絢辻さんを救いたい話 作:紳士
翌日の放課後。
終礼が終わると、僕は教科書を鞄にしまいながら壁の時計を確かめた。部活が始まるまでは一時間弱。昨日の昼休みに決めた「予約」までは、あと五分ほどだった。場所については、今日の昼過ぎに絢辻さんからメールが届いている。
『放課後、図書室。窓側の一番奥。30分だけ』
何もしないための時間でも、集合場所と時間はきっちり決めるらしい。
「湊、今日ちょっと来れるか?」
前の席から振り返った純一が、鞄を閉じながら尋ねてきた。
「創設祭の方。体育館から借りる椅子の数、一回確認したいらしいんだ」
「今から?」
「ああ。まあ、数えるだけだけど」
時計を見る。五分だけ手伝ってから図書室へ走ることも、多分できる。
「ごめん。今日は先に予定がある」
「そっか。じゃあ俺だけ行ってくるよ」
純一は理由まで尋ねず、あっさり立ち上がった。
「一人で大丈夫?」
「数えるだけだって。じゃあ、また明日な」
「うん。また明日」
教室を出ていく背中を見送り、僕も鞄を肩に掛けた。今日は先約がある。それで十分だった。
◇
図書室に近づくにつれて、創設祭前の校舎とは思えないほど周囲は静かになっていった。教室棟から遠ざかれば、飾りを作る声も机を運ぶ音も薄れ、代わりに窓硝子を震わせる冬の風が耳に入る。
扉を開けると、受付の図書委員のほかに人影はまばらだった。指定された窓側の一番奥には、もう絢辻さんがいる。机の上にあるのは文庫本が一冊だけで、創設祭の予定表も名簿もファイルもない。
僕が近づくと、活字を追っていた目が上がった。
「三分前。ちゃんと間に合ったわね」
「……ちゃんとって」
「この間は待たされたから」
まだ覚えていたらしい。
向かい側の椅子に手を掛けると、絢辻さんは本を持ったまま、自分の隣を指先で叩いた。
「こっち」
「隣?」
「向かいだと話す時に声が大きくなるじゃない。ここ、図書室よ」
確かにその通りだった。隣の椅子を引いて腰を下ろすと、肩と肩の間には椅子一つ分もない。屋上でも近くに座ったことはあるのに、静かな室内だと妙に距離を意識した。
「今日は何するの?」
「本を読む」
「何もしない時間じゃなくて?」
絢辻さんは当然という顔で本を開き直した。
「読書は休みよ。前にも言ったでしょ。望月君は嫌なら、本当に何もしなくてもいいけど」
「絢辻さん基準だね」
三十分間ただ隣に座っているのも落ち着かない。僕は鞄から読みかけの小説を取り出した。
「あら。ちゃんと持ってきたのね」
「図書室って言われたから」
表紙を見せると、絢辻さんの目が題名のところで止まる。
「それ、読んだことある」
「本当に? じゃあ犯人は言わないでね」
「言うわけないでしょ。どこまで読んだの?」
「半分くらい」
「ふうん。じゃあ、まだその辺なのね」
「その言い方もやめてよ」
余計な想像が膨らむ。絢辻さんは何も教えないまま、自分の本へ戻った。
二人でページを開く。最初の数分は、紙をめくる音だけが時々重なった。僕の読んでいる物語では、主人公がある人物を疑い始めている。証言の食い違いに、事件直前の不自然な行動。ただ、ここまで怪しい材料が揃うと、逆に作者が疑わせようとしているだけにも見えた。
数行戻って読み直したところで、横から視線を感じた。顔を上げると、絢辻さんは何事もなかったように本を読んでいる。
気のせいかと思ってページへ戻る。
しばらくして、また同じ気配がした。今度はそのまま顔を向ける。
目が合った。
「……何?」
「今、見てたよね」
「たまたま目が合っただけじゃない」
「さっきも見てなかった?」
「しーっ」
口元に人差し指を立てられ、僕も声を落とす。
「……見てたでしょ」
絢辻さんは答えず、ページを一枚めくった。
僕も読み直したが、数分もしないうちにまた視線を感じる。今度はページをめくるふりをして横を見ると、完全に目が合った。
「やっぱり見てる」
「……望月君が変な読み方してるから気になっただけよ。同じところ、何回読んでるの?」
そこまで見ていたらしい。確かに数ページ前から何度か行き来している。
「考えてたんだよ。この人が犯人なのかなって」
「ああ、それで止まってたのね。あたしなら一度最後まで読むけど」
「推理小説でも?」
「推理はするわよ。でも、答えは最後まで読まないと分からないでしょう? 気になるところは覚えておけばいいし」
読む速度も、立ち止まる場所も違うらしい。僕は作中人物の名前を指した。
「この人、怪しいと思った?」
「その辺なら候補には入れてたかな」
「やっぱり」
納得しかけたところで、絢辻さんが本の向こうから僕を見る。
「でも、望月君は何か勘違いしてる」
「え?」
「教えない」
「今、勘違いしてるって言っただろ」
「何を、とは言ってないもの」
そう言って、さっさと本を開いてしまう。
一度そんなことを言われると、さっきまで普通に読めていた文章まで怪しくなってきた。人物の行動なのか、主人公の推理なのか。それとも、絢辻さんが適当なことを言っただけなのか。
結局、また同じ段落で手が止まる。
「ふふっ」
「今度は何?」
「面白い」
「本が?」
絢辻さんは本から目を上げた。
「望月君が」
ページをめくろうとしていた指が止まる。
「人が読んでるところ見て、そんなに面白い?」
「顔に出すぎなのよ。怪しいと思ったら眉が寄るし、予想と違ったら手が止まるし。あたしが何か言った後なんて、もっと分かりやすい」
「観察しすぎじゃない?」
「隣にいるんだから見えるの」
そこまで言われたので、僕は本を閉じた。
「じゃあ、僕も見ていい?」
「何を?」
「絢辻さんが読んでるところ」
怪訝そうに見られた。
「……好きにすれば?」
許可が出たので横から眺める。長い髪が肩から前へ流れ、邪魔になれば指先で耳に掛ける。読む速度は僕より明らかに速い。それなのに、面白いのか、驚いたのか、何か引っかかったのかはほとんど分からなかった。
何ページか進んだところで、本を見たまま声が飛んでくる。
「……望月君」
「何?」
「いつまで見てるの?」
「見ていいって言っただろ」
本が少し下がり、黒い瞳がこちらを向いた。
「限度があるでしょ」
「全然顔に出ないなと思って。面白いのか、何考えてるのかも分からない」
「望月君と一緒にしないで。あたしは本を読むたびに百面相なんてしないもの」
「そこまでしてないよ」
「してるわよ」
即答された。
「じゃあ、僕には分かられたくない?」
「何でそうなるのよ」
「だって、全然出さないから」
絢辻さんはページに目を落とし、指先で紙の端をなぞった。
「別に隠してるわけじゃないわ。ただ、そんなに簡単に分かった気になられるのは嫌なの」
「……なるほど」
「何、その納得した顔」
「いや、今のは分かりやすかったから」
眉が寄る。
「望月君」
「はい」
「今の話、聞いてた?」
「聞いてたよ」
「なら、その顔やめなさい」
笑いを堪えながら本を開き直すと、隣から小さく「生意気」と聞こえた。
その後は、ほとんど話さなかった。ページをめくる音が時々重なり、どちらかが姿勢を変えれば衣擦れの音がする。それだけで三十分は思っていたより早く過ぎた。
◇
携帯電話で時刻を確かめると、そろそろ部活に向かった方がよさそうだった。
「もう行かないと」
「そうね」
絢辻さんも本を閉じる。僕が読みかけの小説を鞄にしまおうとすると、その表紙に視線が止まった。
「それ、読み終わったら貸して」
「これ? 一回読んだんだろ?」
「また読みたくなったの。望月君が変なところで止まってたから、ちょっと気になったし」
「変な読み方ってまだ言うんだ」
「実際そうだったもの」
明日か明後日には読み終わると思う、と伝えると、絢辻さんは何か言いかけてやめた。
「……読み終わったらでいいわ。別に急いでないから」
「本一冊くらいは待てる?」
「どういう意味よ」
「いや、なんでも」
絢辻さんは僕を睨んだ後、自分の鞄から一冊の文庫本を取り出した。
「代わりに、これ貸してあげる」
「今読んでたやつ?」
「そう。もう読み終わってるから」
表紙を見る。知らない作者の名前で、題名にも覚えはない。僕なら本屋で見かけても、自分から手に取ったかは分からなかった。
「どんな話?」
「読めば分かる」
「せめてジャンルくらい教えてよ」
「嫌。先に何か言ったら、望月君また変なところで止まるでしょ」
そう言って、僕の手に本を押しつける。
「僕の読み方、そんなに信用ない?」
「ない」
即答だった。
「最後まで読んでね」
「つまらなかったら?」
冗談半分で聞くと、絢辻さんは僕の手にある本を見た。
「その時は返して。無理して読んで、面白かったって言われる方が嫌」
「最後まで読め、とは言わないんだ」
「感想を聞くなら、望月君が本当に思ったことじゃないと意味ないでしょう?」
そう言って鞄を肩に掛ける。
「でも、感想は聞くから」
「結局そこは聞くんだ」
「当たり前でしょ」
僕も立ち上がり、借りた本を鞄に入れた。
◇
図書室を出ると、放課後の音が一気に戻ってきた。遠くでは創設祭の準備をする生徒が段ボールを運び、階下からは運動部の掛け声も聞こえている。
階段まで並んで歩いていると、絢辻さんが僕の鞄を見た。
「望月君」
「何?」
「本、潰さないでよ。飲み物をこぼすのも駄目だからね」
「そんな扱いしないって」
僕は鞄を開け、中を見せる。本は教科書とノートの間にきちんと挟んであった。
「これで安心?」
「ページも折らないで」
「栞使うよ」
それでも僕の鞄から目が離れない。
「そこまで心配なら、貸さなくてもよかったんじゃない?」
「何よ」
「そんなに大事な本なの?」
絢辻さんは僕の鞄へ目をやった。
「気に入ってるから貸したの」
「……そっか」
「何、その反応」
「いや。ちょっと意外だった」
「失礼ね。あたしだって気に入った本くらいあるわよ」
「そういう意味じゃないよ」
僕は鞄を持ち直す。
「ちゃんと読むよ」
「そうして」
絢辻さんはそれ以上何も言わず、僕たちは並んだまま階段を下りていった。
◇
その日の夜。
宿題を終え、風呂から上がった僕はベッドに腰を下ろした。机の上には、絢辻さんから借りた文庫本が置いてある。
本当なら、自分の小説を先に読み進めるつもりだった。絢辻さんへ貸す約束もある。それでも、気づけば手に取っていたのは借りた方だった。
「……ちょっとだけ」
最初のページを開く。
文章は思っていたより読みやすかった。大きな事件が起こるわけでも、派手な展開が続くわけでもない。主人公がある女性と知り合い、何度か言葉を交わすうちに、相手のことを気にするようになる。
主人公は相手をよく見ていた。表情や言葉、何気ない仕草まで覚えていて、そこから相手の気持ちを考える。
ただ、時々外す。
何ページか進んだところで、指が止まった。
携帯電話を手に取る。
『今、借りた本読んでる』
そのまま送ると、数分もしないうちに画面が光った。
『もう? 自分の本は?』
『まだ途中』
『先にそっち読みなさい』
予想していなかった方向から怒られた。
『でも、こっちが気になったから』
少し間が空いてから返事が届く。
『どこまで読んだ?』
『主人公がまた勘違いしたところ』
『それ何回もあるでしょ』
思わず笑う。
『ネタバレされたくないから詳しく言わない』
『信用ないのね』
そこで、聞きたかったことを打ち込んだ。
『絢辻さん、この主人公好き?』
今度はなかなか返事が来なかった。もう本へ戻ろうかと思った頃、携帯電話が震える。
『読み終わったら教えてあげる』
『今は駄目?』
『先に望月君の感想聞きたいから』
画面を見ながら続きを打つ。
『じゃあ、読み終わったら感想交換ね』
『いいわよ』
僕は携帯電話を枕元に置き、もう一度本を開いた。
少し先では、主人公がまた相手の表情を見ていた。
そのまま次のページをめくった。