絢辻さんを救いたい話 作:紳士
翌朝。
1時間目の数学が終わる少し前、高橋先生は教卓の上に置いていた紙の束を持ち上げた。授業が終わるのを待つだけだった教室に、途端に妙な緊張が混じる。
「先週行った小テストを返します。名前を呼ばれた人から取りに来てください」
小テスト。名前だけなら大したものではないけれど、今回の範囲は普段より難しかった。公式へ数字を当てはめるだけではなく、途中の考え方まで理解していなければ答えに辿り着けない問題がいくつか含まれていたため、周囲からも小さなため息や机を鳴らす音が聞こえてくる。
「橘君」
「はい」
純一が席を立つ。答案を受け取ると、点数を確認するより先に裏返し、何食わぬ顔で自分の席へ戻ってきた。
「どうだった?」
「後で見る」
「今見ても後で見ても、点数は変わらないと思うけど」
「心の準備が必要なんだよ」
答案の端から赤い数字の一部が覗いている。形からすると十の位はおそらく7で、純一としてはそこまで悪くないはずだった。
「望月君」
「はい」
僕も席を立ち、高橋先生から答案を受け取った。右上には96という数字が書かれている。1問だけ間違えていた。
自分の席へ戻りながら確認すると、落としたのは最後の応用問題だった。途中式は最後まで合っているのに、答えを移す段階で負の符号を1つ書き忘れている。理解していなかったのならまだ諦めもつくけれど、こういう間違いはかえって悔しい。
「うわ……」
「悪かったの?」
「96」
純一へ答案を傾けて見せる。点数だけを見れば十分高いのだろうが、赤く直された箇所へ目が行くたび、惜しさの方が先に立った。
「十分高いじゃないか」
「最後の符号を忘れた」
「それだけ?」
「それだけだから余計に嫌なんだよ」
僕が間違えた場所を指で示すと、純一は理解できないという顔をした後、ようやく伏せていた自分の答案を表へ返した。
78点だった。
「悪くないだろ?」
「うん。前より上がってる」
「だよな」
純一は満足そうに答案を眺めている。同じ紙に書かれた数字でも、受け取り方は人によって違うらしい。96点を見て失敗したと思う人間もいれば、78点を見て前より良かったと喜ぶ人間もいる。どちらが正しいという話でもないが、今の純一を見ていると、取れた点くらいは素直に喜んでおいた方が得なのかもしれないと思った。
「絢辻さん」
高橋先生に名前を呼ばれ、教室の前方で絢辻さんが立ち上がった。いつもと変わらない足取りで教卓へ向かい、答案を受け取る。先生が何かを短く伝えると、小さく頭を下げて席へ戻ってきた。
途中で答案の右上が見えた。
100点。
驚くような結果ではなかった。むしろ絢辻さんが満点ではなかった方が、教室全体から意外そうな声が上がっていたかもしれない。本人も特別喜ぶ様子はなく、席へ着くなり答案を上から読み返している。採点ミスでも疑っているわけではないだろうが、自分の解答をもう一度確認せずにはいられないらしい。
「さすがだな」
「うん」
「湊も4点しか変わらないけど」
「その4点が遠いんだよ」
純一は答案を見比べるようにして首を傾げた。
「1問だろ?」
「1問だね」
「じゃあ次は取れるんじゃないか?」
随分簡単に言う。けれど、実際その通りでもあった。次に同じ間違いをしなければいいだけだ。
答案を半分に折って机へ入れようとしたところで、横から名前を呼ばれた。
「望月君」
顔を上げると、いつの間にか絢辻さんが隣に立っている。
「何?」
「見せて」
「答案?」
「他に何があるの?」
断る理由もないので、そのまま差し出した。絢辻さんは点数そのものより先に赤い印がついた箇所へ視線を落とし、途中式を追ったあと、最後の答えで止まる。
「符号」
「うん」
「途中まで合ってるのに」
「分かってるよ」
もう一度最後の行を確かめてから、呆れたように答案を持ち直した。
「もったいないわね」
「言われなくても、十分後悔してる」
僕の返事を聞き、口元にからかう時の気配が浮かぶ。
「96点なら、十分だと思うけど」
「100点の人に言われてもなぁ」
「事実でしょう?」
「絢辻さんは、96点でも十分だと思える?」
返事はほとんど間を置かなかった。
「思わないわ」
「ほら」
僕が呆れると、絢辻さんは当然のことを答えただけだという顔をする。
「私は私、望月君は望月君だから」
「随分都合がいいね」
「他人にまで自分と同じ基準を求めるほど、面倒な人ではないつもりよ」
そう言う本人は、自分に対してだけは例外を認める気がないらしい。
「自分には求めるんだ」
「当然よ」
迷いのない返事だった。100点を取ったことを誇っているというより、100点を取るつもりで準備して、その通りの結果になっただけなのだろう。彼女にとっては、満点でようやく予定通りなのかもしれない。
絢辻さんは答案を完全には返さず、最後の応用問題を指で示した。
「この問題、考え方は合ってるから次は大丈夫ね」
「次も同じ間違いをしたら?」
「その時は、ただのお馬鹿さん」
「厳しいなぁ」
眉を寄せる僕に、彼女は真顔のまま答案を差し出した。
「2回目は不注意とは言わないから」
「気をつけるよ」
「努力する、じゃないのね」
「それを言うと怒るだろ」
今度は明らかに楽しそうな顔になった。
「学習した?」
教室にはまだ他の生徒もいる。そのためか声は普段より柔らかかったが、最後に向けられた表情だけは、誰にでも見せるものとは少し違っていた。
◇
昼休み。
純一は森島先輩と約束があるらしく、チャイムが鳴るとほとんど同時に教室を出ていった。最近ではそれも珍しい光景ではない。最初の頃は教室中から視線を集めていたものの、今では何人かが軽くからかうくらいで、周囲もすっかり慣れていた。
人は、思っているより早く慣れるらしい。
僕も同じだった。純一が森島先輩と昼食を取ることにも、絢辻さんが誰もいない場所では教室と少し違う笑い方をすることにも、最初ほど驚かなくなっている。ただ、慣れたからといって、気にならなくなるわけではない。
「望月君」
自分の席でパンの袋を開けたところで、絢辻さんが近づいてきた。
「今日の放課後、空いてる?」
「部活の前なら」
「30分くらい借りたいんだけど」
「何をするの?」
絢辻さんは手に持っていた数枚の紙をこちらへ見せた。
「来週の小テスト用に、練習問題を作ることになったの。クラスの平均が思ったより低かったから、希望する人に簡単なプリントを配ることになって」
「先生から?」
「ええ」
また仕事が増えている。そう思ったが、口には出さなかった。言ったところで、大したことではないと返される気がした。
「それを手伝えばいい?」
「問題を解いて、分かりにくいところがないか見てほしいの」
「絢辻さんが作った問題を?」
「そうよ」
何となく嫌な予感がして、持っていたパンを机へ戻す。
「僕が間違えたら?」
絢辻さんは手元の紙へ目を落とし、一度考えてから答えた。
「その問題は、ちょっと難しいってことでしょうね」
「僕が基準なんだ」
「今回96点だったでしょう?」
「満点の人が自分で解けばいいのに」
そんなことは分かっている、とでも言いたげな顔をされる。
「自分で作った問題を自分で解いても、分かりにくい表現には気づきにくいの」
確かに、その通りだった。文章を書いた本人は、自分が何を言いたいのかを知っている。そのせいで、他人には伝わりにくい部分があっても見落とすことがある。
「分かった。部活前までなら」
「ありがとう」
そこで一度話が切れた。
以前なら、頼まれなくても僕が手伝うことを、彼女はどこか当然のように扱っていた。今だって僕が断らないだろうと思っている部分はあるのかもしれないが、少なくとも先に予定を確認するようにはなった。
「今度はちゃんと頼まれたね」
「何の話?」
こちらへ向いた目に、わずかな警戒が混じる。
「別に」
本人が意識しているのかどうかは分からない。それでも、こういう小さな違いに気づける程度には、僕も彼女のことを見ているらしい。
「それと、小テスト、満点を取りたい?」
予想していなかった質問に、少し考える。
「取れるなら」
「随分やる気のない返事ね」
「取りたいって言ったら、取らせてくれるの?」
「そこは望月君次第でしょう?」
当然の答えだった。僕はパンの袋を弄りながら、冗談半分で聞いてみる。
「じゃあ、取れたら何かある?」
「何かって?」
「満点のご褒美」
勉強にご褒美を求めるな、とでも返されると思っていた。ところが絢辻さんはすぐには答えず、僕の顔を見ながら何かを考えている。
「1つだけ。質問に答えてあげる」
「質問?」
先日、聞きかけてやめたことが頭を過ぎった。家庭のことを追及したわけではない。ただ、あえて聞かずにいることを選んだ。あれを覚えているのだろうか。
「何でも?」
「内容によるわ」
「それだと、絢辻さんが嫌な質問は全部駄目になるだろ」
「当たり前よ」
あまりにも当然の顔で言うので、思わず苦笑する。
「ご褒美として弱くない?」
「じゃあ、なしでいいわ」
「分かった。質問で」
思ったより早く答えてしまったらしい。絢辻さんはそれを見て、愉快そうにこちらを眺める。
「満点を取ってから考えてね」
「取れないと思ってる?」
「96点の人だから」
「4点差だよ」
彼女は考えるふりをしてから、朝の言葉をそのまま返した。
「その4点が遠いんでしょう?」
「覚えてたんだ」
「記憶力はいいから」
「手帳がなくても?」
口元から笑みが消えた。
「望月君」
「はい」
声だけで、余計なことを言ったのが分かる。
「今のは減点」
「何点から?」
絢辻さんは僕を見下ろしたあと、わざとらしく考えた。
「100点」
「もう満点取れないじゃないか」
「小テストで取りなさい」
そう言って、ようやく満足そうに笑う。
自分の席へ戻っていく背中を眺めながら、僕はまだ取ってもいない満点の使い道を考え始めていた。
◇
放課後、部活用の鞄を持った僕は、絢辻さんと並んで図書室へ向かっていた。教室でも作業はできるが、創設祭の準備で残っている生徒が多く、落ち着いて問題を確認するなら図書室の方がいいらしい。
「この時間、席は空いてるの?」
「試験前じゃないから、大丈夫だと思うわ」
「絢辻さんも図書室使うんだ」
「使うわよ。何だと思ってるの?」
横から呆れた視線が向けられる。
「家で全部できそうだから」
「参考書を借りることくらいあるわよ」
そこまで聞いて、以前から気になっていたことを思い出した。
「放課後まで学校に残ってることが多いけど、その後も家で勉強するの?」
「するわよ」
「何時まで?」
「日によるわね」
返事があまりにも普通だったので、もう一つ聞いてしまう。
「寝不足になるまで?」
今度は、こちらへ向く視線の温度が明らかに変わった。
「また余計なところを気にしてる」
「朝は元気そうだったけど」
「だったら問題ないでしょう?」
「今日はね」
絢辻さんは僕を数秒見てから前へ向き直った。
「望月君、毎日私の顔色を確認するつもり?」
「そういうわけじゃないよ」
「なら、あまり見ないで」
「分かった」
素直に答えたつもりだったが、すぐ横から疑うような気配がする。
「本当に?」
「……努力する」
「やっぱり分かってないわね」
ため息混じりの声を聞きながら図書室へ入る。
予想通り利用者は少なく、窓際に3人、奥の参考書棚の近くに1人いるだけだった。話し声はほとんどなく、ページをめくる音や、遠くの運動部の掛け声がかえってよく聞こえる。
僕たちは入口から離れた4人掛けの机へ座った。絢辻さんが鞄から数枚の紙を取り出し、こちらへ差し出す。
「これ」
「もう完成してるんだ」
「問題だけね。説明は、望月君が解いてから書き足すわ」
「僕が詰まったところを?」
「そう」
受け取った紙には全部で5問。1問目と2問目は授業内容を理解していれば難しくないが、3問目から計算や条件が増え、最後の問題は朝僕が間違えた応用問題とよく似た形式になっていた。
「最後、わざと?」
「何が?」
「符号を間違えそうな形にしてる」
絢辻さんは自分の資料を広げながら、こちらを見ようともせず答える。
「間違えなければいいのよ」
「僕への嫌がらせ?」
「復習」
「便利な言葉だなぁ」
シャープペンシルを取り出し、問題に取りかかる。
1問目と2問目は特に迷わなかった。3問目へ進んだところで、問題文の一箇所に引っかかる。
「絢辻さん」
「何?」
「ここ。『その時点』って、どの時点?」
紙を彼女の方へ向けると、絢辻さんは椅子を寄せて問題文を覗き込んだ。
「前の行に書いてあるでしょう?」
「2つあるよ。値を代入する時と、式を整理した時」
指でそれぞれの場所を示す。絢辻さんは文章を読み直し、前後を何度か見比べたあと、赤いペンを手に取った。
「……確かに、どちらとも読めるわね」
「だろ?」
「ここは書き直すわ」
自分で作った問題の曖昧さを指摘されても、不機嫌になる様子はなかった。むしろ見つかったことに納得して、すぐに別の表現を考え始めている。その切り替えの速さはいかにも彼女らしかった。
「嬉しそうだね」
「どうして?」
「ちゃんと役に立ったから」
僕が言うと、赤いペンが止まる。
「役に立たないと思って呼んだわけじゃないわ」
「それはそうだけど」
何となく笑ってしまった。
絢辻さんは問題用紙をこちらへ戻し、続きを促すように机を指先で叩く。
「望月君」
「はいはい」
「問題を解いて」
4問目へ進む。途中式が長く、一度だけ計算をやり直したものの、答えは合った。
そして最後の5問目。朝と似た式が目に入ったせいか、最後まで妙に気が抜けない。途中式を一度見直し、答えを書く前に符号まで確認する。
負の符号。
今度は忘れなかった。
「できた」
「見せて」
答案を渡すと、絢辻さんは1問目から順番に、答えだけでなく途中式まで確認していった。こちらが解いている時より真剣に見ているのが何だかおかしい。
「全部正解」
「満点?」
少し期待して聞いた途端、先回りするように返される。
「練習だから、ご褒美はないわよ」
「先に言われた」
「本番で取りなさい」
返された紙には5つの丸が並んでいた。学校の成績には何も残らない。それでも朝に1問落としたばかりだったせいか、それなりに嬉しい。
僕が丸を眺めていると、向かいから声がした。
「望月君。何を聞くつもりなの?」
「満点を取った時の質問?」
「そう」
絢辻さんは資料をまとめながらも、こちらの返事を待っていた。
「まだ決めてないよ」
「聞きたいことがあるから、すぐに約束したんじゃないの?」
「聞きたいことは色々あるけど」
「例えば?」
試すような問いだった。僕は少し考えたものの、そのまま答えてしまうのも勿体ない。
「今聞いたら、ご褒美の意味がなくなるだろ」
「答えるとは言ってないわ。聞くだけ」
「じゃあ……絢辻さんが家でどんなふうに過ごしてるのか、とか」
「普通」
「勉強して、寝る?」
「それだけじゃないわ」
そこまで答えてから、絢辻さんは僕の意図に気づいたように口を閉じた。
「何をするの?」
「今のは質問?」
「違う」
「なら答えない」
完全に遊ばれている。
僕は椅子へ座り直し、別の方向から探ってみることにした。
「じゃあ、好きな食べ物とか」
「前にも似たこと聞いたでしょう?」
「甘い物?」
「嫌いじゃないだけ」
妙に慎重な答え方だった。
「苦手なものは?」
「教えない」
「どうして?」
「弱点になるから」
真面目な顔で言うものだから、思わず笑った。
「食べ物が?」
「望月君に嫌いな物ばかり選ばれたら困るでしょう?」
「そんなことしないよ」
会話がそこで途切れた。
絢辻さんは机の上の紙を揃えながら僕を見た。冗談だとは分かっているのに、念のため警戒しているようにも見える。
「本当に?」
「僕を何だと思ってるんだ」
「最近、言い返すようになった人」
その答えがおかしくて、声を抑えて笑った。
「悪いこと?」
「面倒になった」
「前の方がよかった?」
何となく尋ねた途端、紙を揃えていた手が止まった。
「前?」
「何でも言うことを聞いてた頃」
「今も大体聞くでしょう?」
「大体はね」
僕の返事を聞き、絢辻さんはしばらくこちらを見ていた。
「なら、別に変わってないわ」
「そっか」
思ったより早く返事が出た。
自分でも、何を期待していたのかはよく分からない。何でも言うことを聞く僕より、今の僕の方がいい。そんな答えをどこかで待っていたのかもしれない。
視線を問題用紙へ落としたところで、向かいから続きが聞こえた。
「前よりは、今の方が話していて退屈はしないわね」
「それ、褒めてる?」
「少しだけ」
「また少し」
図書室だから声を抑えているだけなのか、それとも照れを隠しているのかは分からない。僕が笑うと、絢辻さんは何事もなかったように紙を揃え直した。
「全部褒めるほどではないから」
「厳しいな」
「満点取ったら、もう少し褒めてあげる」
「質問だけじゃないの?」
思わず身体が前へ出る。
「いらないなら、なしで」
「いる」
返事が早すぎた。
一拍遅れて自分でも気づくと、絢辻さんは僕の顔を見たまま、とうとう堪えきれないように笑った。
「素直ね」
「そこは笑わなくていいだろ」
「だって、本気で満点取りたくなった顔してるもの」
否定できない。
「取るよ。今度は符号も忘れない」
「それ以外を間違えたりして」
「縁起でもないこと言わないでよ」
絢辻さんは楽しそうに問題用紙をまとめ始める。
「説明を直せば、これで配れそうね」
「役に立った?」
「ええ」
短い返事だったが、迷いはなかった。
◇
図書室を出る前に、絢辻さんが入口付近で足を止めた。
「飲み物買っていくわ」
近くには、暖かい缶飲料の並んだ自動販売機がある。
「僕も行くよ」
「部活は?」
「まだ時間あるから」
二人で自動販売機の前へ立つ。缶コーヒー、紅茶、ココア、コーンスープ。冷たい飲み物も残っているが、外から吹き込む空気の冷たさを考えると選ぶ気にはならなかった。
「望月君は?」
「カフェオレかな」
「また甘いもの?」
「飲みたい物を飲むのが一番だよ」
呆れた顔をされる。
「子どもね」
「絢辻さんは?」
彼女は並んでいるボタンを眺めたあと、ホットココアを選んだ。硬貨を入れ、落ちてきた缶を取り出す。
「今日はそれなんだ」
「そうだけど?」
「いや、何となく」
以前コーヒーの話をしたことはある。だからといって毎回同じものを選ぶわけではないし、こちらが勝手に決めつけるほどのことでもなかった。
僕もカフェオレを買い、自動販売機の横にあるベンチへ並んで座る。缶を開けると甘い匂いが立ち、冷えていた指先へ熱が染みてきた。
「美味しい?」
「普通に美味しいわよ」
「その言い方なら分かる」
絢辻さんはココアを一口飲み、背もたれへ身体を預けた。さっきまで図書室で問題を確認していた時とは違って、今は肩から余計な力が抜けている。
「何?」
「こうやって普通に休んでるところ、ちょっと珍しいなと思って」
「私だって休憩くらいするわよ」
「最近はね」
言った瞬間、面倒そうな視線が飛んでくる。
「また余計なこと言ってる」
「事実じゃん」
それ以上追及する代わりに、カフェオレを飲んだ。
隣から何か返ってくるかと思ったが、絢辻さんも黙ってココアを口へ運んでいる。会話がなくても、気まずくはなかった。少し前までは彼女と二人きりになると、沈黙を埋めるための話題を探していた気がする。今は同じ場所でそれぞれ缶を傾けているだけの時間にも、それほど落ち着かなさを感じない。
これも、慣れたということなのだろう。
短い電子音が鳴った。
絢辻さんの鞄の中だった。
「ごめん」
「うん」
携帯電話を取り出し、画面を見る。途端に先ほどまでの緩んだ雰囲気が消えた。険しい顔になったわけではない。ただ、背筋が自然と伸び、電話へ出る頃にはいつもの整った声へ戻っていた。
「もしもし。うん、私まだ学校にいるわ」
相手の話を聞く。
「……分かった。帰りに買っていくから」
また少し黙ったあと、柔らかい声で続けた。
「大丈夫。そんなに遅くならないわ。うん、じゃあね」
電話を切る。
画面が暗くなっても、絢辻さんはすぐには携帯を鞄へ戻さなかった。手の中で一度見つめてから、何事もなかったようにしまう。
「家から?」
「うん。そろそろ帰らないと」
「買い物?」
電話の内容が耳に入っていたせいで、ほとんど反射的に聞いてしまった。
「聞いてたの?」
「隣にいたから」
「そう」
怒ってはいない。ただ、その一言から先へは入ってきてほしくなさそうだった。
僕は残っていたカフェオレを飲み切り、立ち上がる。
「缶、捨ててくるよ」
「あたしのも?」
「ついでだから」
絢辻さんは手元の缶を振って中身を確かめた。
「まだ残ってるわ」
「じゃあ待つ」
「部活は?」
「あと5分くらいなら平気」
時間を確認する僕を見て、絢辻さんが眉を寄せる。
「遅れるわよ」
「走れば間に合う」
「陸上部だから?」
「一応ね」
その答えに、張っていた空気が少しだけ緩んだ。絢辻さんは残っていたココアを飲み終え、空になった缶を差し出してくる。
「はい」
「ありがとう」
2本まとめて回収箱へ入れる。戻る頃には、彼女はもう鞄を持って立っていた。
「聞かないの?」
不意に言われる。
「何を?」
「電話のこと」
「聞いてほしい?」
聞き返すと、絢辻さんはすぐには答えなかった。こちらを見たまま、やがて小さく口を開く。
「……別に」
「じゃあ、今は聞かない」
今度は向こうが黙った。
「気にならないの?」
「気にはなるよ」
「なら、どうして?」
僕は鞄の紐を肩へ掛け直しながら考えた。電話の相手も、買い物のことも、さっき声の調子が変わった理由も気になる。ただ、今はそこへ触れてほしくなさそうに見えた。
「今聞いても、絢辻さん話したくなさそうだから」
それだけ答えた。
正しい判断なのかまでは分からない。もしかすると、聞いてほしいのに聞かない僕へ腹を立てることだってあるかもしれない。それでも、少なくとも今の僕には、彼女が閉じたところを無理にこじ開ける理由がなかった。
「……ずるいわね」
「何が?」
「何でもない」
「またそれ?」
苦笑すると、彼女の表情からも先ほどの硬さが抜けていく。
「質問に答えてほしいなら、満点を取って」
「今のことも聞ける?」
「内容によるわ」
「やっぱり弱いご褒美だなぁ」
そう言いながらも、なしにするつもりはなかった。
二人で自動販売機の前を離れ、廊下を並んで歩き始める。
「望月君」
「うん?」
「さっきの問題。本番でも符号、気をつけてね」
「分かってるよ」
「満点を取れなかったら、質問には答えないから」
急に条件を念押しされて、横を見る。
「急に厳しくなったね」
「最初からそういう約束でしょう?」
図書室の前で、僕たちは別れることになった。絢辻さんは昇降口へ、僕は部室へ向かう階段へ進む。
「じゃあ、また明日」
「ええ」
数歩進んだところで、もう一度名前を呼ばれた。
「望月君」
振り返る。
絢辻さんはその場に立ったまま、鞄の持ち手を両手で握っていた。すぐには言葉が続かない。何を言うのか迷っているというより、それを口にしていいのか決めかねているようだった。
「さっきは、聞かないでくれてありがとう」
「うん」
それだけ返すと、絢辻さんは一度視線を外した。しかし、そのまま終わらせるのは落ち着かなかったらしく、すぐにこちらへ向き直る。
「でも、満点を取っても、あのことは答えないから」
「先に封じるんだ」
「当然」
ようやくいつもの、少し意地の悪い表情に戻った。それを見て僕も笑う。
「じゃあ、別の質問考えとくよ」
「大したことじゃない質問にしてね」
「ご褒美なのに?」
「望月君次第よ」
今度こそ絢辻さんは背を向け、昇降口へ歩いていった。長い黒髪が、歩くたびに背中で揺れている。
何を聞くのかはまだ決まっていない。好きなものや苦手なもの、家でどんなふうに過ごしているのか。いくつか思い浮かべているうちに、最後には「僕をどう思っているのか」という質問まで頭を過ぎった。
けれど、それだけはすぐに追い出した。満点を取れたとしても、今の僕にはまだ聞く勇気がなかった。