「ヒホ……! 溺れるホ! あばばば……助けてくれホ!」
ばちゃばちゃと水を蹴立てながら、真っ白な妖精がもがいている。
「ええっと……」
リンは視線をさまよわせて、右後方に立っているコノカと目を合わせた。彼女もリアクションに困っているようで、長い三つ編みを揺らしながら小さく首を傾げている。
(さっきまでの緊張感はいったい……)
先ほどまで自分の中から湧き上がっていた不思議な緊張感がそっと遠ざかっていくのを感じる。あるいは、「ヒいている」と言うべきかもしれない。
「助けてホ! あぁー溶ける! 溶けるホ!」
言われてみれば、水中で暴れる悪魔の体が徐々に小さくなってきている気がする。
「まあ。ジャックフロストが溶けてしまうと試練は永久に達成できなくなってしまうわね」
妖精の女王――見かけは小さなピクシー――がコロコロと分かっている。分かっていてやっているのか、不手際を決して認めないタイプなのか。どちらにしろろくなものではない。
「ああ、もう。ほら、手を伸ばして!」
見かねて、リンは湖岸から手を伸ばす。妖精が協力してくれれば、なんとか届きそうだ。
「ヒホ! ヒホホー!」
妖精ジャックフロストが体ごと乗り出してその手をつかんだ。玩具じみた造作の手は、生物の手とは違った感触だ。ふわふわした雪の感触。氷でできたぬいぐるみのような、そんな体をしているようだ。
「はぁはぁ……死ぬかと思ったホ。ありがとホ」
「ど、どういたしまして……」
しっかりと手を握ったまま、水中から引き上げる。ジャックフロストの下半身は半分溶けてぼたぼたとしずくが垂れていたが、やがてそのしずくが凍り付き、しっかと両足で地を踏みしめる。
「ヒホ! 気安く触るんじゃねーホ!」
バシッ! 妖精が勢いよく手を振り払う。
「きみが助けてと言ったんじゃないか」
緊張感が解けた代わりに、おそろしいまでの脱力感が漂ってくる。振り払われた手をさすりながら、妖精のうつろな目元を見下ろした。
「悪魔にニンゲンの常識は通用しないんだホ!」
「それを言えば何とかなると思ってるフシがありますね」
コノカがぽそりと呟くのも聞かず、ジャックフロストは腰に手を当て、ドーンと胸を反らした。
「たった今よりオイラはキミたちの試練! オイラを超えて大きくなるがいいホ。しかしオイラは手加減のできない悪魔だホ。やるからには全力で逃げるホ。オイラを捕まえることができなければそれまで……ホ!」
「えいっ」
目を閉じているように見えたので、思い切ってつかみかかってみたリンである。
「あっぶねーホ! 話は最後まで聞けホ!」
間一髪、ジャックフロストが体を捻ってその手をかわした。リンの手は帽子のびょんびょんした部分をかすめただけだ。
「だいたい言いたいことは言ったでしょ」
「そっちがそのつもりなら、もう手加減しないホ! オラッ掛かってこいホ!」
ピカーンと目を光らせてジャックフロストが深く腰を落とす。ひゅうッと風が逆巻き、周囲に冷気が立ち込めた。
(今回、描写のテンションが違うような……)
「コノカ、右に回って」
「あ、う、うん!」
ぼんやりと考えている場合ではない。リンの言葉に従って、コノカはジャックフロストに向かって右側に回った。
「ヒホホ!」
ジャックフロストは警戒している……。
だが、そのすぐ後ろは湖だ。氷でできた悪魔が水の中に飛び込むことはできない。
だから、二人は左右からじりじりと距離を詰めていく。おのずと、逃げることができる方向は狭まってくる。
「ヒーホー!」
ぱっと、ジャックフロストがネコのように背中を丸めた。そして、全身をバネのように伸ばして、一気に飛び出す。狙いは、二人の間の空間だ。
「それは読んでる!」
悪魔の反応は想定済みだ。リンは素早く重心を移動して、その進路を塞ぐように飛び出す。フェンシングで鍛えた体幹は、悪魔相手でも引けを取らない。
「ヒホっ!?」
急制動をかけてその手をかわそうとするジャックフロスト。なぜか「キキーッ」とブレーキを掛ける音が鳴るが、勢いよく通り抜けようとしたせいで間に合わない。
悪魔は急には止まれない!
「つかまえた!」
両手を使って、しっかりとジャックフロストを抱え上げる。妖精の体は、見た目よりもずっと軽い。握力を込めてしまえば、取り落とす心配もない。
「やった! これで試練突破!」
「すぐに済んだね、よかった」
両手を合わせて喜ぶコノカへ微笑みかける。時間を使わずに済むなら、女学院に脱走がバレる心配も少ない。
「あらあら。それはどうでしょう?」
妖精の女王がおかしげに微笑む。安全な位置からの傍観者は、すっかりこの見世物を楽しんでいるようだ。
「残念だけど、この子はもう逃げられないよ。力強い悪魔というわけでもなさそうだ」
「ヒホー! ヒホホー!」
脇の下をがっちりとつかまえられて、ジャックフロストがもがいている。とは言っても、ネコをつかまえているようなものだ。鋭い爪があるわけでもない。
「私が与えた条件は……」
妖精の女王は笑みを崩さない。
「
「だからこうして……」
言いかけた時だ。ジャックフロストの体から、青いオーラのようなものが立ちのぼった。
「どうやらオイラを本気にさせたようだホ……!」
瞬間。その体が急激に冷たくなっていく。先ほどまではせいぜい「ひんやり」程度だった体が、氷の塊のように変わって行く。
「っ……こ、これくらい……」
「そのままつかみ続けていたら、シモヤケどころじゃ済まないホ。手の皮が凍り付いてベリベリ剥がれちゃうホ?」
悪魔がニヤリと笑った。ジャックフロストもまた、苦しむリンの姿を見て、愉悦じみた楽しみを感じているようだ。やはり、悪魔なのである。
「リンさん、離してください!」
「こ、これぐらい、イノリの苦しみに比べたら!」
と言うものの、すでに手に伝わってくる冷気は、生理的な拒絶感を感じるレベルになっている。体が危険を訴えているものに触れ続けるのは、腹の奥がキリキリするような、嫌な感覚だ。
「やめたほうがいいホー? 凍傷で手が動かなくなったら、どうせ逃げられるホ。ニンゲンが悪魔をずっとつかまえておくなんてフカノーなんだホ」
「く……!」
確かに、ジャックフロストの言うとおりだ。人間の体には自ずと限界がある。氷の悪魔に氷漬けにされたら、結局は逃げられてしまう。しょせん、やせ我慢に過ぎないのだ。
「でも、イノリのために……!」
リンは唇を引き結んだ。妖精の女王は、リンが特別だと言った。自分をこそ、この妖精の世界に連れこんだのだと。
(もしあたしに特別な力があるなら……今こそ、目覚めてくれ!)
体から力が抜けていく。その限界を超えた先に、特別な
その時だ。
「3,2,1……」
唐突に、横から声。すぐに、「ビュー」とモーターの音。
「えっ?」
「もう大丈夫。離して、リンさん」
インスタントカメラを手にしたコノカが、控えめに微笑んでいる。
「ええっと……」
「ヒホホ!」
あっけにとられて力が抜けた隙に、白い妖精が掌から抜け出す。肌が剥がれることはなかったが、もう指先には力が入らない。
「つぅ……!」
急激に、指にむずがゆいような、嫌な痛みが広がってきた。服の上から体に当てると、氷細工のように冷たくなっている。縮みきった毛細血管に血が無理矢理流れこもうとしているのだ。
「ヒホ! 脱出したホ。ニンゲンにはつかまってないホ!」
「いいえ、もう逃げられませんよ」
インスタントカメラが吐き出したカード型フィルムを、コノカは指で挟んで抜き取った。
「どういうこと?」
「リンさんは無理しないで。これを見てください、女王様」
と、湖の上に浮かぶ妖精の女王へ向けて、そのフィルムを差しだした。
徐々に、撮影された像が浮かび上がってくる。そこに写っているのは、リンがしっかとジャックフロストを掴んでいる姿だ。
「ほう」
おもしろげに、女王が目を細める。
「この写真の中では、リンさんがずっと彼をつかまえています。これって、
「ヒホ!? オイラはここにいるのに、まだつかまってるままになってるホ」
期待通りのリアクションをしてくれるジャックフロストにも微笑みながら、コノカはそっとカメラをポケットに戻した。
「殺してしまえば逃げられない……なんてこと、しませんよ」
「あらあら。悪魔的模範解答だと思ったのに」
(そんなつもりだったのか)
手を温めながら、リンは顔をしかめた。確かに、殺してしまえば、『もう逃げられない』状態にすることはできる。だが、そんなことは考えもしなかった。
「いいでしょう。もうちょっと困っているところを見せてほしかったですが……」
いかにも妖精らしいことを言いながら、女王は小さな頭を頷かせた。
「あなたがたは確かに試練を果たしました。ジャックフロスト、ご苦労様です」
「オイラ、殺されるかもしれないことやってたホ!?」
「ふふふ……」
「否定がないホー!?」
頭を抱えるジャックフロスト。だが、逆らうことはできないようだ。悪魔にとって、強者が弱者を従えるのは当然らしい。
(コノカは、いつの間にか……悪魔の考えまで想像できるようになってるんだな)
後ろで縮こまっているだけだと思っていたのだけど。ピクシーや女王との会話から、彼女らの考え方を想像し、解釈するようになっていたらしい。
「悪魔を殺して平気なの……か」
殺すかもしれない、なんてことすら、リンは考えていなかった。だが、コノカは違った。悪魔を殺すことを想像し、そのことを考え続けていたのだ。
だからこそ、殺さないで済んだ。
もし、コノカが女王の意図を分かっていなかったら?
二人してジャックフロストを追い回していたか、つかまえて凍傷を起こし、体を傷つけながらこの世界に留まることになっていただろう。そして、追いかけっこに疲れたら……妖精を殺して試練を達成しよう、と安易な決断に飛びついていたかもしれない。
「ありがとう、コノカ」
「ううん、リンさんがつかまえててくれたおかげ」
それどころじゃない感銘を受けているのだが、今は時間が惜しい。その話は帰り道にでもしよう、と心のメモ帳に書き留めておく。
「これで、女王様が協力してくれるん……ですね?」
緊張感が再びわき起こってくる。今は平和な追いかけっこだったが、今後はいつか必ず、悪魔と戦わなければいけないのだ……殺し合い、である。
「ええ。ですが、私が直接、ニンゲンの世界に手を貸すわけにはいきません。その代わりに……」
妖精の女王が手を差し出し、何事かを唱えた。すると、その手の中からあたたかい光が放たれ、リンの体に吸い込まれていく。
「あ……手が」
すると、先ほどまで冷え切っていた手に、急速に活力が戻ってくる。青白くなっていた掌が、赤みを帯びた色になっている。すっかり元どおりだ。
「癒やしは妖精族のお得意ホ」
「ピクシーの魔力でも、これぐらいはできます。そちらのあなたが持っているのは、悪魔召喚プログラムですね?」
「あ……は、はい」
声を掛けられて、コノカはカバンと一体化したコンピュータに手を触れる。その中の基板には、まごうことなく悪魔との契約のためのプログラムが収められている。
「あなたには、このピクシーとジャックフロストを与えます。契約し、ぞんぶんに使いなさい」
「は、はい! ありがとうございます!」
「強者によって運命が定められているなら、オイラの意思はどこにあるんだホ?」
「いいですね?」
「分かりましたホ……」
圧倒的強者のプレッシャーにより、ジャックフロストがうなだれる。
「や、優しくするから、ね?」
「オイラ、かわいい悪魔と合体させてほしいホ……」
「合体って?」
「そのうちわかるホ」
そう言って、ジャックフロストはコノカのメモリーの中に吸い込まれていった。
「召喚に必要なエネルギー……マグネタイトもいくらか与えます。扱いやすいよう、データに変換してお送りします」
言うが早いか、女王の体から立ちのぼるオーラがメモリに吸い込まれていく。コノカのディスプレイに浮かぶ『MAG』の値が、ぐんぐんと増えていった。
「さて、次にあなたには……」
女王が、リンに向き直る。
「あたしは、悪魔を貰っても扱えないよ」
「分かっています。あなたの力になるものを渡します。
そう言って、女王は今度は長い呪文を唱えはじめた。すると、リンの目の前に直径1メートルほどの魔方陣が浮かび上がる。
「手を。あなたに資格があれば、取り出すことができるはずです」
「何があるの?」
「勇者ならば、すぐに分かるでしょう」
悪魔特有の冷たい瞳。こうなると、応えてくれないことは、さすがのリンも理解していた。
(お笑い芸人やアイドルがこういうこと、よくしてるな……)
中身が見えない箱の中に手を突っ込むゲーム。妖精はきっと、その反応を見て楽しむつもりなのだろう。
動かせるようになった手を、ゆっくりと差しだしていく。派手にリアクションをするべきか。それとも期待を外して冷静になるべきか、考えながら。
だが――
「う、わ……!」
考えるまでもなく、思わず声を漏らす。かっと、猛烈な光が魔方陣の向こう側から溢れ出し……直後、リンは気を失っていた。