コノカは立ちすくんでいた。
何が起きたのか、分からなかった。
いや、目に見えているものを信じられなかっただけだ。
薄暗い廊下。靄のように暗黒が立ちこめて、旧校舎はもう少しで夜の闇に包まれる。
その廊下の真ん中に、石像が立っている。
片手を伸ばして、表情は、泣いているようにも笑っているようにも見えた。
その石像は、たった今まで……ほんの数秒前まで、コノカの親友だった。
「嘘……そんな。イノリさん……どうして?」
こんなことが信じられるわけがない。助けを求めるように、そっと手を伸ばす。
イノリの――イノリだった石像の指に手が触れた。
ざらついて、固く、冷たい感触。
石。
触覚が、今触れているものは石だと、間違いなく伝えてくる。でも、それを受け入れるわけにはいかない。
頭がぐらぐらして、崩れ落ちそうだ。メガネのレンズが、内側から濡れている。
「逃げるんだ!」
手を取って、誰かが叫んでいる。今日会ったばかりの誰か。
コノカの意識は、思い出の中に助けを求めようとしていた。
†
とはいっても、女学院は狭い世界だ。中等部と高等部をあわせても、生徒の数は500人にも満たない。
目立たない生徒が、周りから気にされずに、平穏で孤独に暮らしていけるような環境ではない。
女学院の中には、めったに部外者が立ち入らない。だから、学院の中の秩序を保つために、いくつかの『委員会』がある。
委員会に属していれば、少なくとも学院の中で『役割』を持つことができる。人との会話が得意ではないコノカにとって、それは学院生活をいくらか楽にしてくれるものだった。
コノカが選んだのは、図書委員会だった。女学院には広々とした図書館があり、その本を管理したり、時には自分の好みの本を入荷することだってできた。
中等部の3年間、そして高等部に進んでも、コノカは図書委員になった。おかげで、中等部からのクラスメイトからのあだ名は「図書委員」だ。別に、それでかまわない。それ以上に立ち入った関係なんて、望むべくもない。
図書室には、毎日の新聞が入ってくる。それを並べておくのも、図書委員の仕事だった。
もっとも、生徒が新聞を読みに来ることはめったにない。寮で、時間が限られてるとはいえ、テレビのニュースを見ることだってできるのだから。
だから、新聞を読むのはほとんどが、図書館の受付でヒマを持て余している図書委員たちだった。
コノカも時々、新聞の見出しに目を通す程度のことはした。そうすると決まって、派手な見出しが目に飛び込んでくる。
『女子高生 いじめを苦にして自殺』
『中高生の不登校 増加傾向』
『キレる未成年 どうしたら?』
女学院に通うほとんどの生徒は、遠い世界の出来事だと思って見過ごすだろう。
だけど、新聞やニュースの中で、名も知れぬ誰か――未成年は名前を報道されることはない――がどこかで苦しんでいるのだと考えると、コノカはやけに苦しい気持ちになった。
自分がその見出しの中で扱われている誰かと、そえほど違う存在だとはどうしても考えられなかったのだ。
(私だって、何かひとつ違っていたら……)
新聞のネタになっていたかもしれない。
孤立して、親しい相手もなく、目立たない学生なら、好きに書けるから。だから、きっと彼らは新聞に好かれているのだ。そう思った。
コノカは高等部に進み、新しいクラスの中でも、目立たない、人目に触れない立場を続けていた。
心の中では、ずっと不安だった。いつ自分が見出しの側になるか、わからない。三年間の学院生活を、なんとか
春先のある日、返却された図書の整理を終えた時、窓の外から声が聞こえて来た。
「おーい! ねえ、誰かいませんか!」
明るくて、元気で、いかにも素直そうな声。うらやましい、と反射的に思ったことを覚えている。
コノカが窓辺に向かうと、図書館の窓の下に
「あ……同じクラスの」
図書館の窓はコノカの胸ほどの高さにあった。少し背伸びして外を覗くと、彼女は下から見上げていた。
コノカは上から彼女の顔を見て、それが高等部に上がってからのクラスメイトだと気付いた。
「山生さん、よかった」
イノリは、コノカの名前まで知っていた――ちなみに、コノカはイノリの名前を知らなかった。
「ねえ、手伝って」
イノリの口調は、助けを求めたら、助けてもらえるのが当たり前だと信じている人の口調だった。
「これ、そっちに引っかけてほしいの」
と、彼女が示したのは緑色のネットだった。言われて見ると、確かに窓の上側にフックが取り付けられている。
「それ……どうするの?」
「『緑のカーテン』だって」
そう言って、イノリは足元の土を示した。
「フウセンカズラが植えてあるの。このネットに沿って成長して、夏には日差しを防いでくれる。そしたら、昼でも窓を開けて換気できるでしょ?」
言われてみれば……ここ数年、図書館の窓をつる植物が覆っていた。四月から準備していたとは、思っていなかったけど。
図書館の中にばかり居たのに、ほんの少し外側のことも見えていなかったのだ。
「……あれって、フウセンカズラって言うんだ」
「夏になったら風船みたいな実がなるんだよ」
「詳しいの?」
「ぜんぜん! 私、今年から園芸委員だから。教えてもらったばっかり」
はにかむように、イノリは笑った。
コノカはその時、『うらやましい』と思った。こんなふうに、当たり前みたいに笑って人と話ができたらどんなにいいだろう。それを、普通のことだと思えたら。
「投げるから、キャッチしてね」
考えているうちに、彼女はネットを構えた。
「せーのっ!」
「わっ? わわっ!」
アンダースローで緑色のネットが放り投げられる。窓からわずかに首だけを出していたコノカに受け止められるはずもなく、それは窓枠にばさっと飛びついてから、ずるずる落ちていった。
「あ……ご、ごめんなさい!」
慌てて頭を下げた。もう数センチ勢いがついていれば、窓枠に額をぶつけていたに違いない。期待された役割をこなせないことで、コノカは自分自身に激しく失望していた。
こんなことは初めてではなかったが、そのたび彼女は自分の立場が失われていくような感覚を覚えていた。
「なんでうまくできないんだろう。ごめんなさい、私、鈍くて……」
声が震えていた。窓の外に目を向けられなかった。日に照らされた外側が怖かった。日影にずっと居るべきだという気がした。
必死に頭を下げていた。そんなことをして、なんと声を掛けてほしかったんだろう? きっと、相手が何を言ってくれるかなんて考えもしなかった。許してほしいわけでもなかった。
頭を下げていれば、時間がその上を通り過ぎていってくれるかも知れないと、それだけを願っていた。
「あー……」
激しく謝りはじめたコノカの姿に、イノリは驚いている様子だった。それはそうだろう。彼女自身、一度でうまくできるとは思っていなかった。だが、コノカにとっては、一度目に失敗したことは重大な過失だったのだ。
「そうだ! 図書館って、本を取る時の台があるでしょ。ああいうのを使えば、取りやすくなるかも」
ぴし、と指を立てて、イノリは言った。コノカがそうっと顔を上げると、「どうかな?」と、上目遣いに付け足した。
(気を遣わせてる)
と思った。でも同時に、自分がこれ以上悲しめば、きっと彼女も悲しむだろうと思った。
(応えないと)
自分の方が上に立っているにもかかわらず、コノカは手を差し伸べられているように思った。学院での生活の中で、それはめったにないことだった。コノカ自身が他人を避けているから、当たり前なのだけど。
「ちょ、ちょっと待っててね」
窓を離れて、小型の脚立――片方だけに足場があるタイプ――を持ってくる。それを使って窓辺に立つと、窓から腕を出すことができた。
「それじゃ、行くよ!」
「う、うん」
再び、アンダースロー。ばさっと広がったネットに手を伸ばすと、片手の指が引っかかって、実を乗り出しすぎていたコノカは窓枠に胸を押しつけながらなんとか手に取ることができた。
「ナイスキャッチ!」
「あ、あはは……」
ぴしっと親指を立てて、イノリが笑った。
コノカも笑っていた。そんなに上手にはできなかったけど。
「それじゃ、こっち側の窓に全部つけるから、もうちょっとよろしく」
「全部!?」
けっきょく、その日は放課後の時間を窓枠にネットを引っかけるためだけに使い切った。
翌日、背中を筋肉痛で丸めているコノカが教室に向かうと、イノリが両手を合わせて頭を下げてきた。
「園芸委員じゃないのに手伝ってもらっちゃって、ごめんね!」
……とのことだ。
その時、コノカは学院生活の中で、初めて振るう、ある種の勇気を振り絞った。
今、このとき、彼女を相手に発揮しなければ、もう自分には『それ』ができないと思ったのだ。
「それじゃあ……」
『それ』というのは、他人を頼ることだった。
「それじゃあ代わりに、今度は私の、図書委員の仕事を手伝って」
「よかったぁ~」
イノリはほっと胸をなで下ろして、うんうんと何度も頷いた。
「もちろん! それでいいなら、喜んで!」
「それと、あの……名前……」
もう一度勇気を振り絞って聞いてみた。クラスメイトの名前も分からないの、なんて言われたらどうしよう、と思わないでもなかったのだけど。
「ああ」
彼女はぽんと手を打って、自分を指さした。
「あたし、白瀬依乃里。イノリでいいよ。山生……」
「山生このか。こ……コノカ、でいいよ」
こうして、二人の友情は始まった。
†
そして今、その友情の相手は冷たい石と化していた。
イノリの整った形の唇は薄く開かれたまま、もう動くことはなかった。
わずかに歪んだ瞼の形もそのまま、黒々とした瞳も、薄紅色の頬も、全てがくすんだ灰色の石に覆われていた。
いや、触れた時に分かった。覆われているのではない。全てが石だった。
「うそ……いや、イノリさん、そんな……いや!」
叫んでいた。頭が真っ白で、自分が何を言っているのか、何を見ているのか分からなかった。
目の前で起きたことを否定しようとしていた。でも、どうすればいいのかまるで分からなかった。
夏休みの前に、イノリと二人でフウセンカズラの花を見た。
白い小さな花。その下には、丸い実が膨らみはじめていた。
「逃げるんだ!」
甘い思い出に浸りかけた意識が、ふいに引き戻された。
今日、初めて顔を合わせた誰かが――相変わらず、コノカは名前を覚えるのが苦手だった――手首を掴んでいた。
「やめて!」
思わず、その手を振り払った――友達を見捨てて、親しくもない相手と逃げるなんて。
「あたしたちまで危ないんだ!」
「イノリさんが……!」
「言ってる場合じゃない!」
激しい剣幕を見せる彼女に首を振って答える。自分がまともに考えることができない状態なのは分かっていた。それでも、この場を離れたくはなかった。自分を否定することのようにさえ思えた。
その時……
りん、と鈴の音が響いた。
立ちこめていた
りん、りん。繰り返し鈴の音が鳴ると、ますます妖気が遠ざかり、代わりに清浄な気配があたりを包んでいく。
「な、なに……」
ゆっくりと振り向いた。廊下の暗がりの向こうに、うっすらと人影が見えた。その人影が手を振ると、その手の中で銀色の鈴がちいさく揺れ、空間を清める音を立てるのだった。
「こちらへ。後ろを向いてはいけません」
静かな、しかし力強い声が聞こえた。女性の囁くような声。
「後ろを見るな、って……」
コノカのすぐ後ろには、イノリがいた。もしくは……イノリだった石像が
一目でも、その姿を見たいと思った。もう二度と、彼女に会えないような、そんな気がしたのだ。
「彼女を救う手立てはあります。だから、今は……」
声が再び、鈴を鳴らした。コノカはぎゅっと唇を噛んだ。
「行こう。……イノリのためにも」
隣の少女が、小さく言った。
コノカは頷いて、廊下を駆け出していった。
イノリに背を向けたまま。