絢辻さんを救いたい話 作:紳士
週が明けた。
日曜日を挟んだだけなのに、教室へ入った瞬間から先週とは空気が違っていた。壁の飾りはほとんど形になり、窓際には完成したリボンが並んでいる。創設祭を今週末に控え、準備は「何を作るか」ではなく、「残ったものをどう終わらせるか」という段階へ入りつつあった。
絢辻さんも、もう普段通りだった。
朝から何人かに声をかけられ、休んでいた間に進んだ部分を確認している。土曜日に見た時より顔色も良く、机の上には資料が何冊か開かれていたが、以前のように一人で全部を抱え込んでいる様子はない。
僕は自分の席へ鞄を置き、その背中を眺めてから教科書を取り出した。
「望月君」
名前を呼ばれ、顔を上げる。
いつの間にか絢辻さんが机の横に立っていた。
「今日の部活、何時から?」
「4時」
「3時40分から20分、空いてる?」
以前なら、先に用件を言ってから時間を合わせていたような気がする。
けれど今日は、僕の予定を聞いた後で時計を確かめていた。
「空いてるけど、何するの?」
「旧校舎の倉庫を見たいの。創設祭で使えそうな備品が残ってるかもしれないから」
「20分で終わる?」
「終わらせるわ」
言い切る声に迷いはない。
「ならいいよ」
「じゃあ、放課後3時40分。教室の前で待ってて」
「分かった」
絢辻さんは満足そうに頷いたものの、そのまま戻ろうとはしなかった。
「忘れないでね」
「朝から予約確認?」
「予約?」
「時間指定されたから」
一瞬だけ考えた後、彼女の口元が僅かに上がる。
「なるほど。じゃあ、予約しておくわ」
「僕を?」
「20分だけね」
そう訂正してから、絢辻さんは自分の席へ戻っていった。
机へ向かう背中を見送りながら、少しだけ可笑しくなる。
呼ぶ時は、先に予定を聞く。
以前ならわざわざ意識していたはずのことを、今日は何の説明もなくやっていた。
◇
放課後。
終礼が終わると、教室はすぐに創設祭の準備へ切り替わった。壁際へ机を寄せる者、飾りを運ぶ者、廊下へ出て別の教室から備品を借りてくる者が一斉に動き始める。
僕も自分の鞄をまとめ、時計を確認した。
3時34分。
約束まではまだ少しある。
「湊、ちょっといい?」
前から純一に呼ばれた。
「何?」
「この机、向こうまで運ぶの手伝ってくれない? 一人だとちょっときつくて」
純一が指したのは、教室の隅に置かれた大きめの机だった。
時間を見る。
あと6分。
運ぶだけなら間に合うかもしれない。ただ、廊下の先まで持っていって配置を直すことまで考えると、少し怪しい。
「ごめん。3時40分から約束あるんだ」
「今から?」
「うん」
「そっか。じゃあ梅原捕まえるわ」
純一は特に気にした様子もなく、教室の反対側へ向かっていった。
断った後になって、不思議な感覚が残る。
頼まれた内容自体は大したものではない。
純一なら普段から手伝うし、今日だって予定がなければ迷わず一緒に運んでいたと思う。
ただ今日は、先に約束があった。
「先約?」
すぐ近くから声がした。
振り返る。
書類を抱えた絢辻さんが立っていた。
「聞いてた?」
「聞こえただけよ」
そう答える声は平静だったが、僕が断った机の方へ一度だけ視線が向いた。
「別に、少しくらいなら待てたけど」
「でも3時40分って言っただろ?」
「言ったけど」
「じゃあ、そっちが先」
絢辻さんは何も言わず僕を見る。
「何?」
「……何でもない」
抱えていた書類を机へ置き、その中から鍵を一つ取り出した。
「行きましょう。20分しかないんだから」
「絢辻さんが決めた時間だけどね」
「だから急ぐのよ」
教室を出る彼女の後を追う。
廊下へ出てから時計を見ると、3時39分だった。
◇
旧校舎の倉庫は、普段ほとんど使われていない教室のさらに奥にある。
絢辻さんが鍵を回すと、少し引っかかった後で古い扉が開く。中には折り畳み椅子や看板、季節の行事で使ったらしい装飾品が積まれ、窓から差し込む冬の光の中で細かな埃が浮かんでいた。
「思ったよりあるね」
「だから確認したかったのよ」
絢辻さんは持ってきた紙へ視線を落とし、棚の番号を確かめる。
「探すのは白い布と、予備の延長コード。それから使えそうなら小さい立て看板も」
「了解」
二手に分かれて棚を見る。
段ボールには去年の創設祭らしい文字が残っており、中には使いかけの紙飾りやテープも入っていた。僕は一つずつ中身を確認しながら、必要なものだけ床へ出していく。
「延長コード、これ?」
「長さは?」
「5メートル」
「それなら使えるわ。もう1本ある?」
「下にありそう」
箱を持ち上げると、その奥から巻かれたコードが出てきた。
「こっちは3メートル」
「それも持っていきましょう」
「布は?」
「まだ見つからない」
会話をしながら作業を進める。
時間が短いせいか、無駄に話している余裕はなかった。ただ、それが居心地悪いわけでもない。僕が棚を確認し、絢辻さんが必要かどうかを判断する。以前なら彼女が一人で全部見て回っていたかもしれない仕事が、今は自然に二人へ分かれていた。
奥の棚で白い布を見つけた頃には、残り時間が10分を切っていた。
「これで全部?」
「立て看板だけ」
「あそこにあるよ」
入口近くに重ねられていたものを指す。
絢辻さんは一枚ずつ確認し、傷の少ないものを選んだ。
「これなら使えそう」
「じゃあ終わり?」
「予定より早いわね」
「絢辻さんが20分で終わらせるって言ったから頑張ったんだけど」
「褒めてあげましょうか?」
「そこまでじゃない」
笑いながら、床へ出したものをまとめる。
延長コードと布なら二人で運べる。看板も抱えれば何とかなる量だった。
僕が布の入った箱を持ち上げようとすると、絢辻さんが先に延長コードを取った。
「それ、僕が持つよ」
「両方?」
「持てるけど」
「そういう話じゃないでしょう」
絢辻さんはコードを抱え直す。
「あたしも運べるんだから、分ければいいの」
「じゃあ箱だけ持つ」
「そうして」
以前なら、僕も何となく全部持とうとしていた。
今はその方が早いとも思わない。
二人で荷物を持ち、倉庫を出る。
◇
旧校舎から本校舎へ戻る途中、廊下の角で同じクラスの男子生徒に声をかけられた。
「望月、悪い。この後ちょっと時間ある?」
「何かあった?」
「飾りの箱、倉庫から運ぶ人数足りなくてさ。10分くらい手伝ってほしいんだけど」
反射的に時計を見る。
3時57分。
部活までは3分しかない。
「ごめん。今から部活なんだ」
「あ、そうか。じゃあいいわ」
「明日なら手伝えるよ」
「大丈夫。誰か探す」
男子生徒は軽く手を上げて去っていった。
隣を見ると、絢辻さんがこちらを見ている。
「何?」
「ちゃんと断るのね」
「部活あるから」
「前なら、少しくらいならって手伝ってたんじゃない?」
言われて考える。
確かに、以前なら3分くらい遅れても大丈夫だろうと考えたかもしれない。
「そうかも」
「変わった?」
「どうだろ」
少し考えてから、持っている箱へ視線を落とす。
「ただ、全部拾ってたらどこかで遅れるから」
「それはそうね」
「今日は絢辻さんとの約束が先だったし、その次は部活」
絢辻さんの歩みが僅かに緩んだ。
「順番を決めてるの?」
「決めてるっていうより、先に約束したものから守ってるだけ」
「じゃあ」
声が少し近くなる。
「さっき橘君に頼まれた時も?」
「うん」
「あたしと約束してたから断った?」
「そうだよ」
何故か、そこで念を押される。
僕は箱を持ち直した。
「先約だったから」
絢辻さんは前を向いた。
表情は横からでは見えにくい。
「……そう」
短い返事だけが聞こえた。
◇
教室へ戻り、持ってきたものを決められた場所へ置く。
時計は4時を少し過ぎていた。
「ちょっと遅れた」
「2分でしょう?」
「絢辻さんが20分で終わるって言ったのに」
「倉庫を出た時は間に合ってたわ」
「帰りの運搬時間が計算に入ってなかったね」
言うと、絢辻さんが一瞬黙った。
「……それは反省するわ」
「珍しい」
「何?」
「いや、何でもない」
これ以上言うと余計な時間がかかる。
鞄を取り、部活へ向かおうとする。
「望月君」
「何?」
呼び止められて振り返る。
絢辻さんはさっきまで使っていた確認用の紙を畳みながら、僕ではなくその手元を見ていた。
「さっきの」
「純一の机?」
「それもそうだけど」
紙の端が一度、指先で折り直される。
「もし橘君との約束が先だったら、そっちへ行ってた?」
「行ってたよ」
答えると、彼女が顔を上げた。
「即答なのね」
「だって先に約束してたならそうなるだろ」
「あたしが呼んでも?」
「その時は断る」
絢辻さんの眉が寄る。
「そんなはっきり言わなくてもいいじゃない」
「でも、前に話しただろ。絢辻さんの言うことなら何でも聞くわけじゃないって」
「覚えてるわよ」
「ならいいじゃん」
少しだけ不満そうな顔が残った。
けれど、以前のように「あたしを優先して」と押し返してはこない。
「今日だって、絢辻さんに言われたから来たんじゃないよ」
「予約したでしょう?」
「予約されたけど、受けたのは僕だろ」
絢辻さんが黙る。
「3時40分でいいって僕が言ったから、ここに来た。今日は僕がこっちを選んだんだよ」
口にしてから、自分でも少し大げさだったかと思った。
ただ、言っていることはそれだけだった。
頼まれたから仕方なく来たわけではない。
純一に頼まれた机を断ったのも、絢辻さんに命令されたからではない。
先にした約束を守ろうと、自分で決めた。
「……今日は?」
絢辻さんが聞いた。
「何?」
「今日は、って言ったでしょう」
「うん」
「毎回じゃないのね」
「それは約束できないよ」
僕には部活もあるし、純一たちとの予定だってある。
何でも彼女を最優先にすると決めてしまえば、それは結局、前とあまり変わらない気がした。
「その時その時で決める」
「面倒ね」
「そう?」
「毎回確認しないといけないじゃない」
「予約すれば?」
朝の言葉を返す。
絢辻さんは一瞬きょとんとした後、小さく笑った。
「……それもそうね」
その笑い方には、さっきまでの不満がほとんど残っていなかった。
「じゃあ、もう一つ予約」
「今?」
「明日の昼休み」
今度は僕の予定を思い返す。
部活は当然ない。
「空いてるよ」
「まだ場所も言ってないけど」
「昼休みなら大丈夫」
「そう」
絢辻さんは少し考えてから、窓の外へ目を向けた。
「屋上」
「寒くない?」
「嫌ならやめる?」
「行くよ」
「なら決まり」
今度は仕事の内容が続かなかった。
「何するの?」
「お昼を食べる」
「それだけ?」
「それだけじゃ駄目?」
「いや」
むしろ、その方が意外だった。
創設祭の確認でも、倉庫の整理でもない。
ただ昼食を食べるために、僕の時間を先に取る。
「分かった。明日の昼休み、屋上ね」
「忘れないで」
「また言ってる」
「念のためよ」
朝と同じ返事だった。
僕は時計を見る。
「本当に行かないと」
「ええ。今度こそ行ってらっしゃい」
「実行委員の方も頑張って」
「ありがとう」
教室を出ようとしたところで、携帯電話が震えた。
確認すると、絢辻さんからだった。
『明日の昼休み。屋上。先約だから、忘れないこと。』
すぐ近くに本人がいる。
顔を上げると、何事もなかったように資料を開いていた。
僕も短く返す。
『分かった。明日は絢辻さんを優先します』
数秒後。
『よろしい。』
思わず笑いながら携帯電話をしまい、今度こそ部室へ向かった。