絢辻さんを救いたい話 作:紳士
翌朝。
教室へ入って最初に目に入ったのは、斜め前にある絢辻さんの空席だった。始業までまだ10分以上あるとはいえ、普段ならとっくに登校して、創設祭の資料を確認しているか、近くの生徒とその日の作業について話している頃だ。
昨日は僕の部活が終わるまで教室に残っていた。帰り道でも足取りがおかしかった覚えはないし、話している時の声や表情も、少なくとも僕にはいつも通りに見えていた。だから最初は、今日はたまたま来るのが遅いだけなのだと思った。
「おはよ、湊」
「おはよう」
前の席へ鞄を置いた純一へ返事をしながら、もう一度入口へ目を向ける。そんな僕の様子に気づいたのか、純一もつられるように教室の後方を見た。
「誰か待ってる?」
「いや。絢辻さん、今日は遅いなと思って」
「ああ、確かに」
純一は空席を確かめると、何か思いついたように口元を緩めた。
「寝坊とか?」
「絢辻さんが?」
言ってから二人で少し考える。
「……ないか」
「僕も想像できない」
けれど予鈴が鳴っても、彼女は現れなかった。
やがて高橋先生が教室へ入り、朝の挨拶を済ませて出席を確認していく。絢辻さんの名前のところで名簿から顔を上げ、空席を一度確かめてから教室全体へ知らせた。
「絢辻さんは今日はお休みです。体調を崩したそうだから、実行委員のみんなは今日の分をうまく分担してあげてね」
教室の何人かが顔を見合わせ、「珍しい」と囁く声が聞こえた。創設祭の準備は大丈夫なのかと話している生徒もいたが、高橋先生が次の連絡事項へ移ると、その声もすぐに収まっていく。
僕も1時間目の教科書を取り出した。体調を崩したのなら仕方がないし、昨日の帰りに気づけなかったことを今さら考えてもどうしようもない。そう思って黒板へ意識を向けたはずなのに、授業の合間には何度か、斜め前の空席が視界へ入り込んだ。
◇
昼休みになって、ようやく携帯電話を取り出した。
朝から送ろうかどうか迷っていた。休んでいるなら寝ているかもしれないし、熱があるならメールを返すのも負担になるかもしれない。そんな理由を並べているうちに、午前の授業が全部終わってしまった。
けれど、考えてみればメールは起きた時に読めばいい。送らない方がいいと勝手に決めるのも、結局は僕が相手の反応を先回りしているだけだった。
『体調、大丈夫?』
それだけ打って送信し、携帯電話を机へ置いて購買のパンを開ける。返事が来たのは、半分ほど食べ終えた頃だった。
『大丈夫よ』
短い。けれど、学校を休んでいる本人から送られてくる「大丈夫」を、そのまま信じていいものかは怪しかった。
『熱ある?』
数分して返事が来る。
『少し』
さらに怪しい。
『何度?』
今度はしばらく画面が動かなかった。寝たのならそれでいいと思い、携帯電話を伏せる。ところがパンを食べ終える頃になって、机の上から振動が伝わった。
『38.1』
思わず数字を見直した。
『それ、大丈夫って言わなくない?』
『寝てれば治るわよ』
返ってくる文章だけなら、普段の絢辻さんとそれほど変わらない。
『昨日から調子悪かった?』
送信してから、少し間が空いた。
『ちょっと疲れてただけ』
つまり、昨日の時点で何もなかったわけではないらしい。
夜の教室を思い返す。僕の部活が終わるまで待っていた絢辻さん。まだ髪が湿っていると言われたこと。「待たせたくなかったんだよ」と答えた僕を見て、一瞬だけ言葉を失っていたこと。
あの時の僕は、待ってくれていたことをただ嬉しいと思った。その人が本当は疲れていたかもしれないなんて、考えもしなかった。
『昨日、無理して待ってた?』
返事はすぐには来なかった。
『昨日はそこまでじゃなかったもの』
否定としては微妙だった。
『今日はちゃんと休んでね』
『分かってる』
そこで一度やり取りを止める。
数分後、今度は向こうからメールが届いた。
『創設祭の準備は?』
やっぱり気になるらしい。
顔を上げて教室を見渡す。壁際では昨日の続きの飾りを作っている生徒がいて、窓側では長さを決めたリボンが次々と切り揃えられている。別の机では担当者同士が予定表を確認し、終わった作業へ印をつけていた。
中心に絢辻さんはいない。それでも、準備はちゃんと動いている。
『みんなで進めてるよ』
『どこまで?』
『窓側はほぼ終わった。壁の方もやってる』
『先生に出す書類は?』
『朝、高橋先生が確認してた』
質問が続けて返ってくる。38℃の熱を出している人が、ベッドの中から確認することなのだろうか。
『絢辻さん』
『何?』
『それ確認するの、明日でもよくない?』
今度は少し返事が遅かった。
『気になるのよ』
理由はそれだけだった。
『何かあったら連絡するから、今日は休んで』
送ってから、少し押しつけがましかったかもしれないと思った。けれど返ってきたのは反論ではない。
『……分かった』
普段なら、もう一言くらい返ってきそうなのに、それで会話は終わった。
素直に引いたことの方が、38.1という数字より、彼女の具合の悪さを実感させた。
◇
放課後、部活へ向かう前に、教卓の横へ積まれたプリントが目に入った。今日休んだ生徒の分らしく、その中には絢辻さんの名前が書かれた束もある。数学の課題や授業の配布物に混じって、創設祭関係の連絡用紙まで1枚挟まっていた。
何となく立ち止まって見ていると、高橋先生が職員室から戻ってきた。
「あら、望月君。どうかした?」
「これ、今日休んだ人の分ですか?」
「ええ。明日来たら渡そうと思ってるんだけど」
高橋先生も僕の見ている束に気づき、名前を確認する。
「絢辻さん、まだ具合悪そう?」
「昼にメールしたら、38℃くらいあるって言ってました」
「それは明日も無理しない方がいいわね。創設祭が近いから焦ってるのかもしれないけど」
先生は困ったように笑った。
僕はもう一度プリントへ目を落とす。明日でいい。絢辻さん自身も、きっとそう言う。それでも、口から出たのは別の言葉だった。
「先生、僕これ届けてもいいですか?」
「絢辻さんのお家に?」
「はい。場所は本人に聞けば分かると思います」
高橋先生は少し驚いたように僕を見たあと、プリントへ視線を戻した。
「それならお願いしてもいいけど、体調を崩してるんだから突然行っちゃ駄目よ。ちゃんと絢辻さんに確認してからね」
「分かりました」
「それと、長居しないこと。望月君も風邪をもらわないように気をつけて」
「はい」
プリントの束を受け取る。
先生に頼まれたわけではない。僕が自分から言い出したのだと気づくと、鞄へしまいかけた手が一度止まった。
昨日、『あたしが呼んだら来て』と絢辻さんは言った。僕は『予定がなければね』と返したばかりだ。
今日は呼ばれていない。それどころか、この後連絡すれば、おそらく来なくていいと言われる。
それでも、届けに行こうと思った。
◇
部活が終わる頃には、校舎の外はすっかり暗くなっていた。
着替えを済ませ、鞄の中にプリントが入っていることを確かめてから校門を出る。
『今日のプリント預かったんだけど、届けようか?』
歩きながら送る。
返事は駅へ向かう途中で届いた。
『明日でいいわよ』
予想通りだった。
『明日学校来るの?』
『そのつもり』
『熱は?』
しばらくして、
『37.9』
と返ってくる。まだ十分高い。
『それなら明日も休んだ方がいいと思う』
『朝には下がってるかもしれないでしょう?』
いかにも絢辻さんらしい。
僕は駅前で足を止めた。
『じゃあ、今日持っていくよ』
『だから明日でいいって言ってるでしょう』
画面を見つめる。
ここで引くのが相手を尊重することなのか、一瞬迷った。ただ、プリントを渡すだけなら長い時間を取らせるわけでもない。本当に会いたくないと言われたら、玄関で家の人へ預けて帰ればいい。
それ以上に、僕自身が顔を見ておきたかった。
『玄関で渡して帰るよ。嫌なら家の人に渡す』
今度は長く返事が来なかった。電車を1本待つほどの時間が経ってから、ようやく画面が光る。
『……分かった』
続けて住所が届いた。
一昨日、縁さんと別れた場所から、それほど離れていなかった。
◇
絢辻家の前に立つと、急に自分のしていることを意識した。
友人の家へ行くこと自体は珍しくない。けれど女子の家、それも絢辻さんの家となると、どうにも勝手が違う。
門の前で住所をもう一度確認し、呼び鈴を押す。
ほどなくして玄関の扉が開いた。
「あら。この前の子」
「こんばんは」
「あ、望月君だよね?」
「はい」
現れた縁さんは、一昨日と変わらない柔らかな笑顔を浮かべていた。
「詞ちゃんに学校のプリントを届けに来ました」
「わざわざ? ありがとう」
「渡したらすぐ帰ります」
「外、寒かったでしょう? とりあえず入って」
一度は遠慮したものの、玄関先で押し問答をする方がかえって長くなりそうだった。
「じゃあ、お邪魔します」
「どうぞ」
靴を脱いで玄関へ上がる。一昨日スーパーで買った牛乳や洗剤も、この家で使われているのだろう。実際に家の中へ入ったことで、あの日聞いた姉妹の話まで急に現実味を増した気がした。
「詞ちゃん、さっき起きたところなの」
「まだ熱あるみたいですね」
「うん。でも本人は明日学校行く気なんだよ?」
「朝になれば分からないって言ってました」
縁さんが困ったように僕を見る。
「望月君も、休んだ方がいいと思うよね?」
「37℃台なら、僕は休んだ方がいいと思います」
「ほら」
「余計なこと言わないで」
階段の上から、普段より低く、力の抜けた声が落ちてきた。
見上げる。
階段の途中に絢辻さんが立っていた。
「聞こえてた?」
「聞こえるように話してたでしょう?」
学校で見る姿とは、随分印象が違った。髪は下ろしたままで、いつものようにきれいに整えられてはいない。制服ではなく、ゆったりした部屋着の上からカーディガンを羽織り、頬にはまだ熱が残っている。
いつもの「絢辻さん」に見慣れているせいか、家の中にいる彼女は普段より幾分幼く見えた。
「本当に来たのね」
「来るって言ったから」
「プリントならここで受け取るわ」
絢辻さんが階段を下りようとする。一段目へ足を置いたところで動きが鈍り、すぐ手すりへ手を添えた。転ぶほどではなかったが、縁さんが眉を寄せるには十分だった。
「詞ちゃん、だから寝てなって」
「ちょっと立ちくらみしただけ」
その言葉を聞いて、僕も口を挟む。
「それを平気とは言わないんじゃない?」
絢辻さんの眉間に皺が寄った。
昨日までなら、この姉妹の間へ入ることにはためらいがあったと思う。けれど今は、目の前でふらついたという事実の方がずっと分かりやすかった。
「僕が持って行くよ。すぐそこまでなら」
絢辻さんがこちらを見る。
「……人の部屋に入りたいだけじゃないでしょうね」
「その言い方ができるなら、ちょっと安心した」
「どういう意味よ」
言い返した声の途中に、小さな咳が混じる。
本人もさすがに諦めたらしい。
「……分かった。来て」
ゆっくり階段を上っていく背中を追う。
途中で縁さんに小声で呼び止められた。
「望月君」
振り返ると、彼女は階段の上を気にしながら声を潜めた。
「詞ちゃん、無理しそうだったら止めてあげてね。私が言っても、なかなか聞かないから」
一昨日聞いた話を思い出した。忘れても周囲が助けてくれる姉と、頼まれる前に必要なことへ気づいて、自分で片づける妹。
「できる範囲で」
僕も声を抑えて答えた。
◇
部屋へ入って最初に目についたのは、机だった。
教科書や参考書はもちろん、筆記具まで整然と並んでいる。棚の本や小物にも雑然としたところはなく、学校での彼女をそのまま部屋へ持ち込んだような印象だった。
そして机の端には、創設祭関係の資料が積まれている。何枚かだけ、束から離れていた。
「今日もやってた?」
僕がそちらへ視線を向けると、ベッドへ腰を下ろした絢辻さんがすぐに答えた。
「少し見ただけ」
「熱あるのに?」
「寝てばかりだと暇なのよ」
持ってきたプリントを机へ置く。
「だったら本でも読めばいいのに」
「集中できないもの」
「創設祭の資料なら集中できる?」
「内容が頭に入ってるから」
理屈になっているようで、なっていない気がする。
僕が何も言わずにいると、絢辻さんは持ってきたプリントへ手を伸ばしかけた。その途中で僕の顔を見て、指先を止める。
「何?」
「今日は見ない方がいいんじゃないかな、とは思ってる」
「渡しに来た人が言う台詞?」
「明日必要になるかもしれないから届けた。でも、今日やれとは言ってないよ」
「明日も休んだら?」
「その時は明後日」
即答すると、絢辻さんは眉を寄せた。
「簡単に言うわね」
「だって、それ以外ないだろ」
「創設祭まで時間がないの」
「今日もみんなで進めてたよ」
絢辻さんはベッドの上で身体の向きを変え、壁へ背中を預けた。
「メールで聞いたわ。あたしがいなくても、みんな自分の担当くらいできることは分かってる」
「うん」
「でも、それとこれとは別でしょう?」
何が別なのかまでは言わなかった。
以前なら、理由を聞いて言葉にさせようとしたかもしれない。けれど今日は、熱のある相手から答えを引き出すことより、目の前の資料を閉じてもらう方が大事に思えた。
「じゃあ、本当に今日やらないと困ることある?」
質問を変える。
絢辻さんは机を見たまま、しばらく考えた。
「……ない」
「なら、今日は休んでも大丈夫だね」
「そういう結論に持っていきたかったの?」
「うん」
素直に認めると、絢辻さんの口元が緩む。
「卑怯」
「質問に答えたのは絢辻さんだろ」
「こういう時だけ口が回るのね」
「誰の影響かな」
いつもの調子なら、すぐに何か言い返されるところだった。けれど絢辻さんは一度瞼を伏せると、そのまま枕へ身体を預けた。
「……疲れた」
あまりにも自然に漏れた声だった。
言ってから、本人も気づいたらしい。僕もすぐには返さなかった。
学校でなら、こんなふうに何の飾りもなく「疲れた」と口にしただろうか。
「寝る?」
「今寝たら、夜眠れなくなるかも」
「でも眠そうだよ」
絢辻さんは目を閉じたまま、ゆっくり息を吐く。
「望月君って、病人には結構うるさいのね」
「元気な人が38℃出してたら、同じこと言うと思う」
「それ、もう病人でしょう」
確かに。
僕が笑うと、絢辻さんも目を閉じたまま口元を緩めた。
◇
プリントを渡すという目的はもう済んでいる。
先生にも本人にも長居はしないと言ったのだから、そろそろ帰るべきだろう。時計を見ると、部屋へ入ってから10分ほどが経っていた。
「じゃあ、僕そろそろ帰るよ」
「……そう」
絢辻さんは枕から顔を上げる。
「プリントありがとう」
「うん。また学校で」
椅子から立ち上がり、鞄へ手を伸ばした。
「もう?」
小さな声に、動きが止まった。
振り返ると、絢辻さん自身も言ってから気づいたようだった。
「え?」
「……何でもない」
視線が窓の方へ逸れる。
「長居しないって言ったから」
「そうね」
「もうちょっといた方がいい?」
尋ねると、すぐには答えが返ってこなかった。
窓の外を車が通り、カーテン越しの光が壁をゆっくり滑っていく。絢辻さんは毛布の端を摘んだまま、そこへ視線を落としていた。
「別に――」
いつもの言葉が途中で切れる。
一度唇を閉じてから、言い直した。
「……急いでないなら、もうちょっとくらい」
「急いではないよ」
「なら、いてもいいわ」
僕はもう一度椅子へ座った。
特にすることはない。創設祭の作業を手伝うわけでも、勉強を見るわけでもない。学校のプリントについても、もう説明することはなかった。
「それで、何するの?」
「何もしなくていいんじゃない?」
「人の部屋まで来て?」
「病人に何かしてもらう方が変だよ」
絢辻さんは天井を眺めた。
「……暇」
「寝れば?」
「人がいるのに寝られないでしょう」
「僕は気にしないけど」
「あたしが気にするの」
熱があっても、その辺りは譲らないらしい。
僕は椅子の背へ身体を預けながら、何か話題を探した。創設祭の話を出せばまた資料へ手を伸ばしかねないし、勉強も似たようなものだ。
「今日さ、純一が授業中に消しゴム落として」
絢辻さんが怪訝そうにこちらを見る。
「……それ、面白い話?」
「まだ始まったばっかりだよ」
「最初の一文でもう期待できないんだけど」
そう言われても、他に思いつかなかった。
先生に当てられた純一が、消しゴムが机の下へ転がっていることに気づかず、答えを書こうとしてしばらく困っていたこと。それを近くの生徒が拾ったものの、授業中だからと妙に目立たないよう返そうとして、かえって先生に見つかったこと。
一通り話し終える。
「それで終わり」
「本当に?」
「うん」
数秒の沈黙のあと、絢辻さんの肩が揺れた。
「くだらない」
「だから期待するなって」
「言ってないでしょう?」
笑ったせいか、小さく咳が出る。それでも、先ほどより表情は柔らかくなっていた。
「学校は?」
咳が収まると、今度は絢辻さんの方から尋ねてきた。
「普通だったよ」
「……あたしがいなくても?」
「うん」
答えてから、少し直接的だったかもしれないと思った。
けれど彼女は怒らなかった。
「創設祭も?」
「普通に進んでた」
「そう」
視線が天井へ向く。安心しているのか、別のことを考えているのか、横顔からは読み取れない。
「止まってた方がよかった?」
「そんなわけないでしょう」
今度は迷いのない返事だった。
「あたしが1日休んだくらいで全部止まる方が問題よ。ちゃんと進んでるなら、その方がいいに決まってる」
「そっか」
「何?」
「いや。それならいい」
それ以上の意味を僕が勝手に決める必要はなかった。
絢辻さんは僕を一度見たあと、再び枕へ頭を預けた。そのまま会話が途切れたが、気まずさはなかった。
時計の秒針が進む音。階下から伝わってくる食器の触れ合う気配。遠くの道路を走る車の音。学校ではいつも次に何をするのかが決まっている。授業が終われば休み時間になり、放課後には部活や創設祭の準備が待っている。
今は、僕にも絢辻さんにもすることがない。
ただ同じ部屋にいる。
「望月君」
「うん?」
「あたしが呼んだら来て、って昨日言ったでしょう?」
「言ってたね」
絢辻さんは目を閉じたまま続ける。
「今日は呼んでない」
「うん」
「むしろ、来なくていいって言った」
「そうだったね」
僕が認めるたび、閉じられた目元へ少しだけ力が入る。
「じゃあ、どうして来たの?」
昼間から何度か、自分でも考えていた。
先生に頼まれたからではない。プリントは理由にはなったが、明日でも構わなかった。本人からも一度は断られている。
「心配だったから」
答えると、絢辻さんがゆっくり目を開いた。
「それだけ?」
「顔、見ておきたかった」
口にすると、思っていたより直接的な言葉になった。急に居心地が悪くなり、僕は机の方へ視線を逃がす。
「昨日まで普通だったのに急に休んだし、メールしたら38℃あるって言うし。だから、僕が来ようと思った」
絢辻さんは何も言わなかった。毛布の上へ出ていた指先だけが、所在なさそうに布地を撫でている。
「呼ばれてないのに来たら駄目だった?」
しばらく返事はなかった。
やがて絢辻さんは毛布を口元近くまで引き上げ、そこからこちらを見る。
「駄目とは言ってない」
「よかった」
「でも、あたしが呼んだ時に来なかったら、それは腹が立つと思う」
「予定がなければ行くよ」
「分かってるわよ」
昨日と同じ答えだった。
けれど、昨日ほど不満そうには聞こえなかった。
しばらく天井を眺めていた絢辻さんが、やがて声を落とす。
「……次は、ちゃんと呼ぶ」
「うん」
それだけ返した。
◇
その後は、またどうでもいい話をした。
最近読んだ本のことや純一のこと、陸上部で後輩がスタートの合図を勘違いしたこと。どれも明日までに覚えておく必要はなく、創設祭の役にも立たない。
絢辻さんは途中から横になり、時折目を閉じながら聞いていた。次第に返事の間隔が長くなり、相槌にも眠気が混じり始める。
「眠い?」
「……ちょっと」
「今度こそ寝なよ」
「望月君は?」
「帰るよ」
今回は「もう?」とは言われなかった。ただ、閉じかけていた瞼が一度だけ持ち上がる。
「そう」
「また学校で」
「明日行くわ」
「熱が下がってたらね」
「下がるから」
僕は苦笑した。
「それ、自分で決められる?」
返事の代わりに、露骨に面倒そうな顔をされたので、さすがにこれ以上言うのはやめる。
椅子を元の位置へ戻し、鞄を肩へ掛けた。
「望月君」
扉へ向かう途中で呼ばれる。
振り返ると、絢辻さんはベッドへ横になったままこちらを見ていた。
「あの……プリント、ありがとう」
「うん」
そこで一度言葉が途切れる。
僕は何も言わずに待った。
「それと、来てくれたのも……ありがとう」
普段より低い声だった。
「どういたしまして」
それ以上は何も足さなかった。
部屋を出るまで、絢辻さんは目を閉じなかった。
◇
翌日も、絢辻さんは学校を休んだ。
高橋先生によれば熱は下がってきているものの、大事を取ってもう1日休むことになったらしい。
教室では昨日と変わらず授業が進み、創設祭の準備も続いていた。彼女がいないからといって、誰か一人がその代わりをすべて引き受けるわけではない。分かる人が分かるところを進め、判断できない部分だけを後回しにしている。
「ここ、絢辻さんに確認した方がいいかな」
「明日来たら聞けばいいんじゃない?」
「じゃあ今日はこっちやろう」
近くの机では、それだけの会話で次の作業へ移っていた。
誰も困り果ててはいない。
だからといって、絢辻さんがいなくても同じだというわけでもなかった。彼女が先に決めた担当や順番があるから、休んでいる間にも迷わず進められている部分は多い。
窓際には、昨日より増えた飾りが並んでいる。
その様子を眺めながら、僕は昨日聞いた声を思い出した。
『……あたしがいなくても?』
あの時、僕は「うん」と答えた。
今日も、その答え自体は変わらなかった。
◇
さらに翌朝。
教室へ入って最初に目を向けた席には、見慣れた姿が戻っていた。
絢辻さんは自分の机で、休んでいる間に進んだ創設祭の資料を確認している。
「おはよう」
声をかけると、顔が上がった。
「おはよう、望月君」
「もう大丈夫?」
「ええ。昨日はずっと平熱だったし、もう問題ないわ」
声にも表情にも、熱の気配は残っていなかった。
「よかった」
「随分心配してたのね」
「家まで行ったくらいだからね」
僕が答えると、絢辻さんは一瞬だけ視線を止めた。
「……そうね」
机の上には、休んでいる間に他の生徒が進めた内容がまとめられていた。何枚かの紙には別々の筆跡で書き込みがあり、普段なら絢辻さん自身が確認していた部分にも印がついている。
「準備、結構進んでたでしょう?」
「ええ。思ってたより」
資料をめくっていた指が止まる。
「何か問題あった?」
「特には。絢辻さんに聞かないと分からないところだけ残してあるよ」
「そう」
彼女は該当箇所を確かめる。
「じゃあ、そこは後で見るわ」
「今じゃないんだ」
「まだ朝でしょう?」
「確かに」
以前なら、登校した瞬間から休んだ分を取り戻そうとしていたかもしれない。とはいえ、それを指摘すれば余計なことを言ったと怒られそうなので、黙っておく。
「望月君」
「何?」
「この前はありがとう」
「もう聞いたよ」
「熱がある時に言ったでしょう?」
「覚えてるけど」
僕が答えると、絢辻さんはやや不満そうにこちらを見る。
「だったら、2回受け取っておけばいいじゃない」
「分かった。ありがとうを2回もらった」
「何よ、その言い方」
思わず笑うと、絢辻さんも呆れたように息を吐いた。
「今日は無理しないでね」
「もう治ったって言ってるでしょう?」
「病み上がり」
「しつこい」
「一回休んだ人には言うよ」
そこで予鈴が鳴った。
廊下にいた生徒たちが次々と教室へ戻ってくる。絢辻さんは机の上の資料をもう一度開きかけたものの、時計を見てから閉じ、そのまま机の中へしまった。
「ほら、望月君も席に戻りなさい」
「はいはい」
「返事は一回」
「はい」
今度は満足したらしい。
僕も自分の席へ戻り、教科書を取り出す。
斜め前には、もう空席はなかった。