絢辻さんを救いたい話   作:紳士

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第十話 ヘイキ

 

 翌朝。

 

 自分の席へ着き、椅子を引こうとしたところで、机の上に置かれた透明な袋へ気がついた。中には、見覚えのある紺色のタオルが入っている。

 

 四つ折りにされたそれは、僕が普段鞄へ押し込んでいる時よりも随分綺麗な形をしていた。

 

「おはよう、望月君」

 

 顔を上げると、絢辻さんが机の横に立っていた。

 

「おはよう。これ、昨日の?」

 

「うん。洗っておいたから」

 

「今日じゃなくてもよかったのに」

 

「借りたままだと気になるの」

 

 少し前、僕が弁当箱を返した時にも似たようなことを言った気がする。そのことへ気づいたのか、絢辻さんも僅かに口元を緩めた。

 

「何?」

 

「いや。僕と同じことを言うんだなと思って」

 

「一緒にしないでくれる?」

 

「返事が早いなぁ」

 

 絢辻さんは呆れたように僕を見る。

 

「望月君の場合は、余計なところまで気にするでしょう?」

 

「それは否定できないけど」

 

 袋を持ち上げる。

 

 きちんと乾かされていて、折り目まで揃っていた。洗剤の匂いだろうか。普段家で使っているものとは少し違う、淡く甘い香りがする。

 

「ありがとう」

 

「どういたしまして」

 

 絢辻さんは短く答えた後、一度だけ周囲へ視線を動かした。

 

 近くでは、登校してきた生徒同士が昨日のテレビ番組について話している。誰かが僕たちの会話を気にしている様子はなかった。

 

「昨日のこと」

 

 声が小さくなる。

 

「誰かに話してないよね?」

 

「話してないよ」

 

「本当に?」

 

「犬のことも、背負ったことも、靴を洗ったことも」

 

 絢辻さんの眉が、分かりやすく僅かに寄った。

 

「具体的に言わなくていい」

 

「確認しただけだよ」

 

「なら、話してないの一言で十分でしょう?」

 

「ごめん」

 

 反射的に謝ると、今度は別の意味で目を細められた。

 

「すぐ謝る」

 

「怒ってそうだったから」

 

「怒ってないわよ」

 

 怒っていない人の声には、あまり聞こえなかった。

 

 ただ、これ以上続ければ本当に怒られそうなので、僕は口を閉じる。

 

「約束を守ってるなら、それでいいの」

 

 そう言って、絢辻さんは自分の席へ戻ろうとした。

 

 黒い髪が、背中で静かに揺れる。その横顔が見えた時、少しだけ足を止めたくなった。

 

 目の下に、僅かに影があるような気がしたからだ。化粧をしているわけでもないし、元々色白であるため、光の加減によってはそう見えるだけかもしれない。

 

「絢辻さん」

 

「何?」

 

「昨日、ちゃんと寝た?」

 

 彼女が振り返る。

 

「急にどうしたの?」

 

「少し疲れて見えたから」

 

「朝から女の子の顔を見て、疲れてるなんて言うものじゃないよ」

 

「そういう意味じゃなくて」

 

 慌てて否定すると、絢辻さんは少しだけ首を傾げた。

 

「なら、どういう意味?」

 

「……余計なところを見た」

 

「分かってるならよろしい」

 

 絢辻さんは、いつものように微笑んだ。

 

「ちゃんと寝たから、心配しなくて大丈夫」

 

「そっか」

 

「それと、あまり見ないで」

 

「昨日も言われたな」

 

 僕がそう返すと、彼女は小さくため息をつく。

 

「言われても直さないから、もう一度言ってるの」

 

 それだけ告げると、今度こそ自分の席へ戻っていった。

 

 僕は袋へ入ったタオルを鞄へしまう。

 

 きちんと寝た。

 

 本人がそう言っているのだから、ひとまずは信じるべきなのだろう。

 

 ただ、その後も朝のSTが始まるまで、絢辻さんは一度も自分の席へ座らなかった。

 

 高橋先生からプリントを受け取り、欠席している生徒の分を分ける。クラスメイトから創設祭について聞かれれば、すぐに手帳ではない別のノートを開いて答える。

 

 忙しそうだと思う。

 

 けれど、僕がそう感じているだけで、彼女にとっては普段と変わらないのかもしれない。

 

 何しろ、本人は平気だと言っているのだから。

 

     ◇

 

 その日の部活が終わる頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。

 

 冷えた空気を吸うたび、喉の奥が少しだけ痛む。走っている間は身体が温まっていたが、練習を終えて立ち止まれば、その熱もすぐに冬の空気へ奪われていった。

 

「お疲れ」

 

「お疲れ様です」

 

 先輩や同級生へ挨拶を返し、部室を出る。

 

 今日は特別厳しい練習ではなかった。僕の走りも、特別よくはない。

 

 いつも通りだった。

 

 陸上部へ入ってから何度も繰り返している、何かを成し遂げたとも、何かに失敗したとも言いにくい一日。それでも、練習前より少しだけ身体が軽くなったような感覚はある。

 

 学校の敷地を横切り、昇降口へ向かう。

 

 何となく校舎を見上げた。

 

 二階。

 

 二年生の教室が並んでいる一角に、灯りがついている。

 

「……まだ誰かいるのか」

 

 場所から考えれば、二年A組だ。

 

 誰なのか。考えるまでもなく、一人の顔が浮かんだ。

 

 見なかったことにして、そのまま帰ってもいい。僕にはもう用事がないし、忘れ物もしていない。むしろ、教室へ戻る理由を探す方が不自然だった。

 

 絢辻さんだと決まったわけでもない。掃除の続きをしている生徒かもしれないし、教師が確認のために灯りをつけているだけかもしれない。

 

「……確認するだけなら」

 

 口にしたところで、誰に対する言い訳なのだろう。

 

 僕は昇降口を通り過ぎ、校舎へ続く扉を開けた。

 

 階段を上がる。校内には、昼間とは違った静けさが広がっていた。

 

 遠くから吹奏楽部の楽器の音が聞こえる。運動部の掛け声も、窓や壁を隔てたことで随分小さくなっていた。

 

 二年A組の前まで来る。

 

 扉のガラス越しに、中の様子を窺う。

 

 やはり、絢辻さんだった。

 

 教室の後ろにいくつかの机を並べ、その上へ資料を広げている。初めて放課後の仕事を手伝った時と、よく似た光景だった。

 

 ただ、今回は紙だけではない。

 

 色のついた厚紙、折り畳まれた装飾、箱に入れられた文房具。創設祭で使うものらしい荷物が、机の上や床へ分けて置かれていた。

 

 絢辻さんは脚立代わりに椅子へ乗り、教室後方の掲示板へ紙を当てている。片手で紙を押さえ、もう片方の手で位置を確認していた。

 

 僕が扉を開けても、こちらを見なかった。

 

「絢辻さん」

 

「……」

 

「絢辻さん?」

 

 今度は少し声を大きくする。

 

 肩が僅かに動き、ゆっくりと顔だけがこちらへ向く。

 

「望月君?」

 

「うん」

 

「どうしてここにいるの?」

 

「部活が終わったから」

 

 絢辻さんの視線が、僕の格好を上から下へ流れる。練習着の上から部活用の上着を着ていて、髪も少し乱れたままだ。

 

「それは見れば分かるけど」

 

「教室に灯りがついてたから、誰かいるのかと思って」

 

「確認しに来たの?」

 

「そうなるかな」

 

「わざわざ二階まで?」

 

 少し呆れたような目を向けられる。

 

「途中まで来たら、引き返すのも変だろ」

 

「途中まで来た時点で、十分変だと思うけど」

 

 絢辻さんはそう言い、再び掲示板へ顔を戻した。持っていた紙の位置を少し動かす。

 

「そこ、曲がってるよ」

 

「え?」

 

「右側が少し下がってる」

 

「こっち?」

 

「反対」

 

 絢辻さんが紙をずらす。

 

「こっち?」

 

「もう少し上」

 

「この辺?」

 

「そのくらい」

 

 位置が決まったところで、絢辻さんが手を止めた。

 

「……望月君」

 

「何?」

 

「手伝いに来たのか、邪魔をしに来たのか、どっち?」

 

「今は手伝ってるつもりだけど」

 

 彼女の視線が、椅子の下にいる僕へ落ちる。

 

「口だけで?」

 

「僕が上った方がいい?」

 

「これは私の仕事だから大丈夫」

 

 そう言って、紙を掲示板へ留める。

 

 次に椅子から下りようと、身体の向きを変えた。

 

 その瞬間だった。

 

 椅子の脚が、床に置かれていた厚紙の端へ乗る。

 

 僅かな音。

 

 続いて、絢辻さんの身体が傾いた。

 

「危ない!」

 

 近くにあった椅子と床を一度に蹴るようにして、身体を前へ出す。

 

 手を伸ばし、転びかけた絢辻さんの肘をつかんだ。もう片方の手が、反射的に僕の肩へ置かれる。

 

 椅子は大きく揺れたものの、倒れることはなかった。

 

「大丈夫?」

 

「平気っ!」

 

 返ってきた声は、思っていたよりも強かった。

 

 僕の手を振り払うように、絢辻さんが腕を引く。

 

 教室が静かになる。

 

 彼女は椅子の上に立ったまま。僕は、そのすぐ横で手を半端に伸ばしたまま。

 

 数秒前まで普通に話していたはずなのに、急に何かへ触れてしまったような感覚があった。

 

「……ごめん」

 

 僕は手を下ろす。

 

「急に触ったから」

 

「違う」

 

 絢辻さんが短く答えた。

 

「そういうことじゃない」

 

 椅子から下りる。今度は足元を確認し、一歩ずつ慎重に。

 

 床へ両足がついた後も、すぐにはこちらを見なかった。

 

「今のは、少し驚いただけ」

 

「うん」

 

「別に、転びそうになったわけじゃないから」

 

「それは無理があると思うけど」

 

 絢辻さんが僕を見る。

 

 言わない方がよかったかもしれない。けれど、見たままをなかったことにするのも違う気がした。

 

「転びかけてたよ」

 

「自分で立て直せた」

 

「多分」

 

「望月君が急に近づいてきたから、余計にバランスを崩したの」

 

 少し苛立った声が返ってくる。

 

「それはごめん」

 

「だから謝らなくていいって」

 

 その後、絢辻さんは自分のこめかみへ指を当て、一度だけ目を閉じた。

 

「絢辻さん」

 

「何?」

 

「やっぱり、疲れてない?」

 

 目を開いた彼女の視線が、まっすぐこちらへ向く。

 

「朝も言ったでしょう?」

 

「ちゃんと寝たって?」

 

「そう」

 

「寝たことと、疲れてないことは同じじゃないと思う」

 

「面倒くさい人ね」

 

 そう言いながらも、先ほどまでの勢いは少し薄れていた。

 

「平気だって言ってるでしょう?」

 

「うん」

 

「だったら信じて」

 

 強い言葉だった。

 

 けれど、その声には先ほどより力がなかった。

 

 僕は、すぐには返事をしなかった。

 

 絢辻さんの言う通りだ。本人が大丈夫だと言っているのに、外から見ただけの僕が否定し続けるのは、心配ではなく押しつけになるのかもしれない。

 

「分かった」

 

「……本当に?」

 

「絢辻さんが平気だって言うなら、一回は信じる」

 

 少し安心しかけたような表情が、すぐ怪訝なものへ変わる。

 

「一回?」

 

「二回目は、その時の顔を見て考える」

 

「全然信じてないじゃない」

 

「今は信じるよ」

 

「言ってることが滅茶苦茶」

 

 僕は苦笑する。

 

「僕もそう思う」

 

 絢辻さんは、何かを言い返そうとして口を開いた。

 

 けれど結局、言葉にはしなかった。小さく息を吐き、椅子を元の位置へ戻す。

 

「もう帰ったら?」

 

「絢辻さんは?」

 

「これを終わらせたら帰る」

 

 机の上を見る。

 

 まだ手をつけていない資料が、いくつかの束になっていた。教室の後ろには、開封されていない箱も残っている。

 

「どのくらい?」

 

「一時間もかからないよ」

 

「本当に?」

 

 絢辻さんの眉が僅かに動く。

 

「今度は何?」

 

「さっきの一時間と、普通の一時間は同じ長さなのかなと思って」

 

「同じに決まってるでしょう?」

 

「絢辻さんの場合、仕事が増えそうだから」

 

「増えたら、その分やるだけよ」

 

「それだと帰れないんじゃない?」

 

 とうとう、絢辻さんがこちらへ身体ごと向き直った。

 

「望月君」

 

「はい」

 

「帰って」

 

 笑顔ではなかった。

 

 怒っているようにも見える。ただ、その中に少し困ったような色が混ざっている気もした。

 

 僕がここにいることで、余計なことを考えなければならなくなる。そういう意味では、実際に邪魔なのかもしれない。

 

「分かった」

 

 僕は自分の席へ向かった。

 

「……どうして鞄を置くの?」

 

「宿題をしてから帰る」

 

「帰るって言ったよね?」

 

「絢辻さんの仕事は手伝わないよ」

 

 鞄から数学の教科書とノートを取り出す。

 

「ここで自分の宿題をするだけ」

 

 絢辻さんはしばらく僕の手元を見ていた。

 

「どうして教室で?」

 

「家に帰ると、始めるまで時間がかかるから」

 

「図書室は?」

 

「もう閉まってる」

 

「食堂」

 

「落ち着かない」

 

 次々と候補を出され、僕も一つずつ返していく。

 

「他の教室」

 

「勝手に入るのはよくないだろ」

 

「ここも同じでしょう?」

 

「僕の教室でもあるよ」

 

 絢辻さんが黙る。

 

 言い訳を並べている自覚はあった。

 

 別に、今日中に宿題をする必要はない。家でもできる。

 

 ただ、彼女から仕事を奪うように手伝うのは違う。だからといって、今の状態を見てそのまま帰るのも、やはり落ち着かなかった。

 

「邪魔はしないから」

 

「存在が気になる」

 

「見ないように努力する」

 

「また努力?」

 

 絢辻さんが大きくため息を吐く。

 

「便利な言葉だからね」

 

「開き直らないで」

 

 それでも、もう帰れとは言わなかった。

 

 僕は椅子へ座り、教科書を開く。

 

 数列の問題。

 

 授業中に説明された解法を思い出し、ノートへ式を書き始める。

 

 一方、絢辻さんも諦めたのか、机へ戻って作業を再開した。

 

 紙をめくる音。ペンが走る音。時折、箱の中を探す音。

 

 二人きりの教室に、それらが重なっていた。

 

 以前、進路調査を手伝った時と似ている。ただ、今は互いに別のことをしている。

 

 会話もない。

 

 それでも、僕一人で宿題をする時より、不思議と集中できた。

 

 問題を一つ解き、答えを確認する。次の問題へ進む。

 

 その途中で、絢辻さんのペンが止まった。

 

「望月君」

 

「うん?」

 

「部活、楽しい?」

 

 予想していなかった質問だった。

 

 顔を上げる。

 

 絢辻さんは、こちらを見ずに資料を読んでいる。

 

「どうして急に?」

 

「さっき、部活帰りだって言ってたから」

 

「楽しいかと言われると……普通かな」

 

「普通?」

 

 その言葉が気になったのか、絢辻さんがようやく顔を上げる。

 

「嫌いじゃないよ」

 

「楽しくはないの?」

 

「楽しい時もある」

 

「曖昧ね」

 

 僕はペンを指先で転がしながら少し考える。

 

「部活って、毎日楽しいものなの?」

 

「あたしは運動部じゃないから知らない」

 

「僕も他の部活は知らないけど」

 

 もう少し考えてから、言葉を続ける。

 

「速く走れた日は嬉しいし、駄目だった日は悔しい。でも、毎回何かがあるわけじゃないから」

 

「それでも続けるの?」

 

「辞めるほど嫌いじゃないから」

 

「また曖昧」

 

 絢辻さんは納得していないようだった。

 

「そうかな」

 

「部内で一番になりたいとか、大会で結果を出したいとかないの?」

 

「出せたら嬉しいよ」

 

「出せなくても?」

 

「悔しいけど、それで全部無駄になるわけでもないだろ」

 

 口にした後、自分でも少し綺麗すぎる答えだと思った。

 

「いや。そんな立派なことを考えてるわけじゃないけど」

 

 絢辻さんが僅かに身を乗り出す。

 

「じゃあ、どういうこと?」

 

「昨日より少し楽に走れたとか。最後までフォームが崩れなかったとか。そういう小さいことでも、次の日にまた行く理由にはなるかなって」

 

「満足できるの?」

 

「満足というより……納得?」

 

「違いが分からない」

 

「僕も上手く説明できないな」

 

 結果が出れば嬉しい。周りより速ければ、もっと嬉しい。

 

 僕だって何も求めず、ただ走っているわけではなかった。

 

 けれど、その日の結果が悪いからといって、すぐに辞める理由にもならない。上手くいかない日も含めて続けている。

 

 それくらいのものだった。

 

「絢辻さんは?」

 

「何が?」

 

「結果が出なかったら、続けない?」

 

「結果が出るようにする」

 

 迷いのない答え。

 

 いかにも彼女らしいと思う。

 

「それでも出なかったら?」

 

「出るまで方法を変える」

 

「それでも?」

 

 絢辻さんの眉が僅かに寄る。

 

「何が言いたいの?」

 

「いや。絢辻さんらしいなと思って」

 

「馬鹿にしてる?」

 

「してないよ」

 

 むしろ、自分にはない部分だと思っている。

 

 僕が何となく続けていることを、彼女なら何を達成するために続けるのか、最初にはっきり決めるのだろう。

 

「望月君」

 

「うん?」

 

「そこにある緑のファイル、取ってくれる?」

 

「これ?」

 

「それ」

 

 席を立ち、机の端に置かれたファイルを渡す。

 

「ありがとう」

 

「どういたしまして」

 

 絢辻さんはファイルを開き、中の表と目の前の資料を見比べる。

 

 何度かページを往復した後、僅かに眉を寄せた。

 

「合わない……」

 

「何が?」

 

「発注数と、クラスごとの希望数」

 

「見ようか?」

 

 僕が立ち上がりかけると、絢辻さんがこちらを見る。

 

「宿題をしてるんじゃなかったの?」

 

「もう半分終わったから」

 

「まだ半分あるでしょう?」

 

「急ぎじゃないよ」

 

 それでも、絢辻さんはすぐには資料を渡さなかった。

 

「でも」

 

「見るだけなら、手伝いには入らないんじゃない?」

 

「どういう理屈?」

 

 僕は肩をすくめる。

 

「絢辻さんが決めればいいよ」

 

 先ほど彼女が言った言葉を返す。

 

 頼んでいない仕事まで、勝手に奪うつもりはない。ただ、僕にできることがあり、本人が望むのなら、それをする。

 

 それだけだった。

 

 絢辻さんはしばらく資料を見つめていた。

 

「……こっちの表」

 

 緑のファイルから、一枚を抜き取る。

 

「クラス別の希望数を足して。私は発注書をもう一度確認するから」

 

「分かった」

 

「間違えないでよ」

 

「善処します」

 

 絢辻さんの視線が鋭くなる。

 

「善処じゃなくて、間違えないで」

 

「はい」

 

 空いている机へ資料を広げる。

 

 各クラスが希望している装飾品の数を、品目ごとに足していく。数字は多いが、計算そのものは難しくない。

 

 ただ、似た名前の備品がいくつかあり、見落とさないよう注意する必要があった。

 

「星形の飾り、二種類あるよ」

 

「大と小でしょう?」

 

「金色と銀色でも分かれてる」

 

「別々に数えて」

 

「了解」

 

 数字を書き込む。

 

 一度合計し、念のためもう一度最初から計算する。

 

「できたよ」

 

「見せて」

 

 絢辻さんが隣へ来る。

 

 僕の書いた数字と、自分が持っている発注書を順番に照らし合わせていく。

 

「ここ」

 

 僕は銀色の星飾りの欄を指差した。

 

「希望数が二十八個。発注書は二十六個になってる」

 

「……本当ね」

 

 絢辻さんが元の用紙を確認する。

 

 二年C組の欄が、合計へ入っていなかった。

 

「私が見落としたみたい」

 

 声が小さくなる。

 

 表を見つめたまま、動かない。

 

 僕は何と答えるべきか少し迷った。

 

 大した間違いではない。発注前に見つかったのだから、修正すれば終わる。

 

 ただ、彼女にとってはそう簡単ではないのかもしれない。

 

「何も言わないの?」

 

「何を?」

 

 絢辻さんは表から目を離さない。

 

「絢辻さんも間違えるんだ、とか」

 

「言ってほしい?」

 

「別に」

 

「なら言わない」

 

 そこでようやく、彼女が僕を見る。

 

「どうして?」

 

「数が合ってよかったと思ってるから」

 

「それだけ?」

 

「うん」

 

 絢辻さんの口元が僅かに歪む。

 

「つまらない反応」

 

「何を期待してたんだよ」

 

「少しくらい得意そうな顔をするかと思った」

 

「計算しただけで?」

 

 絢辻さんは自嘲するように笑う。

 

「完璧な絢辻詞の間違いを見つけたんでしょう?」

 

 その言い方が少しだけ引っかかった。

 

「別に、絢辻さんが間違えない人だとは思ってないよ」

 

「前は思ってたでしょう?」

 

「前は、間違えたところを見たことがなかっただけ」

 

「同じじゃない?」

 

「違うと思う」

 

 僕がすぐに返すと、絢辻さんの笑みが少しだけ薄れる。

 

「どう違うの?」

 

「間違えないように見えてたのと、本当に一度も間違えないのは違うだろ」

 

 絢辻さんは何も答えなかった。

 

 僕の書いた数字をもう一度確認し、発注書を修正する。

 

「これで合った」

 

「よかった」

 

「……ありがとう」

 

「どういたしまして」

 

 それ以上、間違いについての話は続かなかった。

 

 僕は残っていた宿題へ戻る。絢辻さんも、今度こそ最後の資料へ手をつけた。

 

 先ほどよりペンの音が少しだけ速くなった気がする。

 

     ◇

 

「終わった」

 

 絢辻さんがペンを置いた時、時計の針は僕が教室へ来てから四十分ほど進んでいた。

 

 一時間はかからない。

 

 その言葉は、結果だけを見れば本当だった。

 

「僕も終わったよ」

 

「宿題?」

 

「うん」

 

「半分残ってたんじゃないの?」

 

「思ってたより進んだ」

 

 絢辻さんが、自分の資料と僕のノートを交互に見る。

 

「途中、手伝ってたのに?」

 

「集中できたから」

 

「変なの」

 

 机の上を片づける。

 

 絢辻さんも資料を種類ごとにまとめ、ファイルへ入れていった。開封されていなかった箱は、今日は使わないものだったらしい。

 

 教室後方の棚へ移動させる。

 

 今度は椅子へ乗らず、僕が上の段へ置いた。

 

「ここでいい?」

 

「もう少し左」

 

「このくらい?」

 

「うん」

 

 僕は箱から手を離し、位置を確認する。

 

「やっぱり細かいな」

 

「落ちたら危ないでしょう?」

 

「さっき落ちかけた人が言う?」

 

 絢辻さんの手が止まる。

 

「あれは忘れて」

 

「犬のことも忘れて、今日のことも忘れるの?」

 

「覚えておく必要がないでしょう?」

 

「そうかな」

 

 絢辻さんは、強引に話を終わらせるように最後の紙を机の上から取り上げた。

 

「そうなの」

 

 それから少し迷ったように僕を見る。

 

「さっきは、ごめん」

 

「さっき?」

 

「……急に大きな声を出したこと」

 

「ああ」

 

 あの時の「平気っ」という声を思い出す。

 

「本当に驚いただけだから」

 

「平気っ、って?」

 

「真似しないで」

 

「ごめん」

 

 絢辻さんの目が細くなる。

 

「望月君は謝るか、余計なことを言うかのどちらかなの?」

 

「今日は余計なことの方が多かったかも」

 

「自覚があるなら直しなさい」

 

「努力する」

 

 絢辻さんは呆れたように言った後、小さく笑った。

 

「だから、そればっかり」

 

 朝から何度も見ていた笑顔とは違う。

 

 綺麗に形を整えてから見せるものではなく、言葉の途中で勝手に漏れたような笑みだった。

 

「でも」

 

 笑みが消えないまま、彼女が続ける。

 

「今日は助かった」

 

「今日は?」

 

「今日も」

 

 言い直したことが少し嬉しくて、僕も笑う。

 

「ならよかった」

 

「頼んでないのに、勝手に残ったけど」

 

「宿題をしてただけだよ」

 

「途中から完全に手伝ってたでしょう?」

 

「頼まれたからね」

 

 絢辻さんは小さく息を吐く。

 

「屁理屈」

 

 鞄を持ち上げる。

 

 僕も教科書とノートをしまい、肩へ掛けた。

 

 二人で教室を出る。

 

 絢辻さんが鍵を閉める前に、一度振り返って中を確認した。

 

 窓。暖房。机の上。

 

 最後に照明のスイッチを押す。

 

 白く照らされていた教室が、一瞬で暗くなった。

 

「望月君」

 

「何?」

 

「今日のことも、誰かに言ったりしないよね?」

 

「絢辻さんが計算を間違えたこと?」

 

「それも」

 

 僕は少しだけ考えるふりをする。

 

「椅子から落ちかけたこと?」

 

「具体的に言わなくていいって、朝も言ったよね?」

 

「確認しただけ」

 

 絢辻さんが、少しだけ睨むようにこちらを見る。

 

「その言い方、気に入ったの?」

 

「便利だから」

 

 これ以上からかえば、本当に怒られそうだった。

 

「言わないよ」

 

 今度は先に答えた。

 

「誰にも」

 

「そう」

 

 鍵をかける音が、静かな廊下へ響く。

 

 絢辻さんは、扉がきちんと閉まっていることを一度確認した。

 

「ならいい」

 

 彼女が歩き始める。

 

 僕も隣へ並んだ。

 

 外は寒い。

 

 駅までの道も、既に暗くなっているだろう。

 

 それでも一人で帰ろうとしていた時より、急いで校舎を出たいとは思わなかった。

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総合評価:3260/評価:7.88/連載:58話/更新日時:2026年08月09日(日) 23:00 小説情報

【推しの子】もしも星野アイの隣人が天才外科医だったら〜命を救う、その先へ〜(作者:ペンギンって可愛いですよね)(原作:推しの子)

表紙イラスト↓▼【挿絵表示】▼世界的な名声を得た天才外科医は、数え切れない命を救った末、過労によりその生涯を終えた。▼――しかし、目を覚ますと彼は記憶を持ったまま、日本で赤ん坊として転生していた。▼二度目の人生でも迷うことなく外科医の道を選び、再び天才と呼ばれるまでに成長した彼は、都内の大学病院へ勤務することになる。▼病院の近くへ引っ越し、新たな生活を始めた…


総合評価:5607/評価:6.29/連載:23話/更新日時:2026年08月13日(木) 21:00 小説情報


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