絢辻さんを救いたい話 作:紳士
翌日の木曜日。
朝から、教室には普段以上に落ち着かない空気が漂っていた。
創設祭まで残された時間はもう多くない。完成した飾りは増えているのに、教室の隅には使い切れていない色紙や段ボール、確認待ちの箱がまだ積まれている。黒板の端には今日中に終わらせる項目が白いチョークで並び、そのうちいくつかには既に横線が引かれていた。
僕が席に着いた頃、絢辻さんは前の方で数人の実行委員と話していた。片手に資料を持ち、確認が終わった紙を机の端へ重ねながら、次の指示を出している。
「こっちは今日中に終わらせるわ。体育館側の確認は昼休みにもう一度行ってくるから」
「ステージ横の飾りは?」
「昨日の案で進めて大丈夫。足りない分だけ先に数えておいてもらえる?」
「分かった」
返事をした生徒が紙を受け取り、別の机へ向かっていく。入れ替わるように別の実行委員が質問に来て、絢辻さんはそちらにも短く答えた。
やり取りそのものはいつも通りだった。ただ、彼女の机の上に置かれている紙の量は、ここ数日より明らかに多い。昨日までに片づいたものもあるはずなのに、それ以上に確認事項が増えているらしい。
「おはよう、望月君」
ようやく人が途切れたところで、絢辻さんがこちらに気づいた。
「おはよう。忙しそうだね」
「今さらでしょう?」
「昨日より増えてない?」
机の上を指すと、絢辻さんもそこへ目を落とす。束の一番上にあった紙を取り上げ、端を揃えてから元に戻した。
「昨日、体育館側から配置変更の連絡が来たの。それで直すところが出ただけよ」
「こんなにも?」
「ううん、これだけよ」
言い切るには、机の上の量と釣り合っていない。
ただ、以前のように一人で全部を抱え込んでいるわけでもなかった。さっきから周囲へ確認を頼み、終わったものはその場で別の人に渡している。机の横にも、処理済みらしい紙がクリップでまとめて置かれていた。
それなら、今の僕が横から口を出すことでもない。
「そういえば」
絢辻さんが一度周囲を見てから、声を落とした。
「昨日の本、どこまで読んだ?」
「まだ半分ちょっと」
「遅いわね」
「昨日の夜から読んでるんだけど」
抗議すると、絢辻さんの口元が緩んだ。
「感想は読み終わってからね」
「分かってるよ」
「ならいいわ」
ちょうどその時、教室の入口から実行委員の一人が彼女を呼んだ。絢辻さんは「今行く」と返し、机の上から必要な紙を二枚抜き取る。
「じゃあ、続きはまた」
「うん」
それだけ残して、彼女は教室の前へ戻っていった。
◇
昼休み。
高橋先生に呼ばれ、絢辻さんと僕は職員室前の廊下に立っていた。昼休みの廊下は普段より人通りが多く、職員室へ出入りする先生や、購買から戻ってくる生徒が何度も横を通り過ぎていく。
実行委員でもない僕まで呼ばれたのは、最近かなり準備を手伝っている様子を見ていたかららしい。
「今朝、体育館の方も見てきたんだけどね」
高橋先生は手元の進行表を開いたまま、困ったように眉を下げた。
「予定してたより、少し余裕がなくなってきてるの。この前の配置変更もそうだし、安全確認が増えたところもあるでしょう? 飾りの補修も出てるみたいだし」
先生がページをめくる。横から見ても、赤字で書き足された箇所がいくつか増えているのが分かった。
説明が終わるより早く、絢辻さんは進行表に目を落とした。
「今日と明日で終わらせます」
「もちろん、終わるならそれが一番なんだけどね。全部を予定通りにやることだけが成功じゃないから、厳しそうなら一部を簡略化してもいいと思うの」
「規模を縮小する、ということですか?」
「そこまで大げさじゃなくていいのよ。たとえば取りやめるとまではいかなくとも、ツリーの規模を少し小さくする、細かい演出を省くとか、その程度でも」
絢辻さんの指が、抱えていた資料の端を押さえる。
「ツリーは予定通り設置できます。場所を少し変更すれば問題ありません」
「そう? ならいいんだけど」
「今日中に配置を確定させます。それでも厳しいところが出たら、その時に相談します」
「分かった。でも、無理はしないでね」
「はい」
先生は最後にもう一度進行表を見てから、職員室へ戻っていった。
僕たちも教室へ向かう。昼休みの終わりが近いせいか、廊下を歩く生徒は少なくなっていた。絢辻さんは抱えていた資料を持ち直し、さっきより少し速い歩幅で進んでいく。
「絢辻さん」
「何?」
「人、もう少し増やしてみたら?」
足が止まった。
「何の?」
「準備。実行委員だけじゃ足りないなら、クラスの人にも頼むとかさ」
絢辻さんは一度だけ後ろを振り返り、誰も来ていないのを確認してから僕を見る。
「今までも手伝ってもらってるわ」
「もう少し」
「今さら?」
「今さらでも」
向こうから生徒が二人歩いてきたので、僕たちは廊下の端に寄った。そのまま壁際を歩きながら話を続ける。
「何か減らす前に、手伝える人がいないか聞いてみてもいいんじゃない?」
「簡単に言うわね」
「そうかな」
「頼む方はね」
絢辻さんは前を向いたまま、資料の角を親指でなぞった。
「急に仕事を増やされる方は、そうじゃないでしょう?」
「なら、断っていいって最初に言えばいいんじゃない?」
「それでみんな気にせず断れるならね」
「でも、聞かないと分からないだろ。予定がある人はそっちを優先していいって言えば、少なくとも選べるし」
階段の手前で、絢辻さんがもう一度足を止めた。しばらく何も言わず、手すりの向こうへ目を向けている。
「……望月君は?」
「何が?」
「あたしが頼んだら手伝う?」
「もちろん。空いてる時間なら」
答えると、絢辻さんの口元が緩んだ。
「やっぱりそこは変わらないのね」
「変える理由ないからね」
「そう」
短く返し、今度は階段を下り始める。
「分かった。聞いてみる」
◇
午後の授業が終わると、絢辻さんは教卓の前に立った。
終礼を終えたばかりの教室では、椅子を引く音や鞄のファスナーを閉める音が重なっていた。部活へ向かおうと立ち上がる生徒、友達と話しながら荷物をまとめる生徒、まだ机に教科書を広げたままの生徒。それぞれが帰る準備を始めている。
「ちょっとだけ、みんなにお願いがあります」
絢辻さんが声をかけると、散らばりかけていた視線が前に集まった。教室の出口へ向かっていた何人かも足を止める。
「創設祭の準備なんだけど、昨日から追加の確認や修正が増えて、実行委員だけだと今日と明日の作業がかなり詰まってるの。もし今日、時間に余裕がある人がいたら少し手伝ってもらえないかな。もちろん予定がある人は、そっちを優先してくれて大丈夫です」
一瞬だけ静かになったあと、前の方から声が上がった。
「何すればいい?」
「私、三十分くらいなら残れるよ」
「飾りの方?」
続けて何人かが反応する。帰ろうとしていた生徒が鞄を机に戻し、隣の席と相談しながら椅子に座り直した。
「ありがとう。飾りと備品確認が中心だから、今から分けるね」
絢辻さんは教卓の上に作業表を広げ、ペンを取った。名前を書き込もうとした、その時だった。
「ねえ、絢辻さん」
教室の後ろから声がした。
ペン先が止まる。
振り返ると、後方の窓際に女子生徒が二人並んで座っていた。二人ともまだ帰る様子はなく、机の上には鞄が置かれたままだ。
「ツリー、中止になったって聞いたんだけど」
さっきまで前を向いていた生徒たちも、今度は後ろへ顔を向ける。
「中止?」
絢辻さんはペンを教卓に置いた。
「誰から聞いたの?」
「噂。間に合わないからやめるって」
「ああ、その話」
絢辻さんは手元の作業表を閉じる。
「先生からそういう案が出たのは本当よ。でも、中止にはなってないわ。設置場所を変えれば予定通りできるから」
「ふうん」
女子生徒の一人が頬杖をつく。
「じゃあ、順調なんだ?」
「ええ。予定外の作業は増えたけど、今のところはね」
「へえ」
女子生徒の視線が、僕の方へ流れた。
「望月君とイチャイチャしてたからじゃなくて?」
教室の空気が止まった。
今度は、何人かの視線が一斉に僕へ向く。後ろの席では、立ち上がりかけていた生徒がそのまま動きを止めていた。
「……何でそこで望月君が出てくるの?」
絢辻さんの声はまだ穏やかだった。
「だって最近、ずっと一緒にいたじゃん。放課後とかも」
「望月君は準備を手伝ってくれてたのよ」
「そうなんだ」
もう一人が笑う。
「何の手伝いしてたのかね〜?」
二人の間で、小さな笑い声が重なった。
絢辻さんは答えなかった。
教卓の前に立ったまま、手元の作業表へ目を落としている。指先だけが、閉じた紙の端を押さえていた。
昨日の放課後は違う。
図書室で一緒に本を読んでいただけだ。創設祭の準備なんて何もしていない。それを二人が知っているのかは分からない。
「黙ってないで、何とか言ったら?」
また笑い声がした。
思わず僕は立ち上がった。
「事情も碌に知らないで、色々言うのはよくないと思う」
絢辻さんを捉えていた二人の視線が今度は僕に集まる。
「何、助けに来たの?」
「そういう話じゃなくて」
「じゃあどういう話?」
「二人が見たことだけで、絢辻さんが準備をしてなかったみたいに言うのは違うだろ」
一人が椅子の背にもたれた。
「事情があったら許されるの?」
「許すとかじゃなくて――」
「だって、間に合わないからツリー中止って話まで出たんでしょ?」
もう一人が言葉を重ねる。
「それなのに二人で遊んでたんだったら、そう思われても仕方なくない?」
「結局、ツリーなんて自分の恋愛以下の価値しかないってことでしょ」
「そうそう。そんな人に『手伝って』って言われても、信用できないし」
「……あ」
小さな声がした。
絢辻さんだった。
二人が顔を見合わせる。
「何?」
「今さら言い訳思いついた?」
くすくすと笑う声が重なる。
絢辻さんは何も返さなかった。
教卓の上に広げていた資料へ目を落とし、一枚ずつ指でずらしていく。確認書、配置図、備品表。その中から一枚を抜き取ると、残りをきれいに揃えて教卓の端へ置いた。
そのまま、教卓の横を回る。
前列の机の間を抜け、中央の通路を歩いていく。教室中の視線が後を追う中、絢辻さんはまっすぐ二人の席まで進み、机の中央へ紙を置いた。
「これ、読んで」
「……何これ」
「ツリーの設置についての確認書」
二人のうち一人が、仕方なさそうに紙へ目を落とす。
「中止案が出たのは、体育館側の配置変更で予定していた場所が使えなくなる可能性があったから。昨日のうちに別の場所を確認して、今日の昼休みに先生とも話した。設置場所を変えて予定通り進めることになってる」
絢辻さんは机の横に立ったまま、書類の上部を指差す。
「ここ。変更後の設置場所。こっちは今日の確認済みの欄」
二人とも黙って紙を見ている。
「だから、ツリーは中止になってない。準備も予定通り進んでる」
「……でも」
「で?」
絢辻さんの声が変わった。
大きくなったわけではない。むしろ、さっきより静かだった。
「あたしが望月君とイチャイチャしてたせいで、ツリーが中止になったって話はどこに書いてあるの?」
教室が静まり返る。
後ろの方で、誰かが机の上に置いたペンが転がり、小さな音を立てて止まった。
「いや、そういう意味じゃ――」
「じゃあ、どういう意味?」
絢辻さんは二人から目を逸らさない。
「ツリーが中止になるらしいって聞いた。あたしと望月君が一緒にいるところを見た。だから、あたしが創設祭より恋愛を優先して、準備を放り出した」
一つずつ確認するように言葉を置いていく。
「そういうことでしょ?」
「だって、実際二人で――」
「それで?」
女子生徒の口が止まる。
「二人でいたら、その間は何もしてないことになるの?」
「そうは言ってないけど」
「望月君が何を手伝ってたか、知ってる?」
「……知らない」
「昨日あたしたちが何をしてたかは?」
「知らないけど」
返事をしている一人の声が段々と小さくなる。
「ツリーが本当に中止になったのか、確認した?」
返事はなかった。
絢辻さんは机の上の書類に目を落としたあと、もう一度二人を見る。
「してないのね」
「でも、噂になってたし」
「噂になってたら事実なの?」
「……」
「知らないことを想像するのは勝手よ。あたしと望月君がどういう関係だと思うかも、好きにすればいい」
そこで一度、言葉を切る。
女子生徒の一人が視線を逸らし、もう一人は机の上の書類を睨むように見ている。
「でも、自分で作った話を事実みたいに言って、人の信用まで決めるのは違うでしょう?」
二人とも答えなかった。
絢辻さんは書類を取り上げ、半歩だけ離れる。
「それと、もう一つ」
立ち去りかけた足を止めた。
「あなたたち、さっきから一度も自分で確かめてないわよね」
「……何が?」
「ツリーが本当に中止になったのか。どうしてそういう話が出たのか。望月君が何を手伝ってたのか」
一人が顔をしかめる。
「そこまで言わなくてもよくない?」
「そう?」
絢辻さんは首を傾けた。
「あたしは、確認もしないで人のことを決めつけて、『信用できない』なんて言う方がよっぽど失礼だと思うけど」
返事はない。
「次から誰かのことを悪く言う時は、せめて自分で確かめてからにしたら?」
書類を持ち直す。
「その方が、恥をかかなくて済むわよ」
二人の表情が固まった。
絢辻さんはもう何も言わず、来た時と同じ通路を教卓へ戻っていく。途中で誰とも目を合わせず、教卓の上に書類を戻すと、作業表を開き直した。
「じゃあ、さっきの続きね」
声はもう、いつもの教室で聞くものに戻っていた。
「手伝ってくれる人は、こっちに名前を書いてもらえる?」
しばらくして、一人が前へ出た。
「あ、じゃあ私書く」
「私も」
止まっていた教室が、少しずつ動き始める。椅子の音が戻り、机の上に置かれていた鞄が横へ寄せられ、作業用の道具が出されていく。
僕も席に座った。
後ろは見なかった。
◇
結局、何人かは残った。
最初に手伝うと言っていた生徒たちに加え、少し迷った末に名前を書いた生徒もいる。さっきの二人は作業が始まる前に鞄を持ち、そのまま教室を出ていった。扉が閉まる音がした時も、誰もそちらを見なかった。
教室には、紙を切る音や段ボールを畳む音が戻ってきた。ただ、いつもの準備中より雑談は少ない。誰かが何かを聞けば絢辻さんが答え、用が済めばまたそれぞれの手元へ戻る。その繰り返しだった。
「その箱は体育館へ。こっちの飾りは窓側に使うから、今は開けなくて大丈夫」
「絢辻さん、これ何センチ?」
「140で揃えて。余った分は切らずに折っておいて」
絢辻さんの声も手際も、普段と変わらない。
僕は教室の後ろで備品を箱ごとに分けながら、時々前を見る。絢辻さんは作業表に印をつけたり、質問に答えたり、足りない材料を別の棚から持ってきたりしていた。
さっきのやり取りがなかったみたいに動いている。
僕も手を止めずに作業を続けた。
書類を見る限り、二人が言っていたことは事実ではなかった。ツリーは中止になっていないし、絢辻さんが僕と遊んでいたせいで準備が遅れたわけでもない。
だから、反論したことがおかしいとは思わない。
ただ、『その方が、恥をかかなくて済むわよ』
最後の一言だけは、なくてもよかった気がした。
テープを切り、箱の蓋を閉じる。時計を見ると、部活の時間が近づいていた。
「絢辻さん」
声をかけると、教卓の横で紙を数えていた彼女が顔を上げた。
「どうしたの?」
「そろそろ部活行くね」
「ええ」
持っていた紙を机に置く。
「今日はありがとう」
「うん」
自分の席まで戻り、鞄を肩に掛ける。教室を出ようとしたところで、後ろから声がした。
「明日は、手伝わなくていいわ」
振り返ると、絢辻さんはもう別の資料を見ていた。
「どうして?」
「部活があるでしょう?」
「始まる前とか終わってからなら手伝えるけど」
「いいの」
顔を上げないまま、穏やかな声で言う。
「分かった。じゃあ、また明日」
そのまま廊下へ出ようとしたところで、もう一度呼び止められた。
「……望月君」
振り返る。
今度は、絢辻さんもこちらを見ていた。
「部活、終わったら少し時間ある?」
「あるよ」
「じゃあ、校門の外で待ってて」
教室の時計を確かめる。
「分かった」
それだけ聞くと、絢辻さんはまた作業に戻った。
◇
部活を終えて校門へ向かう頃には、空は完全に暗くなっていた。
昇降口で靴を履き替え、外へ出る。昼間より風が強くなっていて、汗の引いた首元に冷たい空気が入り込んだ。グラウンドの方からはまだ別の部活の声が聞こえていたが、校門に近づくにつれて少しずつ遠ざかっていく。
校門の外には、絢辻さんが一人で立っていた。
街灯の下で鞄を両手に持ち、時々学校の方を見ている。僕に気づくと、壁から背を離した。
「待った?」
「五分くらい」
「ごめん」
「いいわ」
いつものような「遅い」はなかった。
「どこ行くの?」
「少し歩きたい」
絢辻さんは駅とは違う方向へ歩き始めた。僕も隣に並ぶ。
最初の数分、会話はなかった。
住宅街へ入ると、聞こえるのは足音と、時々通り過ぎる車の音くらいになる。街灯の下を通るたび、絢辻さんの横顔が明るくなり、また暗がりへ沈む。歩く速度も一定ではなく、時々僕より半歩前に出たかと思えば、次の角では並ぶ位置まで戻ってきた。
やがて、大通りから少し外れた小さな神社の前で足を止めた。
「ここ?」
「うん」
石段を上がる。
境内には誰もいなかった。社殿の前に吊られた鈴も動かず、石段の脇に並ぶ木々だけが風に揺れている。道路から少し離れただけなのに、車の音も遠く聞こえた。
絢辻さんは石段を半分ほど上がったところで立ち止まる。
「今日のこと」
「うん」
「驚いた?」
「ちょっと」
絢辻さんは上の段へ片足を置いたまま、こちらを振り返った。
「……引いた?」
「引いてないよ」
「本当に?」
「うん」
「あれ見ても?」
「見たから言ってる」
絢辻さんは一段上に上がり、そこで身体ごとこちらへ向き直った。
「普通、もっと何か思うでしょう」
「思ったよ」
「何を?」
僕は石段の端に視線を落としてから答える。
「言ってることは間違ってなかったと思う」
「それだけ?」
「……最後の一言は、なくてもよかったと思う」
風が吹き抜け、木の葉が擦れる。
「……恥をかかなくて済む、ってところ?」
「うん」
絢辻さんは階段の上へ向き直り、残りを二段ほど上がった。そこでまた足を止める。
「あれは、言いたかったから言ったの」
「そっか」
「怒ってたもの」
あっさりした声だった。
「最初から?」
「まさか。ツリーの話だけなら、訂正すれば済むでしょう?」
「じゃあ、途中から?」
絢辻さんは鞄の持ち手を握り直す。
「……そうね」
少しの間、社殿の方を見ていた。
「望月君とのことまで、言われるとは思ってなかったから」
そのまま一段上がる。
「あたしにも、まだよく分からないのに」
「何が?」
返事はない。
絢辻さんは最後まで石段を上がり、境内の端にある石の柵まで歩いていった。僕も少し遅れて隣に立つ。
「それより、望月君はどうして残ったの?」
絢辻さんがこちらを見る。
「頼まれてるからね」
「そうじゃなくて。あんなの見た後で」
「前にも色々見てるよ」
「今日みたいなのは初めてでしょう?」
「まあ、そうだけど」
絢辻さんは柵の向こうへ目を落とした。
「……性格悪いと思った?」
少し考える。
「最後の一言は性格悪いなと思った」
勢いよく顔が上がった。
「そこは否定しなさいよ」
「自分で言いたかったって認めたじゃん」
「そうだけど」
絢辻さんが僕を睨む。
「でも、それだけ。嫌いになったりはしてないよ」
睨んでいた目が止まった。
「何で?」
「今日のことで嫌いになる理由がないから」
「でも、あたしがわざとあの二人に嫌なこと言ったのは分かってるんでしょう?」
「分かってる」
「それでも?」
「それでも」
絢辻さんは黙った。
柵の向こうでは、風に押された枝がゆっくり揺れている。しばらくそれを見ていたあと、絢辻さんは小さく息を吐いた。
「……ほんとに変」
「そうかな」
「普通はもっと、分かりやすいものなのよ」
顔が上がる。
「好きなら好き。嫌なら嫌。必要なら近くに置く。邪魔なら離す。その方が楽でしょう?」
「そんな単純かな」
「あたしは、その方がいい」
言い切ったあと、少し間があった。
「望月君は違う」
「どこが?」
「断るくせに来る。来なくていいって言っても来る。頼んだら何でも聞くわけじゃないくせに、自分で決めて手伝う」
絢辻さんは柵から手を離し、こちらへ身体を向ける。
「今日だって、あんなところを見たのに残った」
「予定は空いてたからね」
「そういうことじゃない!」
声が境内に響いた。
絢辻さんはすぐに口を閉じる。目を伏せ、ゆっくり息を吐いた。
「……分からないのよ」
さっきより低い声だった。
「望月君が、何をしたらいなくなるのか」
僕は何も言えなかった。
「何をしたら嫌われるのか。どこまでなら許されるのか。何を頼んだら断られて、何なら来るのか」
鞄を持った手が、身体の横で強く握られる。
「全然、読めない」
昨日、図書室で交わした言葉が頭を過ぎった。
全部分かったら、つまらないでしょう。
あの時は、絢辻さんも笑っていた。
「読めなくてもいいんじゃない?」
「よくない」
返事は早かった。
「あたしは、そういうの嫌いなの。いつなくなるか分からないものを、そのまま持ってるの」
絢辻さんが一歩、こちらへ近づく。
「だったら、決めればいい」
「何を?」
「あたしたちの関係」
風が吹き抜けた。
石畳の上を乾いた葉が一枚転がり、僕たちの間を横切っていく。
「望月君」
「うん」
絢辻さんは目を逸らさなかった。
「あなたをあたしのものにします」
「……え?」
「聞こえなかった?」
「いや、聞こえたけど。どういう意味?」
「そのままよ」
もう一歩、距離が縮まる。
「あたし、望月君といるのが好き」
胸の奥が強く跳ねた。
「一緒にいると楽しいし、話したいと思う。呼んだら来てほしいし、できればこれからもそばにいてほしい」
いつものからかう調子ではない。絢辻さんは途中で目を逸らすこともなく、最後まで僕を見ていた。
「でも、望月君はあたしの言うことなら何でも聞くわけじゃない。望月君の時間は望月君のものだってことも、もう分かってる」
「うん」
「だったら、契約にすればいいの」
「契約?」
「そう」
絢辻さんは言った。
「あなたをあたしのものにする。その代わり、あたしをあげる」
その言葉に、僕は息を呑んだ。
「望月君があたしのそばにいてくれるなら、あたしも望月君のものになる」
そう言って絢辻さんが笑う。
笑っているのに、鞄を持つ手だけは緩まない。
「公平でしょう?」
「絢辻さん」
「できることなら、何でもしてあげるわよ」
嬉しくないはずがなかった。
僕といたいと言われた。これからもそばにいてほしいと言われた。欲しい、とまで言われた。
なのに、その間にある言葉が引っかかった。
「どうして、そんな形にするの?」
僕の返事に対して、絢辻さんは眉を寄せる。
「どうしてって?」
「一緒にいたいなら、それだけじゃ駄目なの?」
「駄目よ」
即答。迷いはなかった。
「それじゃ何も決まってないでしょう。明日も来るのか、来週もいるのか、何をしたら離れるのか。何も分からない」
「でも――」
「だから決めるの」
絢辻さんは僕を見上げた。
「望月君が欲しいから」
その言葉に、また胸が動く。
「だから、あたしをあげる」
僕には、それを受け入れられなかった。
「……それは嫌だ」
絢辻さんの表情が止まった。
さっきまで握っていた鞄の持ち手から、指が少しだけ離れる。
「何?」
「その契約は、受けられない」
「何で?」
「僕、絢辻さんに何かもらうために今まで一緒にいたわけじゃないから」
「そんな話してないでしょう?」
絢辻さんが半歩、距離を詰める。
「あたしが自分であげるって言ってるの」
「だからだよ。お見舞いに行ったのも、倉庫を手伝ったのも、今日残ったのも、後で絢辻さんをもらうためじゃない」
「……分かってるわよ」
「なら、交換みたいにしたくない」
絢辻さんの顔から、少しずつ表情が消えていく。
「交換?」
「僕が絢辻さんのものになる代わりに、絢辻さんをもらうってことだろ?」
「それの何が悪いの?」
「悪いって言ってるんじゃない」
「じゃあ受ければいいじゃない!」
また境内に声が響いた。
絢辻さん自身も一瞬だけ黙り、すぐに僕を睨み返す。
僕は一度口を閉じた。
「僕は、絢辻さんのものにはならない」
絢辻さんの目が動かない。
「絢辻さんも、僕のものにならなくていい」
その瞬間、顔が固まった。
「……そう」
短い返事だった。
絢辻さんが一歩後ろへ下がる。
「でも、絢辻さん」
「分かった」
「待って。僕が言いたいのは――」
「分かったって言ってるでしょう!」
声が跳ねる。
絢辻さんは顔を背け、鞄を持ち直した。
「……あたしはいらないってことでしょう?」
「違う」
「何が違うのよ」
「絢辻さんをいらないって言ってるんじゃない」
「同じじゃない!」
今度はすぐに返ってきた。
「欲しいって言った」
絢辻さんの声が震える。
「あたしをあげるって言った」
そこで言葉が止まる。
視線が一度だけ落ちた。
「それでも、いらないんでしょう?」
「だから、そうじゃなくて――」
「もういい」
急に声が低くなった。
僕の横を通り過ぎる。
「絢辻さん」
呼び止めると、石段の手前で足が止まった。
「……今日は帰る」
「話、まだ終わってない」
「あたしの中では終わったの」
「でも――」
「追いかけないで」
背を向けたまま、はっきり言った。
僕は動けなかった。
絢辻さんは石段を下りていく。靴音が一段ずつ響き、やがて道路の方へ消えていった。
境内には、僕一人だけが残った。
断りたかったのは、絢辻さんではない。
誰かを手伝ったことと、その人を手に入れることを結びつける関係。それを受け入れたくなかった。
でも、僕は一度も言っていない。
嬉しかった、と。
僕といるのが好きだと言われたことも、そばにいてほしいと言われたことも、欲しいと言われたことも。その全部が嬉しかったのに、引っかかった「契約」だけを取り出して否定した。
昨日借りた本の主人公が、相手をよく見ているつもりで、勝手に意味を決めていたことを思い出す。
石段の下を見る。
もう、絢辻さんの姿はなかった。