霧はいっそう濃くなっている。
まだ午前中のはずだが、木々が広げた枝の間からは、日の光も青い空も見えない。
濃密な霧があたりを覆い隠している。まるで、外の世界から切り離されているかのようだった。
「悪魔を殺して平気なの?」
小さな妖精が口元に微笑をたたえながら、二人を見ていた。怪しくきらめく瞳は宝石のように見えた……美しさではなく、無機質さゆえに。
いま、目の前に居る相手は人間ではない。何を考えて、何をしてくるのか、常識が通用しない相手だ。
(それでも……)
コノカはぐっと息を呑み込んだ。
(それでも、話をしないと。イノリさんを助けるためには、悪魔の力が必要だから)
コノカは自分のことを「人と話すのが得意ではない」と思っている。でも、悪魔と話をするのは初めてだ。人と話すのと悪魔と話すのとにどれぐらい違いがあるかは分からない。
答えが気に食わなければ、こちらの命を奪うのだろうか。それとも、おもちゃのようにもてあそばれるのだろうか。さっきリンがそうされたみたいに。
コノカはそっとリンの様子をうかがった。彼女は、唐突な質問に理解が追いついていないようだ。言葉の意味を考えるように、口元に手を当てている。
(返事は私がするべきだ。悪魔召喚プログラムを持っているのは私なんだから)
もし悪魔と契約することになれば、その契約を行うのは自分なのだ。息を吸い込んで、コノカは返事をした。
「平気です」
「平気じゃない」
示し合わせたようにぴったり同時に、リンも答えていた。しかも、真逆のことを。
「ふふふ……仲魔なのに、意見が違うのね?」
いかにもおかしそうに、ピクシーが笑っている。二人はお互いの顔を見合わせてから、気まずそうに眼を伏せた。
「人間って変なの。ねえ、教えてよ。どうして?」
ピクシーは小さな翅をはためかせながら、交互に二人の顔を見ている。
「ええと……」
なんだか、決死の決意よりも微妙な気まずさのほうがずっと大きくなってしまった。眼鏡をなおしながら、続きを答える。
「私は、イノリさんを助けたい。まだ15歳なのに、悪魔に石にされて終わりなんて、そんなふうに終わりなんて、ひどすぎるもの。ゴルゴンを放っておけば、恐ろしい目に遭うひとがもっと増えてしまうかも。それを止める為なら……私は、悪魔を殺しても平気です」
できるだけ声を震わせないように、ゆっくりとしゃべった。
「そう。私も悪魔だけど。そう言われて私が喜ぶと思ったの?」
ピクシーは変わらぬ調子で翅を揺らしながら、体ごとリンへ向き直った。
「あなたはどうして?」
緊張した様子で、リンは銀の髪をかき上げた。
「……はっきりした考えがあるわけじゃない。でも、キミと話していて、悪魔のことが分からなくなったんだ。笑ったり怒ったりするんなら、私たちと悪魔にどれだけの違いがあるのかって。悪魔どうしを戦わせて殺すことが、あたしは――怖くなってきた」
コノカの返答と比べて、リンには自信がなさげに思えた。自分がなぜそう感じたのか、はっきりと言葉にできないのだろう。
「でも、殺し合いをさせるためにここに来たんでしょ」
つん、と唇を尖らせて、妖精は肩をすくめた。
「そうだけど……」とリンは呟いて、下を向く。
(どっちにしろ、困らせるつもりだったんじゃない)
妖精ピクシーの意地悪な質問に、コノカは少しだけ腹を立てていた。
その表情に気付いたのか、ピクシーは空中でくるくると踊り、上機嫌に体を丸めた。
「妖精は気まぐれで意地悪なのよ。知らなかった?」
「うう」
失望と疲労で、コノカは崩れ落ちてしまいそうだ。その前に、リンが進み出た。
「こっちも、答えを聞かせてほしい」
「何のこと?」
「あたしたちを助けてくれるかってこと」
「仲魔になれってことね」
「そうだ」
リンは背筋を伸ばして、できるだけ威圧的に振る舞うようにした。
「ホントは、最初から決めてたわ」
「決めてたって?」
「あなたをここに呼んだんだもん。手伝うくらい、構わないわ」
「本当!?」
ぱっと眼鏡の奥を輝かせるコノカ。しかし、ピクシーは首を振った。
「と言っても、私じゃゴルゴンには敵わないわよ。だから……」
「だから?」
「もっといいところに連れて行ってあげる♡」
そう言うと、ぱっと体の向きを変えた。翅を激しくはためかせて、霧の中へと飛び出していく。
「わ……ま、待って!」
「ここで迷ったら、もう二度と出られないかも。見失わないでね♡」
くすくす笑いとともに、ピクシーが告げる。
「もう、ほんとに意地悪!」
コノカは急いで走り出した。ワンテンポ遅れて、リンもそれを追う。
「リンさん、急いでー!」
「分かってる……けど……」
リンの心には、ピクシーの言葉が引っかかっていた。小さなトゲがなかなか抜けないような、そんな感じがした。
(あたしを呼んだって? あたし
その真意を確かめるためにも……リンは妖精の後を追って、さらに走った。
†
とつぜん視界が開け、まばゆい輝きがいっぱいに広がった。
「きゃっ……!?」
コノカが叫びを上げて、思わず足を止める。
「到着~♪」
ピクシーはその光の中へ……いや、上へ向かっていく。
まばゆい光の下は水だ。きらきらと輝く湖が、目の前に現れていた。
「こ……これって? こんなところ、教育園にあったっけ!?」
「ない……と、思う」
教育園は、東京の街の中にある森としては広い。広いが、対岸が見渡せないほど広い湖が収まるわけがない。
「じゃあ、ここって……」
「ここはもう、私たちの世界。あなたたちがいた世界に隣り合う場所」
ピクシーが水面に降りたつ。曇りひとつない空を移した水に妖精の小さなつま先が触れ、静かに波紋が広がっていく。
「私たち、妖精の国に来ちゃったの?」
「そう、ティルナノーグ……あれ、マグメルだっけ? まあ、どっちでもいいか」
「どうしてわざわざ、こんなことを?」
息を切らせているコノカと違って、リンはわずかに呼吸を弾ませているだけだ。水の上のピクシーを睨むと、彼女はひょいと肩をすくめた。
「あなたに《女王さま》から話があるそうよ。でも、《女王さま》の力は強すぎて、人間の世界には出て行けない。だから、代わりに私が案内したの」
「妖精の女王? なんで、あたしに?」
「さあて、なんでしょう」
戸惑うリンの表情がおかしくてたまらない、というように、ピクシーは目を細めた。
「な、仲魔になってくれるって話は?」
「それはまたあとでね」
告げると、ピクシーはゆっくりと両手を広げた。その瞳が、かっと青白い光を帯びる。かと思うと、水面を大きく波打たせて、光が迸った。
「う……!」
光は一瞬で収まった。ピクシーの小さな体から、得体の知れない《力》が湧き出していた。ゾクゾクするような、気持ちを落ち着かせていられなくなるような感じがした。
ピクシーがリンに魔法を掛けたときに感じた、勝手に気持ちがわき上がってくるような、そんな《力》。たぶん、これこそが魔力なのだろう。
「ピクシー……?」
その姿は、先ほどと変わっていない。だが、身にまとう雰囲気が大きく変わっている。
体からはオーラのようなものが漂って、一回り大きく感じられた。
「私は妖精の女王……わけあって名乗ることはできませんが、ピクシーの体を借りてあなた方に話しています」
声の調子が、大きく変わっている。ピクシーは少女じみた甲高い声で話していたが、今は大人っぽい、落ち着いた声音だ。
「妖精の、女王……」
その存在感に向き合うと、リンの胸にさざ波が起きるような気がした。畏れや悲しみの気持ちが、無性に沸き立ってくるのだ。
「コノカ、気をつけて。何か……妙な感じだ」
「うん、確かにピクシーとは違うみたい」
と、応えるコノカは、リンほどには不安に感じていないようだ。
(じゃあ、これは……あたしだけが感じていることなのか? どうして?)
嫌な感じがした。心が「今すぐに逃げるべきだ」と告げている。あるいは、魂が。
だが、ここを逃げ出してもどこに辿り着くか分かったものではない。何より、コノカひとりを置いてはいけない。
「別の世界に連れてきたのに、さらにピクシーの体を借りるんですか?」
リンが葛藤を抑え込んでいる間に、存外に気楽な様子でコノカが尋ねる。明るい場所に出たので、気分が楽になったのかも知れない。
「世界のルールに干渉するのは、大変なのです」
「はあ」
「私たちとあなた方では世界のあり方が違っていますから、その中間地点としてこの場を用意し、さらにピクシーに私の力の一部を分け与えて中継させています」
神妙な口調で、妖精の女王が解説を始めた。コノカはふんふんと頷いている。
「それじゃあ、遠くにある妖精の国がサーバーだとすると、この場所がモデム、ピクシーがルーターの役割を果たしているってことですね」
「ぜんぜん分かんないんだけど」
何やら納得している様子のコノカに対して、リンにはちんぷんかんぷんだ。
「そんなこと、いきなりできることじゃないはずですよね。女王様は、人間がここに訪ねて来るのを待っていたんですか?」
「その通りです、聡明な娘よ」
ピクシーの姿で妖精の女王は頷いた。
「私たちは、来るべき時のために人間の力を求めています。しかも、特別な人間を」
「もしかして……あたしが、その特別な人間だって言うの?」
リンはうずく胸を押さえながら聞いた。この湖にやってきてからというもの、心臓が激しく脈打っている。こんなに緊張し、興奮したことは、フェンシングの全国大会でもなかった。
「そうです。あなたには、特別な力が宿っているはず。あなたのような人間を待っていました」
「特別……って、本当に?」
コノカが目を丸くしている。
「ええ。私の予感が確かなら、あなたこそが私たち妖精族を救うカギになるはず」
「な、なんの話か分からないよ。いきなりそんなこと、言われても」
戸惑いながらも、リンもまた確信めいたものを感じていた。自分はここに……
「でも、それが本当なら……あたしたちのために、妖精の女王が力を貸してくれるんだね?」
「あ……それなら、ゴルゴンにも……!」
これは悪魔との交渉だ。気を抜くわけにはいかない。
「いいでしょう。あなたが真に私たちを救うものなら、力を貸します」
「ほんとう、ですね」
「ただし、試練なくば勇者は勇者になり得ません」
おごそかに、だがはっきりと女王は告げた。
「それって、どこかに行って泉の水を汲んでこいとか、そういうことですか?」
「あまりどこかに立ち寄ってる時間はないんだけど……」
無断外出中である。少なくとも日が暮れるまでに帰らないと、のちのちが大変だ。
「あなた方が真の勇者なら、すぐに終わることですよ。あなた方には、『狩り』をしてもらいます」
「狩り?」
「狩りは人間の原初の行いです。狩りをする能力が高いものが優れた人間としてたたえられたはず。ですから、私もそれに習います」
「それって、誰か悪魔を殺すんですか?」
女王は小さな頭を横に振ってみせる。
「捕まえるだけでいいですよ。ただし、捕まえた後に離したら、やり直しです」
「それって、つまり……」
「これから呼び出す悪魔を、
妖精は、気まぐれで意地悪……ピクシーはそう言った。そして、それは女王についても例外ではないのだろう、とその時リンは思った。
「もし、捕まえられなかったら?」
「捕まえられるまで努力すればいいだけですよ。時間制限はありません。百年かかっても、成功すれば認めます」
「人間は百年も生きてはいられません」
「あら、あら」
妖精の女王が口元を隠してくすくすと笑う。ピクシーと同じ笑い方だ。
「だったら、速くはじめよう。どの悪魔を捕まえればいい?」
リンはとにかく、話を前に進めたかった。とにかく、落ち着かない――自分の身に何かが起きようとしている。それが何なのかが分からない。答えがすぐ近くにあるのに、手が届かないのだ。もどかしさで震えてしまいそうだ。
「それでは……」
妖精の女王がぽんぽんと、手を二度打った。
「ジャックフロスト!」
瞬間、水面に魔方陣が広がった。
「ごくり……」
目の前で行われる悪魔召喚に、思わず息を呑む。その魔方陣から、白い影がゆっくりとせり出して、やがて丸みをおびた一匹の悪魔の姿を形作った。
「ヒーホー! オイラを捕まえるなんて百年はや……あっ地面がない!」
そして、魔方陣が消えた途端、水の上に立とうとして失敗した。水には立てないのだ。
ばしゃーーーーん!
と派手に水柱を立ててスッ転んでいる、雪だるまのような悪魔を見て、リンは思った。
(……イケそうだな)
と。