絢辻さんを救いたい話 作:紳士
翌朝。
自分の席へ着き、椅子を引こうとしたところで、机の上に置かれた透明な袋へ気がついた。中には見覚えのある紺色のタオルが入っている。四つ折りにされたそれは、僕が普段鞄へ押し込んでいる時よりも随分綺麗な形をしていた。
「おはよう、望月君」
顔を上げると、絢辻さんが机の横に立っていた。
「おはよう。これ、昨日の?」
「うん。洗っておいたから」
「今日じゃなくてもよかったのに」
「借りたままだと気になるの」
少し前、僕が弁当箱を返した時にも似たようなことを言った気がする。そのことへ気づいたのか、絢辻さんも僅かに口元を緩めた。
「何?」
「いや。僕と同じことを言うんだなと思って」
「一緒にしないでくれる?」
「返事が早いなぁ」
「望月君の場合は、余計なところまで気にするでしょう?」
「それは否定できないけど」
呆れたような視線を受けながら袋を持ち上げる。きちんと乾かされていて、折り目まで揃っていた。洗剤の匂いだろうか。普段家で使っているものとは少し違う、淡く甘い香りがする。
「ありがとう」
「どういたしまして」
絢辻さんは短く答えた後、一度だけ周囲へ視線を動かした。近くでは、登校してきた生徒同士が昨日のテレビ番組について話している。誰かが僕たちの会話を気にしている様子はなく、それを確かめるようにしてから、彼女は少しだけ声を落とした。
「昨日のこと、誰かに話してないよね?」
「話してないよ」
「本当に?」
「犬のことも、背負ったことも、靴を洗ったことも」
絢辻さんの眉が、分かりやすく僅かに寄った。
「具体的に言わなくていい」
「確認しただけだよ」
「なら、話してないの一言で十分でしょう?」
「ごめん」
反射的に謝ると、今度は別の意味で目を細められた。
「すぐ謝る」
「怒ってそうだったから」
「怒ってないわよ」
怒っていない人の声には、あまり聞こえなかった。これ以上続ければ本当に怒られそうなので、僕は口を閉じる。
「約束を守ってるなら、それでいいの」
そう言って絢辻さんは自分の席へ戻ろうとしたが、その横顔が見えた時、僕は思わず呼び止めた。目の下に、僅かに影があるような気がしたからだ。元々色白であるため、光の加減でそう見えているだけかもしれない。それでも昨日のことがあったせいか、一度気づくと無視できなかった。
「絢辻さん」
「何?」
「昨日、ちゃんと寝た?」
彼女が振り返る。
「急にどうしたの?」
「少し疲れて見えたから」
「朝から女の子の顔を見て、疲れてるなんて言うものじゃないよ」
「そういう意味じゃなくて」
慌てて否定すると、絢辻さんは少しだけ首を傾げた。
「なら、どういう意味?」
「……余計なところを見た」
「分かってるならよろしい」
いつものように微笑む。
「ちゃんと寝たから、心配しなくて大丈夫」
「そっか」
「それと、あまり見ないで」
「昨日も言われたな」
「言われても直さないから、もう一度言ってるの」
小さなため息と一緒にそれだけ告げ、今度こそ自分の席へ戻っていった。
僕は袋へ入ったタオルを鞄へしまう。ちゃんと寝た。本人がそう言っているのだから、ひとまずは信じるべきなのだろう。
ただ、その後も朝のSTが始まるまで、絢辻さんは一度も自分の席へ座らなかった。高橋先生からプリントを受け取って欠席している生徒の分を分け、クラスメイトから創設祭について聞かれれば、すぐにノートを開いて答える。一つ終えるたび、間を置かずに次のことへ移っていた。
忙しそうだと思う。けれど、それは僕がそう感じているだけで、彼女にとっては普段と変わらないのかもしれない。
何しろ、本人は平気だと言っているのだから。
◇
その日の部活が終わる頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。冷えた空気を吸うたび、喉の奥が少しだけ痛む。走っている間は身体が温まっていたが、練習を終えて立ち止まれば、その熱もすぐに冬の空気へ奪われていった。
「お疲れ」
「お疲れ様です」
先輩や同級生へ挨拶を返し、部室を出る。今日は特別厳しい練習ではなかったし、僕の走りも特別よかったわけではない。
いつも通りだった。
陸上部へ入ってから何度も繰り返してきた、何かを成し遂げたとも、失敗したとも言いにくい一日。それでも練習前より少しだけ身体が軽くなったような感覚はある。
学校の敷地を横切り、昇降口へ向かう途中で何となく校舎を見上げた。二階、二年生の教室が並んでいる一角に、まだ灯りがついている。
「……まだ誰かいるのか」
場所から考えれば二年A組だ。誰なのかを考えるより先に、一人の顔が浮かんだ。
見なかったことにして、そのまま帰ってもいい。僕にはもう用事がないし、忘れ物もしていない。むしろ教室へ戻る理由を探す方が不自然だった。そもそも絢辻さんだと決まったわけでもない。掃除の続きをしている生徒かもしれないし、教師が確認のために灯りをつけているだけかもしれない。
「……確認するだけなら」
口にしたところで、誰に対する言い訳なのだろう。
僕は昇降口を通り過ぎ、校舎へ続く扉を開けた。
階段を上がる。校内には昼間とは違った静けさが広がり、遠くから聞こえる吹奏楽部の楽器や運動部の掛け声も、窓や壁を隔てたことで随分小さくなっていた。
二年A組の前まで来て、扉のガラス越しに中を覗く。
やはり、絢辻さんだった。
教室の後ろにいくつかの机を並べ、その上へ資料を広げている。初めて放課後の仕事を手伝った時とよく似た光景だが、今回は紙だけではない。色のついた厚紙や折り畳まれた装飾、箱に入れられた文房具。創設祭で使うものらしい荷物が、机の上や床へ分けて置かれていた。
絢辻さんは脚立代わりに椅子へ乗り、教室後方の掲示板へ紙を当てている。片手で押さえながら位置を確かめることに集中しているらしく、僕が扉を開けてもこちらを見なかった。
「絢辻さん」
「……」
「絢辻さん?」
今度は少し声を大きくする。肩が僅かに動き、ゆっくりと顔だけがこちらへ向いた。
「望月君?」
「うん」
「どうしてここにいるの?」
「部活が終わったから」
絢辻さんの視線が、僕の格好を上から下へ流れる。練習着の上から部活用の上着を着ていて、髪も少し乱れたままだ。
「それは見れば分かるけど」
「教室に灯りがついてたから、誰かいるのかと思って」
「確認しに来たの?」
「そうなるかな」
「わざわざ二階まで?」
「途中まで来たら、引き返すのも変だろ」
「途中まで来た時点で、十分変だと思うけど」
少し呆れたような目を向けた後、絢辻さんは再び掲示板へ顔を戻し、持っていた紙の位置を少し動かした。
「そこ、曲がってるよ」
「え?」
「右側が少し下がってる」
「こっち?」
「反対」
言われて反対側を動かすものの、今度は上がりすぎている。
「もう少し上。……いや、そこまでじゃなくて」
「この辺?」
「そのくらい」
ようやく位置が決まり、絢辻さんの手が止まった。
「……望月君」
「何?」
「手伝いに来たのか、邪魔をしに来たのか、どっち?」
「今は手伝ってるつもりだけど」
椅子の上から、呆れたような視線が落ちてくる。
「口だけで?」
「僕が上った方がいい?」
「これはあたしの仕事だから大丈夫」
そう言って紙を掲示板へ留め、次に椅子から下りようと身体の向きを変えた。
その瞬間、椅子の脚が床に置かれていた厚紙の端へ乗った。小さな音とともに椅子が傾き、続いて絢辻さんの身体も大きく揺れる。
「危ない!」
近くにあった椅子と床を一度に蹴るようにして身体を前へ出し、転びかけた彼女の肘をつかむ。ほとんど同時に、絢辻さんの手が反射的に僕の肩へ置かれた。
椅子は大きく揺れたものの、倒れることはなかった。
「大丈夫?」
「平気っ!」
返ってきた声は、思っていたよりも強かった。
絢辻さんは僕の手を振り払うように腕を引く。数秒前まで普通に話していた教室が、急に静かになった。
「……ごめん。急に触ったから」
「違う。そういうことじゃない」
今度は足元を確認し、一歩ずつ慎重に椅子から下りる。床へ両足がついた後も、すぐにはこちらを見なかった。
「今のは、少し驚いただけ」
「うん」
「別に、転びそうになったわけじゃないから」
「それは無理があると思うけど」
絢辻さんが僕を見る。
「転びかけてたよ」
「自分で立て直せた」
「多分」
「望月君が急に近づいてきたから、余計にバランスを崩したの」
少し苛立った声が返ってくる。
「それはごめん」
「だから謝らなくていいって」
言い返した後、絢辻さんは自分のこめかみへ指を当て、一度だけ目を閉じた。その仕草を見れば、朝に感じた違和感をもう一度思い出してしまう。
「絢辻さん」
「何?」
「やっぱり、疲れてない?」
目を開いた彼女の視線が、まっすぐこちらへ向いた。
「朝も言ったでしょう?」
「ちゃんと寝たって?」
「そう」
「寝たことと、疲れてないことは同じじゃないと思う」
「面倒くさい人ね」
そう言いながらも、先ほどまでの勢いは少し薄れていた。
「平気だって言ってるでしょう?」
「うん」
「だったら信じて」
強い言葉だった。ただ、その声には先ほどより力がない。
僕はすぐには返事をしなかった。本人が大丈夫だと言っているのに、外から見ただけの僕が否定し続けるのは、心配ではなく押しつけになるのかもしれない。
「分かった」
「……本当に?」
「絢辻さんが平気だって言うなら、一回は信じる」
少し安心しかけたように見えた表情が、すぐ怪訝なものへ変わった。
「一回?」
「二回目は、その時の顔を見て考える」
「全然信じてないじゃない」
「今は信じるよ」
「言ってることが滅茶苦茶」
呆れたように息を吐かれ、僕も苦笑する。
「僕もそう思う」
何かを言い返そうとして口を開いたものの、結局彼女は言葉にしなかった。椅子を元の位置へ戻し、机の上の資料へ手を伸ばす。
「もう帰ったら?」
「絢辻さんは?」
「これを終わらせたら帰る」
机の上には、まだ手をつけていない資料がいくつかの束になっている。教室の後ろには開封されていない箱も残っていた。
「どのくらい?」
「一時間もかからないよ」
「本当に?」
絢辻さんの眉が僅かに動く。
「今度は何?」
「その一時間の間に、また仕事が増えないのかなと思って」
「増えたら、その分やるだけよ」
「それだと帰れないんじゃない?」
とうとう絢辻さんがこちらへ身体ごと向き直った。
「望月君」
「はい」
「帰って」
笑顔ではなかった。怒っているようにも見えるが、その中に少し困ったような色も混ざっている気がする。僕がここにいることで余計なことを考えなければならなくなるなら、実際に邪魔なのかもしれない。
「分かった」
僕は自分の席へ向かった。
「……どうして鞄を置くの?」
「宿題をしてから帰る」
「帰るって言ったよね?」
「絢辻さんの仕事は手伝わないよ。ここで自分の宿題をするだけ」
鞄から数学の教科書とノートを取り出すと、絢辻さんはしばらく僕の手元を見ていた。
「どうして教室で?」
「家に帰ると、始めるまで時間がかかるから」
「図書室は?」
「もう閉まってる」
「食堂は?」
「落ち着かない」
そこで一度黙ったものの、まだ諦めないらしい。
「他の教室」
「勝手に入るのはよくないだろ」
「ここも同じでしょう?」
「僕の教室でもあるよ」
今度こそ返事がなくなった。
言い訳を並べている自覚はある。今日中に宿題をする必要はないし、家でもできる。ただ、彼女から仕事を奪うように手伝うのは違う。だからといって、今の状態を見てそのまま帰るのも、やはり落ち着かなかった。
「邪魔はしないから」
「存在が気になる」
「見ないように努力する」
「また努力?」
「便利な言葉だからね」
「開き直らないで」
大きなため息を吐かれたが、それでももう帰れとは言われなかった。
僕は椅子へ座り、教科書を開く。数列の問題。授業中に説明された解法を思い出しながらノートへ式を書き始めると、絢辻さんも諦めたのか、机へ戻って作業を再開した。
紙をめくる音。ペンが走る音。時折、箱の中を探す音。二人きりの教室に、それらが重なっていた。
以前、進路調査を手伝った時と似ている。ただ、今は互いに別のことをしている。会話がなくても不思議と気まずくはなく、むしろ一人で宿題をする時より集中できた。
問題を一つ解いて答えを確認し、次へ進んだところで、絢辻さんのペンが止まった。
「望月君」
「うん?」
「部活、楽しい?」
予想していなかった質問だった。顔を上げても、絢辻さんはまだこちらを見ずに資料を読んでいる。
「どうして急に?」
「さっき、部活帰りだって言ってたから」
「楽しいかと言われると……普通かな」
「普通?」
その言葉が気になったのか、ようやく顔が上がった。
「嫌いじゃないよ」
「楽しくはないの?」
「楽しい時もある」
「曖昧ね」
僕はペンを指先で転がしながら少し考える。
「部活って、毎日楽しいものなの?」
「あたしは運動部じゃないから知らない」
「僕も他の部活は知らないけど。速く走れた日は嬉しいし、駄目だった日は悔しい。でも、毎回何かがあるわけじゃないから」
「それでも続けるの?」
「辞めるほど嫌いじゃないから」
「また曖昧」
絢辻さんは納得していないようだった。
「部内で一番になりたいとか、大会で結果を出したいとかないの?」
「出せたら嬉しいよ」
「出せなくても?」
「悔しいけど、それで全部無駄になるわけでもないだろ」
口にしてから、自分でも少し綺麗すぎる答えだと思った。
「いや。そんな立派なことを考えてるわけじゃないけど」
「じゃあ、どういうこと?」
絢辻さんが僅かに身を乗り出す。
「昨日より少し楽に走れたとか、最後までフォームが崩れなかったとか。そういう小さいことでも、次の日にまた行く理由にはなるかなって」
「満足できるの?」
「満足というより……納得?」
「違いが分からない」
「僕も上手く説明できないな」
結果が出れば嬉しいし、周りより速ければもっと嬉しい。僕だって何も求めず、ただ走っているわけではない。それでも、その日の結果が悪いからといって、すぐに辞める理由にもならなかった。
上手くいかない日も含めて続けている。それくらいのものだった。
「絢辻さんは?」
「何が?」
「結果が出なかったら、続けない?」
「結果が出るようにする」
迷いのない答えだった。いかにも彼女らしい。
「それでも出なかったら?」
「出るまで方法を変える」
「それでも?」
「何が言いたいの?」
僅かに眉を寄せられ、僕は首を振った。
「いや。絢辻さんらしいなと思って」
「馬鹿にしてる?」
「してないよ」
むしろ、自分にはない部分だと思っている。僕が何となく続けていることでも、彼女なら最初に目的を決め、そのために必要なことを一つずつ片づけていくのだろう。
「望月君」
「うん?」
「そこにある緑のファイル、取ってくれる?」
「これ?」
「それ」
席を立ち、机の端に置かれたファイルを渡す。
「ありがとう」
「どういたしまして」
絢辻さんはファイルを開き、中の表と目の前にある資料を見比べる。何度かページを往復した後、僅かに眉を寄せた。
「合わない……」
「何が?」
「発注数と、クラスごとの希望数」
「見ようか?」
僕が立ち上がりかけると、すぐにこちらを見られた。
「宿題をしてるんじゃなかったの?」
「もう半分終わったから」
「まだ半分あるでしょう?」
「急ぎじゃないよ」
それでも、すぐには資料を渡してこない。
「でも」
「見るだけなら、手伝いには入らないんじゃない?」
「どういう理屈?」
僕は肩をすくめた。
「絢辻さんが決めればいいよ」
頼んでいない仕事まで勝手に奪うつもりはない。ただ、僕にできることがあり、本人が望むのなら、それをする。それだけだった。
絢辻さんはしばらく資料を見つめた後、緑のファイルから一枚を抜き取った。
「……こっちの表。クラス別の希望数を足して。あたしは発注書をもう一度確認するから」
「分かった」
「間違えないでよ」
「善処します」
「善処じゃなくて、間違えないで」
視線が鋭くなり、僕は素直に頷く。
「はい」
空いている机へ資料を広げ、各クラスが希望している装飾品の数を品目ごとに足していく。数字は多いが、計算そのものは難しくない。ただ、似た名前の備品がいくつかあるため、見落とさないよう注意する必要があった。
「星形の飾り、二種類あるよ」
「大と小でしょう?」
「金色と銀色でも分かれてる」
「別々に数えて」
「了解」
数字を書き込み、一度合計した後、念のためもう一度最初から計算する。
「できたよ」
「見せて」
絢辻さんが隣へ来て、僕の書いた数字と自分が持っている発注書を順番に照らし合わせていった。
「ここ」
銀色の星飾りの欄を指差す。
「希望数が二十八個。発注書は二十六個になってる」
「……本当ね」
元の用紙を確認すると、二年C組の欄が合計へ入っていなかった。
「……あたしが見落としたみたい」
声が小さくなった。
表を見つめたまま動かない。大した間違いではない。発注前に見つかったのだから修正すれば終わる。ただ、彼女にとってはそれだけでは済まないのかもしれなかった。
「何も言わないの?」
「何を?」
「絢辻さんも間違えるんだ、とか」
「言ってほしい?」
「別に」
「なら言わない」
そこでようやく彼女が僕を見る。
「どうして?」
「数が合ってよかったと思ってるから」
「それだけ?」
「うん」
絢辻さんの口元が僅かに歪んだ。
「つまらない反応」
「何を期待してたんだよ」
「少しくらい得意そうな顔をするかと思った」
「計算しただけで?」
一度表へ視線を戻し、絢辻さんは自嘲するように笑った。
「完璧な絢辻詞の間違いを見つけたんでしょう?」
その言い方が少しだけ引っかかった。
「別に、絢辻さんが間違えない人だとは思ってないよ」
「前は思ってたでしょう?」
「前は、間違えたところを見たことがなかっただけ」
「同じじゃない?」
「違うと思う」
すぐに返すと、彼女の笑みが少しだけ薄れた。
「どう違うの?」
「間違えないように見えてたのと、本当に一度も間違えないのは違うだろ」
絢辻さんは何も答えず、僕の書いた数字をもう一度確認してから発注書を修正した。
「これで合った」
「よかった」
「……ありがとう」
「どういたしまして」
それ以上、間違いについての話は続かなかった。
僕は残っていた宿題へ戻り、絢辻さんも今度こそ最後の資料へ手をつける。先ほどより、ペンが紙の上を走る音が少しだけ速くなった気がした。
◇
「終わった」
絢辻さんがペンを置いた時、時計の針は僕が教室へ来てから四十分ほど進んでいた。
一時間はかからない。その言葉は、結果だけを見れば本当だった。
「僕も終わったよ」
「宿題?」
「うん」
「半分残ってたんじゃないの?」
「思ってたより進んだ」
絢辻さんが、自分の資料と僕のノートを交互に見る。
「途中、手伝ってたのに?」
「集中できたから」
「変なの」
二人で机の上を片づける。絢辻さんは資料を種類ごとにまとめてファイルへ入れ、開封されていなかった箱は教室後方の棚へ移動させた。今日は使わないものだったらしい。
今度は椅子へ乗らず、僕が上の段へ置く。
「ここでいい?」
「もう少し左」
「このくらい?」
「うん」
箱から手を離し、位置を確認する。
「やっぱり細かいな」
「落ちたら危ないでしょう?」
「さっき落ちかけた人が言う?」
絢辻さんの手が止まった。
「あれは忘れて」
「犬のことも忘れて、今日のことも忘れるの?」
「覚えておく必要がないでしょう?」
「そうかな」
「そうなの」
強引に話を終わらせるように最後の紙を取り上げ、そのままファイルへしまいかける。けれど少し迷ったように手が止まり、絢辻さんがこちらを見た。
「さっきは、ごめん」
「さっき?」
「……急に大きな声を出したこと」
「ああ」
あの時の「平気っ」という声を思い出す。
「本当に驚いただけだから」
「平気っ、って?」
「真似しないで」
「ごめん」
絢辻さんの目が細くなった。
「望月君は謝るか、余計なことを言うかのどちらかなの?」
「今日は余計なことの方が多かったかも」
「自覚があるなら直しなさい」
「努力する」
呆れたような顔をした後、絢辻さんが小さく笑った。
「だから、そればっかり」
朝から何度も見ていた笑顔とは違う。綺麗に形を整えてから見せるものではなく、言葉の途中で勝手に漏れたような笑みだった。
「でも、今日は助かった」
「今日は?」
「……今日も」
言い直したことが少し嬉しくて、僕も笑う。
「ならよかった」
「頼んでないのに、勝手に残ったけど」
「宿題をしてただけだよ」
「途中から完全に手伝ってたでしょう?」
「頼まれたからね」
絢辻さんは小さく息を吐いた。
「屁理屈」
彼女が鞄を持ち上げる。僕も教科書とノートをしまい、肩へ掛けた。
二人で教室を出る前に、絢辻さんは一度振り返って中を確認する。窓、暖房、机の上。最後に照明のスイッチを押すと、白く照らされていた教室が一瞬で暗くなった。
「帰ろうか」
「うん」
廊下へ出て、絢辻さんが鍵をかける。扉がきちんと閉まっていることまで確認してから、ようやく歩き始めた。
僕もその隣へ並ぶ。
外は寒い。駅までの道も、既に暗くなっているだろう。
それでも、一人で帰ろうとしていた時より、急いで校舎を出たいとは思わなかった。