絢辻さんを救いたい話 作:紳士
白い。
初めに浮かんだのは、ただそれだけだった。
上も、下も、右も左もない。
雪原のようにも見えたが、足元に雪が積もっているわけではない。空が白く曇っているわけでもなかった。どこまで目を凝らしても、視界を埋めているのは濃淡のない白一色だった。
身体が、ふわふわと宙に浮いている。
少なくとも、そんな感覚があった。
首から下は麻痺したように動かない。指先に力を込めたつもりでも、それが本当に自分の指へ伝わったのかすら分からなかった。
金縛りとは少し違う。
苦しくはない。
息が詰まるわけでも、胸を押さえつけられているわけでもない。むしろ、身体から余計な重さだけを取り除かれたような、不思議な心地よささえあった。
ただ、自分が進んでいるのか、止まっているのか。
それだけが分からない。
景色が何一つ変わらないせいだろうか。
歩いている感覚はないのに、僕は白い世界の中を勝手に運ばれているような気がした。
それでも、脳は妙に冷静だった。
見渡す限りの白。
純粋で、綺麗で、何も隠されていないように見える色。
けれど、あまりに白すぎるその世界は、かえって何も見せてはくれなかった。
自分の身体さえ、どこからどこまでが僕なのか曖昧になっていく。
輪郭が白へ溶けていくような感覚。
ほんの僅かな虚無感に身を浸していた、その時だった。
視界の端に、何かが映った。
「……黒い、霧?」
声に出したのか、それとも頭の中で考えただけなのかは分からない。
白しか存在しない世界に、黒い何かが浮かんでいた。
初めは、白い紙に落とされた小さな染みのようだった。
けれど、見つめているうちに、それは少しずつ形を広げていく。
霧。
煙。
影。
どれも近いようで、どれも違う。
白とは正反対の色をしている。ただそれだけなら、異質なものとして警戒してもおかしくないはずだった。
それなのに、恐怖はなかった。
不安も、ほとんど感じない。
むしろ僕は、その黒に目を奪われていた。
どこまでも曖昧な白の中で、それだけが確かな輪郭を持っているように見えたからかもしれない。
近づきたい。
理由もなく、そう思った。
身体は相変わらず動かない。
それでも意思を読んだかのように、白い景色が静かに後方へ流れ始める。
僕は黒い霧へ向かっていた。
近づくほど、それが単なる黒一色ではないことが分かる。
表面では淡い影が幾重にも重なり、ときおり光を反射するように形を変えている。柔らかく、穏やかで、こちらを迎え入れようとしているようにも見えた。
あと少し。
手を伸ばせば届く。
動かないはずの右手が、僅かに持ち上がった気がした。
その瞬間、周囲の白が揺れた。
音もなく、僕の身体へまとわりつく。
白い何かが、黒へ触れようとする僕を引き留めている。
そんな感覚があった。
それでも僕は、黒から目を離せなかった。
やがて霧は、鼻先へ触れそうなところまで迫ってくる。
その奥から、声がした。
『――くん』
聞き覚えがある。
けれど、誰の声だったか思い出せない。
『――づきくん』
もう一度。
今度は、先ほどよりもはっきりと。
『
「はいっ!」
効果音を付けるなら、ガバッ、という音が最も近かっただろう。
勢いよく頭を上げた拍子に、机と椅子が揃って大きな音を立てた。
一瞬の静寂。
その直後、教室のあちこちから小さな笑い声が上がった。
「……はぁ」
声のした方へ目を向ける。
教壇の前には、出席簿を片手にした
僕たち二年A組の担任だ。
「望月くん。今はST中ですよ」
「す、すみません……」
謝りながら、腕を枕にしていたせいで乱れた髪を指先で整える。
もちろん、それくらいで綺麗に戻るとは思っていない。寝ていたことを誤魔化すため、何かしら手を動かしていたかっただけだ。
周囲から向けられていた視線は、僕が目を覚ましたことで興味を失ったらしい。一人、また一人と前へ戻っていく。
まだ正常に働き始めていない頭の隙間が、遅れてやってきた羞恥心で埋められていった。
「今日の授業中は、寝ないようにしてくださいね」
困ったように眉を下げながら、高橋先生は小さく笑った。
肩まで伸びた艶のある髪。
優しげに整った顔立ちと、黒に近いブラウンの瞳。
教師としては比較的若く、生徒との距離の取り方も上手い。今のように誰かを注意する時でさえ、必要以上に場の空気を固くしない。
僕の失態で生まれた笑いを、そのまま柔らかく収めてしまう。
そりゃ、生徒から人気があるわけだ。
「これで独身っていうんだから、この学校に来た甲斐があったよな」
周囲の視線が外れたところで、前の席に座る男子生徒が、頬杖をついたまま小声で言った。
本人は隠しているつもりなのだろうが、口元には明らかに含みのある笑みが浮かんでいる。
「……一理ある」
「だろ?」
「だからって、先生は別じゃないか」
「何を言う望月。この時期になると、人肌が恋しくなるものなのだよ」
「急にどうしたのさ」
「いやいや、俺だけじゃない。お前もそろそろ動き出すんじゃないかと思ってな」
「僕が?」
「まさか、何も考えていないとは言わせないぜ」
梅原は身体を僅かに後ろへ傾け、僕の顔を覗き込む。
何かを見透かしたような、妙に腹の立つ笑い方だった。
「大将だって、ついに動き出したんだからな」
「大将?」
僕は反射的に、教室の少し前方へ目を向けた。
そこには
純一は梅原の親友であり、僕にとっても気兼ねなく話せる友人の一人だ。
三人で集まれば、教師には到底聞かせられないような話で盛り上がることも珍しくない。梅原が持ち込んだくだらない話題に純一が乗り、僕が呆れながら最後には一緒になって笑う。
大抵は、そんな関係だった。
純一の髪は、目元へかかりそうな長さでありながら、不思議と邪魔には見えない。本人が意識して整えているのか、単に髪質がいいのか。
顔立ちは同級生と比べれば整っている方だと思う。
やや面長ではあるものの、表情にはどこか幼さが残っている。
梅原が純一を「大将」と呼び始めた理由は、僕も何となく予想している。けれど確証はないし、本人をそう呼ぶのは少し気恥ずかしいため、僕は普段通り名前で呼んでいた。
「純一が動いたって、何を?」
「昨日、大将は女の子と一緒に下校していたのだよ」
「へえ。誰と?」
「それはな……」
梅原は一度言葉を切った。
左右へ目を動かし、誰にも聞かれていないことを確認する。
その大げさな動作だけで、僕も無意識に身を乗り出していた。
「森島先輩だよ」
「……へ?」
聞き間違いかと思った。
けれど、梅原の口から出たのは確かにその名前だった。
森島はるか先輩。
学校内で知らない人を探す方が難しいほどの有名人だ。
天真爛漫で、誰に対しても明るい。
容姿に関しても、地区一番と言ってしまっても、すぐに否定する人は少ないだろう。
一日に一人は誰かからラブレターをもらっている。
そんな噂まである。
「俺も最初は見間違いかと思ったんだけどな。しかも二人で帰っていたんだぜ?」
「純一と、森島先輩が……」
思わず、もう一度純一の方を見た。
彼は前を向いたまま、高橋先生の話を聞いている。
こちらの会話に気づいている様子はない。
友人の朗報なら、素直に喜ぶべきなのだろう。
実際、驚きと同じくらい嬉しい気持ちもあった。
中学時代の純一に何があったのか、僕は詳しく知らない。梅原から断片的に聞いたことがある程度だ。
それでも、純一が恋愛に対して少し臆病になっていることくらいは分かっている。
そんな彼が、学校一とも呼ばれる先輩と一緒に帰った。
祝うべき変化だ。
ただ、胸の奥へ小さな焦りが生まれたのも事実だった。
純一が一歩進んだことで、自分だけが今までと同じ場所に立っているように思えたのだろうか。
驚き半分。
羨ましさと、焦りを合わせて半分。
今の僕に、心から喜べるほどの余裕はまだなかった。
「梅原君」
前方から、高橋先生の声が飛んでくる。
梅原の肩が僅かに跳ねた。
「ちょっかいをかけていないで、前を向きなさい」
「へーい」
「返事は短く」
「はい」
今度は素直に身体を前へ戻す。
本気で怒っているわけではないのだろう。高橋先生は眉を困ったように下げただけだった。
ただし、梅原の声が思っていたより大きかったらしい。
教室の視線が、再び僕たちの周囲へ集まっていた。
梅原ほどではないにしても、会話へ加わっていた僕も少し気まずい。
数秒後、先生が何事もなかったように話を再開すると、視線も徐々に散っていった。
「もうすぐ二学期も終わりです。楽しみな行事が待っているからといって、気を抜かないように。分かりましたか?」
「はーい」
教室のあちこちから、気の抜けた返事が返る。
そうか。
もう、あと少しなのか。
高橋先生の言葉を聞きながら、窓の外へ目を向けた。
十二月。
創設祭。
クリスマスイブの夜に行われる、学校内でも最大規模のイベントだ。
各部活が出す屋台。
校内を彩る装飾。
地域住民との交流を兼ねているため、一般的な学校の文化祭とは少し規模が違う。
中でも注目を集めるのが、校内一の美少女を決めるミスサンタコンテストだ。
現在は森島先輩が二連覇中。
今年も例年通りなら、彼女を超える人はそう簡単には現れないだろう。
僕はもう一度、純一へ視線を送った。
今度は向こうも気づいたらしい。
目が合うと、純一は少し困ったような、照れの混じった笑みを返してきた。
梅原との内緒話が聞こえていたのか。
それとも、単に見られていることを不思議に思っただけなのか。
どちらにしても、今年の創設祭は色々と波乱がありそうだ。
「あ、そういえば絢辻さん」
高橋先生が教室の一角へ視線を向けた。
それにつられるように、クラスメイトたちも一斉に顔を動かす。
「クリスマスツリーの案は決まりましたか?」
「はい。ある程度はまとまっています。あとは、他のクラスの実行委員の方と打ち合わせをするだけです」
澄んだ声が返る。
教室の中で騒がしく交わされていた小声が、それだけで僅かに静かになった。
「さすが絢辻さん。クラス委員との掛け持ちなのに、ごめんなさいね」
「いえ。私が立候補したことですから」
僕たち二年A組のクラス委員長であり、創設祭の実行委員も兼任している。
先生やクラスメイトからの信頼は厚い。
成績優秀。
運動神経もよく、誰に対しても礼儀正しい。
面倒な仕事を頼まれても嫌な顔一つ見せず、気づけば他の人間が困る前に片づけている。
黒く長い髪が、彼女の動きに合わせてふわりと揺れた。
高橋先生の髪とはまた違う。
真っすぐに伸びた艶のある黒髪は、遠目からでも丁寧に手入れされていることが分かる。
窓から差し込む冬の光を受けても、その色は薄まらない。
むしろ光を吸い込むように、輪郭をより鮮明にしていた。
彼女は高橋先生へ微笑みを返す。
柔らかく、温厚で、一分の隙もない表情。
誰が見ても、絢辻さんらしいと思うのだろう。
「おぉ……」
近くにいた男子生徒が、感心したように小さく声を上げた。
実行委員との掛け持ち。
言葉にすればそれだけだが、実際には相当な仕事量のはずだ。
僕なら、部活と普段の勉強だけでも十分に余裕がなくなる。
それを絢辻さんは、当然のような顔で引き受けている。
なんというか。
僕たちは、彼女に面倒ばかりかけている気がする。
絢辻さん本人がどう思っているかは分からない。
真面目で温厚そうな彼女の目には、僕たちクラスメイトはどう映っているのだろう。
頼りないと思われているのか。
騒がしいと思われているのか。
それとも、そんなことを考える暇もないほど、仕事のことで頭がいっぱいなのか。
不意に、絢辻さんがこちらを向いた。
僕の視線に気づいた――わけではないだろう。
彼女は教室全体を見渡しただけだ。
それでも、黒い髪の間から覗いた白い横顔が、朝の夢と一瞬だけ重なった。
どこまでも整った黒い輪郭。
その奥にある、何も映していないような白。
「……?」
絢辻さんと目が合った。
彼女は不思議そうに首を傾げ、それからいつもの穏やかな笑みを浮かべる。
僕も、少し遅れて笑い返した。
きっと、まだ寝ぼけているのだろう。
そう思い、僕は前へ向き直った。