絢辻さんを救いたい話 作:紳士
翌朝。
教室へ入ると、始業までまだ時間があるにもかかわらず、後方では何人かの女子生徒が創設祭の飾りを作っていた。赤と緑の画用紙、その脇には細く切られた銀紙が束になって置かれ、机の上を何本ものリボンが横切っている。本番まで残された日数を考えれば、放課後だけでは追いつかず、とうとう朝の時間まで準備に充て始めたらしい。
「おはよう、望月君」
「おはよう」
近くにいた女子生徒へ挨拶を返し、自分の席へ向かう。鞄を机に置いて教科書を取り出しかけたところで、背後から思い出したような声が飛んできた。
「あ、そうだ。昨日、絢辻さんと駅前にいなかった?」
「昨日?」
「うん、スーパーの近く」
伸ばしかけていた手を止めて振り返る。話しかけてきたのは窓側の席にいる女子生徒だった。名前はもちろん知っているし、授業や創設祭の準備で言葉を交わしたこともある。ただ、放課後に誰と歩いていたのかを尋ねられるほど親しいわけではない。
「いたよ」
「やっぱり、二人で帰ってたよね?」
「途中までね」
「買い物もしてなかった?」
声音は何気ないのに、妙にこちらの返事を待ち構えている感じがする。とはいえ、昨日のことを隠す理由もなかった。
「絢辻さんに用事ができたから、付き合っただけだよ」
「ふうん。最近、二人でいること多いなって思っただけ」
「創設祭の準備があるから」
そう答えると、女子生徒は面白そうに笑った。
「でも昨日の買い物、創設祭とは関係なかったでしょう?」
そこまで見られていたのか。
返事を考えていると、教室の入口から聞き慣れた声が届いた。
「おはよう」
絢辻さんだった。いつも通りの笑顔で近くの生徒へ挨拶をしながら教室へ入り、そのまま自分の席へ向かう。待っていましたとばかりに、女子生徒がそちらへ身体を向けた。
「絢辻さん。昨日、望月君と一緒にいたよね?」
「ええ。実行委員会の用事が終わった後、途中まで一緒だったの」
「それだけ?」
「それだけって?」
絢辻さんは鞄を机へ置きながら、ごく自然に答えている。慌てる様子もなく、その返答だけを聞けば昨日の出来事には何の特別さもないように思えた。
「二人、最近仲よくない?」
「創設祭の準備を手伝ってもらっているから、話す機会が増えただけよ。望月君は頼んだことを最後まできちんとやってくれるから、助かってるの」
そこで女子生徒は僕の方へ顔を向け、納得したように頷いた。
「へえ。望月君、結構頼りにされてるんだ」
「そういうことなら、悪い気はしないかな」
「何を得意げになってるの?」
絢辻さんまで笑ったことで、近くにいた生徒たちからも小さな笑いが起こる。
「本人が言ったんだろ」
「真面目に仕事をしてくれる、っていう意味よ」
「十分じゃない?」
「ふふ、そうね」
そのまま話題は創設祭の準備へ移り、僕たちについての追及も自然に消えていった。
昨日、僕たちが何を話したのか。絢辻さんの姉と会ったことも、牛乳と洗剤を買ったことも、家族について彼女が漏らした言葉も、ここにいる誰も知らない。
今、教室の中央で笑っている彼女と、昨日の夜道で姉について語っていた彼女は同じ人だ。それなのに、二つの光景の間には、目には見えない境界が引かれているように感じられた。
◇
1時間目が終わった後、僕は教科書を机へしまいながら、前の席にいる純一へ昨日の続きを尋ねた。
「森島先輩との昨日、どうだった?」
「楽しかったよ」
「何してたの?」
「駅前を見て回ったり、色々」
「色々?」
「色々だよ」
純一はそれだけ言って笑った。返事にはほとんど迷いがなく、以前のように「そういうのじゃない」と先に言い訳をしたり、その後で何があったのかを僕や梅原へ事細かに話したりする様子もない。
「言わないんだ」
「全部話す必要もないだろ?」
「まあ、それはそうだね」
少し前の純一からは、なかなか出てこなかった言葉だと思う。
森島先輩に声をかけてもらった。一緒に帰った。何かを言われた。以前の純一は、嬉しかった出来事を誰かへ話すことで、何度も確かめるようなところがあった。それが最近は減っている。何があったのかを隠しているというより、二人の間で起きたことを、そのまま二人のものとして持っていられるようになったのだろう。
「でも、楽しかったんだ?」
「うん、すごく」
その一言だけで十分らしかった。
以前ならもう少し聞きたくなったかもしれない。けれど、今の僕には何となく分かる。誰かに話したくないのではなく、誰かに話さなくてもいいことが増えていく。
僕にも、そういうものが少しずつ増えていた。
何となく教室の反対側へ目を向けると、絢辻さんは女子生徒二人と飾りの配置について相談していた。壁へ貼る紙を指で示しながら話していて、こちらを気にしている様子はない。朝のやり取りも、昨日僕と一緒にいたことも、彼女にとってはもう処理の済んだ話なのだろうか。
「湊?」
「ん?」
「聞いてる?」
「聞いてるよ」
純一へ意識を戻す。それ以上、昨日のことを聞こうとは思わなかった。
◇
昼休みの少し前、廊下へ出たところで背後から名前を呼ばれた。
「望月君」
振り返ると、絢辻さんが教室の扉のところに立っている。
「少しいい?」
「うん」
戻ろうとした僕を、彼女は廊下の奥へ促した。人の往来が少ない階段横まで移動すると、一度だけ周囲を確かめてから口を開く。
「朝のことなんだけど」
「駅前で見られてたこと?」
「ええ」
「別に、変なことはしてないだろ」
僕がそう言うと、絢辻さんは腕に抱えていたファイルの位置を整えた。
「そういう問題じゃないの。創設祭の前に、余計な噂が広がるのは面倒でしょう?」
「噂って?」
「あたしと望月君が付き合ってる、とか」
実際に言葉へされると、想像していたより直接的だった。思わず一拍遅れてから聞き返す。
「そんなふうに見えるかな」
「二人で買い物へ行って、一緒に帰っていれば、そう受け取る人がいても不思議じゃないわ」
「創設祭の準備でも一緒にいるけど」
「事情を知らない人には関係ないもの」
それはその通りだった。周囲に見えるのは、僕と絢辻さんが一緒に歩いていたという事実だけだ。何を買ったのか、どういう経緯だったのか、どんな話をしたのかまで知るはずがない。
「絢辻さんは、それが嫌?」
「何が?」
「僕と付き合ってると思われること」
口にした直後、聞き方を間違えたかもしれないと思った。
絢辻さんはしばらく僕を見ていたが、やがて淡々と答えた。
「嫌というより、困るの。今は創設祭もあるし、変な話題で周りが騒ぐと動きづらくなるでしょう?」
「それだけ?」
つい尋ねると、彼女の表情にわずかな含みが生まれる。
「そこから先まで答える約束はしてないわ」
これ以上は踏み込ませない、ということらしい。
「とにかく、人がいるところでは今までより距離を置いた方がいいと思うの」
「話さない方がいい?」
「そこまで極端なことは言ってないでしょう?」
絢辻さんは少し考えてから、言葉を選ぶように説明を補った。
「挨拶もするし、用事があれば普通に話す。ただ、必要もないのにずっと一緒にいるように見えるのは避けたいの」
「なるほど」
「分かった?」
「多分」
僕の返事に、彼女は少し困ったような顔をした。
「多分なの?」
「今まで自分では普通だったから」
「望月君の普通は、あたしが思ってたより距離が近かったみたい」
「そうなのか」
「そうよ」
それなら、と素直に頷く。
「じゃあ、気をつける」
あっさり答えた僕を見て、絢辻さんはなぜかすぐには何も言わなかった。
「……随分素直なのね」
「絢辻さんが困るなら、その方がいいだろ」
「そう」
望んでいた返事のはずなのに、声にはどこか釈然としないものが混じっていた。理由までは分からない。
「じゃあ、教室へ戻るね」
「ええ」
先に歩き始め、数歩進んだところで再び名前を呼ばれた。
「望月君」
「何?」
振り返ると、絢辻さんは一度言葉を選ぶように口を閉ざしたあと、先ほどより声を抑えて言った。
「二人の時まで、よそよそしくしろって意味じゃないから」
「それは分かってるよ」
「ならいいわ」
僕の返事を聞くと、それ以上何も付け加えなかった。
ただ、わざわざ呼び止めてまで念を押したことだけは、妙に頭に残った。
◇
昼休み。
ここ最近なら、絢辻さんが創設祭の準備をしている机へ何となく顔を出すことも増えていたが、今日は自分の席でパンを食べた。
話すなと言われたわけではない。ただ、「距離を置く」の適切な加減が分からない以上、必要な用事がない時はこちらから近づかない方が確実だと思った。
「望月君、ちょっと手伝ってくれる?」
昼食を終えた頃、朝に話しかけてきた女子生徒が何本かのリボンを抱えてやってきた。
「何を?」
「窓につける長さを見てほしいの。実際につける位置で持ってもらった方が分かりやすいから」
「僕でいいの?」
「男子の身長くらいで合わせたいの」
それなら僕にも役目はありそうだった。窓際へ移動し、渡されたリボンを上の方へ掲げる。女子生徒は数歩後ろへ下がり、全体のバランスを確かめた。
「もうちょっと下かな」
「この辺?」
「うん、そのまま」
しばらく眺めた後、彼女は腕を組む。
「やっぱり長いかも」
「切ればいいんじゃない?」
「切ってから短かったら戻せないでしょう?」
「じゃあ、端を折ってテープで仮留めしてみたら?」
「あ、それいいね」
机の上で長さを調整し、もう一度窓へ合わせる。今度は迷わず頷いた。
「こっちの方がいい」
「じゃあ、この長さで決まり?」
「うん。望月君、意外とこういうの分かるんだね」
「意外は余計じゃない?」
抗議すると、女子生徒は笑いながら次のリボンを僕へ渡した。
「男子って、飾りなんて適当でいいって言いそうなイメージがあるから」
「人によるよ」
「絢辻さんと買い出ししたから詳しくなった?」
「前よりはね」
答えながら、無意識に教室の前方を見る。
絢辻さんは高橋先生へ提出するらしい書類に目を通していた。こちらの会話を気にしている様子はない。
「次もお願い。あと2本だけ」
「分かった」
別のリボンを持ち上げる。
「もうちょっと右」
「僕から見て?」
「私から見て」
「それだと僕の左だよ」
「分かってるなら動いてよ」
その返し方に覚えがあって、思わず笑ってしまった。
「何?」
「前にも似たことを言われたなと思って」
「誰に?」
「絢辻さん」
女子生徒は納得したように笑う。
「やっぱり仲いいじゃん」
「準備を一緒にしてれば、このくらいの会話はするよ」
「はいはい」
今度は追及せず、女子生徒は作業へ戻った。
僕もリボンを持ち直す。距離を置くと決めた以上、今日はその通りにした方がいい。
作業の途中で何度か教室の前方へ視線を向けたが、絢辻さんがこちらを向くことはなかった。
◇
放課後。
教室には創設祭の準備を続ける生徒たちが残り、紙を切る音や机を動かす音があちこちから聞こえていた。僕も部活へ向かう前に、通路を空けるための机を壁際へ寄せていた。
「望月君、こっちもお願い」
昼休みに一緒にリボンを見ていた女子生徒が、もう一つの机を示す。
「それを動かしたら部活に行くよ」
「ありがとう」
二人で両端を持ち、床へ擦らない程度に持ち上げて運ぶ。隣の机と脚の位置を揃えるために何度か角度を変え、ようやく真っ直ぐ並んだ。
「うん、いい感じ」
「じゃあ僕は――」
「望月君」
教室の前方から名前を呼ばれる。
絢辻さんが数枚の書類を手に立っていた。
「これ、実行委員会の会議室まで持っていってくれる?」
「今から?」
「部活へ行く途中でしょう?」
「僕の部室、そっちじゃないよ」
答えると、絢辻さんは書類をこちらへ差し出したまま言った。
「少し回れば行けるわ」
そのやり取りを見ていた女子生徒が、僕たちを交互に見た。
「私が持っていこうか?」
「大丈夫よ。望月君にお願いするから」
返事は早かった。
「でも、部活に遅れない?」
「まだ間に合うでしょう?」
時計を見る。確かに、寄り道したところで遅刻するほどではない。
ただ、普段の絢辻さんなら頼む前に、今日の部活が何時からなのかくらいは確認していた気がする。
「分かった」
「ありがとう」
書類を受け取る。
「これだけ?」
「ええ」
「じゃあ行ってくる」
教室を出て、指定された会議室まで書類を届ける。そのまま部室へ向かおうと廊下を曲がったところで、後方から足音が近づいてきた。
「望月君」
振り返ると、絢辻さんだった。
「どうしたの?」
「書類、渡せた?」
「今渡してきたよ」
「そう」
確認すると、彼女はそのまま僕の隣へ並んだ。
「わざわざ確かめに来たの?」
「違うわ。私も実行委員会へ行くところなの」
それなら、最初から自分で持ってくれば済んだのではないか。
そう思ったが、どういうわけか口にする気にはならなかった。教室から離れるにつれ、周囲を歩く生徒の姿も減っていく。
「昼休み」
唐突に、絢辻さんが口を開いた。
「何?」
「あの子と、ずいぶん楽しそうにしてたわね」
「リボンを見てただけだよ」
「それにしては長く話してたでしょう?」
声には冗談らしい軽さがなかった。
「頼まれたから手伝ってただけだけど」
「ふうん」
短い返事だけが返ってくる。そのまま歩き続けていたが、明らかに話が終わった雰囲気ではない。
「気になる?」
「何が?」
「僕があの子と話してたこと」
「そんなことは言ってないでしょう」
絢辻さんの歩調がわずかに鈍った。
「朝、あの子にあたしたちのことを聞かれたでしょう? 余計な話をされると困るだけ」
「昨日の買い出しのことは言ったよ。創設祭の準備で一緒だったことも」
「それ以上は?」
「話してない」
そこまでは納得したらしい。
けれど、まだ表情は晴れない。
「今日は、言われた通りにしたつもりなんだけど」
「何を?」
「人前では距離を置くって話。用事がなかったから、僕からは近づかなかった」
「……そうね」
「何か違った?」
尋ねると、絢辻さんはしばらく前を向いたまま黙っていた。
「極端なのよ」
「極端?」
「一日中ほとんど話さなくなるとは思わなかったわ」
「必要な用事がなかったから」
そこまで答えたところで、彼女の声に今までより明確な不満が滲んだ。
「他の子には手伝いまでしてたじゃない」
「頼まれたからだよ」
「あたしだって頼んだでしょう?」
「書類なら持っていったよ」
絢辻さんが足を止める。
「それだけの話じゃないの」
廊下には、いつの間にか僕たちしかいなかった。教室では見せない顔で、絢辻さんがこちらを向く。
「じゃあ、どういう話?」
「……人前で距離を置くって言ったからって、あたしがそこにいないみたいにしないで」
「そんなつもりはなかったよ」
「でも、今日はほとんどこっちへ来なかったでしょう」
「来なかったけど、見てはいたよ」
口にした瞬間、絢辻さんの表情が止まった。
「いつ?」
「昼休みも何度か。書類を書いてた時とか」
「だったら、声くらいかければよかったじゃない」
「だから、近づきすぎないようにしてたんだって」
「加減ってものがあるでしょう?」
僕は思わず苦笑した。
「その加減が分からないから困ってるんだよ。僕の普通は近いって言われたから、離れたら今度は遠すぎるって言われるし」
「……そこまで離れろとは言ってないもの」
語尾が弱くなった。絢辻さん自身も、説明の難しさには気づいているらしい。
「じゃあ、どうすればよかった?」
「それくらい自分で考えて」
「考えてこうなったんだけど」
返すと、彼女はしばらく黙って僕を見た。
「望月君って、変なところにはよく気づくのに、こういう時だけ本当に分からないのね」
「何に気づけば正解だったの?」
「……知らない」
そこで初めて、僕にも何となく輪郭が見えた。
僕が一日中話しかけなかったこと。他の女子生徒とは楽しそうに話していたこと。そして、その話をわざわざ二人きりになってから持ち出したこと。
「絢辻さん」
「何?」
「今日、僕と話せなくて寂しかった?」
妬いていたのか、と聞くよりはずっと穏当な言葉を選んだつもりだった。それでも絢辻さんは完全に虚を突かれたようだった。
「……は?」
「違う?」
「違うわよ」
否定だけは早い。
「なら、ここまで気にしなくても――」
「気にしてない」
その声音には、とてもそうは思えない硬さが残っていた。
「全部は分からないけど、少なくとも機嫌がよくないのは分かるよ」
昨日のことを思い出し、見えている範囲だけを口にする。
絢辻さんはしばらく僕を見たあと、諦めたように息を吐いた。
「……生意気」
「それはもう慣れた」
「誰のせいだと思ってるの?」
「絢辻さんの影響はあると思う」
「どうして、あたしになるのよ」
呆れと苛立ちが混ざった声に、ようやく普段の調子が戻ってくる。
「前より今の方が、話してて退屈しないって言われたから」
「そんなことまで覚えてるの?」
「嬉しかったからね」
素直に答えると、絢辻さんの勢いが止まり、視線だけが僕から外れた。
「僕は、絢辻さんが困るなら距離を取るよ。でも、どうしてほしいか言ってくれないと、また同じことをすると思う」
「……そうね」
「だから、教えて」
今度は急かさずに待つ。やがて絢辻さんは諦めたように息を吐いた。
「人がいるところでは、他の人と同じくらいでいいわ」
「他の人と同じ?」
「挨拶はする。用事があれば話す。何もなくても、たまに話すくらいなら誰も気にしないでしょう?」
「なるほど」
今度はさっきより具体的だった。
「昼休みに手伝いへ行ってもいい?」
「実行委員の仕事ならね」
「他の子の手伝いは?」
意地悪だと分かっていて尋ねる。
絢辻さんはすぐには答えず、やがて素っ気なく言った。
「……好きにすれば?」
「その返事、全然好きにしてよさそうじゃないけど」
「望月君」
「はい」
それ以上からかうのは危険だと判断し、素直に黙った。
絢辻さんは腕時計を確認する。
「もう行かないと、部活に遅れるわよ」
「まだ走れば間に合う」
「昨日みたいに飛ばしすぎないことね」
「そこまで引っ張るの?」
ようやく、彼女の表情にも普段の余裕が戻った。
「じゃあ行くね」
「ええ」
「実行委員会、頑張って」
「望月君も」
背を向け、部室の方へ歩き始める。
「それと」
数歩進んだところで、また呼び止められた。
「何?」
「部活が終わったら、教室へ来て」
「仕事?」
「違うわ。少し話したいことがあるの」
意外な言葉に、思わず振り返る。
「今じゃ駄目?」
「今はお互い時間がないでしょう?」
時計を確かめると、確かにこのまま話していれば僕は遅刻するし、絢辻さんも実行委員会へ行けなくなる。
「終わるの、6時近くになるかもしれないよ」
「分かってる」
「待つの?」
「待つわ」
迷いのない返事だった。
僕と話すためだけに、部活が終わるまで教室へ残る。そう考えると、自然と口元が緩みそうになる。
「じゃあ、終わったら戻るよ」
「必ず来て」
「分かった」
頷いてから、もう一度歩き出そうとする。
「あと」
「まだあるの?」
「……他の人に頼まれたからって、そのまま帰らないでね」
「誰に頼まれる想定なんだよ」
「知らないわよ」
さすがに笑ってしまった。
絢辻さんは不服そうに僕を見ている。
「やっぱり、ちょっと寂しかったんじゃない?」
「早く行きなさい」
今度こそ低い声で追い払われ、僕はそれ以上からかわず部室へ向かって走り出した。
◇
部活が終わった後、約束通り2年A組の教室へ戻った。
廊下はすでに静まり返り、他の教室にもほとんど人影はない。窓の外は完全に夜へ変わり、階下から聞こえる運動部の声さえ昼間より遠く感じられた。
扉を開ける。
教室の後方には赤と緑の飾り、その間を縫うように青い装飾が残っていた。黒板の下では、不格好な雪だるまが昼間と変わらない顔でこちらを向いている。
絢辻さんは、その近くに一人で立っていた。
「遅い」
「部活が終わってからって言っただろ」
「10分くらい前には終わってたでしょう?」
「着替えがあるんだよ」
絢辻さんは壁の時計と僕を見比べた。
「昨日はもっと早かったわよね」
「あの時は髪を乾かさなくて怒られたから」
「今日は?」
「ちゃんと拭いてきた」
近づいてきた彼女が、僕の前髪へ視線を向ける。
「まだちょっと湿ってるけど」
「待たせたくなかったんだよ」
何気なく答えると、絢辻さんの動きが止まった。すぐに何事もなかったように離れ、自分の机の方へ向かう。
「……そう」
「それで、話って?」
「座って」
言われた通り近くの椅子へ腰を下ろす。絢辻さんは自分の席には戻らず、僕の斜め前の机へ座った。昼間なら誰かしらが歩いている距離だが、今の教室には僕たちしかいない。
「昼間のこと」
「距離の話?」
「ええ」
「まだ怒ってる?」
「だから、怒ってないって言ってるでしょう」
これ以上そこを追及しても話は進まない。
「分かった」
僕が引くと、絢辻さんは机の端へ指先を置き、考えを整理するように一度黙った。
「人前で変な噂になるのは困るの。それは変わらないわ」
「うん」
「でも、二人の時までよそよそしくされるのは嫌」
今度は、はっきり言った。
「今日は二人になる機会がなかっただろ」
「今は二人でしょう?」
「そうだね」
「だから、こうして話してるの」
思わず笑う。
「そのために待ってた?」
「悪い?」
「悪くないよ」
むしろ、嬉しい。
どうやら顔にも出たらしい。
「何、その顔」
「何?」
「嬉しそう」
「実際、嬉しいから」
誤魔化さずに答えると、絢辻さんは一瞬返事に困ったようだった。
「……調子に乗らないで」
「何に?」
「あたしが、望月君と話したくて待ってたと思う?」
「違うの?」
すぐに返すと、絢辻さんは僕から顔を逸らし、教室の後ろにある飾りへ視線を向けた。
「確認しておきたかっただけ」
「僕と話して?」
しばらく沈黙したあと、小さな声が返ってくる。
「……結局、同じでしょう?」
それ以上追及する必要はない気がした。
「じゃあ明日からは、ちゃんと挨拶する」
「それは当たり前」
「用事がなくても、たまには話す」
「毎回話題を作る必要まではないわよ」
僕が一つずつ確認していくと、絢辻さんも自分の要求が曖昧だったことを自覚したのか、考え込むように机へ視線を落とした。
「昼休みにそっちへ行くのは?」
「毎日は来なくていい」
「難しいなあ」
僕が困ると、絢辻さんも少し考える。
「……じゃあ、あたしから呼ぶこともあるから」
「それなら分かりやすい」
ようやく具体的な基準が一つできた。
「あたしが呼んだら来て」
「予定がなければね」
「そこは必ずじゃないの?」
即座にこちらを向かれる。
「前にも言っただろ。部活もあるし、他の予定が入ってることもある」
以前なら、ここで文句を言われていたかもしれない。けれど絢辻さんは数秒考えただけで、静かに頷いた。
「……分かってるわよ」
「ならよかった」
呼ばれたら必ず応える、ではない。行ける時には行くし、行けない時には断る。それでも呼んでいい。
以前より、その関係の方が僕には楽だった。
「それと」
「まだある?」
絢辻さんは僕を見ず、机の木目を眺めたまま続ける。
「他の女の子と話すのは、別に好きにすればいいわ」
「うん」
「でも……」
珍しく、そこで言葉が途切れた。
「でも?」
「……あたしの前で、あんまり楽しそうにしないで」
数秒、意味を考える。
「どうして?」
「気が散るから」
「何の?」
「仕事の」
言い切った。
僕は彼女の横顔を見る。昼休みのことを、仕事へ集中できなくなるほど気にしていたらしい。
「それ、本当に仕事の問題?」
「そうよ」
「そっか」
それ以上は聞かなかった。
妬いている。そう断定するほど、僕は彼女の内側を知っているわけではない。ただ、僕が他の女子生徒と楽しそうに話していることを、どうでもいいとは思わなかった。
今は、それが分かれば十分だった。
「……何を笑ってるの?」
「笑ってないよ」
「顔に出てる」
「そこまで見なくてもいいのに」
「望月君が分かりやすいだけよ」
僕は返事をせず、そのまま笑った。
前なら、こういう時はどちらかが同じ言葉を返して、勝った負けたのようなやり取りを続けていた気がする。今日は、それをしなくてもよかった。少し黙ったくらいでは、もう気まずくならなかったからだ。
「帰りましょう」
先に立ち上がったのは絢辻さんだった。
「もう話は終わり?」
「終わりよ」
「待ってた時間の方が長かったね」
「誰かさんの部活が長いから」
僕も立ち上がり、鞄を肩へ掛ける。
「最初から一緒に帰るつもりだった?」
「違うわ」
「じゃあ?」
「鍵を職員室へ返しに行くから、途中まで同じ方向なの」
「それなら、一緒だね」
絢辻さんは一度こちらを見てから、否定するのを諦めたらしい。
「……そうね」
教室の電気を消す。
急に暗くなった室内で、黒板の下に置かれた雪だるまだけが廊下から差し込む光を受け、ぼんやりと形を残していた。扉を閉め、絢辻さんが鍵を回す音が静かな廊下へ響く。
二人で歩き始める。
人前では、周囲が気にしない程度に接する。二人きりになれば、わざわざ距離を取る必要はない。昼間には曖昧だった線を、結局僕たちは言葉にしながら引き直した。
その境界を僕はまだ上手く測れないし、きっと絢辻さん自身も完全には決められていないのだと思う。それでも、朝に一度遠ざけたはずの距離は、夜になる頃にはまた自然に戻っていた。
今度は、どちらか一人が勝手に決めた距離ではなく、二人で探し直した分だけ。