絢辻さんを救いたい話 作:紳士
それから数日は、特に変わったこともなく過ぎていった。
もちろん、何もなかったわけではない。朝になれば絢辻さんと挨拶をするし、授業の合間には創設祭の書類について少し話す。廊下ですれ違えば、彼女は普段と同じように笑い、人がいなくなったところで僕のネクタイが曲がっているだの、シャツの裾が出ているだの、一言だけ余計な注意を残していった。
初めのうちは、本当に身だしなみを注意されているのだと思っていた。ただ、僕が直すところを見届けた後、どこか満足そうに立ち去る姿を二度ほど見てしまうと、半分くらいは反応を楽しんでいるのではないかという疑いも出てくる。
本人へ聞いたところで、素直に認めることはないだろう。何しろ、絢辻さんは僕が困った顔をすると、ほんの少しだけ機嫌がよくなる。
それが分かる程度には、彼女の笑い方を見分けられるようになっていた。
以前より近づいた。それは多分、間違いない。
けれど、近づいた先に何があるのかまでは分からない。教室では今まで通りのクラスメイトで、人がいなくなると少しだけ言葉の遠慮がなくなる。
今は、そのくらいだった。
◇
「橘君、ちょっといい?」
四時間目が終わった直後、教室の入口から聞こえた声に、純一が勢いよく顔を上げた。
森島はるか先輩が、廊下から教室の中を覗き込んでいる。今日も長い黒髪が目立っていた。人が大勢いる教室へ顔を出すことに恥ずかしさも迷いもないらしく、入口から純一の席へ届くまでの間に、何人もの視線が森島先輩へ集まっている。
「は、はい!」
「お昼、一緒に食べない?」
「行きます!」
返事が早い。森島先輩が何を誘っているのか、最後まで聞く必要すらなかったようだ。
「じゃあ、待ってるね」
笑顔で手を振り、森島先輩は廊下の向こうへ消えていった。
教室にいた何人かが純一を見る。以前なら、その視線を受けただけで顔を赤くし、何でもないと慌てて否定していたと思う。今も照れてはいるが、それ以上に嬉しそうだった。
「湊」
「何?」
「悪い。今日は先輩と食べてくる」
「見れば分かったよ」
純一は一瞬だけ間の抜けた顔をし、それから照れくさそうに笑った。
「それもそうか」
机の中から弁当を取り出す。その手つきは普段より少しだけ急いでいる。
「行ってらっしゃい」
「ああ。また後で」
純一が教室を出ていく。
その背中を見送りながら、少し前に彼が言っていたことを思い出した。クリスマスまでに、女の子と一緒に過ごせるようになりたい。冗談のようにも聞こえた言葉だったが、純一は本当に少しずつ進んでいる。
森島先輩へ自分から声をかけ、今では向こうから昼食へ誘いに来るようになった。結果だけを見れば簡単そうでも、その間には僕が知らないやり取りがいくつもあったのだろう。
少なくとも、純一は自分から動いた。
「大将も遠くへ行ってしまったな」
隣から、梅原の重々しい声が聞こえた。
「昼食へ行っただけだよ」
「いや。俺には分かる」
「何が?」
「男は恋をすると変わるのだ」
意味ありげに頷く梅原へ、僕は首を傾げる。
「経験があるみたいな言い方だね」
「知識として知っている」
「実感は?」
「今後得る予定だ」
そう言い切ると、梅原は財布を取り出した。
「俺は食堂へ行くが、望月はどうする?」
「今日は購買のパンがあるから」
「なら教室で食べるのか?」
教室内を見回す。
昼休みになったことで、生徒たちはそれぞれの机を寄せ始めていた。創設祭が近いからだろう。普段の雑談に混ざり、当日の催しやその後の予定について話す声があちこちから聞こえてくる。
「創設祭が終わった後、みんなでパーティーしない?」
「教室で?」
「飾り、片づける前なら使えるじゃん」
「先生、許可してくれるかな」
何人かが顔を見合わせた後、自然と同じ方向へ視線を向けた。
「絢辻さんに聞いてみようよ」
話題の中心が絢辻さんへ移る。彼女は何人かの女子生徒に囲まれ、次々と出される意見へ丁寧に答えていた。
「終わった後に教室を使うなら、先生へ確認が必要かな。片づけの時間もあるから、あまり長くはできないと思うけど」
「じゃあ、絢辻さんから先生に聞いてくれない?」
「分かった。聞いてみるね」
「やった!」
また一つ、仕事が増えた。
少なくとも、頼んだ側の女子生徒はそんなふうには考えていないようだった。絢辻さんなら何とかしてくれると思っているし、実際に彼女も嫌な顔一つせず引き受けている。
だから周囲も頼る。頼られれば、また彼女が動く。
数日前なら、その様子を見ただけで何か言いたくなっていたかもしれない。けれど、今は少し離れたところから眺めるだけにした。
「望月?」
「うん?」
「また考え事か?」
梅原がこちらを見ていた。
「少し外で食べてこようかな」
「この寒さの中で?」
「教室より静かそうだから」
梅原は呆れたように肩をすくめる。
「風邪を引くなよ」
「気をつける」
「それでは俺は、今日のスペシャル定食を確保してくる」
「まだ残ってるといいね」
「俺の日頃の行いなら問題ない」
自信に満ちた足取りで、梅原は教室を出ていった。
日頃の行いと定食の在庫に、どのような関係があるのかは分からない。
僕も購買の袋を持って席を立つ。教室を出る直前、もう一度だけ絢辻さんへ目を向けると、彼女は女子生徒から渡された紙に、パーティーに必要なものを書き込んでいた。
声をかける理由もないため、そのまま廊下へ出た。
◇
屋上へ続く扉を開けると、冷たい風が正面から吹き込んできた。
「寒っ……」
思わず声が漏れる。
教室が騒がしいというだけで冬の屋上を選んだことを少し後悔したが、今さら引き返すのも落ち着かない。扉を閉め、風の当たりにくい場所を探す。
屋上の中央には誰もいなかった。昼休みにわざわざここまで来る物好きは、僕くらいなのかもしれない。
そう思いながら給水塔の裏へ回り、人影を見つけた。
腰まで届く長い黒髪。見慣れた制服。
絢辻さんが、僕へ背中を向けて立っていた。
教室にいたはずなのに、いつの間に抜けてきたのだろう。手には弁当箱もパンの袋もなく、両腕を頭上へ伸ばし、ゆっくりと身体を反らしている。
普段の姿勢がいいからか、伸びをしているだけなのに妙に形が整って見えた。黒い髪が背中を滑り、風に押されて僅かに広がる。
教室で誰かに囲まれている時とは違う。誰もいないと思って、ほんの少しだけ力を抜いているように見えた。
声をかけずに戻るべきかとも思ったが、黙ったまま立っている方が、後から気づかれた時によほど怪しい。
「絢辻さん」
「きゃっ!」
思っていたより大きな声が返ってきた。
絢辻さんの肩が跳ねる。
同時に、ぷつっ、と何か小さなものが外れたような音がした。
「え?」
「……」
絢辻さんは両腕を上げたまま動かない。
「今、何か音が――」
「望月君」
低い声だった。
「はい」
「どうして後ろから声をかけたの?」
「普通に呼んだだけだけど」
「もっと離れた場所からでも呼べたでしょう?」
絢辻さんはゆっくりと両腕を下ろした。
「風が強いから、聞こえないと思って」
「驚いたんだけど」
「それはごめん」
ただ、こちらを振り向こうとはしない。背中へ手を回し、制服の上から何かを確認している。
「大丈夫?」
「……大丈夫じゃない」
「どこか痛めた?」
「そういうことじゃない」
さっきまでとは違う苛立ちが声に混じる。
「じゃあ、何が外れたの?」
「聞かなくていい」
「でも、僕が驚かせたせいなら――」
「ホック」
「ホック?」
スカート、鞄、制服のどこか。いくつか候補が浮かび、その中の一つへ行き着いた瞬間、思考が止まった。
「……ホック?」
「二回言わなくていい」
声がさらに低くなる。
「その、服の?」
「服といえば服ね」
「もっと内側の?」
「細かく確認しないでくれる?」
顔が熱くなる。
屋上は十分に寒いはずなのに、今だけは頬へ当たる風がありがたかった。
「ご、ごめん」
「望月君のせいで外れたんだからね」
「声をかけただけだろ」
「驚いた拍子に力が入ったの」
「僕が悪いの?」
思わず周囲を見る。当然ながら、僕たち以外に誰もいない。
「他に誰がいるの?」
そういう意味では、確かに他にはいなかった。
「どうすればいい?」
「どうもしなくていい」
「直せるの?」
「直せるから」
それなら、と扉の方へ身体を向ける。
「じゃあ僕は向こうにいるよ」
「待って」
足が止まった。
「何?」
「誰か来ないか見てて」
「僕が?」
絢辻さんは背中を向けたまま、少しだけ肩越しにこちらを見る。
「この状態で人が来たら困るでしょう?」
どのような状態なのかは、後ろ姿だけでは分からない。分からない方がいい。
「扉の方を向いてればいい?」
「それと、絶対に振り返らないで」
「振り返らないよ」
「本当に?」
「信用がないなぁ」
ほんの少しだけ、絢辻さんの声が和らぐ。
「今の望月君は、妙に正直だから信用できないの」
「振り返りたいなんて言ってないだろ」
「考えてないとも言ってないよね」
何を答えても不利になる気がした。
「……何も考えないようにする」
「もう遅い」
声に僅かな笑いが混じる。
困っているはずなのに、この状況ですら僕の反応をからかう余裕はあるらしい。
僕は扉の前へ移動し、屋上へ続く階段を見張るように立った。背後から衣擦れの音が聞こえるが、耳を塞ぐ方がよほど意識しているようで恥ずかしい。
仕方なく、扉の表面にある細かな傷を数えることにした。
一つ。二つ。三つ。
傷と呼ぶほどでもない小さな凹みまで含めれば、かなりの数になる。この扉が設置されてから何年経っているのだろう。錆びてはいないから、学校の設備としては比較的新しいのかもしれない。
そんなことを真剣に考えようとするほど、背後の音ばかりが気になった。
「望月君」
「何?」
「何でそんなに扉を見つめてるの?」
「振り返るなって言われたから」
「普通にしてればいいでしょう?」
僕は扉を見つめたまま、小さく息を吐く。
「普通が分からないんだよ」
「本当に変な人」
「この状況を作ったのは絢辻さんだろ」
「驚かせたのは望月君」
そこで少し間が空く。
「それに、最近少しきつかったのよね」
嫌な予感がした。
「何が?」
「……ホックが」
「詳しく言わなくていい!」
後ろから小さな笑い声が聞こえた。
「聞いたのは望月君でしょう?」
「そうだけど」
「成長してるのかも」
僕は扉を睨むように見つめる。
「何が、とは聞かないからね」
「別に聞いてもいいよ?」
「聞かないよ!」
「顔、赤いでしょう?」
「見えてないだろ」
笑い声が少し大きくなった。
「声で分かる」
完全に遊ばれている。
どうして僕は扉へ向かって、女子生徒の下着の話を聞いているのだろう。昼休みになる少し前まで、今日は静かにパンを食べようと考えていただけだったはずなのに。
「もういいよ」
ようやく絢辻さんの声がした。
「本当に?」
「疑うなら、そのまま後ろを向いてれば?」
「振り返るよ」
「どうぞ」
念のため一呼吸置いてから身体を反転させる。
絢辻さんは制服をきちんと整え、先ほどと変わらない姿で立っていた。長い髪だけが風に乱れ、頬へかかっている。
表情には、少し意地の悪い笑み。
「残念でした」
「何が?」
「何も見えなくて」
「見ようとしてないよ」
疑うように目を細められる。
「本当に?」
「本当」
「ふうん」
信じていない顔だった。
「それより、直ったの?」
「一応ね。壊れたわけじゃなかったみたい」
「よかった」
僕が安心すると、絢辻さんは少しだけ呆れたようにこちらを見る。
「望月君は、もう少し女の子の扱いを勉強した方がいいわね」
「後ろから声をかけないとか?」
「そういう基本的なところから」
「次からは前へ回るよ」
「それはそれで怖いんだけど」
「どうすればいいんだよ」
「望月君が自分で考えて」
絢辻さんは給水塔の陰へ移動し、壁際に置いていた小さな包みを手に取った。
「やっぱり昼を食べに来てたんだ」
「少し休みたかったから」
「教室の話は?」
「パーティーのこと?」
「うん」
絢辻さんは弁当の包みを持ち直す。
「大体の意見は聞いたから、後は先生へ確認するだけ」
「また仕事が増えたね」
「大したことじゃないよ」
いつもの答えだった。
反射的に何か言いかけるが、やめた。数日前にも似たようなやり取りをしている。
「何?」
「いや」
「言いたいことがあるなら言えば?」
「また平気って言われそうだから」
「実際、平気だもの」
「ほら」
絢辻さんは弁当の包みを開きながら、僅かに眉を寄せた。
「望月君は、何をしに来たの?」
「昼ご飯」
購買の袋を持ち上げて見せる。
「一人で?」
「純一は森島先輩に誘われたから」
「そうなんだ」
絢辻さんは少しだけ目を細めた。
「随分仲よくなったみたいだね」
「気になる?」
「何が?」
「橘君だけ先に進んでること」
思っていなかった方向の質問だった。
「先へ?」
「森島先輩と仲よくなってるでしょう?」
「うん」
「望月君たち、クリスマスまでに彼女を作るって話をしてたんじゃないの?」
「そこまで聞こえてたの?」
「同じ教室だもの」
僕たちが周囲を気にせず話しすぎているのか。それとも絢辻さんが人の話をよく聞いているのか。多分、その両方なのだろう。
「彼女を作るっていうより、純一が森島先輩と一緒に過ごしたいって話だよ」
絢辻さんは壁際へ座りながら、こちらを見る。
「望月君は?」
「僕?」
「誰かと一緒に過ごすの?」
僕も少し離れた場所へ腰を下ろす。コンクリートの床は冷たいため、部活用の鞄を下へ敷いた。
「考えてなかったな」
「本当に?」
「純一の話を聞いて、少しは自分から動いた方がいいとは思ったけど」
実際、それから絢辻さんと話す機会は増えた。
だからといって、それがどこへ向かっているのかは自分でもよく分からない。
「でも、誰でもいいから付き合いたいとは思わないよ」
「選べる立場なの?」
「そこまで言わなくてもいいだろ」
絢辻さんの口元が緩む。
「冗談」
「最近、その一言で何でも許されると思ってない?」
「許してくれるでしょう?」
「僕が?」
「うん」
迷いのない返事だった。
「どうして?」
「望月君は、少しくらい嫌なことを言われても怒らないから」
「それ、褒めてる?」
「使いやすいってこと」
「やっぱりそっちか」
思わずため息が出た。
絢辻さんは弁当箱の蓋を開ける。中には小さめのおにぎりと、いくつかのおかずが並んでいた。
以前も思ったが、自分で食べる分まで綺麗に詰めている。誰かに見せる予定がなくても、こういうところは変わらないらしい。
「望月君」
「何?」
「見すぎ」
「弁当を見てただけだよ」
「食べたいの?」
「朝ご飯を食べたから、そこまで飢えてないよ」
僕が視線を購買の袋へ戻すと、絢辻さんは少し考えるように弁当箱を見た。
「一つくらいなら、あげてもいいけど」
「いいの?」
「その代わり、パンを少しちょうだい」
僕が買ってきたのは、焼きそばパンとクリームパンだった。
「どっち?」
「クリームパン」
「甘いものが好きなんだ」
「嫌いじゃないよ」
「何となく意外だな」
絢辻さんが首を傾げる。
「どうして?」
「健康に悪いって言いそうだから」
「毎日食べるわけじゃないもの」
クリームパンを袋から出し、半分に分ける。綺麗には切れず、片方だけ少し大きくなった。
「どっちがいい?」
「大きい方」
即答だった。
「遠慮しないね」
「望月君が聞いたんでしょう?」
「普通、小さい方を選ばない?」
「欲しくない方を選ぶのは、ただの見栄じゃない」
少しも悪びれず、大きい方を受け取る。代わりに弁当箱からおにぎりを一つ差し出された。
「はい」
「ありがとう」
白い米に薄く海苔が巻かれている。一口食べると、中には鮭が入っていた。
「美味しい」
「そう」
「絢辻さんが作ったの?」
「さあ? どうでしょうね」
先ほどまでより、声が僅かに柔らかい。
わざわざ理由を探すことでもない気がして、僕もそのまま焼きそばパンへ手を伸ばした。
「望月君は」
「うん?」
「本当に誰も気になってないの?」
口に入れかけたパンが止まった。
「どうして、そんなに聞くの?」
「橘君だけが上手くいってるから、少しくらい焦ってるのかと思って」
「焦ってはいないよ」
「じゃあ、寂しい?」
僕は焼きそばパンを袋へ戻し、少し考える。
「それも、よく分からない。純一が楽しそうなのは嬉しいよ」
「それだけ?」
「少し羨ましいとは思う」
正直に答える。
森島先輩に誘われ、嬉しそうに教室を出ていく純一。自分を選んで会いに来てくれる人がいる。そのことを羨ましくないと言えば、嘘になる。
「でも、今まで何もしなかったのは僕だから」
「これからは?」
「どうしようかな」
「遅いんじゃない?」
「まだ創設祭まで時間はあるよ」
絢辻さんは半分になったクリームパンを口元へ運びながら、僕を見る。
「そういう問題?」
「違うの?」
黒い瞳が、僕の反応を確かめるように向けられている。
「誰かに選んでもらいたいなら、自分から選ばないと駄目でしょう?」
「絢辻さんは、誰かを選んでるの?」
今度は、絢辻さんの手が止まった。
質問を返すつもりはなかった。ただ、言われたことをそのまま尋ねただけだった。
「あたし?」
「うん」
僅かな間が空く。
「どうして、そうなるの?」
「人に言うなら、自分はどうなのかなと思って」
「誰も選んでないわよ」
答えは早かった。
「創設祭の準備で忙しいし、そういうことへ時間を使うつもりもないから」
「そっか」
予想できた答えだった。
それなのに、胸の内側へ小さなものが引っかかる。
「何?」
「いや。何でもない」
自分でも何を期待していたのか分からない。だから、その違和感をわざわざ言葉にする必要もないと思った。
「本当に何でもない?」
「うん」
「今、一瞬だけ残念そうな顔をしたよね」
「してないよ」
「した」
絢辻さんがじっと僕を見る。
「風が冷たかったからじゃない?」
「下手な誤魔化し方」
「絢辻さんこそ、僕の顔を見すぎじゃない?」
言い返すと、絢辻さんは一度だけ目を瞬かせた。その後、何でもないように視線を弁当へ戻す。
「望月君が分かりやすいだけ」
「そういうことにしておくよ」
「何、その言い方」
「絢辻さんの真似」
「似てない」
風が吹き、絢辻さんの髪が肩から流れて口元へかかる。彼女は片手でそれを押さえながら、残っていたパンを食べた。
「甘い」
「クリームパンだからね」
「思ってたより甘かった」
「嫌だった?」
絢辻さんは小さく首を振る。
「ううん」
それから、もう一度パンを見た。
「たまには、悪くないかも」
誰に見せるでもなく、僅かに笑う。
その表情を見ていると、先ほどの「誰も選んでいない」という答えが、また頭の片隅へ浮かんできた。
考えたところで、今は何も変わらない。
僕は残っていたパンを口へ運んだ。
◇
「そろそろ戻らないと」
絢辻さんが弁当箱を包み直す。僕もパンの袋を畳んで購買の袋へ入れ、鞄を軽く払って肩へ掛けた。
「少しは休めた?」
「何のこと?」
「休みたくて、ここに来たんだろ」
「まあね」
絢辻さんも弁当の包みを持って立ち上がる。
「ならよかった」
「望月君が来なければ、もっと静かだったけど」
「それは悪かったね」
「おまけに驚かされて、ホックまで――」
「もう言わなくていいから!」
絢辻さんが楽しそうに笑う。他に誰もいない屋上へ、その声が小さく響いた。
「望月君」
「何?」
「今度から、あたしが伸びをしてる時は声をかけないで」
「今度も見る前提なの?」
呆れたような視線が返ってくる。
「言葉の綾でしょう?」
「それならいいけど」
「何。期待した?」
「してないよ」
返事が早すぎたのか、絢辻さんの口元が上がった。
「返事が早すぎると、逆に怪しいね」
「どう答えてもからかうだろ」
「そうかも」
悪びれることなく答え、扉へ向かう。途中で絢辻さんが急に足を止めた。
「どうしたの?」
「肩が凝った」
両手を組み、ゆっくりと頭上へ伸ばし始める。
「待って!」
「何?」
「また外れるかもしれないだろ!」
動きが止まった。
数秒後、ひどく冷静な声が返ってくる。
「望月君」
「はい」
「今、どこを見て言ったの?」
「見てないよ!」
反射的に両手まで上げてしまう。
「本当に?」
「心配しただけだよ!」
「へえ」
疑うような目を向けられ、僕は先に扉を開けて階段へ逃げるように足を踏み出した。
「ちょっと待って」
後ろから絢辻さんが追いついてくる。
屋上の扉を閉めると、薄暗い階段へ二人分の足音が重なった。
「さっきの、まだ気にしてる?」
「何を?」
「ホック」
「絢辻さんが何度も言うからだろ」
「望月君の反応が面白いから」
「やっぱり楽しんでるじゃないか」
「さあ?」
小さく笑いながら階段を下りていく。
二階へ近づくにつれ、生徒たちの声が大きくなってきた。
踊り場を曲がったところで、同じクラスの女子生徒二人とすれ違う。
「あ、絢辻さん。先生にパーティーのこと、聞いてくれる?」
「うん。今日の放課後に確認しておくね」
「ありがとう!」
絢辻さんは、いつもの笑顔で答えた。
女子生徒たちが階段を上がっていく。その姿が見えなくなると、彼女は小さく息を吐いてから僕を見る。
「望月君」
「うん?」
「明日の昼休み、空けておいて」
「どうして?」
「パーティーの準備について、少し手伝ってほしいことがあるから」
「僕に?」
「嫌なら断ってもいいわよ」
言葉だけを聞けば選択肢は与えられている。それでも、僕が断らないと思っているような顔に見えた。
「分かった」
「やっぱり断らないんだ」
「断ってほしかった?」
「あたしからは、どちらでも」
「嘘っぽいなぁ」
絢辻さんの眉が僅かに寄る。
「失礼ね」
先に教室へ向かって歩き始める。
数歩先で、一度だけ振り返った。
「でも、望月君に頼んだ方が早く終わりそうだから」
それだけ告げ、今度こそ前を向く。
僕も少し遅れて後を追った。
理由は、単に仕事が早く終わるから。
それだけかもしれない。
けれど、頼める相手が他にもいる中で、僕に声をかけた。
今は、そのことを少しくらい嬉しいと思ってもいい気がした。