではない。自分にとっては何のことはないつもりで話したことが。相手を傷つけることもある。たとえば、「なんで髪が銀なの?」とか。
だから、リンはほかの生徒と仲良くなるということはなかった。中等部まで同室だった生徒も、はじめのうちはあれこれと話しかけてきたが、「うん」とか「いや……」としか答えないことがわかると、徐々に会話は少なくなっていった。
それでよかった。フェンシングにも打ち込むことができたし、別段寂しいとも思っていなかった。
だが、イノリは違った。
リンがいくら壁を作って遠ざけようとしても、彼女はそれをやすやすと乗り越えた。他人が心を開いてくれることがあまりにも当たり前で、自分が遠ざけられることなど想像もできないのに違いない。
イノリと一緒に居ると、なぜか胸の内がささくれ立つような気がした。情けないような、恥ずかしいような、そんな気持ちが湧いてくるのだ。
だから、リンはますますイノリとの距離を取ろうとした。だけど、その度にイノリはその距離を飛び越えてくる。
なるべく「ああ」とか「そうだね」としか答えないようにしていたリンも、いよいよ根負けするときがきた。
その日、イノリは鉢植えを抱えて部屋へ帰ってきた。
鉢植えには、白い、小さな花が連なって咲いていた。彼女が窓際にその鉢を置くと、甘い香りが部屋の中に広がった。
「どうしたの、それ」
……と、聞いてしまったのが運の尽きだ。
「ライラック」
「花の種類を聞いてるんじゃなくて」
「シスターマーガレットが花壇を植え替えるのを手伝ったの。まだ花が咲いてるのに切っちゃうなんてもったいないから、もらってきちゃった」
「そこに飾るの?」
「私が世話するから」
ライラックの開花時期はそろそろ終わろうとしていた。シスターが植え替えることにしたのは、それを知っていたからだろう。
「10日もすれば花は散るよ」
「そっか」
残念がるだろう、と思ったのに、イノリの反応は違っていた。
「よかったね」
瞳が白い花を見下ろして、淡く輝いていた。
「いつ散るかは自分で決めればいいよ」
その時、リンは気付いた。なぜ彼女に対して、これほど心がささくれ立つのか。
彼女は、みんなが必死に生きようとしていると思っているのだ。心の底から。人の都合で植えられて、簡単に刈られてしまう植物でさえ、花を咲かせたがっているに違いないと。
人との関わりを避けていたリンは、その彼女の熱意――もしくは熱意を信じる純粋さを見ると、自分の漠然とした生を直視されているような気がしてしまうのだった。
「花、詳しいの?」
「たまたま知ってただけ」
つとめて素っ気なく答えようとしたが、一度気付いてしまうとますます気まずく感じてしまう。
(同じ部屋にいる以上、逃げられない)
だったら、どうする? わざと彼女に嫌われる……なんてことをするのは、狭い女学院の中では危険すぎる。
けっきょく、答えは一つしか無いのだ。
だけど、自分からその答えを選び取る勇気は、リンにはなかった。
「知ってる? ライラックの花言葉」
問いかけられて、ドキリとした。
それこそが
「いや……」
「私も知らない。明日、図書館で調べないと」
「キミは、なんていうか……」
心の中では白旗を揚げていた。これ以上振り回されるよりは、負けを受け入れてしまったほうがずっと楽に思えた。
「知らないはずの正解を、すぐに見つけることができるんだね。そういうの、加護っていうのかな。特別な人なのかも」
イノリはしばらくきょとんとして……それからまた、きょとんとしていた。
「どゆこと?」
「なんでもない」
リンは肩をすくめて、ライラックに顔を寄せた。春の花の香りがした。
「ねえ、イノリでいいよ。私も、リンって呼んでいい?」
二人で窓辺に並んで、外を見た。どの家にも明かりがついていた。
「うん」
こうして、花と少女に心の壁を打ち破られて、リンは東京で初めての友を得たのだった。
「よろしく、イノリ」
†
少し前を歩く少女の後ろ姿を見ながら、リンの意識は『いま』に戻ってきた。ほんの数ヶ月前の記憶が、ライラックの香りとともに遠ざかって行く。
(いつもそうだった。イノリは、自分でも気付いていないうちに正解に辿り着いてしまう)
誰かが悩んでいることを、あっさりひと言で解決してしまったこともある。
寮長の面目を保ったまま、寮生の要望を叶えたこともあった。
恐ろしいことに、その「唯一の答え」を、彼女自身は意識して選び取ってはいないのだ。
恵まれた環境と幸運のせいか。それとも……
(守護天使の導き……いや、そんなわけないか)
どうせ、旧校舎を探しても何かが見つかることはないだろう。それでも、彼女が納得できるならそれでいい。
旧校舎はコの字型になっているから、東側の棟を調べたら、ぐるっと戻らないと西側の棟を調べることができない。
そうなったら、『今日はもう時間がないから』と言って、引き返させればいい。
(あたしだけならともかく、別の子も巻き込んでるし)
自分の横を歩いている、小柄な三つ編みの生徒をちらりと見る。彼女もいやいや付き合っているのかと思っていたが、神妙な表情を見ると意外と乗り気なのかもしれない。
と、長い間一人で考えているうち、ふとその相手……コノカと目が合った。
「あっ……」
と、彼女がばつが悪そうに眼を伏せた。
「『スタンド・バイ・ミー』って映画、観たことある?」
居心地の悪い思いをさせるのも悪いな、と思って、リンは話題を振ってみた。(自分らしくないな)と思ったけど、初対面の相手に気を遣うくらい、悪いことではないだろう。
「えっ……と」
話しかけられて驚いたのだろう。コノカは視線を右往左往させた。暗い廊下しかないので、周りを見回しても何も見当たらないだろうけど。
「大食い大会の映画でしょ?」
次の教室の扉を目指していたイノリが、前を向いたまま言った。
「違うよぉ、車の上から郵便ポストを叩くんだよ」
「それも違うと思うけど」
訂正するつもりで言ったらしいコノカに思わずツッコミなおしながら、リンはいつかのように肩をすくめた。
「男の子たちが捜し物をするんだ。でも、何を見つけるかは重要じゃなくて、一緒に探したことのほうが大事だったって話」
「ふーん」
やんわりと、何も見つからなくても傷つくな、と言っているのだが、その言われた当人はまったく気にしていないようだった。
「最後の教室」
と、イノリが扉に手を掛けた。
(どうせ、何もない。今日はここまでだね)
リンがどうやってイノリを説得するかをシミュレートしていた時……
「きゃ……っ!」
扉を半分まで開いたところで、イノリは悲鳴を上げた。正確には、悲鳴をあげかけて、それを思わず飲み込んだ。
扉を開ける手が止まって、その奥を見つめている。
「どうしたの? 何が……」
ただ事じゃない、と思ったリンがその扉に手を掛ける。その奥には、確かに異様なものがあった。
教室の奥に、祭壇のようなものが作られている。
校舎の中にある机や椅子を組み上げたのだろう。その上に、分厚い布が敷かれている。その布の表面には、何らかの印と、文字が書かれているように見えた。
暗くてはっきりとした形は判別できなかったが、五芒星のような形だ。
そして、その五芒星の中心には、青白い液晶モニタが繋がれていた。さらに、いくつかの別の機械が太かったり細かったりするケーブルで複雑につなぎ合わされている。
「コンピュータ? なんでこんなところに……電源が入ってるみたい」
ふたりの後から部屋の中をひょい、と覗き込んだコノカが呟く。
「まさか本当に何かあるなんて……」
イノリ自身が驚いている。悲鳴を上げかけたのも、どうせ何もないと思って、何かあったときの心の準備ができていなかったらしい。
「まったく……でも、事件と関係あるのかはまだ……」
呆れながら、リンはイノリをいさめようとした。その時、妙な予感がわき上がって来た。
「この部屋、変なにおいがする。鉄が錆びたみたいな……」
イノリがぽつりと呟く。
「コノカ、カメラ準備して。カーテン開けて確かめてみよう」
「あっ、待って、まだ……」
リンはイノリを止めようと手を伸ばした……が、彼女の袖を摑むには、ほんのわずかに足りなかった。
そののち、数秒の間に、様々なことが起きた。
たった数秒が、とても長い時間に感じられた。それほど、リンの心にはその光景が強烈に焼き付いてしまったのだ。
まず、モニタに映っていた『なにか』が大きく揺らめいた。
その直後、何か恐ろしく危険な気配が、部屋の中に広がった。光、音、においのいずれよりも速く、第六感とも言うべき感覚がそれを受けとっていた。
悪寒、というより他にない感覚だった。身の毛がよだつ、背筋が凍る、そういった言葉が表す感覚がどんなものかを、身を以て知った。
遅れて、光と音とにおいがやってきた。
最初は、モニタが光を失ってしまったのかと思った。だが違った。画面よりも大きな『なにか』が、突如としてそこに現れたのだ。これによって、部屋はほとんど真っ暗になった。
シュー、という、固いモノを擦り合わせるような、奇妙な音がどこかから響いた。
そして、部屋の中の空気の感触が変わっていった。古びた岩を砕いたような、粉っぽいいやなにおいがした。
「い……」
イノリは、モニタの前に現れた「なにか」を凝視していた。まるで、身がすくんで動けなくなってしまったかのようだ。
カッ!
とつぜん、強い光が閃いた。コノカが持っていたカメラのフラッシュだと気付いたのは少し後のことだ。
それよりも、その光の中に浮かび上がったものに目を奪われていた。
暗闇の中に、フラッシュが焚かれた一瞬だけ見えたもの。
それは異様だった。人間の形によく似ていた。だが、
その形を検証するよりも速く、リンは心の底からにじみ出る恐怖感に突き動かされていた。
「イノリ!」
無我夢中で、リンはもう一度、手を伸ばした。今度は、イノリの手首を掴むことができた。必死で引き寄せて、廊下へ引っ張り出す。
「リン……」
「イノリ、逃げよう」
足がもつれたのか、胸に倒れこんでくるイノリを受け止める。その体は、やけにずっしりと感じられた。
バンッ!
コノカが思い切り扉を閉める。
「い、今の……」
その表情にも、隠しきれない恐怖が滲んでいた。青ざめて、目元が引き攣っている。
「走って!」
二人の手を取って、廊下をまっすぐに走り出す。どこに逃げればいいかは分からないが、とにかくここから離れなければならないと本能が告げていた。
だが……
「無理……みたい……」
ぐ、っと、抵抗を感じた。
イノリはその場を動こうとしない。手を引っ張っても、びくともしなかった。
「何言ってるんだ、そんなこと言ってる場合じゃ……」
「足が動かないの」
イノリの声は震えていた。
「さ、さっき、見られて……冷たい感じが……体に、そしたら……」
「イノリ……その足……」
ドクン、ドクン、と心臓の音が聞こえた。目線を下に下げていく。膝丈のスカートから覗くイノリの足が、灰色の何かに覆われている。
いや、灰色の何かに
「ああ……! ダメ、逃げて、私はもう……」
「な、何言ってるの、イノリさん」
コノカが不安げに声を張り上げる。今にも泣き出しそうだった。
「わかるの。あ、あはは……一人で来ればよかった。二人とも……」
ぴし、と固い、小さな音がした。イノリの体が、灰色で、かさついて、冷たいものに置き換わっていく。
肌は愚か、身につけている制服まで。その体が――
「イノリ! ダメだ、イノリ!」
胴から胸、首元まで。あっという間に、イノリの体が石になっていく。
「巻き込んじゃって、ごめん……」
数秒だった。イノリの赤みがかった頬や、薔薇色の唇や、うるんだ瞳までもが無機質な石に置き換わっていった。癖のかかった髪も、たった今までリンに触れていた指も。
そして、ぴくりとも動かなくなった。