絢辻さんを救いたい話 作:紳士
ふわふわと全身が宙に浮く感覚と、眼前に広がる真っ白な光景。 非日常的な純白とも言える世界を目の前にしても、自分の脳は不思議と冷静だった。
本能なのか、自分はその世界を勝手に進んでいる。 が、変わらない視界のせいで前進しているのか、後退しているのかもわからない。 働かせられるのは頭だけで、首から下は麻痺しているかのように反応しない。 金縛りとはまた違った、形容し難い感覚。 それも苦しいものではなく、悦楽的な方の。
僅かな虚無感に身を浸らせた数秒後、視界の隅にそれは映った。
……黒い…………霧……?
明らかに異質なもの。 しかし、何故だか分からないが自分はそれに魅かれた。
単色の世界に紛れ込んだ白とは対極の色だったのもあるだろう。 でもそれだけでは無かった。 何か、もっと本質に近いような……とにかく近づきたい。 と、そう思った。
すると、やはり自分の足だからなのだろうか。 自然と身体が例の霧の方へと向かっていった。
徐々に近づいてくる霧。 不安感、恐怖感の概念はどうしてか一切襲って来なかった。
鼻の先まで迫った頃だろうか、丁度耳が刺激されたのは。
「—————ん」
音は、霧の中からした。
「—————くん」
それは聞き覚えのある声だった。
「
「はいっ!?」
ガバッと、効果音が付きそうな程勢いよく頭を上げ、僕はそう返事をした。 同時に机と椅子がガタガタッと音を立て、周囲の人の笑いを買う。 いや、今回の場合は僕の
チクチクと刺さる小さな視線よりも先に、僕は声のした方向へと焦点をずらした。
「はぁ……ST中ですよ」
出席簿を片手に、ここ2-Aの担任である「
「す、すみません……」
まだ正常に働いていない脳味噌の中の隙間が、羞恥心で埋められる。
腕を枕にしたせいでできた寝癖を、指でくしゃくしゃと整えながら、僕は周りの笑い声に乗っかるようにはにかんだ。
「代わりに今日の授業中は寝ないように。 では——」
淡く潤んだ黒に近いブラウン色の瞳を僕個人から全員に向け、一つの小さい笑いを買いながら、先生は話を切り替えた。
肩まで伸ばした艶のある髪に、優しさが溢れ出ている端整な顔。 若く、比較的学生のノリとやらを熟知しているのが所以か……そりゃ生徒にも人気があるわけだ。
「これが独身って言うんだから、この学校に来た甲斐があったんだよな?」
周りの視線も外れて、フッと全身の力を抜くように頬杖をついた瞬間、前に座った男子生徒「
「……一理ある」
「やっぱそうだよな、うんうん。 この時期になると人肌恋しくなるもんなぁ」
「だからと言って先生は別じゃない?」
首を傾げて見せた僕に対して、梅原は
「とか言って、お前も動き出すんだろ〜?」
「お前も……ってまさか!?」
僕は反射的に一人の生徒の方へ顔を向けた。
「
「つい昨日、大将は早速一緒に下校してたぞ〜」
大将っていうのは梅原が付けた、純一の仇名だ。 どうしてそう呼ばれているのか大体予想はつくが、確証はないので僕はあまりそうは呼ばない。
「下校って……一体誰と……?」
「それはな……」
誰にも聞かれていないことを互いに確認し、梅原は一呼吸置いて、次のように言った。
「森島先輩だよ」
「……へ?」
聞き間違いではない。 幻聴なんかでもない。 確かに聞こえたその名前に、僕はそんな反応をせざるを得なかった。
僕の呆けた顔を見て面白かったのか、より口角の上がった梅原は気丈に話を続ける。
「俺も見間違いかと思ったんだけど、あれは本当だよ。 しかも、何が一番凄いかって……」
梅原がテンション高めにいられるのは丁度そこまでだった。
「梅原君! ちょっかいかけてないで前を向きなさい」
流石に声が大きかったのだろう、再び辺りの視線がこちらに集中する。 今回は主に梅原に対してだが、会話をしていた同士としてこの場面はやや気まずい。
本気で怒っているわけではないが、眉毛を困らせたようにハの字にした先生を見て、梅原は「へーい」とだけ短く返し、体を前へと向けた。 対し先生は「まったく……」とため息を吐きそうな困り顔数秒後、再び話の続きを始める。
梅原も真面目に先生の話を聞き、視線も散り散りになったところで、ようやく僕は短いため息をつくことが出来た。 と、同時に頭の中に浮かぶのは一つの
それは純一が森島先輩とデキかけているということについてだった。 友人の朗報には喜ぶのが常なのだろうが、彼の場合は相手が相手なのだ。 学校一……いや、地区一と言っても過言ではない美女と唄われ、天真爛漫、器量も良し、毎日一人以上誰かからラブレターを貰っていると噂の……そんな方との朗報だからだ。 驚き半々、嫉妬半々……と言ったところだろうか。 何にしても、喜べる心の余裕は正直まだ無かった。
「二学期も終わりで、楽しみな行事が待っているからって気を抜かないように。 わかりましたか?」
他所ごとを考えていた僕の耳に、先生のその言葉が若干響く。
そう……か、そういえば
創設祭。 それはクリスマスイブの夜に開催される、地域住民の方々との交流も兼ねた、ここ「
僕はチラッと純一の方を見る。 さっきの内緒話を勘づかれたのが原因か、彼は僕の視線に気づいたようで、ちょっと困り顔を含める照れた笑顔でこちらに相槌を打った。
……色々、波乱がありそうだな。
彼の笑顔に僕も軽く表情を緩ませ、微笑み返すとまだ話を続けている先生の方へ、再度表情を向けた。
「あっ、そう言えば絢辻さん。 クリスマスツリーの案は決まったかしら」
先生の視線が動くと同時に、クラスメイト達も顔を動かして一人の生徒へと目を向けた。 僕もつられて目を動かす。
「はい、ある程度は。 あとは他クラスの実行委員の方と打ち合わせをするだけです」
テキパキと受け答えをする彼女の姿勢に、一部の生徒が「おぉ……」と感嘆の声を上げる。
「流石だわ、ありがとう絢辻さん。 ごめんね、クラス委員との掛け持ちで」
「いえいえ、私が立候補したことなので」
被りを振る仕草と同時に、ロングヘアーの黒髪がふわりと揺れる。 先生とは違ったストレートで艶やかな黒髪は、結構手入れされているのだろう。 遠目から見ても絹のように美しく整っている。
クラス委員と、実行委員の掛け持ちか……なんか面倒ばっかりかけてるな僕たちって。
真面目で温厚そうな彼女の目線からは、僕たちはどう見えているのだろうか。 そんなことが少し気になった。