絢辻さんを救いたい話 作:紳士
部活を終えて昇降口へ着くと、絢辻さんは下駄箱の近くにある窓へ背を預けていた。片手には鞄、もう片方の腕には先ほどまで使っていたファイルを抱え、腕時計の文字盤へ視線を落としている。外では夕暮れの色がほとんど失われ、窓ガラスには校舎内の蛍光灯と彼女の姿が薄く重なって映っていた。
「ごめん。待った?」
「9分」
「10分以内には来ただろ」
「そうね。ぎりぎり合格」
顔を上げた絢辻さんは、今度は僕の格好を上から下まで眺めた。やがて前髪の辺りで視線が止まり、観察するように数秒留まる。
「髪、濡れてるわよ」
「急いで着替えたから」
「風邪を引いても知らないからね」
「待たせたら怒るだろ」
そう返すと、絢辻さんは濡れた髪と僕の顔を見比べ、仕方のない人を見るように息を吐いた。
「乾かす時間まで考えて、早く着替えればよかったじゃない」
「10分で?」
「陸上部なら、そのくらい素早くできるかと思ったんだけど」
「走る速さと着替える速さは、あまり関係ないと思う」
そこで彼女の表情に、からかう時特有の楽しげな色が浮かんだ。
「今日の走りを見る限り、走る方も怪しいけどね」
「まだ言うの?」
「せっかく見たんだから、しばらくは使わせてもらうわ」
どうやら、あの失敗は当分からかわれる材料になるらしい。反論するだけ無駄だと悟って黙ると、絢辻さんは満足した様子で窓から身体を離した。
「行きましょう」
「うん」
靴を履き替え、二人で校舎を出る。練習中には気づかなかったが、空一面には薄い雲が広がっていた。雨を予感させるほど重くはないものの、夕方の残光はすでに雲の向こうへ沈み、校門の外に並ぶ街灯や住宅の明かりが普段より鮮明に浮かび上がっている。冷えた空気の中には、遠くを走る車の音と、まだ練習を続けている運動部の掛け声が微かに残っていた。
歩道へ出ると、絢辻さんは僕より半歩ほど前を歩いた。
「今日は、いつもより遅くならなかった?」
「何が?」
「実行委員会」
「先生への書類を届けた後は、確認だけだったから」
「飲み物も配ってたんだろ?」
「あれは頼まれたわけじゃないわ。余っていたから、近くの部活へ渡しただけ」
そこまで聞くと、鞄の中へ入れてきたスポーツドリンクのことを思い出す。
「それで、僕の分は先に取っておいた」
「まだ言うの?」
「嬉しかったから」
僕の返事に、前を歩いていた彼女の歩調が一瞬だけ乱れた。すぐ元へ戻ったものの、その変化に気づかないほど離れてはいない。
「ただのスポーツドリンクよ」
「うん。ただのスポーツドリンク」
「だったら、大げさに喜ばないで」
「何を嬉しいと思うかくらい、僕が決めてもいいだろ」
以前、部活を途中で抜けるかどうかを巡って似たことを言った覚えがある。あの時ほど切実な場面ではなく、今はほとんど軽口のつもりだったのだが、絢辻さんは一拍置いてからこちらを見た。
「最近、本当に言い返すようになったわね」
「嫌?」
「面倒」
「それは前にも聞いたよ」
同じ答えが返ってきたことに笑うと、絢辻さんは前へ向き直った。
「だったら、何度も確認しないことね」
「でも、退屈はしてないんだろ?」
「……そこまで覚えてるの?」
「記憶力は悪くないから」
今度は僕が得意げに答える番だった。横目で一度見られたものの、反論は飛んでこない。
「あたしの真似?」
「多少は」
返ってきたのは小さな吐息だけだった。けれど、その横顔には呆れきれないような笑みが残っていた。
◇
駅前へ近づくにつれて、人通りが目に見えて増えていった。仕事帰りらしい大人や塾へ向かう制服姿の学生、両手に買い物袋を提げた人たちが歩道を行き交っている。店先のガラスには赤や緑の装飾が連なり、ショーウィンドウの中では小さなクリスマスツリーや雪を模した綿が白い照明を反射していた。
少し前までなら、クリスマスが近いからだと何となく眺めて通り過ぎていただろう。けれど今は、赤と緑を見るたびに教室の壁を思い出す。その間へ僕が選んだ青を加えたことも、黒板の下に置いた鼻の曲がった雪だるまも、いつの間にか街中の景色と結びついていた。
「望月君」
「何?」
「またぼうっとしてる」
「教室の飾りを思い出してた」
「直したいところでもあるの?」
「そうじゃなくて。前より、クリスマスっぽいものが目に入るようになったなって」
絢辻さんも通り沿いのショーウィンドウへ顔を向けた。赤いリボンを巻かれた小さなツリーを眺め、僕が何を見ていたのか確かめているようだった。
「創設祭の準備をしてるからじゃない?」
「それもあるけど、絢辻さんと一緒に選んだからかも」
考えるより先に口へ出た。
絢辻さんはすぐには返事をせず、ショーウィンドウから前方へゆっくり視線を戻した。
「……そういうことを、普通に言うのね」
「変だった?」
「別に」
人通りが増えたことで、いつの間にか二人の間隔も狭くなっていた。肩が触れるほどではないが、どちらかが歩幅を崩せばぶつかりそうな距離で、その近さを意識した途端、さっきまで自然だった歩き方までぎこちなくなりそうになる。
「詞ちゃん?」
後ろから聞こえたのは、僕には馴染みのない呼び方だった。
けれど、隣を歩いていた絢辻さんはすぐに反応した。ほんの一瞬だけ肩に力が入り、それから振り返る。
数メートルほど後ろに、一人の女性が立っていた。僕たちよりいくつか年上に見え、背が高く、長い黒髪を肩の後ろへ流している。遠目なら絢辻さんと見間違えても不思議ではないほど顔立ちは似ていたが、受ける印象は随分違った。整った鼻筋や白い肌、大きな黒い瞳はよく似ているのに、絢辻さんにある張り詰めた鋭さを取り除き、代わりに柔らかさを加えたような雰囲気をしている。垂れ気味の目元には、人懐っこささえ感じられた。
両手には、いくつもの買い物袋を提げている。
「やっぱり詞ちゃんだ」
女性は嬉しそうに笑いながら、こちらへ近づいてきた。
「こんな時間に珍しいね。学校の帰り?」
「制服を見れば分かるんじゃない?」
「それもそうねぇ」
返ってきた声は冷たいというほどではない。それでも、学校で他の生徒へ向ける時とも、僕と二人で話している時とも違っていた。言葉遣いは整っているのに、その奥へ薄い膜を一枚挟んだような隔たりがある。
女性の方は気にした様子もなく、そこで初めて僕の存在へ気づいたように顔を向けた。
「あら?」
「こんばんは」
「こんばんは。詞ちゃんのお友達?」
「同じクラスの望月君」
僕が答えるより先に、絢辻さんが紹介した。間違いではないが、随分と素早い説明だった。
「望月湊です」
「私は絢辻縁。詞ちゃんの姉です」
やはり姉だったらしい。同じ苗字を名乗りながら、縁さんは丁寧に頭を下げた。
「いつも詞ちゃんがお世話になってます」
「お世話になっているのは、どちらかというと僕の方です」
「あら、そうなの?」
縁さんが興味深そうに僕を見ると、隣からすぐに声が飛んでくる。
「望月君、余計なことまで話さなくていいの」
「別に変なことは言ってないよ」
僕たちのやり取りを見て、縁さんが口元へ手を添えて笑った。
「詞ちゃんが学校のお友達と一緒に帰ってるなんて、珍しいね」
「同じ方向だっただけ」
「仲がいいの?」
「普通よ」
またしても絢辻さんの返答は早かった。
今度は縁さんが僕の方を見る。同意を求められているような気がして、無難な説明を選んだ。
「最近は、創設祭の準備を一緒にすることが多いです」
「ああ、創設祭。懐かしいなあ」
その言葉を聞いた途端、縁さんの表情が明るくなる。
「私の時も詞ちゃん、見に来てくれたよね?」
「覚えてないわ」
「来てくれたわよ。お母さんと一緒に」
「昔のことでしょう?」
先ほどから保たれていた声の硬さが、さらに一段増した。けれど縁さんは、妹が単に照れているのだと思ったらしい。
「詞ちゃん、小さくて可愛かったのよ」
「その話はしなくていいから」
「今も可愛いけどね」
絢辻さんは何も返さなかった。否定したところで話が長引くだけだと判断したのか、近くを通り過ぎる人の流れへ視線を逃がす。
「でも、詞ちゃんが実行委員なら安心ね」
縁さんは心からそう思っているらしい笑顔のまま続けた。
「詞ちゃんって昔から本当にしっかりしてるもの。私が忘れたことも、全部覚えててくれたし」
「あなたが忘れすぎるだけよ」
「そうかもしれない」
悪びれる様子もなく、縁さんは笑う。
「今も家で色々してくれてるのよ。お母さんも、詞ちゃんに頼めば安心だって」
その言葉が落ちた時、絢辻さんの手が動いた。
鞄の持ち手を握り直しただけだった。力を込めたというほど目立つ動作でもなく、意識していなければ見過ごしていただろう。それでも、なぜか僕の目には残った。
「そうだ、詞ちゃん。お母さんから連絡来てない?」
「来てないけど」
縁さんは自分が提げている買い物袋へ目を落とし、今思い出したように声を上げた。
「帰りに牛乳と洗剤を買ってきてほしいって。私が頼まれてたんだけど、忘れてお友達と買い物に行っちゃって」
袋の中には服や雑貨が入っているらしい。自分の買い物だけはしっかり済ませていることを、隣の絢辻さんがどう受け取ったのかは聞くまでもなかった。
「今から戻ると遅くなっちゃうから、お願いしてもいい?」
「……分かった」
「ありがとう。やっぱり詞ちゃんは頼りになるね」
絢辻さんはすぐには返さず、縁さんを静かに見返した。
「お母さんには、あなたが忘れたって言っておいて」
「うん。ちゃんと言うわ」
おそらく、本当に言うつもりなのだろう。けれど、それで何かが変わるとは絢辻さん自身も思っていないように見えた。
「望月君も、今度遊びに来てね」
「え?」
「詞ちゃんのお友達なら歓迎するわ。お母さんも喜ぶと思う」
「行かないから」
それまでより明瞭な声だった。
縁さんが驚いたように瞬きをする。
「詞ちゃんが決めることじゃないよ」
どこかで聞いたような言葉だった。ただし、縁さんの声には何の含意もない。単純に僕へ気を遣い、妹の友人を歓迎しているだけなのだろう。
だからこそ、絢辻さんは言い返せなくなったように見えた。
「機会があれば」
代わりに僕が答える。
行くとも行かないとも決めない返事だったが、縁さんはそれで十分だったらしく、嬉しそうに頷いた。
「それじゃあ、私はこっちだから。またね、詞ちゃん」
「ええ」
「望月君も、気をつけて帰ってね」
「ありがとうございます」
縁さんは買い物袋を揺らしながら、駅の反対側へ歩いていった。人波の向こうへ何度か隠れ、そのたびに長い黒髪が現れては消え、やがて完全に見えなくなる。
しばらく、その場には駅前の喧騒だけが残った。
「……行きましょう」
先に口を開いたのは絢辻さんだった。声はもう、ほとんど普段の高さへ戻っている。
「買い物?」
「牛乳と洗剤」
「僕も行くよ」
「どうして?」
こちらを向いた彼女に、僕は駅の方を一度見てから答えた。
「ここまで一緒に来たから」
「駅はすぐそこよ」
「急いで帰る予定もないし」
断られると思っていたが、絢辻さんは「そう」とだけ返した。それ以上何も言わず、近くのスーパーマーケットへ向かって歩き始める。
◇
自動扉が開くと、暖房の効いた空気が冷えた頬へ触れた。外の薄暗さとは対照的に、店内は白い照明で明るく照らされ、夕食前の買い物客が籠やカートを押して行き交っている。野菜売り場では店員が値札を差し替え、奥のレジからは一定の間隔で電子音が聞こえていた。
入口脇に積まれていた籠を絢辻さんが一つ取り、そのまま洗剤の売り場へ向かう。
棚には色も形も似た容器が何列も並んでいたが、彼女が迷うことはなかった。決まった商品へ手を伸ばし、表示を確かめることもなく籠へ入れる。
「家で使ってるやつ?」
「そうよ」
「種類多いのに、よく分かるね」
「何度も買ってるもの」
次に向かった牛乳売り場でも同じだった。銘柄を比較することもなく一本を取り、賞味期限だけを確かめて籠へ収める。その一連の動きは、今日初めて代わりを頼まれた人というより、何度も同じ買い物をしてきた人のものだった。
たった二品なので、買い物そのものは数分で終わる。それでも僕の中には、縁さんと会う前にはなかった引っかかりが残っていた。
姉が忘れた用事を代わりに引き受けることも、家で使っている洗剤の種類や牛乳の銘柄を迷わず選べることも、絢辻さんにとっては特別なことではないらしい。教室で誰より早く仕事を見つけ、誰かが困る前に片づけようとする姿が自然と重なった。
今まで僕が単純に「よく気づく人」だと思っていたものの中には、長い間繰り返してきた習慣が混ざっているのかもしれない。
そんな考えが浮かんだが、口にはしなかった。
「他に買う物は?」
「ないわ」
「じゃあ、会計だね」
彼女と並んでレジへ向かう。
列に並んでいる間、絢辻さんはほとんど話さなかった。僕も無理に話題を探そうとはせず、レジから聞こえる電子音や、近くで菓子をねだっている子供の声を聞きながら順番を待つ。
姉のことも、母親のことも、家の中で絢辻さんがどう過ごしているのかも気になっている。聞きたいことならいくらでも浮かぶけれど、知りたいと思うことと、今ここで尋ねていいことは同じではなかった。
会計を終えると、牛乳と洗剤の入った袋を絢辻さんが持ち上げた。
「洗剤は僕が持つよ」
「持てるわ」
「知ってる」
すぐに断られたが、今回は手を引かなかった。
「なら、どうして?」
「分けた方が持ちやすいだろ。それに、牛乳と洗剤を一緒に入れて歩くより安定する」
絢辻さんは手にしている袋を見下ろした。
「そこまで重くないわよ」
「重いからじゃないよ」
「どちらもあたしの家の物なのに?」
「だからって、僕が一つ持ったら何か困る?」
以前なら、何も考えず袋ごと受け取ろうとしていたかもしれない。今は全部を持つつもりはないし、だからといって隣で見ているだけにするつもりもなかった。
「洗剤だけ」
手を差し出す。
絢辻さんはその手と僕の顔を見比べたあと、諦めたように袋から洗剤を取り出した。
「落とさないでね」
「洗剤くらいなら大丈夫だよ」
「蓋が開いたら悲惨だから」
「それは確かに嫌だな」
受け取ったボトルを持ち直し、二人で店を出る。
暖房に慣れた身体へ夜の冷気が一気にまとわりついた。吐いた息が白く滲み、スーパーの明るい店内を背にして駅へ続く道を歩き始める。
しばらく二人の間に会話はなかったが、その沈黙を破ったのは絢辻さんの方だった。
「何も聞かないのね」
「何を?」
「あの人のこと」
僕はすぐには返さず、隣を歩く横顔を見る。
「話したいなら聞くよ」
絢辻さんは意外そうな顔をした。
「その言い方、ずるくない?」
「どうして?」
「話すかどうかを、全部あたしに決めさせてる」
「絢辻さんの話なんだから、それでいいと思うけど」
そう答えると、彼女はしばらく黙ったまま歩いた。
「気になってはいるんでしょう?」
「もちろん」
「満点の質問で聞けばよかったのに」
「それは違うかな」
歩くたび、手提げ袋の中で牛乳のパックが揺れる。駅前の喧騒から離れた道へ入ると、二人分の足音まで聞こえるようになった。
「何が違うの?」
「答えるって約束したから聞けることと、そういう約束を使わない方がいいことは、別だと思ってる」
絢辻さんは返事をしなかった。けれど会話を終わらせる様子もなく、やがて前を向いたまま口を開く。
「あの人は、昔からああいう人なの」
「ああいう?」
「何も考えてないのに、全部上手くいく人」
声から、先ほどまでの軽さが消えていく。
「忘れ物をしても、誰かが何とかしてくれる。変なことを言っても、天然だからって笑ってもらえる。勉強も運動も、特別努力してるようには見えないのにできる」
「そうなんだ」
それ以上は挟まず、続きを待った。
「さっきだって同じ。買い物を忘れたこと自体は、悪いと思ってるんでしょうね。でも、あたしが断るとは最初から考えてない」
「頼めば引き受けてくれるって思われてるんだ」
「みんな、そう思ってるのよ」
吐き捨てるような言い方ではなかった。むしろ、何度も繰り返されてきたことを確認するような声だった。
学校でも、家でも、誰かがやらなければならないことは絢辻さんへ集まる。彼女ならできる。失敗しない。任せておけば終わらせてくれる。一見すれば信頼と呼べるものなのかもしれないが、頼まれる側が断る可能性を最初から想定されていないのなら、それは少し違うようにも思えた。
「あの人は、悪くないの」
絢辻さんが言った。
姉を責める時とは違い、自分自身へ言い聞かせるような響きが混じっている。
「本当に何も分かってないだけ。だから余計に、腹が立つのよ」
悪意を向けられたなら、怒る理由は分かりやすい。嫌うこともできるし、相手が悪いと責めることもできる。
けれど、相手に悪意がなく、むしろ好意を持って自分へ接しているのなら、その好意に腹を立てている自分の方が間違っているように思えてしまうこともあるのかもしれない。
「さっきさ」
どう言うべきか考えてから、口を開く。
「お姉さんが、絢辻さんは何でも覚えてくれるって言ってた時、鞄を握り直してたよね」
絢辻さんがこちらを向いた。
「そんなところまで見てたの?」
「たまたま目に入っただけだよ」
「本当に余計なところばかり見てるわね」
「否定はできないかな」
以前なら、そこで謝って終わっていたかもしれない。今は彼女が明確に嫌がっていない限り、必要以上に引いてしまうのも違う気がした。
「望月君には、あの人がいい人に見えたでしょう?」
「いい人には見えたよ」
「正直ね」
「僕に対しては、実際に優しかったように感じたから」
そこまで答えてから、一度考える。
「でも、それと絢辻さんがどう感じてるかは別の話だと思う」
「同じようなものじゃない」
「そうかな」
僕は前を向いたまま、考えていることをそのまま口にした。
「お姉さんが僕に優しかったことと、絢辻さんがお姉さんに腹を立てることは、両方あっていいんじゃない?」
隣から返事が消えた。
何歩か進んだところで、低い声が返ってくる。
「分かったようなことを言わないで」
「分かったとは思ってないよ」
「だったら……」
そこで絢辻さんは言葉に詰まり、しばらく前を向いたまま歩いた。
「だったら、簡単にまとめないで」
「うん。それは気をつける」
言われてみれば、その通りだった。縁さんと数分話しただけの僕が、姉妹の関係を理解したつもりになるのは違う。それでも、彼女が自分から話してくれたことまで、聞かなかったことにする必要はないと思う。
「ただ、話してくれたことは覚えておくよ」
「……勝手にすれば」
声から、先ほどまでの刺々しさがわずかに抜けた。
その変化に気をよくして、もう一つ何か言いかける。
比べられるのが嫌なのだろうか。
けれど、言葉が喉まで出たところで止めた。ついさっき、簡単にまとめるなと言われたばかりだ。僕が気づいたことを、何でもその場で答え合わせする必要はない。
代わりに洗剤を持つ手を変えると、隣から不思議そうな視線を感じた。
「何?」
「いや。何でもない」
「今、何か言おうとしたでしょう?」
「やめた」
「珍しいわね」
「言わない方がいいこともあるって、今教わったから」
絢辻さんはしばらく僕の顔を見ていたが、やがて肩の力を抜いた。
「……そのくらいなら、学習が早いのね」
「褒められた?」
「好きに解釈したら?」
張り詰めていた空気が、ようやく少し和らぐ。
それ以上、姉の話は続かなかった。ただ、先ほどまでより彼女の歩幅は幾分小さくなっていて、僕が意識して合わせなくても自然と隣へ並べる程度になっていた。
◇
駅の入口へ着く頃には、電光掲示板の明かりが遠くからでもよく見えるほど辺りは暗くなっていた。改札へ急ぐ人の流れと、反対に駅から街へ出てくる人の流れが交差している。僕たちは通行の邪魔にならないよう建物の端へ寄り、そこで足を止めた。
「洗剤、返して」
「家の近くまで持つよ」
「電車があるでしょう」
「次でも帰れる」
「そこまでしてもらわなくて平気よ」
今度は無理に押し通す理由もない。
「そっか」
洗剤を返すと、絢辻さんは牛乳の入った袋とは別の手に持ち替え、重さを確かめるように握り直した。
「今日はありがとう」
「スポーツドリンク?」
わざと聞き返すと、絢辻さんは呆れた顔をする。
「それは私が渡した方でしょう」
「じゃあ、洗剤」
「それもあるけど」
そこで言葉が途切れた。駅前のざわめきが、その間だけ妙に近く感じられる。
「……あの人のことを、変に慰めなかったから」
「何て言えばいいか分からなかっただけだよ」
「それでいいの」
大丈夫、お姉さんにも悪気はない、家族なのだから仲よくした方がいい。その程度の言葉なら僕にだって言えたが、どれも今の絢辻さんが聞きたい言葉には思えなかった。
「誰にも言わないよ」
「まだ何も頼んでないけど」
「言われる気がしたから」
絢辻さんは僕を見たあと、駅の入口へ流れ込んでいく人々へ視線を移した。
「……なら、お願い。家のことも、あの人のことも、今日ここで話したことは他の人には言わないで」
「分かった」
彼女の方からはっきり頼まれたことで、返事にも迷いはなかった。
それ以上、家庭について何かを説明することもないまま、二人の間に短い沈黙が落ちる。
「また明日ね、望月君」
「うん。また明日」
絢辻さんは背を向け、家へ続く道を歩き始めた。片方の手には牛乳の入った袋、もう片方には洗剤を持っている。
どちらも、もともとは彼女が頼まれていた物ではない。それでも絢辻さんは、それを当たり前のように持って帰る。
僕はその背中が人の流れへ紛れて見えなくなるまで、駅の入口に立っていた。
誰かを手伝うことと、誰かに頼られることは似ているようで、たぶん少し違う。少なくとも今日の僕には、その違いを綺麗に言葉へまとめられるほど分かったつもりにはなれなかった。