りんっ。
旧校舎の暗闇の中に、鈴の音が響く。
リンとコノカは、その音に導かれるように長い廊下を走った。
コの字型の校舎の曲がり角まで辿り着くと、裾の長い修道服を着た女性が立っていた。深々と
「シスターマーガレット!」
リンが叫ぶ。修道女はブラウンの瞳で目配せをして、手持ち鈴を大きく振った。
「私の後ろへ。
鈴が鳴るたび、その体からはほの白い光がわずかに放たれた。そして、周囲に漂う濃密な闇が、ほんの少しだけ清められていく。
「シスター、アレは一体……!?」
「はやく!」
いつになく強い口調。礼拝の説法の中でも、彼女がここまで語気を強めることはなかった。
二人が角を曲がると、窓の外のわずかな光が差し込んでいた。日は沈んでいるが、空の色はまだ昏くなりきっていない。
「パウロの宣べ伝える主によって命じる……」
激しく鈴を打ち鳴らしながら、マーガレットが唱える。
その時、コノカは薄暗闇の向こうに、いくつもの
ギラギラと点滅するような妖しい光をたたえた目。それは一対だけではない。いくつもの瞳が暗闇の奥からこちらを見つめていた。シュー、シュー、という、固いものを擦り合わせるような音もどこからか聞こえた気がした。
「ひぅ……」
思わず、呼吸が喉に詰まる。コノカは膝から崩れ落ち、床に顔を伏せた。
「……去りたまえ!」
一際つよく、鈴が打ち鳴らされた。暗闇の向こうでまたたく瞳は恨めしげに彼女たちを見つめていたが……なぜかそれが、眼を伏せているコノカにも分かった……やがて、再び暗闇の奥へと消えていった。
「た、助かった……?」
壁にもたれかかりながら、リンが呟く。
「ここは危険です。魔を祓う鈴の加護があるうちに、外へ」
マーガレットがはっきりとした口調で告げる。
「い、イノリさんが……」
「分かっています、でも、今はとにかく外へ」
「行こう、ほら……立てる?」
リンが差し出す手を取って、イノリはおぼつかない足でなんとか床を踏んで立ち上がる。眼鏡の裏側はいくつもの水滴で濡れていた。
「シスター、あれはいったい……」
「あれは、主の定めた法に従わぬもの、すなわち……」
マーガレットは視線を伏せ、その名を口にすることさえためらうように、一度唇を引き結んだ。
「……悪魔です」
†
「落ち着きましたか?」
礼拝堂、すぐそばの宿舎で……
マーガレットがリンとコノカを連れてくると、修道女たちは何も言わずに毛布をかけ、温めた茶を出してくれた。ほのかにカモミールの香りがした。
「……いいえ……」
コノカは、小さく首を振った。走り疲れて動転していた時よりは、いくらか落ち着いたかもしれない。だが、目の前で友人が……ほとんど唯一と言ってもいい、気を許した相手が石になったことのショックは、少女をひどく落ち込ませていた。
「そうですか……」
沈痛な表情で、マーガレットは頷いた。深い同情が滲んでいたが、慰めようとも、励まそうともしなかった。それだけ、起きた事を重く受け止めているのだ。
「悪魔……と、おっしゃいましたね?」
リンは、コノカに比べれば冷静だった。彼女が動揺しているぶん、かえって取り乱さずに済んでいるのかもしれない。
アイスブルーの瞳をマーガレットに向けて、決意を込めて問いを発した。それはもしかしたら、知るべきではないことかもしれない。
だが、すでに知ってしまった。
もはや、無邪気に噂話に興じていられる状況ではなくなってしまった。ほんの少しの好奇心が、彼女らの見ている世界を変えてしまった――そして、それは、元に戻ることはもうないのだ。
「生徒がいなくなるのは、悪魔……の、仕業なのですか?」
「――そうです」
マーガレットは、静かに、だがはっきりと答えた。
「誰かが、いたずらに悪魔の召喚を試みたのでしょう。それとも、悪魔のささやきに操られてしまったのかも……」
「あの部屋にあるコンピュータが、そうなんですか?」
「悪魔召喚プログラム……」
ぽそりと、コノカが呟いた。
「えっ?」
「ネットで噂になってた。悪魔を呼び出す儀式をプログラムで再現して、異世界から悪魔を呼び出すって。単なる噂か、たちの悪いジョークだと思ってた。『赤い部屋』みたいな……」
独り言のような調子だ。ぶつぶつと下を向いたまま続く言葉に、リンは心配そうに顔を覗き込む。
「何を言って……」
「いつの間にかダウンロードされてるって。掲示板でも見た。今からやってみる、とか言って、書き込んだきりで終わったとか、次の日に警察が来たとかって話が……」
「残念ながら、全てがジョークではなかったようです」
マーガレットが胸元で十字を切った。
「不信心ゆえにプログラムが生み出されてしまったものなのでしょう。教会でも
「ま、まさか」
にわかに現実味を失うような話を聞かされて、すぐに受け入れられるわけがない。だが、マーガレットの表情に偽りや冗談の色は見えない。
そして何より、自らの記憶を疑うことはできなかった。
「……じゃあ、悪魔が生徒を石に変えてるというんですか? ……イノリみたいに?」
「っ……!」
名前を聞いた瞬間、コノカの脳裏に耐えがたい記憶がよみがえる。フラッシュバックに体を強張らせて、テーブルに拳をぐりぐりと擦りつける。両手の痛みはちっとも気分を紛らわせてくれない。
「コノカさん、落ち着いてください……イノリさんの魂が失われたわけではありません」
「それって……どういう……?」
「彼女の魂は、まだ体の中に残っています。死んだり、奪われたわけではありません」
不安げに震えていたコノカの瞳に、わずかに光が戻った。
「じゃあ……イノリさんは、まだ生きているんですか? 元に戻すことが?」
「できます。しかし……」
マーガレットは言いにくそうに言葉を切った。だが、やがて意を決したようにコノカの手を取った。言い聞かせるように。
「まず悪魔を倒し、その後、適切な儀式を執り行わなければなりません」
「悪魔を倒すって……そんなことができるんですか?」
「教会の精鋭が力を貸してくれれば、すぐにでも」
「……そう、ですか」
はっきりと言ったわけではないが、リンにはうかがい知れた。つまり、「すぐには無理だ」ということだろう。だが、そのことを指摘することはできなかった。コノカを傷つけることになってしまうからだ。
「……とにかく、あなた方は自らの安全を考えてください。そして、旧校舎には近づかないように」
マーガレットに言われずとも、リンはそのつもりだ。イノリの体があることは心配だが、自分が近づいて同じように石にされるなんて考えたくもない。修道女たちが対策を考えているというなら、大人たちに任せるべきだ。
「クラスや寮のご友人にも、このことは言わないように。不安にさせるだけです」
「私、ルームメイトはいません。一人部屋です」
ぽそりと、コノカは答えた。だから誰にも言わない、というつもりだったのだが、リンにとっては、不安定な彼女が助けを求めているように聞こえた。
「行こう、コノカ。今晩はあたしと一緒の部屋で休むといい」
「……ううん。私の部屋に来て」
「あ……うん、そうしよう」
リンの部屋は……すなわち、イノリの部屋でもある。彼女のことを思い出させるような刺激は、少ない方がいいだろう。
「シスター、ありがとうございます。本当に……危ない所でした」
マーガレットが小さく首を振った。
「イノリさんは、必ず救います」
リンはそっと頭を下げて、椅子から立ち上がった。コノカの手を取ると、彼女もまた力なく立ち上がる。
「あたしたちはこれで……」
「……ひとつだけ……」
コノカが伏せていた顔を上げて、マーガレットに問いかける。
「あの悪魔に、名前はあるんですか? 目がたくさんあって、ギラギラ光ってた……」
「悪魔の目を見たのですか?」
驚いたように、マーガレットが目を見開いた。
「あ……く、暗かったから、そんな気がしただけかも。混乱していたから、はっきりとは……」
問いただされると、途端に記憶が間違っている気がしてきた。黒髪の少女が視線を伏せると、修道女はしばし考え込むようにその顔を見つめた。
「もしかしたら、あなたは……」
「私……?」
見据えられて、コノカはおびえるように目をそらした。卓上には、燭台の上で蝋燭のあかりがちらちらと揺れていた。その明かりが、天井からの照明と相まって、複数の影を壁に作っていた。
一人の人から違う影ができるなんて不思議だ、と、今更のようにコノカは思った。
(まるで、別の人が後ろに立っているみたい)
思考がまとまっていない。イノリのことから気を逸らそうとするあまり、とりとめがないことを考えているのだ、と思った。
「……いえ、なんでもありません。旧校舎に近づかなければ安全ですが、暗いので足元に気をつけて」
そして、マーガレットは祈りの言葉を口にした。リンはそれを復唱したが、コノカは口を閉じていた。
†
「一人部屋……だったんだね」
寮の中は静かだった。
階段を昇りながら、リンはコノカに話しかける。
すでに消灯時間を過ぎているから、あまり物音を立てないほうがいいのだが、彼女を落ち着かせるためには話を続けるべきだと考えてのことだ。
「私と相部屋になる予定だった子が、中等部から上がる時に家の都合で……別に、一人でいるのは苦手じゃないし、困ることはないけど……」
ぽつぽつと、コノカが呟く。話をしながらも、どこか遠くを見ているような……そんな顔をしていた。
「何か、考えてる? 少し休んだほうがいい」
階段を登り切って、コノカの部屋に向かう。きしきしと、床が音を立てた。普段は気にしない音も、今日はやけに耳に残る。
「シスターが、悪魔を倒して儀式をすればイノリさんが元に戻るって……」
「あ、ああ。悪魔がいるなんて思わなかったけど、それなら悪魔祓いの話も本当ってことだよ」
映画の中の作り話だとばかり思っていた。けど、マーガレットが語るところによれば、本当に悪魔を退治する力が教会にはあるのだろう。
「だから、きっとすぐに……」
「ネットは、世界中からアクセスできる……」
「コノカ?」
小柄な女子生徒は、迷いのない足取りで廊下を進んだ。自分より15センチは低いコノカの後をリンが追う。
「同じようなことが世界中で起きてるとしたら、教会が私たちを助けてくれるのがいつになるか分からない。だったら……」
「お、落ち着いて。考え事は明日以降にしたほうがいいよ」
少女の小さな手が、鍵を取り出した。ドアノブの下の鍵穴へ差し込まれて……扉が開かれる。
「入って」
「う、うん……」
コノカの声は、はっきりとした色を帯びていた。まるで――寮に戻るまでの間に、何か重大な決断を下したかのように。
通常、相部屋として使われている部屋の中には、ベッドがひとつしかなかった。その代わりに、一角にはデスクが据え付けられていた。
その上には……
「……これって」
「一人部屋だから、退屈を紛らわせようと思って。時間はたくさんあったし、ちょっとずつ部品を集めて作ったの」
無機質なケーブルがいくつかの部品を継ぎ合わせている。
コンピュータ。窓際に立てられたアンテナから、ネットに接続されている。
「まさか……そんな」
「悪魔を倒すには、悪魔の力を借りるしかない」
電源が入っていない暗いモニターに映ったコノカの瞳は、決意を秘めて輝いていた。