絢辻さんを救いたい話 作:紳士
キーンコーンカーンコーン。
スピーカーから流れた無機質な鐘の音が、朝のSTの終了を告げた。
「それでは、一時間目の準備をしてください」
高橋先生が話を締めくくると、教室の空気が一気に緩んだ。
椅子を引く音。
机の中を探る音。
友人の席へ集まる生徒たちの声。
十分にも満たない短い休み時間だが、朝の教室ではこれが最初の自由時間でもある。登校してすぐには話せなかったことを持ち寄るように、あちこちで会話の輪ができ始めていた。
僕も席を立とうと椅子を引きかける。
「あっ、ごめんね、望月くん」
すぐ横から声をかけられ、動きが止まった。
「え?」
顔を上げる。
何枚かの書類を胸元で揃えた絢辻さんが、僕の机の横に立っていた。
黒く長い髪が肩から流れ、その先が胸元の紙へ触れている。
「先週配った進路調査用紙、もう書き終わってるかな?」
「ああ、あれか。たぶん……ちょっと待って」
席を立つのをやめ、机の中へ手を入れる。
昨夜、書いたところまでは覚えている。
覚えているのだが、提出用のファイルへ挟んだかどうかまでは自信がなかった。
ついさっき、僕たちが絢辻さんへ面倒をかけているのではないかと考えたばかりだ。
その直後に書類を紛失していた、では洒落にならない。
「昨日書いたはずなんだけど……」
「急がなくても大丈夫よ。今日は提出じゃなくて、まだ持っていない人の確認だから」
「それでも、なくしてたら迷惑かけるし」
「なくしていたら、もう一枚渡すだけだけど?」
絢辻さんは少しだけ可笑しそうに笑った。
どうやら、僕の焦り方が大げさに見えたらしい。
「そうなんだけどさ」
机からファイルを引き抜く。
人差し指と中指で留め具を押さえ、親指で紙の端を弾いていく。
数学の小テスト。
英語のプリント。
部活の予定表。
いつ入れたのか覚えていない購買のレシート。
「整理した方がいいんじゃない?」
「僕も今、同じことを思ったよ」
「今だけで終わらないといいわね」
「手厳しいなぁ」
「普通の助言です」
口元には柔らかな笑みが残っている。
冗談なのか、本気なのか。
たぶん両方なのだろう。
「あった」
十枚ほどめくったところで、見覚えのある用紙が現れた。
氏名欄には僕の名前。
その下には、ひとまず考えている進路と志望校を書いてある。
「ちゃんと書いてあるよ。提出はいつだっけ?」
「来週の月曜日。それまでに保護者の確認欄もお願いね」
「分かった」
「ありがとう。朝から引き止めてごめんね」
絢辻さんは用紙を確認すると、手元の名簿へ小さく印をつけた。
「いや、絢辻さんが謝ることじゃないよ。確認するのも仕事なんでしょ?」
「そうだけど、休み時間を使わせたのは私だから」
そう言って、丁寧に頭を下げる。
わずか数十秒のやり取りだった。
それでも彼女は、僕の時間を使ったことを当然にはしないらしい。
「じゃあ、お願いします」
「うん」
絢辻さんは小さく微笑むと、次の生徒の席へ向かった。
「田中君、少しいいかな?」
呼びかける声が聞こえる。
彼女の手元には、まだ何枚もの書類が残っていた。
朝のSTが終わっても、絢辻さんの仕事は終わらないらしい。
自分の席へ戻る間もなく、今度は別の男子生徒から何かを尋ねられている。
その質問にも表情を変えずに答え、必要な紙を取り出す。
大変そうだな。
そう思いはしたものの、この場で僕にできることはなさそうだった。
ファイルを机へ戻し、一時間目の教材を取り出す。
数学の予習は昨日のうちに済ませてある。
授業まで、まだ少し時間があった。
僕は机の上を簡単に整えると、純一の席へ向かった。
「あ、湊。おはよ」
「おはよう、薫。純一も」
「おはよう」
純一の机のそばには、棚町薫がいた。
薫は純一とは小学生の頃からの付き合いで、僕とも普段からよく話す。
少し癖のある黒髪は、丁寧に整えてもどこか自由に跳ねている。灰色がかった瞳は表情が出やすく、今も何か面白い話を見つけた子どものように輝いていた。
明るく、人懐っこい。
女子生徒ではあるが、男子の輪へ混ざることにも遠慮がない。
純一の肩へ片腕を回している今の姿だけを見れば、仲のいい男友達のようにも見える。
ただし、整った顔立ちや、時折見せる妙に女性らしい仕草まで隠せているわけではない。
「梅原には挨拶なしか、望月」
純一の隣の席から、梅原が不満そうな声を上げた。
「さっき十分くらい話してたじゃないか」
「朝の挨拶と男同士の密談は別物だろ」
「はいはい、おはよう梅原」
「うむ。おはよう、我が同志よ」
「何の同志になった覚えもないけどね」
「朝からつれないなぁ」
僕たちのやり取りを見て、薫がくすりと笑った。
「やっぱり、今日もいつもの三人ね」
「薫も含めて四人だろ」
純一が言う。
「私はほら、保護者枠だから」
「誰のだよ」
「あんたのに決まってるでしょ」
薫は純一の肩へ回した腕に力を込め、顔を覗き込む。
「それより聞いてよ、湊。純一が昨日さぁ――」
「ま、待てよ!」
純一が慌てて遮った。
それだけで、何の話かは分かってしまう。
朝から梅原が僕へ話していた、森島先輩との下校のことだろう。
「何よ。事実を話すだけじゃない」
「何でもかんでも言いふらすなよ」
「言いふらすって、人聞きが悪いわね。湊なら別にいいでしょ?」
「梅原から聞いたよ」
僕が答えると、純一の表情が止まった。
「……梅原」
「何だね、大将」
「お前、もう話したのか?」
「友の門出を同志と共有したまでだ」
「口が軽いだけだろ」
梅原は悪びれる様子もなく、胸を張った。
「で?」
薫が純一の頬を指先でつつく。
「その後の進展はどうなのよ」
「だから、昨日たまたま一緒に帰っただけだって」
「たまたまねぇ」
「本当だって」
「森島先輩と二人で帰る偶然なんて、そうそう落ちてないと思うけど?」
「誘ったのは僕だけど……」
「ほら!」
薫が勢いよく純一の頬をつねった。
「いひゃい、いひゃい! 何でつねるんだよ!」
「朝から面白いもの見せてくれたお礼よ」
「お礼で人の頬をつねるな!」
薫と梅原が同時に笑う。
僕も耐えきれずに声を漏らした。
純一は不満そうにこちらを見る。
「湊まで笑うなよ」
「ごめん。でも今のは、純一が悪いと思う」
「どこがだよ」
「『たまたま』って言った後に、自分から誘ったって白状したところ」
「おお。見事な墓穴だったな、大将」
「うるさい」
薫がようやく指を離す。
純一は赤くなった頬を押さえながら、恨めしそうに三人を見回した。
「それで、他には何もなかったの?」
薫が少しだけ声を落とす。
「……別に。何も進んでないよ」
「本当に?」
「本当だって。それに……」
「それに?」
純一は一瞬だけ言葉を止めた。
さっきまでとは違う、僅かに沈んだ表情が浮かぶ。
「いや。やっぱり何でもない」
諦めたような声だった。
僕は中学時代の純一を詳しく知らない。
けれど、今の言葉の止め方が、単なる照れではないことくらいは分かった。
薫も同じだったらしい。
少しだけ純一の顔を見た後、それ以上は追及しなかった。
「ふぅん。まあ、そのうちいい噂が聞けるように期待しとくわ」
「勝手に期待するなよ」
「応援してるってことよ」
薫はそう言って、純一の肩を軽く叩いた。
相手が触れられたくないところには、無理に踏み込まない。
普段の遠慮のなさとは裏腹に、薫はその辺りをよく見ている。
「ところで薫」
純一が言った。
「一時間目は数Bだけど、予習はやってきたのか?」
「……あははは」
「その笑い方はやってないな」
「痛いところを突くわね、あんた」
「痛いところも何も、確認してあげてるんだろ」
「そういう余裕のある人間の言い方が一番腹立つのよ」
薫の視線が斜め下へ逸れる。
さっきまで純一を追い詰めていた勢いは、どこかへ消えていた。
「それに今日、課題の提出日だぞ」
「え?」
薫が瞬きをする。
「今日?」
「今日」
「一時間目に?」
「一時間目に」
「……あと何分?」
僕は壁の時計を見る。
「五分くらい」
「うっそ! ちょっと、それ先に言いなさいよ!」
「今言っただろ」
「こういうのは朝一番に教えるものなの!」
「保護者はどっちだよ」
「あとで覚えてなさい!」
薫はそう言い残し、自分の席へ駆け戻っていった。
椅子へ座るなり、鞄から教科書とノートを引っ張り出す。
周囲の友人へ声をかけ、課題の範囲を確認し始めた。
「朝から熱々だねぇ」
待っていましたとばかりに、梅原が口を開く。
「大将も早速、二股とは男が過ぎるぜ」
「そんなんじゃないだろ」
純一は呆れたようにため息をついた。
「梅原の中では、幼馴染と話したら交際になるのか?」
「古今東西、幼馴染というものは特別な立ち位置にいるものなのだよ」
「何の知識だよ、それ」
「男たちが受け継いできた共通知識だ」
「そんなもの受け継ぐな」
純一は僕へ助けを求めるような視線を向けた。
「湊も何とか言ってやってくれよ」
「そうだなぁ」
少し考えるふりをする。
「お宝本五冊で、純一の味方をしてもいいよ」
「お前までそっちに回るのかよ!」
「いい案だな。俺も五冊で手を打ってやろう」
「何で梅原まで受け取る側なんだ」
「交渉とは、まず高い条件を提示するものだからな」
「ただ欲しいだけだろ」
「ちなみに、品揃えにはこだわるぜ」
「誰も渡すなんて言ってない!」
思春期の男子高校生らしいというか。
女子生徒に聞かれれば、確実に白い目で見られる会話だ。
幸い教室は十分に騒がしく、僕たちの声は近くにいる人間にしか聞こえていない。
三人で顔を見合わせ、自然と笑い合う。
こういう時の空気は、昔から変わらない。
少なくとも僕にとっては、居心地のいい時間だった。
「それにしても、大将」
梅原が机へ肘をつく。
「今年は本当に思い切ったな」
「大将って呼ぶのやめろよ」
「そこじゃないだろ」
僕が言うと、純一は苦笑した。
「変な話なんだけどさ」
純一は僕へ向き直る。
「今年の冬は、女の子とクリスマスを過ごすって、梅原と一緒に校舎裏で誓ったんだよ」
「え?」
思わず声が出た。
梅原が大きく頷く。
「男二人、夕日に向かって固く誓い合ったのだ」
「夕日には向かってない」
「細かいことはいいじゃないか」
「それに、誓い合ったというより梅原が勝手に盛り上がってただけだからな」
「だが、大将も否定はしなかった」
「それは……まあ」
純一は少し気恥ずかしそうに視線を逸らした。
僕は彼の中学時代を知らない。
過去に何があり、なぜ恋愛に対して臆病になっていたのか。
聞いたことのある噂はいくつかあるが、本人の口から確かめたことはなかった。
知っているのは、その宣言が純一にとって、梅原の冗談に付き合っただけではないということだ。
きっと彼なりに、変わろうとしている。
だから森島先輩を誘った。
昨日、彼が一歩を踏み出したことは、もっと素直に祝うべきなのだろう。
そう思うのに、胸の奥にはまだ僅かな霞が残っていた。
純一が遠くへ行くわけではない。
友人に恋人ができたからといって、この関係がすぐに消えるわけでもない。
それでも、自分だけが置いていかれるような感覚があった。
「そうだ、湊」
純一が言う。
「湊も一緒に頑張らないか?」
「……僕も?」
「うん」
「そう言われても、相手がいないよ」
「探せば見つかるって」
「純一は森島先輩がいたから言えるんだろ」
「最初から決めてたわけじゃないよ。話してみたいと思ったから、声をかけただけで」
「それができるなら苦労しないんだけどなぁ」
「三人寄れば文殊の知恵だぜ」
梅原が腕を組む。
「今年の冬は、俺たち三人が主役になる年だ」
「今のところ、一人しか動いてないけど」
「焦るな望月。恋のきっかけとは、いつどこに転がっているか分からないものだ」
「例えば?」
「曲がり角で女の子とぶつかる」
「古い」
「空から女の子が降ってくる」
「危ない」
「実は許嫁がいた」
「親に確認しないと駄目なやつだ」
「なら、湊はどんなのがいいんだよ」
「僕に聞かれても……」
すぐには思いつかない。
物語のような出会いを、本気で期待しているわけではなかった。
ある日突然、理想の相手が目の前に現れる。
そんな都合のいいことが起こるなら、誰も苦労はしない。
「別に、特別な出会いじゃなくてもいいんじゃないか?」
純一が言った。
「困ってる人を助けるとか、落とし物を拾うとか。話すきっかけなんて、その辺にあるかもしれないだろ」
「そんな簡単にいくかな」
「分からないけど、何もしなかったら何も起きないよ」
純一は、特に深く考えた様子もなくそう言った。
ありふれた言葉だ。
広い視野で見れば、誰にでも言えることなのかもしれない。
それでも、その言葉は僕の胸へ思っていたより深く刺さった。
何もしなかったら、何も起きない。
僕は積極的に前へ出る方ではない。
部活でもクラスでも、誰かが先頭に立つなら、その後ろで役割を果たすことの方が多い。
それで困ったことはなかった。
むしろ、余計な失敗をしなくて済む。
ただ、何かが変わることもなかった。
「そろそろ授業が始まるぞ」
時計を確認した純一が言った。
長針は、始業時刻の一分前を指している。
「それじゃ、僕も席に戻るよ」
「大将、続きは次の休み時間にな」
「何の続きだよ」
「今後の森島先輩攻略会議だ」
「勝手に会議を始めるな」
「はいはい、次の時間にね」
僕も自分の席へ戻ろうと歩き出す。
「湊」
後ろから純一に呼び止められた。
振り返る。
「応援してるから」
純一は、こちらを鼓舞するように笑っていた。
自分のことで精いっぱいでもおかしくないのに、僕のことまで気にしてくれている。
どこかに残っていた疎外感が、その一言で少しだけ薄くなった。
「……うん」
僕も小さく頷く。
「僕も、頑張ってみるよ」
「おう」
教室の前方の扉が開き、数学教師が入ってくる。
同時に始業のチャイムが鳴った。
教室中で、椅子を引く音が重なる。
僕も自分の席へ戻り、教科書とノートを机へ並べた。
何をすればいいのかは、まだ分からない。
気になる相手がいるわけでもない。
純一のように、すぐ誰かへ声をかけられるとも思えなかった。
それでも、今までと同じように待っているだけでは、何も始まらない。
今日から、少しだけ周りを見るようにしよう。
誰かが困っていたら、声をかけてみよう。
それくらいなら、僕にもできるかもしれない。
変化のない一日を、少しだけ変えてみよう。
その時の僕にとっては、ただそれだけの決心だった。