絢辻さんを救いたい話 作:紳士
それから数日は、特に変わったこともなく過ぎていった。
もちろん、何もなかったわけではない。朝になれば絢辻さんと挨拶をする。授業の合間に、創設祭の書類について少し話す。
廊下ですれ違えば、彼女は普段と同じように笑い、人がいなくなった後で僕の制服の着方について一言だけ余計な注意を残していく。
ネクタイが曲がっているとか。シャツの裾が少し出ているとか。
初めのうちは、本当に身だしなみを注意されているのだと思っていた。ただ、僕が直すのを見届けた後、どこか満足そうに立ち去る姿を二度ほど見てしまうと、半分くらいは反応を楽しんでいるのではないかという疑いも出てくる。
本人へ聞いたところで、素直に認めることはないだろう。何しろ、絢辻さんは僕が困った顔をすると、ほんの少しだけ機嫌がよくなる。
それが分かる程度には、彼女の笑い方を見分けられるようになっていた。
以前より近づいた。
多分、それは間違いない。
けれど、近づいた先に何があるのかまでは分からない。
教室では、僕たちは今まで通りのクラスメイトだった。誰かが見ている場所で、特別親しそうに話すことはない。
僕も約束を守っている。
ただ、人のいない廊下や放課後の教室で話す時だけ、絢辻さんの言葉から少しずつ遠慮がなくなる。
その違いを知っていることが、嬉しいのか。それとも、秘密を持っているようで落ち着かないのか。
自分でも、まだよく分かっていなかった。
◇
「橘君、ちょっといい?」
四時間目が終わった直後。
教室の入口から聞こえた声に、純一が勢いよく顔を上げた。
森島はるか先輩が、廊下から教室の中を覗き込んでいた。今日も長い黒髪が目立っている。
人が大勢いる教室へ顔を出すことに、恥ずかしさも迷いもないらしい。少なくとも、入口から純一の席へ届くまでの間に、何人もの視線が森島先輩へ集まっていた。
「は、はい!」
「お昼、一緒に食べない?」
「行きます!」
返事が早い。
森島先輩が何を誘っているのか、最後まで聞く必要すらなかったようだ。
「じゃあ、待ってるね」
笑顔で手を振り、森島先輩は廊下の向こうへ消えていく。
教室にいた何人かが、純一の方を見た。
以前なら、その視線を受けただけで顔を赤くし、何でもないと慌てて否定していたと思う。今も照れてはいる。ただ、それ以上に嬉しそうだった。
「湊」
「何?」
「悪い。今日は先輩と食べてくる」
「見れば分かったよ」
純一は一瞬だけ間の抜けた顔をして、それから照れくさそうに笑った。
「それもそうか」
机の中から弁当を取り出す。その手つきが、普段より少しだけ急いでいる。
「行ってらっしゃい」
「ああ。また後で」
純一が教室を出ていく。
その背中を見送りながら、少し前に彼が言っていたことを思い出す。
クリスマスまでに、女の子と一緒に過ごせるようになりたい。
冗談のようにも聞こえた言葉だった。
けれど、純一は本当に少しずつ進んでいる。森島先輩に声をかけ、断られてもまた話しかけ、今では向こうから昼食へ誘いに来るようになった。
結果だけを見れば、随分簡単に見える。もちろん、実際には簡単ではなかったのだろう。僕が見ていなかったところで、純一なりに悩み、恥ずかしい思いもしてきたはずだ。
それでも、自分から動いた。
その違いは大きい。
「大将も遠くへ行ってしまったな」
隣から、梅原の重々しい声が聞こえた。
「昼食へ行っただけだよ」
「いや。俺には分かる」
「何が?」
梅原は意味ありげに頷く。
「男は恋をすると変わるのだ」
「梅原に経験があるみたいな言い方だね」
「知識として知っている」
「実感は?」
「今後得る予定だ」
そう言い切ると、梅原は財布を取り出した。
「俺は食堂へ行くが、望月はどうする?」
「今日は購買のパンがあるから」
「なら教室で食べるのか?」
教室内を見回す。
昼休みになったことで、生徒たちはそれぞれの机を寄せ始めていた。創設祭が近いからだろう。普段の雑談に混ざり、当日の催しやその後の予定について話す声があちこちから聞こえてくる。
「創設祭が終わった後、みんなでパーティーしない?」
「教室で?」
「飾り、片づける前なら使えるじゃん」
「先生、許可してくれるかな」
何人かが顔を見合わせた後、自然と同じ方向へ視線を向ける。
「絢辻さんに聞いてみようよ」
話題の中心が、絢辻さんへ移っていく。
彼女は何人かの女子生徒に囲まれ、次々と出される意見へ丁寧に答えていた。
「終わった後に教室を使うなら、先生へ確認が必要かな。片づけの時間もあるから、あまり長くはできないと思うけど」
「じゃあ、絢辻さんから先生に聞いてくれない?」
「分かった。聞いてみるね」
「やった!」
また一つ、仕事が増えた。
そう思ったのは、おそらく僕だけだ。
少なくとも、頼んだ側の女子生徒は、絢辻さんなら何とかしてくれると疑っていない。実際、彼女は何とかするのだろう。
だから周囲も頼る。頼られるから、さらに仕事が増える。
外から見ていると簡単な構図なのに、真ん中にいる本人は特に困った様子もなく笑っていた。
「望月?」
「うん?」
「また考え事か?」
梅原がこちらを見ている。
「少し外で食べてこようかな」
「この寒さの中で?」
「教室より静かそうだから」
梅原は呆れたように肩をすくめた。
「風邪を引くなよ」
「気をつける」
「それでは俺は、今日のスペシャル定食を確保してくる」
「まだ残ってるといいね」
「俺の日頃の行いなら問題ない」
梅原は自信に満ちた足取りで教室を出ていった。
日頃の行いと定食の在庫に、どのような関係があるのかは分からない。
僕も購買の袋を持ち、席を立つ。
教室を出る直前、もう一度だけ絢辻さんを見る。
彼女は女子生徒から渡された紙へ、パーティーに必要なものを書き込んでいた。視線には気づかなかった。
声をかける理由もないため、そのまま廊下へ出た。
◇
屋上へ続く扉を開けると、冷たい風が正面から吹き込んできた。
「寒っ……」
思わず声が漏れる。
教室が騒がしいからというだけで、冬の屋上を選んだことを少し後悔した。それでも、今さら引き返すのも落ち着かない。
扉を閉め、風の当たりにくい場所を探す。
屋上の中央には誰もいなかった。昼休みにわざわざここまで来る物好きは、僕くらいなのかもしれない。
そう思いながら給水塔の裏へ回る。
そこで、人影が見えた。
腰まで届く長い黒髪。見慣れた制服。
絢辻さんが、僕へ背中を向けて立っていた。
教室にいたはずなのに、いつの間に抜けてきたのだろう。手には弁当箱も、パンの袋も持っていない。
ただ、両腕を頭上へ伸ばし、ゆっくりと身体を反らしていた。
普段の姿勢がいいからか、伸びをしているだけなのに妙に形が整って見える。黒い髪が背中を滑り、風に押されて僅かに広がる。
教室で誰かに囲まれている時とは違う。
人へ見せるために立っているのではなく、誰もいないと思って、ほんの少しだけ力を抜いている。
声をかけずに戻るべきかもしれない。せっかく一人になっているのなら、邪魔をしない方がいい。
けれど、ここで黙ったまま立っている方が、後から気づかれた時に不審だろう。
「絢辻さん」
「きゃっ!」
思っていたより大きな声が返ってきた。
絢辻さんの肩が跳ねる。
同時に。
ぷつっ。
何か小さなものが外れたような音が聞こえた。
「え?」
「……」
絢辻さんは、両腕を上げたまま動かない。
「今、何か音が――」
「望月君」
低い声だった。
「はい」
「どうして後ろから声をかけたの?」
「普通に呼んだだけだけど」
「もっと離れた場所からでも呼べたでしょう?」
絢辻さんは、ゆっくりと両腕を下ろした。
「風が強いから、聞こえないと思って」
「驚いたんだけど」
「それはごめん」
ただし、こちらを振り向こうとはしない。
背中へ手を回し、制服の上から何かを確認している。
「大丈夫?」
「……大丈夫じゃない」
「どこか痛めた?」
「そういうことじゃない」
声に、さっきまでとは違う苛立ちが混じる。
「じゃあ、何が外れたの?」
「聞かなくていい」
「でも、僕が驚かせたせいなら――」
「ホック」
「ホック?」
言葉の意味を考える。
スカート。鞄。制服のどこか。
いくつか候補が浮かび、その中の一つへ行き着いた瞬間、思考が止まった。
「……ホック?」
「二回言わなくていい」
絢辻さんの声がさらに低くなる。
「その、服の?」
「服といえば服ね」
「もっと内側の?」
「細かく確認しないでくれる?」
顔が熱くなる。
屋上は十分に寒いはずなのに、今だけは頬へ当たる風がありがたかった。
「ご、ごめん」
「望月君のせいで外れたんだからね」
「声をかけただけだろ」
「驚いた拍子に力が入ったの」
「僕が悪いの?」
思わず周囲を見る。
僕たち以外、屋上には誰もいない。
「他に誰がいるの?」
そういう意味では、確かに他にはいなかった。
「どうすればいい?」
「どうもしなくていい」
「直せるの?」
「直せるから」
それなら、と僕は扉の方へ身体を向ける。
「じゃあ僕は帰るよ」
「待って」
足が止まる。
「何?」
「誰か来ないか見てて」
「僕が?」
絢辻さんは背中を向けたまま、少しだけ肩越しにこちらを見る。
「この状態で人が来たら困るでしょう?」
どのような状態なのかは、後ろ姿だけでは分からない。
分からない方がいい。
「扉の方を向いてればいい?」
「それと、絶対に振り返らないで」
「振り返らないよ」
「本当に?」
「信用がないなぁ」
絢辻さんが、ほんの少しだけ声を和らげる。
「今の望月君は、妙に正直だから信用できないの」
「振り返りたいなんて言ってないだろ」
「考えてないとも言ってないよね」
何を答えても不利になる気がする。
「……何も考えないようにする」
「もう遅い」
絢辻さんの声に、僅かに笑いが混じった。
からかわれている。
困っているはずなのに、この状況ですら、僕の反応を見て楽しむ余裕はあるらしい。
僕は扉の前へ移動し、屋上へ続く階段を見張るように立った。
背後から、衣擦れの音が聞こえる。
聞かないようにする、ということはできない。耳を塞ぐ方が、意識していることが伝わって余計に恥ずかしい。
仕方なく、扉の表面にある細かな傷を数えることにした。
一つ。二つ。三つ。
傷と呼ぶほどでもない小さな凹みまで含めれば、かなりの数になる。この扉が設置されてから、どれくらい経っているのだろう。錆びてはいない。学校の設備としては、比較的新しいのかもしれない。
そんなことを真剣に考えようとするほど、背後の音ばかりが気になった。
「望月君」
「何?」
「何でそんなに扉を見つめてるの?」
「振り返るなって言われたから」
「普通にしてればいいでしょう?」
僕は扉を見つめたまま、小さく息を吐く。
「普通が分からないんだよ」
「本当に変な人」
「この状況を作ったのは絢辻さんだろ」
「驚かせたのは望月君」
そこで少し間が空く。
「それに」
「何?」
「最近、少しきつかったのよね」
嫌な予感がして、聞き返す。
「何が?」
「……ホックが」
「詳しく言わなくていい!」
後ろから小さな笑い声が聞こえた。
「聞いたのは望月君でしょう?」
「そうだけど」
「成長してるのかも」
僕は扉を睨むように見つめる。
「何が、とは聞かないからね」
「別に聞いてもいいよ?」
「聞かないよ!」
「顔、赤いでしょう?」
「見えてないだろ」
絢辻さんの笑い声が少し大きくなる。
「声で分かる」
完全に遊ばれている。
どうして僕は扉へ向かい、女子生徒の下着の話を聞いているのだろう。
昼休みになる少し前まで、今日は静かにパンを食べようと考えていただけだった。数分後にこのような状況になると予想できる人間がいるなら、その人は将来について心配する必要などないと思う。
どのような仕事でも、先を読む能力だけで生きていけるだろう。
「もういいよ」
絢辻さんの声がする。
「本当に?」
「疑うなら、そのまま後ろを向いてれば?」
「振り返るよ」
「どうぞ」
念のため一呼吸置いてから、身体を反転させる。
絢辻さんは制服をきちんと整え、先ほどと変わらない姿で立っていた。長い髪だけが風に乱れ、頬へかかっている。
表情には、少し意地の悪い笑み。
「残念でした」
「何が?」
「何も見えなくて」
「見ようとしてないよ」
絢辻さんは疑うように目を細める。
「本当に?」
「本当」
「ふうん」
信じていない顔だった。
「それより、直ったの?」
「一応ね。壊れたわけじゃなかったみたい」
「よかった」
僕が安心すると、絢辻さんは少しだけ呆れたようにこちらを見る。
「望月君は、もう少し女の子の扱いを勉強した方がいいわね」
「後ろから声をかけないとか?」
「そういう基本的なところから」
「次からは前へ回るよ」
「それはそれで怖いんだけど」
どうしろというのだろう。
「どうすればいいんだよ」
「望月君が自分で考えて」
絢辻さんは給水塔の陰へ移動し、壁際に置いていた小さな包みを手に取った。
弁当らしい。
「やっぱり昼を食べに来てたんだ」
「少し休みたかったから」
「教室の話は?」
「パーティーのこと?」
「うん」
絢辻さんは弁当の包みを持ち直す。
「大体の意見は聞いたから、後は先生へ確認するだけ」
「また仕事が増えたね」
「大したことじゃないよ」
いつもの答え。
反射的に何か言いかける。
けれど、数日前に平気だと言い張る彼女へ何度も問いかけたことを思い出し、口を閉じた。
「何?」
「いや」
「言いたいことがあるなら言えば?」
絢辻さんが探るように僕を見る。
「平気って言われると思ったから」
「実際、平気だもの」
「ほら」
絢辻さんは弁当の包みを開きながら、僅かに眉を寄せた。
「望月君は、何をしに来たの?」
「昼ご飯」
購買の袋を持ち上げて見せる。
「一人で?」
「純一は森島先輩に誘われたから」
「そうなんだ」
絢辻さんは少しだけ目を細めた。
「随分仲よくなったみたいだね」
「気になる?」
「何が?」
「橘君だけが先へ進んでること」
思っていなかった方向の質問だった。
「先へ?」
「森島先輩と仲よくなってるでしょう?」
「うん」
「望月君たち、クリスマスまでに彼女を作るって話をしてたんじゃないの?」
「そこまで聞こえてたの?」
以前も似たことを言われた。
僕たちが周囲を気にせず話しすぎているのか。それとも、絢辻さんが人の話をよく聞いているのか。
多分、その両方なのだろう。
「同じ教室だもの」
「彼女を作るっていうより、純一が森島先輩と一緒に過ごしたいって話だよ」
絢辻さんは壁際へ座りながら、こちらを見る。
「望月君は?」
「僕?」
「誰かと一緒に過ごすの?」
僕も少し離れた場所へ腰を下ろした。
コンクリートの床は冷たい。直接座らず、部活用の鞄を下へ敷く。
「考えてなかったな」
「本当に?」
「純一の話を聞いて、少しは動いた方がいいと思ったけど」
その結果。
放課後の教室で、絢辻さんへ声をかけた。手帳を拾い、秘密を知った。
公園では彼女を背負い、今は屋上で、外れた下着の留め具について話している。
動いた結果として正しい方向へ進んでいるのかは、かなり疑わしい。
「でも、誰でもいいから付き合いたいとは思わないよ」
「選べる立場なの?」
「そこまで言わなくてもいいだろ」
絢辻さんの口元が緩む。
「冗談」
「最近、その一言で何でも許されると思ってない?」
「許してくれるでしょう?」
「僕が?」
「うん」
迷いのない返事だった。
「どうして?」
「望月君は、少しくらい嫌なことを言われても怒らないから」
「それ、褒めてる?」
「使いやすいってこと」
やっぱりそっちだった。
「やっぱり手帳の評価と変わってないなぁ」
絢辻さんは弁当箱の蓋を開ける。
中には小さめのおにぎりと、いくつかのおかずが並んでいた。
以前も思ったが、自分で食べる分まで綺麗に詰めている。誰かに見せる予定がないのなら、多少崩れていても困らないはずだ。
それでも整えずにはいられないのかもしれない。
「望月君」
「何?」
「見すぎ」
「弁当を見てただけだよ」
「食べたいの?」
「朝ご飯を食べたから、そこまで飢えてないよ」
僕が視線を購買の袋へ戻すと、絢辻さんは少し考えるように弁当箱を見た。
「一つくらいなら、あげてもいいけど」
「いいの?」
「その代わり、パンを少しちょうだい」
僕が買ってきたのは、焼きそばパンとクリームパンだった。
「どっち?」
「クリームパン」
「甘いものが好きなんだ」
「嫌いじゃないよ」
「何となく意外だな」
絢辻さんが首を傾げる。
「どうして?」
「健康に悪いって言いそうだから」
「毎日食べるわけじゃないもの」
クリームパンを袋から出し、半分に分ける。
綺麗には切れず、片方だけ少し大きくなった。
「どっちがいい?」
「大きい方」
即答だった。
「遠慮しないね」
「望月君が聞いたんでしょう?」
「普通、小さい方を選ばない?」
絢辻さんは少しも悪びれない。
「欲しくない方を選ぶのは、ただの見栄じゃない」
大きい方を受け取り、代わりに弁当箱からおにぎりを一つ差し出した。
「はい」
「ありがとう」
白い米に、薄く海苔が巻かれている。
一口食べると、中には鮭が入っていた。
「美味しい」
「そう」
「絢辻さんが作ったの?」
「さあ?どうでしょうね」
今の声は、先ほどまでより僅かに柔らかかった。
誰かが屋上へ近づいているわけではない。どうして変わったのかは分からなかった。
ただ、わざわざ理由を探すのも違う気がして、そのままパンへ手を伸ばす。
「望月君は」
「うん?」
「本当に誰も気になってないの?」
口に入れかけた焼きそばパンが止まった。
「どうして、そんなに聞くの?」
「橘君だけが上手くいってるから、少しくらい焦ってるのかと思って」
「焦ってはいないよ」
「じゃあ、寂しい?」
僕は焼きそばパンを袋へ戻し、少し考える。
「それも、よく分からない」
「曖昧ね」
「純一が楽しそうなのは嬉しいよ」
「それだけ?」
「少し羨ましいとは思う」
正直に答える。
森島先輩に誘われ、嬉しそうに教室を出ていく純一。自分を選んで会いに来てくれる人がいる。
そのことを羨ましくないと言えば、嘘になる。
「でも、今まで何もしなかったのは僕だから」
「これからは?」
「どうしようかな」
「遅いんじゃない?」
「まだ創設祭まで時間はあるよ」
絢辻さんは半分になったクリームパンを口元へ運びながら、僕を見る。
「そういう問題?」
「違うの?」
黒い瞳。
こちらの反応を確かめる時の目だった。
「誰かに選んでもらいたいなら、自分から選ばないと駄目でしょう?」
「絢辻さんは、誰かを選んでるの?」
今度は、絢辻さんの手が止まった。
質問を返すつもりはなかった。ただ、言われたことをそのまま尋ねただけだった。
「あたし?」
「うん」
僅かな間。
「どうして、そうなるの?」
「人に言うなら、自分はどうなのかなと思って」
「誰も選んでないわよ」
答えは早かった。
「創設祭の準備で忙しいし、そういうことへ時間を使うつもりもないから」
「そっか」
分かっていたような答えだった。
それなのに、胸の内側へ小さなものが引っかかった。
「何?」
「いや。何でもない」
僕が選ばれていないことを残念に思った。
そこまで考えるのは、自意識が過ぎる。
絢辻さんが僕を選ぶ理由など、今のところ一つもない。
手帳を見てしまった。頼み事を断りにくい。仕事を手伝う。からかうと面白い。
並べてみれば、恋愛とは随分遠い。
「本当に何でもない?」
「うん」
「今、一瞬だけ残念そうな顔をしたよね」
「してないよ」
「した」
絢辻さんがじっと僕を見る。
「風が冷たかったからじゃない?」
「下手な誤魔化し方」
「絢辻さんこそ、僕の顔を見すぎじゃない?」
言い返す。
絢辻さんは一度だけ目を瞬かせた。その後、何でもないように視線を弁当へ戻す。
「望月君が分かりやすいだけ」
「そういうことにしておくよ」
「何、その言い方」
「絢辻さんの真似」
「似てない」
風が吹く。
絢辻さんの髪が肩から流れ、口元へかかる。彼女は片手でそれを押さえながら、残っていたパンを食べた。
「甘い」
「クリームパンだからね」
「思ってたより甘かった」
「嫌だった?」
絢辻さんは小さく首を振る。
「ううん」
それから、もう一度パンを見た。
「たまには、悪くないかも」
誰に見せるでもなく、絢辻さんが僅かに笑う。
その表情を見ていると、先ほど彼女が「誰も選んでいない」と答えたことを、もう一度考えてしまいそうになった。
考えたところで、答えは変わらない。
それでも、考えないようにするほど、意識の端へ残る。
人の言葉を必要以上に気にする。
やはり、手帳の評価は正しかった。
◇
「そろそろ戻らないと」
絢辻さんが弁当箱を包み直す。
僕もパンの袋を畳み、購買の袋へ入れた。立ち上がり、鞄を軽く払って肩へ掛ける。
「少しは休めた?」
「何のこと?」
「休みたくて、ここに来たんだろ」
「まあね」
絢辻さんは弁当の包みを持ち、立ち上がる。
「ならよかった」
「望月君が来なければ、もっと静かだったけど」
「それは悪かったね」
「おまけに驚かされて、ホックまで――」
「もう言わなくていいから!」
絢辻さんが楽しそうに笑う。
他に誰もいない屋上へ、その声が小さく響いた。
「望月君」
「何?」
「今度から、あたしが伸びをしてる時は声をかけないで」
「今度も見る前提なの?」
絢辻さんが呆れたようにこちらを見る。
「言葉の綾でしょう?」
「それならいいけど」
「何。期待した?」
「してないよ」
返事が早すぎたのか、絢辻さんの口元が上がる。
「返事が早すぎると、逆に怪しいね」
「どう答えてもからかうだろ」
「そうかも」
悪びれることなく答える。
扉へ向かう途中、彼女が急に足を止めた。
「どうしたの?」
「肩が凝った」
両手を組み、ゆっくりと頭上へ伸ばし始める。
「待って!」
「何?」
「また外れるかもしれないだろ!」
絢辻さんの動きが止まる。
数秒。
それから、ひどく冷静な声で言った。
「望月君」
「はい」
「今、どこを見て言ったの?」
「見てないよ!」
反射的に両手まで上げてしまう。
「本当に?」
「心配しただけだよ!」
「へえ」
疑うような目。
僕は先に扉を開け、階段へ逃げるように足を踏み出した。
「ちょっと待って」
後ろから、絢辻さんが追いついてくる。
屋上の扉を閉める。
薄暗い階段へ、二人分の足音が重なった。
「望月君」
「今度は何?」
「今日のこと、誰にも話さないでね」
「話せると思う?」
「梅原君には、喜んで話しそうだけど」
「絶対に話さないよ」
少し強めに否定すると、絢辻さんは横目で僕を見る。
「ならいい」
「僕も恥ずかしいし」
「望月君は、声をかけただけでしょう?」
「その後の会話まで説明したら、僕まで変な人だと思われる」
絢辻さんの口元が僅かに上がる。
「それは元からじゃない?」
「絢辻さんにだけは言われたくないなぁ」
「今、何て?」
「何でもない」
「聞こえてるから」
階段を下りる。
二階へ近づくにつれて、生徒たちの声が大きくなってきた。
踊り場を曲がったところで、同じクラスの女子生徒二人とすれ違う。
「あ、絢辻さん。先生にパーティーのこと、聞いてくれる?」
「うん。今日の放課後に確認しておくね」
「ありがとう!」
絢辻さんは、いつもの笑顔で答えた。
女子生徒たちが階段を上がっていく。
姿が見えなくなってから、彼女は小さく息を吐いた。
「望月君」
「うん?」
「明日の昼休み、空けておいて」
「どうして?」
絢辻さんは、少しだけこちらへ身体を向ける。
「パーティーの準備について、少し手伝ってほしいことがあるから」
「僕に?」
「嫌なら断ってもいいわよ」
言葉だけを聞けば、選択肢は与えられている。
けれど絢辻さんは、僕が断らないことを知っているような顔をしていた。
「分かった」
「やっぱり断らないんだ」
「断ってほしかった?」
「あたしからは、どちらでも」
「嘘っぽいなぁ」
絢辻さんの眉が僅かに寄る。
「失礼ね」
先に教室へ向かって歩き始める。
「でも」
数歩先で、一度だけ振り返った。
「望月君に頼んだ方が、早く終わりそうだから」
それだけ告げ、今度こそ前を向く。
僕も少し遅れて後を追った。
仕事ができると思われている。
便利だと思われている。
手帳に書かれていた評価から、大きく変わったわけではない。
ただ。
頼める人間が他にもいる中で、彼女は僕を選んだ。
それが単なる効率のためだとしても。
今はまだ、少しくらい喜んでもいいのかもしれなかった。