絢辻さんを救いたい話 作:紳士
翌日の昼休み。
4時間目の終了を告げるチャイムが鳴ると同時に、僕は教科書を閉じて机の中へしまった。昨日の放課後から何度も確認した予定なのに、鞄へ手を伸ばした時には、屋上へ持っていくため購買で買っておいたパンがちゃんと入っているかまで確かめてしまう。
「湊、今日はどうする?」
前の席で弁当箱を取り出しながら、純一が振り返った。
「先約がある」
「先約?」
「うん」
それだけ答え、鞄からパンの入った袋を取り出す。純一は詳しく聞こうとしたようだったが、その視線が僕の肩越しに教室の入口へ向いた。
「橘君、行こっ」
廊下から森島先輩が顔を覗かせ、純一を見つけるなり楽しそうに手を振っている。
「はい!」
つい数秒前まで僕の予定を気にしていたことなど忘れたように、純一は弁当を持って立ち上がった。
「じゃあ、また後で」
「うん」
森島先輩のところへ向かう背中を見送る。以前なら、先輩に誘われただけでも純一はもっと慌てていた。僕や梅原へ何か言い残すべきか迷ったり、呼ばれたこと自体に浮かれたりしていたはずなのに、今は返事にも動きにもほとんど迷いがない。
森島先輩と二人で過ごすことが、特別ではなくなったわけではないのだろう。特別なまま、それが少しずつ純一の日常へ馴染み始めている。
「望月君」
今度は背後から名前を呼ばれた。振り向くと、絢辻さんが弁当の包みを片手に立っている。
「準備できてる?」
「見れば分かるだろ」
「確認よ」
「メールでも十分確認されたけどね」
今朝、登校途中に一通。
『昼休み。屋上。忘れないこと。』
さらに4時間目が始まる前にも、『先約だからね』と念を押すようにもう一通届いていた。
「二回も送る必要あった?」
「望月君だから」
「最近、その一言で何でも済ませてない?」
「実際に忘れなかったんだから、問題ないでしょう?」
そう言われてしまえば反論しづらい。
「忘れるわけないよ。昨日の放課後から楽しみにしてたんだから」
考えるより先に口へ出た。
絢辻さんは一瞬だけ返事を忘れたように僕を見る。それから、何事もなかったように顔を背けた。
「……そう。じゃあ行きましょう」
横顔はいつも通りだったが、歩き出すまでに生まれた間だけは、見なかったことにするには少し長かった。
◇
屋上へ続く扉を押し開けると、冷たい風が一気に校舎の中へ流れ込んできた。前に来た時よりも強い。空には雲が少なく、冬らしい澄んだ青が広がっているものの、12月の陽射しには風の冷たさを押し返すほどの力はなかった。
「やっぱり寒いわね」
「今から教室へ戻る?」
「ここまで来たのに?」
「風邪を引いたら困るだろ」
「給水塔の裏なら、多少は避けられるでしょう?」
絢辻さんは迷うことなく、以前と同じ場所へ向かっていった。
いつの間にか、給水塔の裏が僕たちの定位置になっている。誰かと決めたわけでもなければ、先に来た方が場所を取っているわけでもない。それでも屋上へ来れば、自然と同じ場所へ足が向くようになっていた。
壁際へ腰を下ろした絢辻さんが、膝の上で弁当の包みを解く。僕も鞄を下へ敷き、その隣へ座った。以前より身体一つ分ほど近い気がしたが、人目がないからなのか、昨日二人で距離について話したからなのかまでは分からない。わざわざ理由を探すほどでもないと思い、そのままパンの袋を開けた。
「今日はそれだけ?」
「焼きそばパンとあんパン」
「二つあるじゃない」
「部活があるからね」
「昨日みたいに最初から飛ばしすぎた分まで食べるつもり?」
「まだ引っ張るの?」
絢辻さんが楽しそうに弁当箱を開いたので、僕も諦めて焼きそばパンへかじりついた。
しばらくは包装が擦れる音と、給水塔の向こうを抜ける風の音だけが続く。校庭から届く生徒たちの声も、この場所まで来ると輪郭を失い、遠くのざわめきへ変わっていた。
何となく彼女の足元へ置かれた鞄を見る。
今日は口がきちんと閉じられている。
「本当に仕事を持ってきてないんだね」
「まだ疑ってたの?」
「一枚くらい、『念のため』って入ってるかと思ってた」
「失礼ね。全部教室に置いてきたわよ」
「予定表も?」
「教室」
続けて名簿まで尋ねると、絢辻さんは箸を止め、さすがに呆れたようにこちらを見た。
「他には?」
「いえ、もう十分です」
「最初から信用しなさい」
これ以上続ければ、本当に機嫌を損ねそうだった。
「ちゃんと何もしないつもりなんだ」
「昨日、そういう時間にするって決めたでしょう?」
「偉いね」
「子ども扱いしないで」
言いながら、絢辻さんは再び弁当へ手を伸ばす。
「だって、何もしないの苦手そうだから」
「できるわよ。それくらい」
そう言い切った直後、おにぎりを一口食べた絢辻さんの視線が腕時計へ落ちた。
僕は何も言わずに見ていた。数秒後、その視線に気づいたらしい彼女がこちらを向く。
「何?」
「時間、気になる?」
「見ただけよ」
「昼休みは始まったばかりだよ」
「分かってるわ」
そう答えながらも、今度は校舎の方へ意識が向いている。
「……今日は、黒板の上につける飾りの長さを決めることになってたの」
「昨日、窓側のは決めてたね」
「黒板側はまだなのよ。長さを間違えたら、作り直すことになるでしょう?」
「他の人に任せればいいんじゃない?」
「合わなかったら?」
「直せばいいよ」
絢辻さんは納得できないらしく、箸を持ったまま眉を寄せた。
「紙が足りなくなるかもしれないわ」
「その時は、その時に考える」
「随分簡単に言うのね」
「今は休む時間だから」
「考えるくらいは仕事じゃないでしょう?」
このまま放っておけば、紙の必要枚数を計算し、足りなかった場合の代替案を考え、午後の作業分担まで頭の中で組み直し始めそうだった。
「絢辻さんの場合、考え始めたら予定を立て直すところまで行きそうだし」
否定は返ってこなかった。代わりに弁当箱へ視線を落とし、しばらくしてから息を吐く。
「……何も考えないって、案外難しいのね」
「何も考えなくていいんじゃなくて、仕事じゃないことを考えればいいんだよ」
「例えば?」
問い返され、僕は少し考えた。
「じゃあ、僕の部活の話でもする?」
「どうして陸上部に入ったか?」
「それ、前にも聞いてなかった?」
「走ってるところは見たけど、理由までは聞いてないわ」
確かにそうだった。
彼女が知っているのは、僕が陸上部で、部内では特別速いわけでもなく、一度格好をつけようとして1200メートルの序盤を飛ばしすぎたことくらいだ。
「中学でも陸上をやってたから」
「最初から陸上が好きだったの?」
「いや。中学に入った時、友達に誘われたのがきっかけ」
「自分で決めたんじゃないの?」
「入るって決めたのは僕だよ」
中学1年の春、運動部には入ろうと思っていた。ただ、野球やサッカーは小学生の頃から続けている人が多く、今から始めてもついていけないような気がしていた。そんな時、同じクラスになった友人から陸上部の見学へ誘われた。
「走るだけなら、今まで何をしてたかはあまり関係ないと思ったんだ」
「実際は?」
「全然そんなことなかった。小学校から速い人は、やっぱり速かったよ」
「それで嫌にならなかった?」
「最初はちょっとね。でも、陸上ってタイムが残るから」
絢辻さんがこちらを見て首を傾ける。
「タイム?」
「昨日より速かったとか、先月より長く走れるようになったとか。誰かに勝てなくても、自分が前よりよくなったことは数字で分かるだろ?」
大会で上位に入ることも、学校記録を塗り替えることもない。部内で一番になったことすらなかった。それでも1秒、時にはその半分にも満たない差が縮まる。他の人から見れば誤差のような変化でも、自分にとっては続ける理由として十分だった。
「一番になれなくても?」
「なれたら嬉しいよ」
「でも、なれなくても続けられるのね」
「自分が前よりよくなってればね」
絢辻さんの箸が止まる。
「負けてるのに?」
「誰に?」
「自分より速い人によ」
「その人も練習してるんだから、簡単には追いつけないよ」
そこで僕はパンを膝へ置いた。大会で抜かれた時の悔しさも、同じ学年の部員だけ記録が伸びていった時の焦りも、もちろんないわけではない。
「悔しくないの?」
「悔しいよ。でも、負けてることと、伸びてないことは違うだろ」
そう口にしたところで、絢辻さんの表情が変わった。
ほんの一瞬だった。さっきまで僕の部活の話を聞いていた目が、ふいに別の何かへ向いたように見えた。
「……望月君」
「うん?」
「『うさぎとかめ』の本当の話は知ってる?」
唐突な問いだった。有名な童話なら当然知っているが、「本当の話」と言われると意味が分からない。
「本当の話? うさぎが途中で昼寝して、その間にかめが追い抜くやつじゃなくて?」
「あ、知らないんだ。じゃあ教えてあげる。本当の話を」
「う、うん……」
何故か急に機嫌がよくなった。
絢辻さんは弁当箱へ箸を置き、姿勢を正す。さっきまで創設祭のことを気にしていた人とは思えないほど芝居がかった仕草で僕を見ると、わざとらしく声を弾ませた。
「それでは、絢辻詞ぷれぜんつ、『うさぎとかめ』のはじまりはじまり〜」
思わず笑いそうになる。
けれど本人はいたって真面目らしく、すぐに語り手らしい調子へ戻り、冬の空を見上げた。
「むかーしむかし、ある村に、うさぎさんとかめさんが住んでいました。うさぎさんは明るくて、何をしても上手で、周りのみんなから好かれていました」
給水塔の向こうを風が抜け、彼女の長い髪が肩の上で揺れる。
「かめさんは、そんなうさぎさんが羨ましくて仕方ありませんでした。そんなある日、かめさんはうさぎさんに競争を申し込みます」
「競争……」
「あの山の上まで競争だ! もちろん、うさぎさんの圧勝は間違いありません」
そこで彼女は遠くを指差した。屋上から山頂が見えているわけでもないのに、まるで本当にそこが二匹の目的地であるかのようだった。
「ヨーイドン! で二匹は走り出しました。うさぎさんはぴょんこぴょんこと先を急ぎます。かめさんは、その背中を一生懸命追い続けました。それはもう必死です。ただただ短い足をばたつかせて、走り続けました」
語り口はまだ軽い。それでも、絢辻さんの視線はいつの間にか僕から外れ、冬の空へ向いていた。
「でも、それも空しく、うさぎさんの姿はすぐに見えなくなってしまいます。それでもかめさんは頑張り続けました」
僕は焼きそばパンの袋を持ったまま、続きを待つ。
話そのものは知っている。この後、うさぎが油断して昼寝をする。その間にも進み続けたかめが追いつき、最後には先にゴールする。そういう話のはずだった。
「そして、それからどれぐらい経った頃でしょうか。遠くの方に、うさぎさんの姿が見えてきました」
そこで絢辻さんがこちらを向いた。
「どうして追いつくの? かめさんはびっくりしました。それもそのはず、実はうさぎさんは昼寝をしたり、毛繕いをしたりしていたのですから」
そこは僕の知っている話と同じらしい。
「これはチャンスと、かめさんは精一杯走りました。そしてついに、うさぎさんを追い越したのです」
小さく拳を握る。
「その後もかめさんは休むことなく、一生懸命走り続けました。結果、山の頂上に先に着いたのはかめさんでした。かめさんは、うさぎさんに勝ったのです」
普通の昔話なら、ここで終わる。
努力を続けたかめが、油断したうさぎに勝った。それでめでたし、めでたしだ。
けれど、絢辻さんは弁当箱の上へ置いていた指を静かに組み、そのまま続けた。
「でも」
たった一言で、それまでの芝居がかった軽さが声から消えた。
「結局、みんなに愛されたのはうさぎさんでした」
僕は何も言わなかった。
「かめさんは気付きました。自分が、そもそも誰にも見てもらえてなかったことに」
先ほどまで動いていた手も、今は膝の上でじっとしている。
「理由は簡単。その村に住む者たちには、かめさんが見えなかったのです。いないのも同然だったのです」
風が吹いた。前髪が揺れても、絢辻さんは直そうとしない。
「当然、いないものと勝負なんてできません。うさぎさんにしてみれば、競争があったことすら知らないのです」
声に怒気はなかった。ただ、ずっと前から知っている結末を読み上げているような静けさがあった。
「どんなにかめさんが頑張っても、たとえ競争に勝ったとしても、全ては水の泡。存在が認めてもらえなければ、勝負自体がなかったようなものなのですから」
そこでようやく、彼女はこちらを向いた。
数秒前までの声音が嘘だったように、口元へ薄い笑みを戻す。
「おしまい。ご清聴ありがとうございました」
「え?」
思わず声が出た。
終わったことに驚いたというより、僕が知っている童話とはあまりにも違う場所へ着地したからだった。
絢辻さんは、そんな僕の反応を見ても笑わなかった。
「かめさんが先に着いたことに、誰も気づかなかった。みんなはうさぎさんの方を見ていたから。それにね、うさぎさん自身も、かめさんと競争していたことなんて知らなかったの」
僕は返事をしなかった。
頭に浮かんだ人がいた。
昨日、駅前で会った、絢辻さんによく似た人。何をしても上手くいき、失敗しても周囲が笑って許してくれる人。
そして、そのすぐ隣でずっと何かを積み上げてきた人。
そこまで考えたところで、自分から続きを止めた。
昨日、絢辻さんに言われたばかりだ。
分かったように簡単にまとめないで、と。
「……それで、そのかめはどうしたの?」
「どうもしないわ」
絢辻さんは前を向いたまま答える。
「勝ったのに誰にも気づかれなかった。それだけ」
「そっか」
「変な話でしょう?」
「普通の『うさぎとかめ』よりはね」
絢辻さんは弁当箱へ箸を戻した。それ以上、話の意味を説明するつもりはないらしい。
僕も聞かなかった。誰の話なのか、どうして今この話をしたのか。考えればいくつか答えは浮かぶ。それでも、彼女の口から出ていないものまで、僕が勝手に形へする必要はなかった。
代わりに、冷めかけていた焼きそばパンへもう一度かじりつく。
「……冷たい」
「話を聞くのに時間をかけるからでしょう?」
「話したのは絢辻さんだろ」
「最後まで聞いたのは望月君よ」
「途中でやめられないよ、あれは」
「そう?」
そこでようやく、彼女の口元にも普段の笑みが戻った。
◇
昼食を食べ終える頃には、風もいくらか穏やかになっていた。
僕は空になったパンの袋を畳み、鞄の横へ置く。絢辻さんも弁当箱を包み直し、膝の上から下ろした。
「それで」
「何?」
「ここから、何をするの?」
「何もしない」
「本当に?」
「そのために来たんだろ」
絢辻さんは明らかに困っていた。仕事をいくつ渡されても平然と処理する人が、何もしなくていいと言われただけで行き場を失っている。それが少し可笑しかったが、口にすればまた子ども扱いだと言われそうなので黙っておく。
「空でも見てれば?」
「空?」
二人で顔を上げる。
給水塔の陰から見える範囲は広くない。それでも冬の青空の中を、薄い雲がゆっくり流れている。
「それで?」
「見る」
「いつまで?」
「飽きるまで」
「……何が楽しいの?」
「別に何も」
絢辻さんはこちらを見る。
「それなら意味がないじゃない」
「意味がないから休みなんじゃない?」
納得はしていないらしい。それでも今度は反論せず、空を見上げた。
僕も同じようにする。
さっきの『うさぎとかめ』が、頭の中に残っていた。休むことなく走り続けたかめ。誰かに勝つために走り続け、勝ったあとでさえ誰にも見てもらえなかったかめ。
その話をした絢辻さんが、今は何もせず僕の隣に座っている。
そこへ意味をつけようと思えば、いくらでもつけられる。けれど、今はそれさえしなくていいような気がした。
「望月君は、普段からこういうことをしてるの?」
「たまに」
「暇なのね」
「そうかもね」
「時間がもったいないと思わない?」
「今、もったいない?」
尋ねると、絢辻さんはすぐには答えなかった。視線は雲を追ったままだ。
「最初は思ってた」
「今は?」
「……教室のことは、まだ気になるわよ」
「うん」
そこで一度言葉が途切れる。
「でも、さっきよりはどうでもいいかもしれない」
思わず顔を向ける。
「何?」
「いや」
「何か言いたそうね」
「言ったら怒りそうだからやめた」
「それなら、その判断だけは正解」
ほんの少し胸を張るような言い方だった。
それから、本当に会話が途切れた。
図書室で並んで勉強していた時とも、放課後の教室で飾りを作っていた時とも違う。終わらせる物はなく、次に何をするか考える必要もない。二人で同じ場所に座り、ただ同じ空を眺めていた。
しばらくして、絢辻さんの鞄から短い電子音が鳴った。
彼女の身体が反射的に動く。
携帯電話を取り出し、画面へ目を落とした。
「実行委員会?」
「クラスの子から」
「何て?」
「黒板の上につけるリボン、赤と緑のどちらを増やすか決めてほしいって」
「戻る?」
普段なら、聞く必要すらなかっただろう。すぐに返信するか、必要なら教室へ戻って自分の目で確かめるはずだ。
絢辻さんは画面を見たまま、しばらく動かなかった。親指が一度ボタンの上へ動いたものの、そのまま止まる。
やがて携帯電話を閉じた。
「後で答えるわ」
「いいの?」
「昼休みが終わってからでも間に合うもの」
「そっか」
それ以上は何も言わなかった。
褒めるのも違うし、理由を尋ねるのも違う。
絢辻さんは携帯電話を鞄へ戻し、再び壁へ背を預けた。誰かから頼まれたことを、すぐには片づけなかった。ただ、それだけのことだった。
僕は空へ目を戻した。少し遅れて、隣でも衣擦れの音がした。
◇
「ねえ」
「うん?」
「望月君は、休みの日には何をしてるの?」
どれくらい黙っていたのか分からなくなった頃、絢辻さんの方から話し始めた。
「前に言わなかったっけ?」
「昼まで寝ることがある、とは聞いたわ」
「毎回じゃないよ。本を読んだり、音楽を聴いたりもする」
「どんな本?」
「小説が多いかな」
絢辻さんが意外そうな顔をする。
「意外」
「僕を何だと思ってたの?」
「陸上の雑誌しか読まない人」
あまりに偏った印象に笑うと、絢辻さんも可笑しそうにこちらを見る。
「漫画も読む?」
「読むよ」
「どんなの?」
「色々」
すぐに不満そうな顔をされた。
「それ、何も答えてないのと同じじゃない」
「じゃあ、絢辻さんは? 前に本を読むって言ってただろ。どんな本?」
「……推理小説とか」
「へえ」
「何、その反応」
「ちょっと意外だった」
「どうして?」
絢辻さんは呆れたように息を吐き、膝を抱える姿勢へ変えた。
「もっと難しそうな本ばかり読んでるのかと思ってた」
「失礼ね。娯楽で読む本くらい好きに選ぶわよ」
「恋愛小説は?」
「読むことはあるけど」
「面白い?」
「作品によるでしょう?」
さらに聞こうとしたところで、片手を上げて制された。
「質問が多いわよ」
「仕事のことを考えないため」
「便利な言い訳ね」
「効果はある?」
絢辻さんは一度だけ教室のある方角へ目を向けた。けれど、今度は腕時計にも携帯電話にも手を伸ばさない。
「……まあまあね」
「なら続けよう」
「調子に乗らない」
それからは、本当に取り留めのない話をした。
僕が休日の朝は弱いこと。小説を読み始めると、予定より夜更かししてしまうこと。絢辻さんは休みの日でも、一度目が覚めるとなかなか寝直せないこと。推理小説では、途中で犯人に気づいても答え合わせのため最後まで読むこと。
知らなくても困らないことばかりだった。明日になれば忘れていても、創設祭には何の影響もない。
それなのに、仕事の話をしていた時より、彼女のことを知った気がした。
◇
昼休みの終わりを知らせる予鈴が鳴った。
「あっという間だったね」
「そう?」
「最初に時計を気にしてた時よりは」
絢辻さんは立ち上がり、制服のスカートについた埃を払った。
「……結局、何もしなかったわね」
「結構話したけどね」
「創設祭のことは、途中からほとんど考えなかった」
休めた、と言いかけてやめる。
「どうだった?」
尋ね方を変えると、絢辻さんは少し考えた。弁当箱と携帯電話を鞄へしまい、最後に口を閉じてから答える。
「よく分からないわ」
「そっか」
「でも、嫌ではなかった」
成功でも失敗でもないし、意味があったのかさえ今ここで決めなくていいのだろう。
「僕はまた来たいけど」
「今日、何もしてないのに?」
「何もしなかったからかな」
仕事を手伝ったわけでもない。問題を解いたわけでも、買い物へ行ったわけでもない。
昼食を食べて、陸上の話をして、『うさぎとかめ』を聞いて、本の話をして、空を眺めただけだった。
「絢辻さんは?」
「何?」
「また、こういう時間を作る?」
屋上の扉へ向かいかけた足が止まった。
絢辻さんは返事の代わりに、予定を思い出すように宙へ視線を向ける。
「明日は昼休みに打ち合わせがあるわ」
「じゃあ明後日」
「提出物を集めないといけない」
「その次」
「ずいぶん細かく聞くのね」
「予約しようと思って」
昨日、絢辻さんが使った言葉を返す。
彼女がこちらを振り向いた。
「望月君から?」
「駄目?」
「駄目とは言ってないわ」
「じゃあ、創設祭が終わる前にもう一回」
「曖昧な予約ね」
「空いてる日を教えてよ」
絢辻さんはすぐには答えず、頭の中で予定を辿っているらしかった。
「あたしの予定表を見ないと、正確には分からないわ」
「教室へ戻ったら確認する?」
「休んだ直後に予定表を開かせるつもり?」
「あ、それは駄目か」
「学習が足りないわね」
からかわれている。
けれど、その声に拒む響きはなかった。
「明後日の放課後なら、30分くらい空けられると思う」
「僕、部活があるよ」
「その前よ」
「何もしない?」
「ここは寒いから、次は別の場所」
「図書室とか?」
「本を読むなら休みになるでしょう?」
「絢辻さん基準では?」
「もちろん」
僕は笑って頷いた。
「じゃあ、それで」
次に会うための用事を探しているわけではない。むしろ、何の用事も作らずに二人でいる時間を、わざわざ予定へ入れようとしている。
少し前の僕なら、変なことをしていると思ったかもしれない。
「場所はあたしが決めてもいい?」
「いいよ」
「じゃあ、後で連絡するわ」
「また二回?」
「望月君の態度次第ね」
「一回でお願いします」
絢辻さんが笑い、屋上の扉を押し開けた。
校舎の中から、昼休みを終えた生徒たちの声が流れ込んでくる。僕たちは並んで階段を下りた。
途中の踊り場で、絢辻さんが前を向いたまま口を開く。
「望月君」
「何?」
「次は、望月君の予約なのよね」
「そうだよ」
「だったら、場所を決めるのはあたしでいいの?」
「予約した側が全部決めるルールだった?」
「今決めてもいいけど」
数段下りたところで、僕は考える。
「じゃあ半分ずつ決める?」
「何を?」
「僕が日時を押さえて、絢辻さんが場所」
「……それなら公平ね」
「何の勝負なんだろう」
「勝負とは言ってないでしょう?」
さっき聞いた昔話が一瞬だけ頭を過ぎたが、その先までは考えなかった。
階段を下りるにつれて、昼休みを終えた生徒たちの声が近づいてくる。
それでも教室へ戻るまでは、二人で並んだまま歩いていた。