絢辻さんを救いたい話   作:紳士

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第二十話 ヨヤク

 

 週が明けた。

 

 日曜日を挟んだだけなのに、教室へ入った瞬間から先週とは空気が違っていた。壁の飾りはほとんど形になり、窓際には完成したリボンが並んでいる。創設祭を今週末に控え、準備は「何を作るか」ではなく、「残ったものをどう終わらせるか」という段階へ入りつつあった。

 

 絢辻さんも、もう普段通りだった。

 

 朝から何人かに声をかけられ、休んでいた間に進んだ部分を確認している。土曜日に見た時より顔色も良く、机の上には資料が何冊か開かれていたが、以前のように一人で全部を抱え込んでいる様子はない。

 

 僕は自分の席へ鞄を置き、その背中を眺めてから教科書を取り出した。

 

「望月君」

 

 名前を呼ばれ、顔を上げる。

 

 いつの間にか絢辻さんが机の横に立っていた。

 

「今日の部活、何時から?」

 

「4時」

 

「3時40分から20分、空いてる?」

 

 以前なら、先に用件を言ってから時間を合わせていたような気がする。

 

 けれど今日は、僕の予定を聞いた後で時計を確かめていた。

 

「空いてるけど、何するの?」

 

「旧校舎の倉庫を見たいの。創設祭で使えそうな備品が残ってるかもしれないから」

 

「20分で終わる?」

 

「終わらせるわ」

 

 言い切る声に迷いはない。

 

「ならいいよ」

 

「じゃあ、放課後3時40分。教室の前で待ってて」

 

「分かった」

 

 絢辻さんは満足そうに頷いたものの、そのまま戻ろうとはしなかった。

 

「忘れないでね」

 

「朝から予約確認?」

 

「予約?」

 

「時間指定されたから」

 

 一瞬だけ考えた後、彼女の口元が僅かに上がる。

 

「なるほど。じゃあ、予約しておくわ」

 

「僕を?」

 

「20分だけね」

 

 そう訂正してから、絢辻さんは自分の席へ戻っていった。

 

 机へ向かう背中を見送りながら、少しだけ可笑しくなる。

 

 呼ぶ時は、先に予定を聞く。

 

 以前ならわざわざ意識していたはずのことを、今日は何の説明もなくやっていた。

 

     ◇

 

 放課後。

 

 終礼が終わると、教室はすぐに創設祭の準備へ切り替わった。壁際へ机を寄せる者、飾りを運ぶ者、廊下へ出て別の教室から備品を借りてくる者が一斉に動き始める。

 

 僕も自分の鞄をまとめ、時計を確認した。

 

 3時34分。

 

 約束まではまだ少しある。

 

「湊、ちょっといい?」

 

 前から純一に呼ばれた。

 

「何?」

 

「この机、向こうまで運ぶの手伝ってくれない? 一人だとちょっときつくて」

 

 純一が指したのは、教室の隅に置かれた大きめの机だった。

 

 時間を見る。

 

 あと6分。

 

 運ぶだけなら間に合うかもしれない。ただ、廊下の先まで持っていって配置を直すことまで考えると、少し怪しい。

 

「ごめん。3時40分から約束あるんだ」

 

「今から?」

 

「うん」

 

「そっか。じゃあ梅原捕まえるわ」

 

 純一は特に気にした様子もなく、教室の反対側へ向かっていった。

 

 断った後になって、不思議な感覚が残る。

 

 頼まれた内容自体は大したものではない。

 

 純一なら普段から手伝うし、今日だって予定がなければ迷わず一緒に運んでいたと思う。

 

 ただ今日は、先に約束があった。

 

「先約?」

 

 すぐ近くから声がした。

 

 振り返る。

 

 書類を抱えた絢辻さんが立っていた。

 

「聞いてた?」

 

「聞こえただけよ」

 

 そう答える声は平静だったが、僕が断った机の方へ一度だけ視線が向いた。

 

「別に、少しくらいなら待てたけど」

 

「でも3時40分って言っただろ?」

 

「言ったけど」

 

「じゃあ、そっちが先」

 

 絢辻さんは何も言わず僕を見る。

 

「何?」

 

「……何でもない」

 

 抱えていた書類を机へ置き、その中から鍵を一つ取り出した。

 

「行きましょう。20分しかないんだから」

 

「絢辻さんが決めた時間だけどね」

 

「だから急ぐのよ」

 

 教室を出る彼女の後を追う。

 

 廊下へ出てから時計を見ると、3時39分だった。

 

     ◇

 

 旧校舎の倉庫は、普段ほとんど使われていない教室のさらに奥にある。

 

 絢辻さんが鍵を回すと、少し引っかかった後で古い扉が開く。中には折り畳み椅子や看板、季節の行事で使ったらしい装飾品が積まれ、窓から差し込む冬の光の中で細かな埃が浮かんでいた。

 

「思ったよりあるね」

 

「だから確認したかったのよ」

 

 絢辻さんは持ってきた紙へ視線を落とし、棚の番号を確かめる。

 

「探すのは白い布と、予備の延長コード。それから使えそうなら小さい立て看板も」

 

「了解」

 

 二手に分かれて棚を見る。

 

 段ボールには去年の創設祭らしい文字が残っており、中には使いかけの紙飾りやテープも入っていた。僕は一つずつ中身を確認しながら、必要なものだけ床へ出していく。

 

「延長コード、これ?」

 

「長さは?」

 

「5メートル」

 

「それなら使えるわ。もう1本ある?」

 

「下にありそう」

 

 箱を持ち上げると、その奥から巻かれたコードが出てきた。

 

「こっちは3メートル」

 

「それも持っていきましょう」

 

「布は?」

 

「まだ見つからない」

 

 会話をしながら作業を進める。

 

 時間が短いせいか、無駄に話している余裕はなかった。ただ、それが居心地悪いわけでもない。僕が棚を確認し、絢辻さんが必要かどうかを判断する。以前なら彼女が一人で全部見て回っていたかもしれない仕事が、今は自然に二人へ分かれていた。

 

 奥の棚で白い布を見つけた頃には、残り時間が10分を切っていた。

 

「これで全部?」

 

「立て看板だけ」

 

「あそこにあるよ」

 

 入口近くに重ねられていたものを指す。

 

 絢辻さんは一枚ずつ確認し、傷の少ないものを選んだ。

 

「これなら使えそう」

 

「じゃあ終わり?」

 

「予定より早いわね」

 

「絢辻さんが20分で終わらせるって言ったから頑張ったんだけど」

 

「褒めてあげましょうか?」

 

「そこまでじゃない」

 

 笑いながら、床へ出したものをまとめる。

 

 延長コードと布なら二人で運べる。看板も抱えれば何とかなる量だった。

 

 僕が布の入った箱を持ち上げようとすると、絢辻さんが先に延長コードを取った。

 

「それ、僕が持つよ」

 

「両方?」

 

「持てるけど」

 

「そういう話じゃないでしょう」

 

 絢辻さんはコードを抱え直す。

 

「あたしも運べるんだから、分ければいいの」

 

「じゃあ箱だけ持つ」

 

「そうして」

 

 以前なら、僕も何となく全部持とうとしていた。

 

 今はその方が早いとも思わない。

 

 二人で荷物を持ち、倉庫を出る。

 

     ◇

 

 旧校舎から本校舎へ戻る途中、廊下の角で同じクラスの男子生徒に声をかけられた。

 

「望月、悪い。この後ちょっと時間ある?」

 

「何かあった?」

 

「飾りの箱、倉庫から運ぶ人数足りなくてさ。10分くらい手伝ってほしいんだけど」

 

 反射的に時計を見る。

 

 3時57分。

 

 部活までは3分しかない。

 

「ごめん。今から部活なんだ」

 

「あ、そうか。じゃあいいわ」

 

「明日なら手伝えるよ」

 

「大丈夫。誰か探す」

 

 男子生徒は軽く手を上げて去っていった。

 

 隣を見ると、絢辻さんがこちらを見ている。

 

「何?」

 

「ちゃんと断るのね」

 

「部活あるから」

 

「前なら、少しくらいならって手伝ってたんじゃない?」

 

 言われて考える。

 

 確かに、以前なら3分くらい遅れても大丈夫だろうと考えたかもしれない。

 

「そうかも」

 

「変わった?」

 

「どうだろ」

 

 少し考えてから、持っている箱へ視線を落とす。

 

「ただ、全部拾ってたらどこかで遅れるから」

 

「それはそうね」

 

「今日は絢辻さんとの約束が先だったし、その次は部活」

 

 絢辻さんの歩みが僅かに緩んだ。

 

「順番を決めてるの?」

 

「決めてるっていうより、先に約束したものから守ってるだけ」

 

「じゃあ」

 

 声が少し近くなる。

 

「さっき橘君に頼まれた時も?」

 

「うん」

 

「あたしと約束してたから断った?」

 

「そうだよ」

 

 何故か、そこで念を押される。

 

 僕は箱を持ち直した。

 

「先約だったから」

 

 絢辻さんは前を向いた。

 

 表情は横からでは見えにくい。

 

「……そう」

 

 短い返事だけが聞こえた。

 

     ◇

 

 教室へ戻り、持ってきたものを決められた場所へ置く。

 

 時計は4時を少し過ぎていた。

 

「ちょっと遅れた」

 

「2分でしょう?」

 

「絢辻さんが20分で終わるって言ったのに」

 

「倉庫を出た時は間に合ってたわ」

 

「帰りの運搬時間が計算に入ってなかったね」

 

 言うと、絢辻さんが一瞬黙った。

 

「……それは反省するわ」

 

「珍しい」

 

「何?」

 

「いや、何でもない」

 

 これ以上言うと余計な時間がかかる。

 

 鞄を取り、部活へ向かおうとする。

 

「望月君」

 

「何?」

 

 呼び止められて振り返る。

 

 絢辻さんはさっきまで使っていた確認用の紙を畳みながら、僕ではなくその手元を見ていた。

 

「さっきの」

 

「純一の机?」

 

「それもそうだけど」

 

 紙の端が一度、指先で折り直される。

 

「もし橘君との約束が先だったら、そっちへ行ってた?」

 

「行ってたよ」

 

 答えると、彼女が顔を上げた。

 

「即答なのね」

 

「だって先に約束してたならそうなるだろ」

 

「あたしが呼んでも?」

 

「その時は断る」

 

 絢辻さんの眉が寄る。

 

「そんなはっきり言わなくてもいいじゃない」

 

「でも、前に話しただろ。絢辻さんの言うことなら何でも聞くわけじゃないって」

 

「覚えてるわよ」

 

「ならいいじゃん」

 

 少しだけ不満そうな顔が残った。

 

 けれど、以前のように「あたしを優先して」と押し返してはこない。

 

「今日だって、絢辻さんに言われたから来たんじゃないよ」

 

「予約したでしょう?」

 

「予約されたけど、受けたのは僕だろ」

 

 絢辻さんが黙る。

 

「3時40分でいいって僕が言ったから、ここに来た。今日は僕がこっちを選んだんだよ」

 

 口にしてから、自分でも少し大げさだったかと思った。

 

 ただ、言っていることはそれだけだった。

 

 頼まれたから仕方なく来たわけではない。

 

 純一に頼まれた机を断ったのも、絢辻さんに命令されたからではない。

 

 先にした約束を守ろうと、自分で決めた。

 

「……今日は?」

 

 絢辻さんが聞いた。

 

「何?」

 

「今日は、って言ったでしょう」

 

「うん」

 

「毎回じゃないのね」

 

「それは約束できないよ」

 

 僕には部活もあるし、純一たちとの予定だってある。

 

 何でも彼女を最優先にすると決めてしまえば、それは結局、前とあまり変わらない気がした。

 

「その時その時で決める」

 

「面倒ね」

 

「そう?」

 

「毎回確認しないといけないじゃない」

 

「予約すれば?」

 

 朝の言葉を返す。

 

 絢辻さんは一瞬きょとんとした後、小さく笑った。

 

「……それもそうね」

 

 その笑い方には、さっきまでの不満がほとんど残っていなかった。

 

「じゃあ、もう一つ予約」

 

「今?」

 

「明日の昼休み」

 

 今度は僕の予定を思い返す。

 

 部活は当然ない。

 

「空いてるよ」

 

「まだ場所も言ってないけど」

 

「昼休みなら大丈夫」

 

「そう」

 

 絢辻さんは少し考えてから、窓の外へ目を向けた。

 

「屋上」

 

「寒くない?」

 

「嫌ならやめる?」

 

「行くよ」

 

「なら決まり」

 

 今度は仕事の内容が続かなかった。

 

「何するの?」

 

「お昼を食べる」

 

「それだけ?」

 

「それだけじゃ駄目?」

 

「いや」

 

 むしろ、その方が意外だった。

 

 創設祭の確認でも、倉庫の整理でもない。

 

 ただ昼食を食べるために、僕の時間を先に取る。

 

「分かった。明日の昼休み、屋上ね」

 

「忘れないで」

 

「また言ってる」

 

「念のためよ」

 

 朝と同じ返事だった。

 

 僕は時計を見る。

 

「本当に行かないと」

 

「ええ。今度こそ行ってらっしゃい」

 

「実行委員の方も頑張って」

 

「ありがとう」

 

 教室を出ようとしたところで、携帯電話が震えた。

 

 確認すると、絢辻さんからだった。

 

『明日の昼休み。屋上。先約だから、忘れないこと。』

 

 すぐ近くに本人がいる。

 

 顔を上げると、何事もなかったように資料を開いていた。

 

 僕も短く返す。

 

『分かった。明日は絢辻さんを優先します』

 

 数秒後。

 

『よろしい。』

 

 思わず笑いながら携帯電話をしまい、今度こそ部室へ向かった。

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