絢辻さんを救いたい話   作:紳士

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第二十二話 ヨミカタ

 

 翌日の放課後。

 

 終礼が終わると、僕は教科書を鞄にしまいながら壁の時計を確かめた。部活が始まるまでは一時間弱。昨日の昼休みに決めた「予約」までは、あと五分ほどだった。場所については、今日の昼過ぎに絢辻さんからメールが届いている。

 

『放課後、図書室。窓側の一番奥。30分だけ』

 

 何もしないための時間でも、集合場所と時間はきっちり決めるらしい。

 

「湊、今日ちょっと来れるか?」

 

 前の席から振り返った純一が、鞄を閉じながら尋ねてきた。

 

「創設祭の方。体育館から借りる椅子の数、一回確認したいらしいんだ」

 

「今から?」

 

「ああ。まあ、数えるだけだけど」

 

 時計を見る。五分だけ手伝ってから図書室へ走ることも、多分できる。

 

「ごめん。今日は先に予定がある」

 

「そっか。じゃあ俺だけ行ってくるよ」

 

 純一は理由まで尋ねず、あっさり立ち上がった。

 

「一人で大丈夫?」

 

「数えるだけだって。じゃあ、また明日な」

 

「うん。また明日」

 

 教室を出ていく背中を見送り、僕も鞄を肩に掛けた。今日は先約がある。それで十分だった。

 

     ◇

 

 図書室に近づくにつれて、創設祭前の校舎とは思えないほど周囲は静かになっていった。教室棟から遠ざかれば、飾りを作る声も机を運ぶ音も薄れ、代わりに窓硝子を震わせる冬の風が耳に入る。

 

 扉を開けると、受付の図書委員のほかに人影はまばらだった。指定された窓側の一番奥には、もう絢辻さんがいる。机の上にあるのは文庫本が一冊だけで、創設祭の予定表も名簿もファイルもない。

 

 僕が近づくと、活字を追っていた目が上がった。

 

「三分前。ちゃんと間に合ったわね」

 

「……ちゃんとって」

 

「この間は待たされたから」

 

 まだ覚えていたらしい。

 

 向かい側の椅子に手を掛けると、絢辻さんは本を持ったまま、自分の隣を指先で叩いた。

 

「こっち」

 

「隣?」

 

「向かいだと話す時に声が大きくなるじゃない。ここ、図書室よ」

 

 確かにその通りだった。隣の椅子を引いて腰を下ろすと、肩と肩の間には椅子一つ分もない。屋上でも近くに座ったことはあるのに、静かな室内だと妙に距離を意識した。

 

「今日は何するの?」

 

「本を読む」

 

「何もしない時間じゃなくて?」

 

 絢辻さんは当然という顔で本を開き直した。

 

「読書は休みよ。前にも言ったでしょ。望月君は嫌なら、本当に何もしなくてもいいけど」

 

「絢辻さん基準だね」

 

 三十分間ただ隣に座っているのも落ち着かない。僕は鞄から読みかけの小説を取り出した。

 

「あら。ちゃんと持ってきたのね」

 

「図書室って言われたから」

 

 表紙を見せると、絢辻さんの目が題名のところで止まる。

 

「それ、読んだことある」

 

「本当に? じゃあ犯人は言わないでね」

 

「言うわけないでしょ。どこまで読んだの?」

 

「半分くらい」

 

「ふうん。じゃあ、まだその辺なのね」

 

「その言い方もやめてよ」

 

 余計な想像が膨らむ。絢辻さんは何も教えないまま、自分の本へ戻った。

 

 二人でページを開く。最初の数分は、紙をめくる音だけが時々重なった。僕の読んでいる物語では、主人公がある人物を疑い始めている。証言の食い違いに、事件直前の不自然な行動。ただ、ここまで怪しい材料が揃うと、逆に作者が疑わせようとしているだけにも見えた。

 

 数行戻って読み直したところで、横から視線を感じた。顔を上げると、絢辻さんは何事もなかったように本を読んでいる。

 

 気のせいかと思ってページへ戻る。

 

 しばらくして、また同じ気配がした。今度はそのまま顔を向ける。

 

 目が合った。

 

「……何?」

 

「今、見てたよね」

 

「たまたま目が合っただけじゃない」

 

「さっきも見てなかった?」

 

「しーっ」

 

 口元に人差し指を立てられ、僕も声を落とす。

 

「……見てたでしょ」

 

 絢辻さんは答えず、ページを一枚めくった。

 

 僕も読み直したが、数分もしないうちにまた視線を感じる。今度はページをめくるふりをして横を見ると、完全に目が合った。

 

「やっぱり見てる」

 

「……望月君が変な読み方してるから気になっただけよ。同じところ、何回読んでるの?」

 

 そこまで見ていたらしい。確かに数ページ前から何度か行き来している。

 

「考えてたんだよ。この人が犯人なのかなって」

 

「ああ、それで止まってたのね。あたしなら一度最後まで読むけど」

 

「推理小説でも?」

 

「推理はするわよ。でも、答えは最後まで読まないと分からないでしょう? 気になるところは覚えておけばいいし」

 

 読む速度も、立ち止まる場所も違うらしい。僕は作中人物の名前を指した。

 

「この人、怪しいと思った?」

 

「その辺なら候補には入れてたかな」

 

「やっぱり」

 

 納得しかけたところで、絢辻さんが本の向こうから僕を見る。

 

「でも、望月君は何か勘違いしてる」

 

「え?」

 

「教えない」

 

「今、勘違いしてるって言っただろ」

 

「何を、とは言ってないもの」

 

 そう言って、さっさと本を開いてしまう。

 

 一度そんなことを言われると、さっきまで普通に読めていた文章まで怪しくなってきた。人物の行動なのか、主人公の推理なのか。それとも、絢辻さんが適当なことを言っただけなのか。

 

 結局、また同じ段落で手が止まる。

 

「ふふっ」

 

「今度は何?」

 

「面白い」

 

「本が?」

 

 絢辻さんは本から目を上げた。

 

「望月君が」

 

 ページをめくろうとしていた指が止まる。

 

「人が読んでるところ見て、そんなに面白い?」

 

「顔に出すぎなのよ。怪しいと思ったら眉が寄るし、予想と違ったら手が止まるし。あたしが何か言った後なんて、もっと分かりやすい」

 

「観察しすぎじゃない?」

 

「隣にいるんだから見えるの」

 

 そこまで言われたので、僕は本を閉じた。

 

「じゃあ、僕も見ていい?」

 

「何を?」

 

「絢辻さんが読んでるところ」

 

 怪訝そうに見られた。

 

「……好きにすれば?」

 

 許可が出たので横から眺める。長い髪が肩から前へ流れ、邪魔になれば指先で耳に掛ける。読む速度は僕より明らかに速い。それなのに、面白いのか、驚いたのか、何か引っかかったのかはほとんど分からなかった。

 

 何ページか進んだところで、本を見たまま声が飛んでくる。

 

「……望月君」

 

「何?」

 

「いつまで見てるの?」

 

「見ていいって言っただろ」

 

 本が少し下がり、黒い瞳がこちらを向いた。

 

「限度があるでしょ」

 

「全然顔に出ないなと思って。面白いのか、何考えてるのかも分からない」

 

「望月君と一緒にしないで。あたしは本を読むたびに百面相なんてしないもの」

 

「そこまでしてないよ」

 

「してるわよ」

 

 即答された。

 

「じゃあ、僕には分かられたくない?」

 

「何でそうなるのよ」

 

「だって、全然出さないから」

 

 絢辻さんはページに目を落とし、指先で紙の端をなぞった。

 

「別に隠してるわけじゃないわ。ただ、そんなに簡単に分かった気になられるのは嫌なの」

 

「……なるほど」

 

「何、その納得した顔」

 

「いや、今のは分かりやすかったから」

 

 眉が寄る。

 

「望月君」

 

「はい」

 

「今の話、聞いてた?」

 

「聞いてたよ」

 

「なら、その顔やめなさい」

 

 笑いを堪えながら本を開き直すと、隣から小さく「生意気」と聞こえた。

 

 その後は、ほとんど話さなかった。ページをめくる音が時々重なり、どちらかが姿勢を変えれば衣擦れの音がする。それだけで三十分は思っていたより早く過ぎた。

 

     ◇

 

 携帯電話で時刻を確かめると、そろそろ部活に向かった方がよさそうだった。

 

「もう行かないと」

 

「そうね」

 

 絢辻さんも本を閉じる。僕が読みかけの小説を鞄にしまおうとすると、その表紙に視線が止まった。

 

「それ、読み終わったら貸して」

 

「これ? 一回読んだんだろ?」

 

「また読みたくなったの。望月君が変なところで止まってたから、ちょっと気になったし」

 

「変な読み方ってまだ言うんだ」

 

「実際そうだったもの」

 

 明日か明後日には読み終わると思う、と伝えると、絢辻さんは何か言いかけてやめた。

 

「……読み終わったらでいいわ。別に急いでないから」

 

「本一冊くらいは待てる?」

 

「どういう意味よ」

 

「いや、なんでも」

 

 絢辻さんは僕を睨んだ後、自分の鞄から一冊の文庫本を取り出した。

 

「代わりに、これ貸してあげる」

 

「今読んでたやつ?」

 

「そう。もう読み終わってるから」

 

 表紙を見る。知らない作者の名前で、題名にも覚えはない。僕なら本屋で見かけても、自分から手に取ったかは分からなかった。

 

「どんな話?」

 

「読めば分かる」

 

「せめてジャンルくらい教えてよ」

 

「嫌。先に何か言ったら、望月君また変なところで止まるでしょ」

 

 そう言って、僕の手に本を押しつける。

 

「僕の読み方、そんなに信用ない?」

 

「ない」

 

 即答だった。

 

「最後まで読んでね」

 

「つまらなかったら?」

 

 冗談半分で聞くと、絢辻さんは僕の手にある本を見た。

 

「その時は返して。無理して読んで、面白かったって言われる方が嫌」

 

「最後まで読め、とは言わないんだ」

 

「感想を聞くなら、望月君が本当に思ったことじゃないと意味ないでしょう?」

 

 そう言って鞄を肩に掛ける。

 

「でも、感想は聞くから」

 

「結局そこは聞くんだ」

 

「当たり前でしょ」

 

 僕も立ち上がり、借りた本を鞄に入れた。

 

     ◇

 

 図書室を出ると、放課後の音が一気に戻ってきた。遠くでは創設祭の準備をする生徒が段ボールを運び、階下からは運動部の掛け声も聞こえている。

 

 階段まで並んで歩いていると、絢辻さんが僕の鞄を見た。

 

「望月君」

 

「何?」

 

「本、潰さないでよ。飲み物をこぼすのも駄目だからね」

 

「そんな扱いしないって」

 

 僕は鞄を開け、中を見せる。本は教科書とノートの間にきちんと挟んであった。

 

「これで安心?」

 

「ページも折らないで」

 

「栞使うよ」

 

 それでも僕の鞄から目が離れない。

 

「そこまで心配なら、貸さなくてもよかったんじゃない?」

 

「何よ」

 

「そんなに大事な本なの?」

 

 絢辻さんは僕の鞄へ目をやった。

 

「気に入ってるから貸したの」

 

「……そっか」

 

「何、その反応」

 

「いや。ちょっと意外だった」

 

「失礼ね。あたしだって気に入った本くらいあるわよ」

 

「そういう意味じゃないよ」

 

 僕は鞄を持ち直す。

 

「ちゃんと読むよ」

 

「そうして」

 

 絢辻さんはそれ以上何も言わず、僕たちは並んだまま階段を下りていった。

 

     ◇

 

 その日の夜。

 

 宿題を終え、風呂から上がった僕はベッドに腰を下ろした。机の上には、絢辻さんから借りた文庫本が置いてある。

 

 本当なら、自分の小説を先に読み進めるつもりだった。絢辻さんへ貸す約束もある。それでも、気づけば手に取っていたのは借りた方だった。

 

「……ちょっとだけ」

 

 最初のページを開く。

 

 文章は思っていたより読みやすかった。大きな事件が起こるわけでも、派手な展開が続くわけでもない。主人公がある女性と知り合い、何度か言葉を交わすうちに、相手のことを気にするようになる。

 

 主人公は相手をよく見ていた。表情や言葉、何気ない仕草まで覚えていて、そこから相手の気持ちを考える。

 

 ただ、時々外す。

 

 何ページか進んだところで、指が止まった。

 

 携帯電話を手に取る。

 

『今、借りた本読んでる』

 

 そのまま送ると、数分もしないうちに画面が光った。

 

『もう? 自分の本は?』

 

『まだ途中』

 

『先にそっち読みなさい』

 

 予想していなかった方向から怒られた。

 

『でも、こっちが気になったから』

 

 少し間が空いてから返事が届く。

 

『どこまで読んだ?』

 

『主人公がまた勘違いしたところ』

 

『それ何回もあるでしょ』

 

 思わず笑う。

 

『ネタバレされたくないから詳しく言わない』

 

『信用ないのね』

 

 そこで、聞きたかったことを打ち込んだ。

 

『絢辻さん、この主人公好き?』

 

 今度はなかなか返事が来なかった。もう本へ戻ろうかと思った頃、携帯電話が震える。

 

『読み終わったら教えてあげる』

 

『今は駄目?』

 

『先に望月君の感想聞きたいから』

 

 画面を見ながら続きを打つ。

 

『じゃあ、読み終わったら感想交換ね』

 

『いいわよ』

 

 僕は携帯電話を枕元に置き、もう一度本を開いた。

 

 少し先では、主人公がまた相手の表情を見ていた。

 

 そのまま次のページをめくった。

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