絢辻さんを救いたい話 作:紳士
小テストの日。
僕は普段より10分ほど早く教室へ着いていた。最後の確認をするため、というわけではない。昨日の夜までに公式も解き方も一通り見直してあるし、今さら覚え直すようなこともほとんど残っていなかった。
符号を忘れない。問題文を最後まで読む。答えを書いた後、もう一度確認する。注意することは、その3つだけだ。
それでも机の上には数学の教科書とノートが開かれていた。何もせずに待っていると、勉強とは関係のないことばかり考えてしまうからだった。
満点を取ったら、1つだけ質問に答える。
絢辻さんは、そう言った。内容による、大したことではない質問にしてほしい、と条件らしい条件もつけられているから、本当に何でも聞けるわけではない。それでも、彼女の方から質問を許してくれたことには変わりなかった。
何を聞くのかは、昨日から何度も考えた。家からかかってきた電話について。どうしてあれほど周りからの見え方を気にするのか。手帳へ僕のことを書いた時、何を考えていたのか。聞きたいことはいくつもあるけれど、聞けることと聞いていいことは同じではない。満点を取ったからといって、相手が話したくないことへ踏み込む権利まで手に入るわけではなかった。
「朝から勉強?」
声をかけられて顔を上げると、純一が鞄を肩へ掛けたまま僕の机の横に立っていた。
「一応、確認してる」
「湊でも緊張するんだな」
「点数がかかってるからね」
純一は不思議そうに眉を上げた。
「いつもかかってるだろ」
「今日は、いつもより少しだけ」
「何かあるの?」
「満点を取ったら、ご褒美がある」
言ってから、余計なことを口にしたと気づいた。案の定、純一の目が分かりやすく大きくなる。
「ご褒美?」
「大したものじゃないよ」
「誰から?」
「それは……」
答えに迷う。絢辻さんとの約束自体は秘密ではないものの、どうしてそんな約束をしたのかまで説明しようとすると、手帳のことにも触れなければならなくなる。
「先生?」
「違うよ」
「家族?」
「それも違う」
純一がさらに身を乗り出しかけた、その時だった。
「橘君」
後ろから柔らかな声がして、純一だけでなく僕まで反射的に姿勢を正した。
絢辻さんが、提出物らしい紙の束を腕に抱えて立っている。
「高橋先生が呼んでいたわよ。進路調査のことで確認したいことがあるって」
「僕を?」
「ええ。職員室へ来てほしいそうよ」
「分かった。ありがとう」
純一は教科書を自分の机へ置くと、急いで教室を出ていった。その背中が見えなくなってから、絢辻さんは紙の束を教卓へ置き、そのまま僕の机の横へ戻ってくる。
「朝から余計なことを話してるのね」
周囲に聞こえない程度まで声を落としている。
「ご褒美があるとしか言ってないよ」
「誰からか聞かれてたでしょう?」
「答えてない」
絢辻さんは教室を一度見回してから、机の上に広げていたノートへ視線を落とした。
「ならいいけど。随分真面目に勉強してるのね」
「満点を取らないといけないから」
「どうして?」
「質問に答えてくれるんだろ」
僕が返すと、絢辻さんはこちらを見た。
「そんなに聞きたいことがあるの?」
「あるよ」
迷わず答えると、彼女は一度瞬きをした。もう少し考えると思っていたのかもしれない。
「何を聞くつもり?」
「満点を取る前には言わない」
「取れなかったら聞けないままよ?」
「だから勉強してる」
絢辻さんは短く「そう」と答えたあと、どこか愉快そうな表情を浮かべた。
「せいぜい頑張って」
「応援してくれないの?」
「今したでしょう?」
「意地悪く聞こえたけど」
僕が言うと、絢辻さんは何でもないように首を傾けた。
「気のせいじゃない?」
「最近、それ便利に使いすぎじゃないかな」
「望月君ほどではないわ」
そう返して自分の席へ向かいかけたところで、絢辻さんは一度だけ振り返った。
「符号」
「分かってるよ」
「本当に?」
「今度は忘れない」
その返事を聞き、彼女は満足したように頷いた。
「それなら、期待しておくわ」
前を向いた黒髪が、歩くたび背中で静かに揺れる。
期待、と言っても大げさな話ではない。小テストで満点を取れるかどうか、それだけのことだ。それでも絢辻さんから言われると、失敗したくないという気持ちは確かに強くなった。
◇
小テストは1時間目の最後に行われた。制限時間は15分、問題数は5問。実際に用紙を裏返してみると、絢辻さんが作った練習問題よりも難易度はわずかに低かった。
1問目と2問目は問題なく進んだ。3問目では文章を2度読み直し、何を求められているのかを確認してから式を立てる。4問目の途中で計算結果が合わなくなり、一瞬だけ焦りかけたものの、最初から追い直すと分母の数字を1つ写し間違えていたことに気づいた。
最後の5問目は、前回落としたものと似た応用問題だった。途中式を書き、整理し、値を代入する。導き出した答えは負の数だった。
解答欄へ移そうとしたところで、シャープペンシルの先が止まる。
符号。
今度は忘れずにつけた。
全てを解き終えた時、残り時間は3分ほどあった。普段なら一度見直して終わるところを、今日は2度確認する。一度目は計算そのもの、二度目は答えを解答欄へ正しく写しているか。特に最後の問題については、負の符号を指で隠してからもう一度確認するという、自分でも何の意味があるのか分からないことまでしてしまった。
「そこまで」
高橋先生の声が聞こえ、答案を後ろへ回す。自分の手元から紙がなくなった途端、今度は別の不安が押し寄せてきた。どこか他の問題を間違えていたかもしれないし、見直したことで正しかった答えを書き換えてしまった可能性だってある。
提出する前には思いつかなかった間違いが、提出した後になると次々浮かんでくる。試験というものは、たぶんそういうものなのだろう。
もう手元にない以上、考えても仕方がない。そう思って前を見ると、絢辻さんはすでに教科書を開き、次の授業の準備をしていた。こちらを見てはいないが、ページをめくる前に指先が机を一度だけ軽く叩いた。
それが何を意味するのかは分からない。単なる癖かもしれない。それでも僕には、「忘れてないでしょうね」と念を押されているように見えた。
◇
答案が返ってきたのは2日後だった。
「今回は、前より平均点が上がりました」
高橋先生が教卓の上で答案を揃える。
「絢辻さんが作ってくれた練習問題を解いた人は、特によくできていたみたいですね」
教室の何人かが、自然と絢辻さんの方を見る。
「絢辻さん、ありがとう」
「分かりやすかったよ」
「次も作って」
次々に声をかけられ、絢辻さんは穏やかに笑った。
「役に立ったならよかった。でも、次は自分でも復習してね」
最後に注意を加えるところまで、いかにも彼女らしい。
あの問題を作るために放課後まで図書室へ残り、曖昧だった文章を書き直していたことを知っている人間は、教室の中でも僕くらいなのだろう。僕が見つけた分かりにくい表現も、最後の符号を忘れないように作られていた問題も、完成したプリントだけを見れば、最初から何の問題もなく仕上がっていたように見える。
絢辻さん自身も、少し似ているのかもしれない。人から見えるところへ出す前に、間違いも迷いも自分で処理して、きれいな形に整えてしまう。
「望月君」
「はい」
名前を呼ばれ、教卓へ向かった。
高橋先生から受け取った答案の右上には、100という数字が赤い丸で囲まれている。
「今回は満点ね。よく頑張りました」
「ありがとうございます」
席へ戻って答案を置く。最初に確認したのは点数ではなく、最後の問題だった。負の符号はきちんと残っていて、途中式にも赤い印は一つもない。
ようやく息を吐いた。
「取れた?」
純一が小声で尋ねる。
「うん。100点」
「すごいな」
「純一は?」
「84」
純一は答案の右上をこちらへ見せる。
「上がってるね」
「練習問題が分かりやすかったから」
そう言いながら、自分の点数を少し嬉しそうに眺めている。森島先輩と過ごす時間が増えている一方で、勉強まで前より良くなっているのだから不思議だった。
恋をすると変わる。
以前、梅原がそんなことを言っていたのを思い出す。実践経験のない男の言葉だから信用していなかったけれど、少しくらいは正しかったのかもしれない。
「でも、ご褒美って何なんだ?」
「覚えてたの?」
「気になるだろ」
「後で分かるよ」
純一が期待するようにこちらを見る。
「僕にも?」
「純一には分からないと思う」
「何だよそれ」
不満そうな顔をされたが、僕自身、つい昨日まで何を聞くのか完全には決められていなかった。
候補はいくつもあった。けれど、実際に満点の答案を手にしてみると、最初に考えていたような質問をする気にはならなかった。もっと単純で、それでも今まで一度も尋ねたことがないことが、一つだけ頭に残っていた。
前方を見る。
絢辻さんも答案を受け取ったところだった。もちろん100点で、本人の表情は特に変わらない。
席へ戻る途中、彼女は僕の机の横を通った。視線だけが答案へ落ち、赤い100点を確認する。
「おめでとう」
小さな声だった。
「ありがとう」
「質問、考えておいてね」
「もう考えたよ」
絢辻さんの足が一瞬止まる。しかし何も聞かず、そのまま自分の席へ戻っていった。
◇
昼休み、僕は絢辻さんと並んで屋上へ向かう階段を上っていた。彼女は弁当箱の入った包みを片手に持ち、僕は購買で買ったパンを提げている。以前ここへ来た時と、ほとんど同じ組み合わせだった。
「教室でもよかったんじゃない?」
「質問に答えるだけならね」
「じゃあ、どうして屋上?」
「人に聞かれたくない質問なんでしょう?」
僕は隣を歩く絢辻さんを見る。
「まだ何も言ってないよ」
「望月君があれだけ真面目に勉強したんだもの。好きな食べ物を聞くだけとは思えないわ」
「そうかな」
屋上の扉へ伸ばしかけていた彼女の手が止まる。
「家のこと?」
「違うよ」
答えると、絢辻さんは僕の顔を確かめるように見た。
「手帳?」
「それも違う」
「じゃあ何?」
「質問は1つだけなんだろ?」
先に聞き出そうとしてくるのがおかしくて、少し笑う。
「なら、屋上に着いてから」
「もったいぶるのね」
「せっかく満点を取ったから」
扉を開けると、冷たい風が一気に吹き込んできた。以前ここへ来た時よりも、冬の空気はさらに冷たくなっている。
「寒い」
「今さら戻る?」
「望月君がここでいいなら、別に」
二人で給水塔の陰へ移動する。風が完全に止まるわけではないが、屋上の中央よりは随分ましだった。
絢辻さんが壁際へ腰を下ろし、僕も少し離れたところへ鞄を置いて、その上へ座る。
「それで?」
弁当の包みを解きながら、絢辻さんがこちらを見る。
「質問」
「食べてからでもいい?」
「いいよ」
彼女の手が止まった。
「そんなに簡単に待てるなら、教室でもよかったんじゃない?」
「ここまで来たかったのは絢辻さんだろ」
「誰かに聞かれたら困ると思ったからよ」
「僕のため?」
「質問に答えるという約束を守るため」
きっぱり言われ、僕は苦笑する。
「似たようなものじゃない?」
「違うわ」
いつものやり取りだった。
ただ、絢辻さん自身も、何を聞かれるのか気にしているのは何となく分かった。弁当箱を開ける手つきが普段より慎重で、時々こちらの様子を窺っている。
僕も焼きそばパンの袋を開けて一口食べた。味はいつもと変わらないはずなのに、頭の中では質問の言い方ばかり考えていて、あまり味が入ってこない。
「望月君」
「何?」
「食べるか、質問するか、どちらかにして」
「そんなに落ち着かない?」
絢辻さんは、パンを持ったままの僕をじっと見た。
「パンを持ったまま、ずっとこっちを見られる方の気持ちを考えて」
「ごめん」
パンを袋へ戻す。
「じゃあ、聞くよ」
「どうぞ」
絢辻さんは弁当箱を膝へ置き、真正面から僕を見る。教室で誰かの相談を聞く時と同じ穏やかな表情だった。ただ、その奥では、どんな質問が来ても答え方を選べるように構えているようにも見える。
「絢辻さんは、何も予定がない日が1日あったら、何をしたい?」
「……何?」
予想していなかったのだろう。黒い瞳がわずかに大きくなる。
「学校もない。勉強もしなくていい。創設祭の準備も、家の用事もない。誰からも何も頼まれない日」
「そんな日はないわよ」
「もしもの話」
絢辻さんは少し困ったような顔で僕を見る。
「何、その質問」
「駄目?」
「駄目ではないけど……」
すぐには答えが返ってこない。
家のことや手帳のこと、それこそ僕自身について聞かれると思っていたのかもしれない。
「本当に、それを聞くために満点を取ったの?」
「うん」
「もっと他にあるでしょう?」
「あるよ」
「なら、そっちを聞けばいいのに」
僕は少しだけ考えて、それでも答えを変えなかった。
「今は、これが一番知りたい」
絢辻さんの表情から、からかうような気配が消える。
「どうして?」
「質問は1つじゃなかった?」
「答える前に確認してるの」
僕は一度屋上の向こうへ視線をやってから、言葉を探した。
「絢辻さんは、いつも何かしてるから」
朝はクラスの仕事、授業が終われば創設祭の準備。放課後も教室に残り、家に帰れば勉強や家の用事がある。屋上で伸びをしていた時ですら、ほんのわずか休んだ後にはすぐ仕事へ戻っていた。
「誰かのためでも、何かを終わらせるためでもなくてさ。何もしなくていい時に、絢辻さんが何をしたいのか気になったんだ」
言葉にしてみると、思っていた以上に個人的な質問に聞こえた。
絢辻さんは僕を見たまま、しばらく何も言わなかった。給水塔へ風が当たる音と、遠くから聞こえる運動部の掛け声だけが続いている。
「……寝る」
やがて、ぽつりと答えが返ってきた。
「寝る?」
「悪い?」
「悪くないよ」
絢辻さんは弁当箱へ視線を落とし、考えながら続ける。
「朝、目覚ましをかけないで寝るわ。一度起きても時間を見ないで、眠かったらもう一度寝る」
「二度寝だね」
「そうね」
「意外」
顔を上げた絢辻さんが、少し不満そうに僕を見る。
「どうして?」
「朝から予定立てて動きそうだから」
「何もしなくていい日なんでしょう?」
「うん」
「だったら、何もしないわ」
そこまで言った時、声から普段の張りが少し抜けた。
「お昼くらいに起きて、何か甘い物を食べるかもしれない。それから……本でも読むかしら」
思わず口元が緩む。
「やっぱり甘い物好きなんだ」
「嫌いじゃないだけ」
いつもの答えだった。ただ、今度は強く否定する気もないらしい。
「どんな本?」
聞いた途端、絢辻さんがこちらを見る。
「質問は1つだけよ」
「続きじゃない?」
「ダメ」
「厳しいなぁ」
「十分答えたでしょう?」
「うん」
予定のない日に、昼まで眠って、甘い物を食べて、本を読む。
特別なことではない。誰にでもできる、何でもない1日だ。それでも、そんな答えを出すまで絢辻さんはずいぶん時間をかけていた。
「何?」
「いや、聞いたことを想像してた」
絢辻さんの眉が寄る。
「気持ち悪い」
「そこまで言う?」
「人が寝てるところを勝手に想像しないで」
「二度寝してる絢辻さんは見てみたいけど」
「望月君」
声が低くなったので、すぐに両手を上げる。
「冗談だよ」
「下手な冗談」
僕は笑いながら姿勢を直した。
「でも、ちょっと安心した」
「何が?」
「絢辻さんにも、何もしたくない時があるんだなって」
彼女はすぐには返さず、一度弁当箱へ目を落とした。
「……当たり前よ。誰だって疲れることくらいあるわ」
「平気って言うけど?」
「平気な時は平気なの」
「じゃあ、疲れてる時もある?」
今度はこちらへ鋭い視線が向く。
「今のは2つ目の質問」
「答えは分かってる気がする」
「だったら聞かないで」
絢辻さんは弁当箱から卵焼きを取り、口へ運ぶ。答えを拒んだわりには、いつもよりゆっくり噛んでいるように見えた。
「望月君は?」
「僕?」
「何もしなくていい日」
今度はこちらが笑う番だった。
「質問は1つじゃなかった?」
「あたしは聞く方だからいいの」
「随分都合がいいね」
「答えないなら、別にいいけど」
「昼まで寝るかな」
絢辻さんが意外そうな顔をする。
「同じじゃない」
「僕は目覚まし止めた後、寝たことを後悔するけど」
「どうして?」
「1日を無駄にした気がするから」
彼女は不思議そうに首を傾げた。
「なら起きればいいじゃない」
「眠い時は、無駄にする方を選ぶんだよ。それから適当に昼ご飯食べて、近所を歩く」
「走らないの?」
「何もしなくていい日だから」
絢辻さんは少し考えたあと、それでも納得しきれないようだった。
「運動部なのに?」
「毎日走りたいわけじゃないよ」
「意外」
「絢辻さんも言うんだ」
「だって、好きで陸上部に入ったんでしょう?」
「好きだけど、休みたい日はあるよ」
そう答えると、絢辻さんの視線がわずかに下がった。
「好きでも、休んでいいんだ」
「いいんじゃない?」
「随分簡単に言うのね」
「部活を1日休んだくらいで、走れなくなるわけじゃないから」
僕にとっては当たり前の話だったが、絢辻さんはまだ何か考えている。
「1日で済まなくなったら?」
「その時に考えるよ」
「適当」
呆れたように息を吐かれた。
「絢辻さんは、考えすぎだと思う」
「あたしが?」
「一回休んだら、全部駄目になるみたいに聞こえたから」
絢辻さんは否定も肯定もせず、少し冷めた卵焼きをもう一口食べた。風に流された黒い髪が頬へかかり、その表情の半分を隠す。
「創設祭が終わったら、1時間くらい何もしない時間を作ってもいいかもしれないわね」
しばらくして出てきた答えに、僕は思わず笑った。
「1時間だけ?」
「いきなり1日は無理でしょう?」
「何もしない予定を立てるんだ」
「悪い?」
「何もしない時まで予定に入れるの、絢辻さんらしいなと思って」
「望月君が言い出したんでしょう?」
「僕は1日って言ったよ」
「1時間で十分」
いかにも絢辻さんらしい妥協だった。
「その1時間、何するの?」
「何もしない」
「でも予定として1時間あるんだよね」
「細かいわね」
僕も少し考えてみる。
「どこで?」
「まだ決めてない」
「屋上?」
「寒いわ」
「教室?」
「誰か来るでしょう」
「図書室は?」
「それは本を読む場所」
何もしないための場所を二人で真剣に考えていることに気づくと、妙におかしくなった。答えなど出なくても構わないのに、どちらも途中でやめようとはしない。
「じゃあ、見つけたら教えて」
「どうして?」
「ちゃんと休めたか確認する」
「必要ないわよ」
「気になるから」
絢辻さんは呆れたように息を吐いたあと、弁当箱へ視線を落とした。
「一人で休むとは言ってないけど」
「え?」
「何でもない」
聞き返すと、途端にそっけない声へ戻る。
「今、何て?」
「質問は1つだけ」
「もう終わった後だろ」
「答えない」
耳が赤く見えた。屋上は寒いのだから、そう考える方が自然なのかもしれない。それでも僕の視線に気づくと、絢辻さんは頬にかかった髪を耳の前へ戻すように払った。
「見すぎ」
「ごめん」
視線を外したところで、また声をかけられる。
「それと、満点おめでとう」
先ほど教室でも言われた言葉だった。けれど、今度の方がどこか柔らかく聞こえた。
「ありがとう」
「次も取れるとは限らないけどね」
「すぐ余計なこと言うなぁ」
「浮かれないようにしてあげてるの」
僕は少し笑ってから、何となく尋ねた。
「質問に答えたくなかったから、失敗してほしかった?」
「それはないわ」
返事は早かった。
絢辻さんはそこで一度言葉を止め、弁当箱の蓋へ視線を落とした。
「取れなかったら、少し残念だったと思うから」
「どうして?」
今度は、こちらへいつものような笑みが向けられた。
「さあ?」
「そこから先は?」
「次の満点のご褒美ね」
「またあるの?」
「取れたら考えてあげる」
僕もつられて笑う。
「それなら、次も勉強しないとな」
「現金な人」
「絢辻さんに聞きたいこと、まだあるから」
その言葉に、彼女は一瞬だけ返事を迷ったようだった。
「……そう」
困っているようにも、それほど嫌がってはいないようにも聞こえた。
昼休みの終わりを知らせる予鈴が、校舎の中から響いてくる。
絢辻さんは弁当箱を包み直し、僕は途中になっていた焼きそばパンを急いで食べ始めた。
「喉に詰まらせないでね」
「誰のせいで食べる時間なくなったと思ってるんだ」
「質問をしたのは望月君でしょう?」
「答えるのに時間かけたのは絢辻さんだよ」
彼女が不服そうに眉を上げる。
「ちゃんと考えて答えてあげたのに」
「それは、ありがとう」
素直に礼を言うと、絢辻さんは一瞬だけ黙ったあと、弁当箱を持って立ち上がった。
「戻りましょう」
「うん」
二人で屋上の扉へ向かう。
少し前を歩く黒い髪を見ながら、僕は先ほど聞いた答えをもう一度思い返していた。昼まで眠って、甘い物を食べて、本を読む。絢辻さんが教えてくれたのは、たったそれだけだ。
手帳の秘密や家のことと比べれば、大した話ではないのかもしれない。けれど、誰かに頼られている時でも、何かを上手く終わらせようとしている時でもない、何もしていない彼女の姿をほんの少しだけ知ることができた。
満点のご褒美としては、僕にはそれで十分だった。