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「君は何も知らなくていい…無知蒙昧であることは罪ではない。君にとっても、君以外の子にとっても。ただ生と死の曖昧な境界にいる君があまりに何も持たないというのも、少しフェアじゃないよね」
おおきな手で、目をふさがれる。耳元に息がかかって、くすぐったい。
「君には俺の"視点"をあげよう。どこか他人とは違う鋭い観察眼…その視点で、モノクロの人生を彩れ。それが君へのギフトだよ」
…そのまま、まどろみのなかにおちていく。
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きょうは、お墓参りに行った。もこと同じ、黒い髪の毛の男の子に会った。
「…ボクは彼女の高校時代の後輩です」
うそだ、と思った。けど、いえなかった。ほんとうはそうじゃないのに、どうしてうそをつくんだろう。
もこにはまだ、わからない。
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ごし、ごしと壁にこびりついた赤い色をふき取る。雑巾に洗剤をつけて、何度も、何度も。
「…おちない」
いつもそう。流れているときは液体なのに、かたまるとなかなか落ちない。不思議。
しょりしょりくんが舐めた方が、もこが拭くよりきれいになる。壁はあきらめて、脱臭の作業に入ることにした。
入ってきた時に見えたのは、心臓から血を流した知らない女のひとだった。香水のかおりとよくわからない臭いにおいが混じって、気持ち悪くなったけど、すぐに掃除を始めた。
そうすれば部屋は、元通りになるから。
消毒剤を、ベッドや壁に吹きかける。つん、とした塩素のにおいで、部屋が小さなプールみたいになる。
学校のプールを思い出して、クロールが泳げなかったな、と思った。水のなかの息が詰まる感じは、さっき入ってきたときに少し似ている。
しょりしょりくんがもこの周りを元気に動き回っている。
久しぶりにごはんを食べられて、気分がいいみたい。でも、しょりしょりくんのよだれが垂れているところは、もこが後で掃除しなきゃなのでちょっぴりめんどくさい。触っちゃうとべたべたしているから。
最後に脱臭器を置いて、部屋を出る。明日掃除すれば、お仕事はおわりだ。少し気持ちがらくになった。
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「…たんじょうび」
家に帰ってカレンダーをみて、思い出した。おかあさんのお誕生日が、明日だった。
もこももう、高校生だ。なにか買って帰れば、おかあさんもよろこぶかもしれない。
お出かけ用の服を着て、お出かけ用の靴を履いて、家を出る。お財布には今年もらったお年玉を入れた。
お誕生日って、何を買えばいいんだろう。道をただまっすぐ歩きながら考える。
「…ここ、どこ?」
気がつくと、知らないところに来ていた。もこはこの街のどこに何があるのか、何も知らない。おぼえていない。
「………」
正面には、きれいなお店があった。ガラスの中に、チョコレートがたくさん並んでいる。
これなら、おかあさんもよろこぶかもしれない。
お店の中に入ると、からん、と鈴の音が響いて、思わずびっくりしてしまう。入口にベルみたいなのがついていた。びっくりしたもこを見て、店員さんがちょっぴり笑った。
ガラスケースのなかには、数えきれないぐらいの種類のチョコレートが並んでいて、どれを選べばいいのかわからなかった。
まる、しかく、ダイヤ、ハート。いろんな形に、いろんな色。
「…何かお探しですか?」
もこがチョコレートを見てると、知らない男の人が声をかけてきた。白い、コックさんがつけるみたいな帽子をかぶっている。
「…………」
「ああ、ゆっくりでいいですよ。一人でじっくり見たいのならそれでもいい」
もこが口をぱくぱくさせてると、そのおにいちゃんはにこにこと笑った。
「…あのね、」
やっとのことでことばが出てくる。
「おかあさんに…プレゼント……」
「お誕生日?」
おにいちゃんが聞いてきたので、慌ててこくこくと頷く。
おにいちゃんはちょっと考えるようなしぐさをしてから、お店の奥にもどって、しばらくすると帰ってきた。
「これなんてどうかな」
おにいちゃんが持ってきて見せてくれたチョコレートは、小さな赤いハートのチョコレートだった。
「…かわいい」
「僕が作ったんだ、これ。ほんとは試食とか、駄目なんだけど…よかったらおひとつどうぞ」
もらったハートのチョコレートを、おそるおそる口に入れる。甘い味が、ふわっと口の中にひろがった。
「おいしい…!」
「良かった。じゃあこれと…後はこれ、おまけにどうぞ」
さっきのチョコレートがたくさん入ったハートの箱と、もうひとつ小さな箱をもらう。
「…これ」
「初めてのお客さんへの、おまけだよ。帰ってからのお楽しみ」
いたずらっ子みたいに微笑むおにいちゃんにお金を払って、お店を出た。
まっすぐしか行ってなかったから、まっすぐ行ったらおうちに戻れた。
小さな箱の中身は、かわいいくまさんのチョコレートだった。