絢辻さんを救いたい話 作:紳士
放課後。
教室に残っている生徒は、いつもより少なかった。創設祭の準備が本格化してからというもの、授業が終わっても誰かしら机を動かしたり、画用紙を切ったりしていることが多いのだが、今日は実行委員会で全体の打ち合わせがあるらしく、中心になって作業をしていた生徒たちも別の教室へ集まっている。
「湊、今日は部活?」
鞄へ教科書を入れていると、純一が声をかけてきた。
「うん。純一は?」
「僕は少し出かけてくる」
「森島先輩と?」
「……まあ」
以前なら、名前を出しただけで慌てて否定していただろう。けれど今は頬をわずかに赤くした程度で、隠そうとする気配さえない。
「一緒に買い物?」
「買い物っていうか、付き添いかな」
そう言いながら、純一は僕から視線を外した。声にも以前ほどの必死さはなく、本人だって完全に別物だとは思っていないのだろう。
「似たようなものじゃない?」
「違うよ」
「遅れない方がいいんじゃない?」
「そうだった」
純一は腕時計を確かめると、慌てて鞄を持ち上げた。
「じゃあ、また明日」
「うん。楽しんできて」
「だから、そういうのじゃないって」
最後まで否定はしたものの、その横顔はどう見ても嬉しそうだった。純一は足早に教室を出ていき、開いた扉の向こうへ姿を消す。
前へ進んでいる。それも、僕が思っていたよりずっと早く。
初めの頃は、森島先輩と話しただけで、純一は僕と梅原へ事細かに報告していた。声をかけられたこと、笑ってもらえたこと、一緒に帰れたこと――1つの出来事を、何度も言葉にして確かめるように話していたものだ。
最近は、それが減っている。
話したくなくなったわけではないのだと思う。二人の間で起きたことを、何から何まで誰かへ説明しなくてもよくなったのだろう。
そう考えると、僕にも多少は分かる気がした。
絢辻さんと交わしたメールの内容や、屋上で聞いた答えを、僕も純一や梅原へ話そうとは思わなかった。秘密にすると約束したわけでもなければ、知られて困る内容ばかりでもない。
それでも、誰かへ話した瞬間、自分と絢辻さんの間だけにあったものではなくなってしまう。
そう思うと、自然と口を閉じていた。
「望月君」
名前を呼ばれ、顔を上げる。
教卓の前に絢辻さんが立っていた。腕には薄いファイルを抱え、今から別の教室へ向かうところらしい。
「今日、部活よね?」
「うん」
「何時まで?」
「5時半くらいかな。どうして?」
絢辻さんは答える代わりに、抱えていたファイルを軽く持ち上げた。
「体育科の先生に、この書類へ印をもらいたいの。部活の時間なら、運動場にいるかしら」
「今日は多分いると思うよ」
「多分?」
「会議とかで抜ける時もあるから」
僕の説明を聞きながら、絢辻さんはファイルを開き、挟まれていた用紙へ一度目を通した。
「創設祭で使う備品?」
「運動部から借りる長机と、屋外用のコード。体育科がまとめて管理してるの」
「また仕事?」
「実行委員の仕事よ」
いかにも当然という顔で言うので、思わず笑ってしまう。
「自分から増やしたわけじゃない?」
「どういう意味?」
「最近、仕事を見つけるのが得意そうだから」
絢辻さんは返事の代わりに、こちらをじっと見た。口元には笑みが残っているのに、妙な圧だけはしっかり伝わってくる。
「望月君」
「はい」
「あまり余計なことを言うと、今日の練習を最初から最後まで見てるわよ」
「それ、罰になる?」
「気になって集中できないでしょう?」
すぐには答えられなかった。
運動場の端に絢辻さんが立ち、こちらの練習を眺めているところを想像する。普段なら何も考えずにできる動きまで意識してしまいそうで、平常心のまま走れる自信はあまりなかった。
「……なるかもしれない」
「正直ね」
「嘘をついても、どうせ分かりそうだから」
「よく分かってきたじゃない」
満足したように微笑むと、絢辻さんはファイルを閉じた。
「先生がいなかったら、呼んでくれる?」
「分かった」
「それじゃあ、後でね」
彼女はそう言い残し、実行委員会の打ち合わせへ向かっていった。
ただ運動場へ来るだけだ。同じクラスなのだから、放課後に顔を合わせることだって珍しくない。
それなのに、「後でね」という何気ない一言が、部活へ向かう間も妙に耳に残っていた。
◇
準備運動を終えた頃になっても、絢辻さんはまだ姿を見せていなかった。
冬の運動場には乾いた風が吹き抜け、トラックの土を薄く舞い上げている。体育科の教師が使う小さな机の周辺にも彼女の姿はなく、代わりに部員たちの掛け声とシューズが地面を蹴る音だけが断続的に響いていた。
当然だ。
実行委員会の打ち合わせがどの程度かかるのかは知らないし、そもそも絢辻さんは先生へ用事があるだけで、僕の練習を見に来るわけではない。
「望月」
「何?」
同じ学年の部員に声をかけられる。
「さっきから、校舎の方を見すぎじゃないか?」
「先生が来てるか確認してた」
「顧問なら、さっきからあそこにいるぞ」
指さされた先では、顧問が別の部員と話していた。どうやら最初から運動場にいたらしい。
「……体育科の別の先生」
「何か用事?」
「僕じゃないよ」
「ふうん」
妙に含みのある返事をされたが、わざわざ説明するほどの話でもない。そのまま聞き流し、僕は次の練習に備えて足首を回した。
今日のメニューは、短い距離を何本か走った後、1200メートルの計測。冬場は基礎体力づくりが中心になる。
僕は短距離専門でも、長距離専門でもない。どの練習にもそれなりについていける反面、これだけは誰にも負けない、と胸を張れる種目もなかった。
足が遅いわけではない。陸上部へ入っている以上、一般の生徒よりは走れる。
ただし、部内では概ね真ん中。調子がよければ多少上へ行き、悪ければそのまま下へ沈む。
僕の運動能力を、そのまま順位に置き換えたような立ち位置だった。
「1本目、行くぞ」
顧問の声が飛ぶ。
スタート地点へ並び、軽く息を吐いて前を見る。
走り始めれば、余計なことを考える余裕はなくなる。腕を振り、脚を前へ運び、決められた距離を決められた速度で進む。動作そのものは単純だが、だからこそ誤魔化しが利かない。
速いか、遅いか。最後まで速度を維持できるか。
その日の状態が、そのまま数字になって残る。
1本目、2本目、3本目と本数を重ねるうちに呼吸が深くなり、身体も十分に温まってきた。頬に当たる風の冷たさを意識しなくなった頃、運動場の入口に見覚えのある黒髪が現れた。
絢辻さんだった。
ファイルを胸の前に抱え、顧問と何かを話している。先生が書類へ目を通して説明し、絢辻さんがそれに頷く。ただそれだけの光景で、彼女がこちらを気にしている様子はない。
「望月。次」
「あ、はい」
声をかけられ、慌てて列へ戻る。
「ぼうっとするなよ」
「すみません」
次は1200メートルの計測だった。
400メートルのトラックを3周。序盤から飛ばしすぎれば終盤で崩れ、逆に抑えすぎれば途中から速度を上げても取り返せない。
呼吸と脚の状態を見ながら、自分にとって無理のない一定のペースを刻む。それが何より重要だった。
「位置について」
スタートラインへ立ち、肩から余分な力を抜いて息を吐く。
視界の端では、先生との話を終えた絢辻さんが、まだ運動場の入口に立っていた。
帰らないのだろうか。
その顔がこちらへ向く。
一瞬だけ、目が合ったような気がした。
「始め!」
笛の音と同時に、全員が一斉に走り出した。
僕も前へ出る。
最初の100メートル。普段より身体が軽く感じられ、前を走る部員を1人、続けてもう1人と抜いていく。
今日は調子がいいのかもしれない。
200メートルを過ぎても呼吸にはまだ余裕がある。けれど300メートルに差しかかった頃には、いつもより明らかに速いことを自覚していた。
このままでは3周保たない。
今のうちに速度を落とした方がいい。
それでも、運動場の端に立っている絢辻さんの姿が視界へ入るたび、妙に減速することを躊躇ってしまった。
1周目。
顧問が読み上げたタイムは、普段よりかなり速かった。
「望月、飛ばしすぎだぞ!」
分かっています。
そう返事をするだけの余裕はなかった。
2周目へ入ると、脚が急速に重くなってきた。先ほど追い越した部員に1人、また1人と抜き返され、乱れ始めた呼吸に合わせるように腕の振りも小さくなっていく。
残り半周。
完全に苦しい。
どうして最初にあれほど飛ばしたのか、数分前の自分へ聞いてみたいところだったが、理由は大体分かっている。
見られていたからだ。
普段より少しでも速いところを見せたかった。その程度の見栄で無理をした結果、今では普段以上に分かりやすく失速している。
2周目を終える。
「望月、肩に力が入ってる!」
顧問の声が遠く聞こえる。
力を抜こうとはするものの、今の僕には、それを意識する余力さえ残っていなかった。
最後の1周に入ってからは、前を走る部員の背中だけを追った。絢辻さんがまだいるのか、どこから見ているのかを確かめる余裕もない。
息を吸い、吐き、脚を前へ運ぶ。
ただ、それだけを繰り返す。
最後の直線では、残っていた力を使い切るつもりで地面を蹴った。速度を上げたつもりではいたが、実際には落ち続けていたペースが多少戻っただけなのかもしれない。
それでも、どうにかゴールラインを越えた。
急に止まれば余計に苦しくなるため、そのまま歩き続ける。膝へ手をつきたい衝動を堪えながら、呼吸が落ち着くまでは身体を起こしていた方がいいと自分へ言い聞かせた。
分かってはいる。
けれど、身体は言うことを聞かなかった。
「無理……」
結局、数歩進んだところで両手を膝へ置いた。
「望月君」
聞き覚えのある声が、思っていたより近くから届く。
顔を上げると、絢辻さんがトラックの外側に立っていた。
「……まだ、いたんだ」
「悪い?」
「悪くないけど」
途切れた呼吸を整えるため、一度大きく息を吸う。
「先生への用事は?」
「終わったわ」
「じゃあ、どうして」
絢辻さんは答える前に、肩で息をしている僕を上から下まで眺めた。からかう材料でも探しているような顔に見えて、嫌な予感がする。
「望月君が走り始めたから、せっかくだし見ていこうと思ったの」
3周すべてを見ていたのかは分からない。
けれど、少なくとも今の無様な走りをしっかり見られたことだけは確かだった。
「最初だけは速かったわね」
「……やっぱり見てた」
「ええ」
「途中からは?」
「随分抜かれてたわ」
容赦のない感想に顔をしかめる。
「言わなくても分かってるよ」
「最後は顔も怖かったし」
「それはもっと言わなくていい」
絢辻さんが楽しそうに笑った。
普段なら何か言い返すところだが、今はそんな体力さえ残っていない。
「どうして、最初にあんなに飛ばしたの?」
「調子がいいと思ったから」
「本当に?」
「……最初は」
そこで言葉を濁すと、絢辻さんは僕の返事を吟味するように黙った。
「途中からは違ったのね」
否定できない。
ようやく呼吸が落ち着き始め、ゆっくり身体を起こす。それでも胸の奥はまだ熱く、腿にも重い疲労が残っていた。
「私が見ていたから?」
随分と直球だった。
「……違うよ」
「答えるまで時間がかかったわね」
「息が苦しいんだよ」
苦し紛れに返すと、絢辻さんがわざわざこちらの顔を確認するように上体を傾ける。
「それにしては、全然こっちを見ないけど」
「今は下を向いていたいだけ」
視線を足元へ逃がす。
乾いた土、無数のシューズに踏み固められた跡、自分の靴の先。何を眺めたところで、今さら恥ずかしさが消えるわけではない。
「望月君」
「何?」
「格好いいところを見せたかった?」
「……ちょっとだけ」
結局、観念して認めた。
ここで嘘を重ねたところで、どうせ見抜かれる。
絢辻さんは一度口を閉ざしたあと、堪えきれなかったように笑いを漏らした。
「失敗してるじゃない」
「分かってるよ」
「最初から、いつも通り走ればよかったのに」
「できると思ったんだよ」
「単純ね」
その言い方が妙に腹立たしくて、僕はようやく顔を上げた。
「誰のせいだと思ってるんだ」
「あたし?」
「見てたから」
絢辻さんは自分を指さしたあと、呆れたように肩をすくめる。
「勝手に意識したのは望月君でしょう?」
「それはそうだけど」
返す言葉がない。
絢辻さんは、速く走れとも、格好いいところを見せろとも言っていない。僕が勝手に見られていることを意識して、余計な力を入れ、その結果として勝手に失敗しただけだ。
「次は、ちゃんと走って」
「次?」
「また見る機会があったら」
思わず彼女を見る。
「もう1回見たいの?」
「今のままだと、望月君は最初だけ張り切って失敗する人になるでしょう?」
「絢辻さんの中で?」
「そう」
即答されると、それはそれで困る。
「それは嫌だな」
「なら、次はもう少しマシなところを見せて」
どう聞いても、半分はからかわれている。
それでも、「また見る機会があったら」という言葉だけは、他の部分より長く耳に残った。
「望月」
顧問から声をかけられる。
「休憩が終わったら、次のメニューに入るぞ」
「はい」
返事をすると、絢辻さんも先生へ軽く頭を下げた。
「それじゃあ、私は戻るわ」
「実行委員会?」
「まだ残ってるの。書類を届けるために抜けただけだから」
「そっか」
絢辻さんが校舎へ向かおうとする。
「絢辻さん」
呼び止めると、彼女は肩越しに振り返った。
「何?」
「見ててくれて、ありがとう」
「どうしてお礼を言うの?」
「観客がいたから」
そう答えると、絢辻さんはどこか可笑しそうな顔をした。
「格好悪いところしか見せられなかったのに?」
「だから、次があるんだろ」
口にしてから、自分でもやや先走った言い方だったと思った。
次。
絢辻さんがまた見に来ることを、最初から決まっていることのように言ってしまった。
けれど、彼女は否定しなかった。
「次があればね」
それだけ答えたあと、今度は少し真面目な顔で僕を見る。
「それと、最後まで走ったところは悪くなかったわよ」
返事を待つことなく、絢辻さんは校舎へ向かって歩き始めた。冬の風に長い黒髪が揺れ、やがて運動場の入口を抜けていく。
最初だけは速かった。途中で何人にも抜かれ、最後には顔まで怖くなっていたらしい。
それでも、最後まで走ったところは悪くなかった。
失敗した時に褒められるとは思っていなかった。
まして、それを絢辻さんから言われるなんて。
「望月」
「はい?」
近くにいた部員から呼ばれ、慌ててそちらを見る。
「何をにやけてるんだ?」
「にやけてないよ」
「さっきの子、同じクラス?」
「うん」
部員は校舎の方を一度見てから、妙に楽しそうな顔でこちらへ視線を戻した。
「彼女?」
「違うよ」
返事だけは迷わなかった。
それは事実だからだ。
「ふうん」
「本当に違うから」
「そこまで否定しなくてもいいだろ」
部員は笑いながら離れていった。
彼女ではない。
絢辻さん自身も、誰も選んでいないと言っていた。
僕たちはクラスの仕事を一緒にすることが多く、メールを送り合い、ときどき二人で昼を食べる。今の関係を言葉にするなら、少し仲のいいクラスメイトというのが一番近いのだろう。
多分、その程度だ。
それなのに、「違う」と答えた自分の声が、思っていた以上に強かったことだけは、少し後悔した。
◇
練習が終わる頃には、空がだいぶ暗くなっていた。
西の端に残っていた薄い夕焼けも校舎の影に隠れ、照明の点いた運動場だけが冬の夕方から取り残されたように明るい。僕はその端で、使い終えたコーンを一つずつ重ねていた。
今日の計測は、結局いつもより遅い記録だった。序盤に飛ばした分だけ後半の失速も大きく、数字だけを見れば明らかな失敗と言っていい。
それでも、不思議と今日の練習を嫌だとは思わなかった。
「望月君」
聞き覚えのある声に、手が止まる。
一瞬、聞き間違いかと思った。
顔を上げると、校舎へ戻ったはずの絢辻さんが、運動場の入口に立っていた。先ほどと同じファイルを腕に抱え、その上には小さな紙袋が載っている。
「まだ終わってなかったの?」
「今終わったところ」
「実行委員会は?」
「そっちも終わったわ」
絢辻さんは周囲の部員を避けながら、こちらへ歩いてくる。
「忘れ物?」
「望月君に渡すものがあったの」
「僕に?」
差し出された紙袋の中を覗く。
スポーツドリンクが1本入っていた。
「どうして?」
「体育科の先生から、運動部へって何本かもらったの。実行委員会では飲まないから」
「僕がもらっていいの?」
「他の人にも渡してるわ」
周囲を見ると、確かに何人かの部員が同じボトルを手にしていた。
僕だけのために持ってきてくれたわけではないらしい。
ほんの一瞬でも期待した自分が、急に恥ずかしくなる。
「ありがとう」
「どういたしまして」
ペットボトルを受け取る。
手のひらへ伝わる感触はかなり冷たい。冬の練習後に飲むには、もう少し常温に近い方がありがたかったかもしれない。
「今、残念そうな顔をしなかった?」
「してないよ」
反射的に否定すると、絢辻さんはこちらの表情を確かめるように覗き込んできた。
「本当に?」
「飲み物が冷たいなと思っただけ」
「下手な誤魔化し方ね」
やはり気づかれていた。
変に取り繕っても仕方がない。少し迷った末、正直に白状する。
「僕だけに持ってきてくれたのかと思った」
絢辻さんが、意表を突かれたように瞬きをする。
「どうして?」
「わざわざ戻ってきたから」
「皆に配った後、望月君の分が残っただけよ」
「そっか」
思った以上に、そのまま落胆が声へ出てしまった。
絢辻さんは僕を見たまま何も言わない。
「いや、ありがとう。もらえるだけでも十分だよ」
言い直してからペットボトルを持ち直すと、絢辻さんはまだ何かを考えるようにその場へ立っていた。
「……でも」
「うん?」
「望月君の分は、先に取っておいたわ。他の人へ配ったら、全部なくなるかもしれなかったから」
その声は、周囲の部員には届かない程度に抑えられていた。
一瞬、意味を理解するまで時間がかかる。
「それなら」
「何?」
手にしているペットボトルを見下ろす。
さっきまでただ冷たいだけだったボトルが、急に別のものに思えてくる。
「喜んでもいい?」
「好きにすれば?」
絢辻さんは僕から顔を背け、頬へかかった髪を耳の後ろへ払った。
「ただの飲み物でしょう?」
「うん」
ただの飲み物。
運動部へ配られた中の1本に過ぎない。
それでも、なくなる前に僕の分を確保しておこうと思ってくれた。
それだけで、十分だった。
「次は」
絢辻さんが僕の手元から視線を上げる。
「最初に飛ばしすぎないことね」
「見に来るの?」
「先生へ用事があれば」
「用事がなくても?」
一瞬の沈黙のあと、呆れたような声が返ってきた。
「調子に乗らない」
「はい」
素直に引き下がると、それ以上は追及されなかった。
「それじゃあ、帰るわ」
「一緒に帰らない?」
ほとんど考えずに口へ出た。
絢辻さんの足が止まる。
自分でも、今の誘い方はかなり直接的だったと思う。
「途中まで同じ方向だよね」
慌てて理由を付け足すと、絢辻さんは僕の格好を一度確認した。
「着替えは?」
「すぐ終わるよ」
「何分?」
「5分」
彼女は腕時計へ目を落とす。
「7分待たせたことがある人の5分は信用できないわね」
「じゃあ10分」
「長くなってるじゃない」
「確実な方を言った」
絢辻さんは時計を見てから校舎へ視線を移し、最後にもう一度僕を見る。
「昇降口で待ってるわ」
「いいの?」
「10分だけ」
「急いで着替えてくる」
「慌てて転ばないでね」
「陸上部だから大丈夫」
そう言い切った僕に、絢辻さんは呆れたような顔を向ける。
「今日の走りを見た後だと、説得力がないわ」
「ひどいなぁ」
笑われながらも、僕は残っていたコーンを片づけるため、その場から小走りで移動した。
「望月君」
後ろから呼ばれ、振り返る。
絢辻さんは校舎へ向かいかけたところで足を止め、こちらを見ていた。
「今の方が、さっきより自然に走れてるわよ」
僕が何かを返す前に、今度こそ彼女は歩き出した。
今のは、走ったうちに入らない。ただコーンを片づけるために、十数メートル移動しただけだ。
それでも、次に見られる機会があるなら、今度は最初から自分の走りをしようと思った。
無理に速く見せようとするのではなく、いつも通りに走る。その上で、ほんの少しでも格好いいと思ってもらえれば。
今度は、それで十分だった。